113. 入学許可
それからさらに時が経ち、山から吹きおろしては窓にぶつかる風の音がほんのすこしだけ和らいできたように思えるころ。
夕暮れ時に「ついに届きましたぞ、ニィカ=アロアーラ様!」とノックもそこそこにケイヴィスが居室に飛び込んできた。
髪結いのためにうつむいていたニィカが彼の顔を見るよりもはやく、ヘレーの叱声がとぶ。
「ケイヴィス様! ニィカ=アロアーラ様はこれからお召替えでございます!」
「いや、これは大変失礼を致しました。しかしながら、一刻も早くお伝え致したい報せがございましてな。といいますのはつまり――」
ヘレーは編みかけの髪をおろして憤然とケイヴィスへむかった。
「そのお話でございましたら、ニィカ=アロアーラ様のお支度が終わってから伺います。改めて申し上げるまでもないとは存じますが、陛下をお待たせすることのございませんよう、手短にお願い致します」
重い扉がしまる音が、ニィカの耳に届いた。
「申し訳ございません」
「ううん、ヘレー。ケイヴィス先生の用事ってなんなのかなあ」
「私にも分かりかねます」
これ以上その話をつづけないほうがいいと察して、ニィカはおとなしく髪を結われた。
念入りに格好をととのえ、観念したようにヘレーは問う。
「……よろしいですか、ニィカ=アロアーラ様」
「うん」
厚い砂の上を行くかのような重い足取りでヘレーは絨毯を進んだ。
「……やはりお待ちでいらっしゃいましたね」
「勿論でございます、侍女のお人。もう入っても宜しいですな?」
ケイヴィスは部屋の入り口で顔をうごかし、ニィカを見つけると満面の笑みをたたえて近づいてきた。手には巻いた紙を持っている。
「ニィカ=アロアーラ様! ようやく届きましたぞ。いやはや、私が学生の頃と比べますと、街道は整備され馬車の改良も格段ではございますが、やはりなおロシレイは遠いものでございますな。もっとも、私が思いますに、このような書類を入手するための手続きは街道や馬車ほどには改善されてはいないようでございますが……」
「申し訳ございません、ケイヴィス様。直にご夕食のお時間となりますので」
「そうでございましたな。それでは端的に申し上げます。このケイヴィス、ニィカ=アロアーラ様のロシレイ学院への入学許可状を持って参りました」
得意げに胸をはるケイヴィスとは対照に、ヘレーはほそく通った眉を一度だけ上げ、ニィカはまばたきのあと、首をかしげた。
「ケイヴィス様。その……それは、今日明日にニィカ=アロアーラ様がロシレイへ発たれるということではございませんね?」
「残念ながら、左様ですな。ロシレイではこれ以上望めないほどに刺激に満ちた知的な日々を送ることができるのですが……、ニィカ=アロアーラ様がロシレイへいらっしゃるためには、まずは陛下のお許しがなければなりますまい。侍女のお人、私はこれでもニィカ=アロアーラ様の存在の大きさについてわきまえておりますからな」
「ええ、安心致しました。それではそのお話は明日のお勉強の際にゆっくりとなさってくださいませ。さあ、ニィカ=アロアーラ様。お食事の時間でございます」
ヘレーはケイヴィスに丁重な礼をしてから、ニィカを部屋の外へとうながした。
「承知しましたとも。ではこれだけでもお持ちくださいませ」
ケイヴィスは許可状をニィカに手渡した。文字が内側になるように巻かれていて、まんなかは革ひもで留められている。
「興味がございましたら明日を待たずしてお読みになってくださって結構でございますよ。それではよいご夕食を」
早口で告げてケイヴィスは去った。
「これ……」とニィカは巻物をかかげてヘレーに見せる。
ヘレーはしばらく言葉を失ってから、「……お食事の間は、お預かり致します」と食堂へ足をむけた。
入学許可状をヘレーからかえしてもらったのは、あとは寝るばかりという段になってからだった。
いつも使っている羊皮紙よりも厚手でしっとりしていた。開いてはみたものの、蝋燭の灯りも抑えた夜のことで、書かれている文字は読めない。
ただ、右下の差出人を記すあたりに浮き彫りが入っていることは、指先の感覚からわかった。
翌朝になって、ニィカはあらためて許可状を見た。
蔦のような金色の紋様が文章を枠どる。
その中身ははしからはしまで、すべてがプロニエで書かれていた。思わず顔をしかめながらも指で一語一語を辿りながら読んでみる。
はじめは大きくニィカの名前。
長々と書かれた文面にはまだ知らないことばのほうが多く、ニィカはわかるところだけを拾い読みしようとした。
ロシレイ学院、「ケイヴィス=ディネン——」、入学の許可……。
ケイヴィスの後につづくのはきっと名字だろうけれど、長すぎて読めなかった。
さっと飛ばしてしまって、最後の「イェルヒ=カザンナフ」というサインと印に目をうつす。ごく細い線の紋章がくっきりと捺されていた。
ニィカがなんとか読みとったところによると、このイェルヒという人物は、ロシレイの学長のようだった。
つまらない、と紙を巻きなおしかけたところで、右の手のひらがきらきら光っているのに気がついた。
許可状を見返してみると、心なしか金の枠どりのつやがなくなっている。
左の薬指で枠どりをこすってみた。思ったとおり、インクの中の金粉が指にうつる。
机をごしごしとさわると、こんどは指から机へとかがやきがうつる。
ケイヴィスが意気揚々と来るまで、ニィカはあちこちをきらきらさせるひとり遊びにいそしんでいた。