26. 交代
ようやくリヒティアとドルジャッドとをへだてる国境の塀が見えだした。
イセファーの町はあの高い塀にへばりつくように広がっている。
山がちなリヒテシオンのなかで、イセファーはめずらしく平地に位置している。しかしながらその地形が災いして、この町は隣国や北方の遊牧民からの侵入を受けつづけてきた。
長きにわたる協議と塀の建設によって安定は取り戻されたものの、重い石の閉塞と荒れた人心は残った。
リヒティア王国の西の辺境、砂埃にまみれた町というのが、王都リヒテシオンに住む恵まれた民たちがイセファーに対していだく心象だった。
そしてそれは、ギュミルにとっても例外ではない。
第二兵隊の馬車は消えかけた轍をなぞるように進む。いつの間にか街道は途絶えていた。眼前にそびえる壁をめざせばよいのだから、イセファーまでの道を迷うことはない。
最後のふんばりどころだ、とギュミルは疲れたほおをたたいた。町へ入り、ユーリンガーに任務を引き継ぐまでの辛抱だ。
不意に風切り音が聞こえた。とっさに御者台の上で体をひねる。麻のマントをばさりとはためかせて剣を抜く。足下に固く小さななにかが落ちて音をたてた。
それが飛んできた方向。建物、いや、屋根の上だ。ユーリンガーが屋根に腹這いになってこちらを見ていた。
自分のほうへ注意をむけさせたかったのだろう。目が合ったのに気づくと、彼は体の下にある建物の壁を指さした。看板がふたつ、縦にならべて吊るされている。上のものには、そこが宿屋であることをしめす青銅の装飾がついている。下のほうは矢印と文字が書かれていた。
——ここから イセファー——
ギュミルは一文字ずつたどるように読みとった。ここを境にユーリンガーと交代だ。
屋根の上に視線をもどす。彼のすがたはもうなかった。
ギュミルの前を進む赤い馬車を追っていったのだろう。ユーリンガーは意思疎通をはかるには難儀な相手だが、仕事ぶりについては信頼できる。
第二兵隊がニィカを送りとどけ、戻ってくるまでは待機をつづけよとの命令だ。この宿屋に滞留していればちょうどよいだろう。
すべてが順調に進んだならば、リヒテシオンへ帰ることができるのは一月たつかたたないかといった頃だろう。
すくなくとも今は体を休めてもいいはずだ。
あまり上等そうな宿には見えないが、それでも何日かぶりの温かい食事と、横になれる寝床はあるだろう。
久しく自覚していなかった空腹と疲れがのしかかる。重い腕をあげて馬にむちを当て、古びた宿屋へと近づいた。
たらふく食事をとり、ベッドにはいって熟睡する。二日後には疲れもすっかり癒えていた。
そうなるとむしろ体力をもてあまし気味になる。剣と弓矢をたずさえては町を出て、森のなかで鍛錬に打ちこんだ。
大きな獣がいれば狩ることもできたろうが、あいにくと見当たらない。どっしりとした樹木ばかりを相手にしていた。
幹の中心にねらいをつけて弓を引く。左腕に反動を感じ、矢じりがぶれた。矢は幹肌をえぐって落ちる。
どうせしばらくはやるべきこともない。ここにいるうちは弓矢の精度と威力を上げることとしよう。
ギュミルは深く呼吸をし、背筋を伸ばして二本目の矢をつがえた。
弦がうなり、矢が重く木を穿つ。
この調子だ。もっと早く、もっと強く。
矢筒を空にしては射た矢を拾い、また弓をかまえる。
ふと、矢の飛ぶ先がずいぶんと暗くなっていることに気づいた。いつのまにか黄昏時になっていた。
宿へ帰ろうと弓矢を収める。じわりと手のひらがしびれるような感覚がある。見下ろしてみると右手の指の脇には擦れたまめができていた。
日を追うにしたがってギュミルの狙う的はより遠く、小さくなっていった。土を踏みしめ、息を落ちつけて弓を引く。放たれた矢は大樹を貫くかのように深々と幹の中心に刺さった。
そろそろ動くものを狙いたい。鹿でもいれば申し分ないのだが。これまでに獣の気配は感じたことがないが、あらためて森を見渡してみる。
その耳に、疾走する馬の足音が届いた。それに交じるように「もうーしぃー!」という男の声。
騎士団の呼び声にギュミルは駆けだした。
馬の行く手に立ちはだかる。その背の赤い飾り布と騎手のマントがひるがえった。
「ギュ……ギュミル殿」
馬上からはあはあと息を切らせて彼は言う。
「なんだ」
「町で、馬車が襲われて……、あの少女が、いなくなりました」