29. 吐息と鼓動
「汝がリヒティアの切り札であるな」
年配の男の声だった。ニィカはあわてて振り返り、彼を見上げる。夜の暗さに、その顔は見えなかった。
「汝には手荒なことをする心算は無い。大人しく此方へ来るがよい」
その男が歩をすすめると、がちゃりと金属音が鳴った。
「ド……、ドルジャッドの……」
ニィカをつれて走っていた騎士が左肩を押さえて身を起こす。息を荒げながらも、ニィカを半身にかばうように男の前に立ちはだかった。
騎士はだらりとした左腕を押しのけるように腰に手を伸ばし、剣を抜く。
歯のあいだからゆっくりと息を吐き出し、「ニィカさん」と呼ぶ。
ニィカは一度びくりとして、首だけを動かして返答がわりにした。
「逃げてください。夜のうちに、できるだけ身を隠していてください」
戸惑ったまま足を動かそうとしないニィカにむかって、騎士は続けた。
「僕ではせいぜい、時間かせぎにしかなれません。……早く!」
ニィカは自分の足の動きをたしかめるかのように、その場で右足を上げ、下ろした。
「……ごめん、なさい……」
かすれた声でつぶやき、ドルジャッドの男と第二兵隊の騎士に背をむけて、痛むひざもかまわず暗い道の先へと駆け出した。
背後で刃のぶつかり合う音や斬りかかる重い覇気の声が闇に響く。しばらくも走らないうちに、断末魔のうめきが聞こえたような気がした。
ニィカは見知らぬ道を曲がり、物音や話し声を避けつづける。
いつのまにか細い袋小路へ入りこんでいた。行き止まりに気づき、きびすを返そうとしたところで金属音のまじる足音を聞きつける。
「捕らえたか」
「いや……。ただ、遠くはなかろう」
ニィカは路地の脇の建物にぴたりと背をつけた。ゆっくりと腰を下ろしてできるだけ身をちぢめる。息や声が漏れ聞こえないよう、じぶんの手で口をかたくふさいだ。
きょろきょろと目を動かしてようすを探る。向かいに見える建物の下側が、まわりにも増して暗い。路地の入り口近くにいる男たちの注目を引かないうちに、とニィカは忍び足でその建物へと歩きだす。その足がぱき、と地面に落ちていた陶器を踏んだ。
「……此方か!?」
鋭い音を聞きつけ、どたどたと二人の男が路地へ駆け入る。ニィカは建物の足下で息を殺した。
男たちは建物の壁をたたきながら、袋小路を一度往復した。鉄板のような靴底が蹴った砂がニィカの顔に飛んできた。ニィカはぎゅっと目をつぶり、礎石さながらにじっとしていた。
「……おらぬか」
「逃げ隠れる場所も見当たらぬ。他を捜すとしよう」
二人の男が立ち去る。ニィカは建物の床下に入りこみ、胸と口とを押さえて横向きに身を丸めていた。
足音がすっかり聞こえなくなってから、はあ、はあ、と息をつく。
顔は路地のほうへ向けている。下になっている耳に、じっとりと冷たい土がさわる。
見つからないように、もっと奥に行かなくちゃ。
ニィカのような子供ならば這って進めそうな高さはあったが、ニィカはケガをしたひざが汚れないよう、横向きのまま身をよじって後退した。
曲がりなりにも身をひそめる場所が見つかり、ほっとすると同時に眠気が襲ってきた。
寝たらあぶない、と自分に言い聞かせながらも、まぶたは重くなるばかりだった。