112. ちーむか
ほかにすることもなく、ニィカは毎日プロニエとむきあっていた。
ケイヴィスが持ちこんだ箱いっぱいの書物。そこから一巻の絵巻物をひもといて拾い読みをする。
「これは私の師——つまりニィカ=アロアーラ様にとっては大師匠でございますな――がプロニエ初学者のためにしたためたものでございます。身近な事物から始まり抽象的な概念へと広がりを見せ、単語から文章への展開も極めて巧みであると同時に、芸術的価値も高いものと考えております。編纂には不肖このケイヴィスも携わりましてな。そう、ちょうど開いていらっしゃる、その箇所でございます」
さした先には、耳と鼻先がとがった、赤っぽい四つ足の動物が描かれていた。
「……あーばぐ」
添えられた単語をニィカが読むと、ケイヴィスは満足げにうなずいた。
ニィカは教われば教わった分だけ読み書きをのみこんだ。
見下ろすドルジャッドの街を降りつづく雪が埋め尽くすように知識が積もっていく。
使う文字をすべて書けるようになり、単語のつづりを直されることも減った。
「うふ、がーず、のーな……。ねえヘレー、聞いてる?」
「ええ、聞いておりますとも、ニィカ=アロアーラ様」
ケイヴィスが帰ったあと、ニィカは目をくるくる動かしながら単語をとなえていた。
「りかえ、ふぃかえ、じろーみかえ……」
ことばとともに部屋のあちこちを指さす。
「もっとわかるようになったら、あたし、ヘレーにプロニエ教えてあげる」
得意げな声音に反して、かえってきたのはちいさな苦笑いだった。
「おそれながらニィカ=アロアーラ様、私には過ぎたことでございます。それに私のような者とあまり親しくなさいませんよう、よくよくお気を付けくださいませ」
「なんで?」
ニィカはくちびるをとがらせる。ヘレーはそれにも慣れたものといった態度でつづけた。
「以前にもお伝え致しました通り、立場の違いでございます。プロニエも結構でございますが、ご自身にふさわしい立ち居振る舞いもお覚えになってくださいませ。」
「……なら、もういいもん」
ついさっきびっしりと文字で埋め尽くした羊皮紙。それを一枚つかんでぐしゃっと丸め、暖炉に放りこんだ。
ヘレーは暖炉へと一歩進み出たが、火が外へ燃え広がったりはしないと見届けて足を引いた。
羊皮紙はあぶられてちりちりと丸まり、獣くさい煙の筋を吐いた。
翌日になっても、ニィカの機嫌は直りきってはいなかった。
「ニィカ=アロアーラ様。どうかなさいましたかな、そのように頰を膨らませていらしては、発音も儘ならないことでございましょう」
「なんでもありません、ケイヴィス先生。ヘレーがわからず屋なだけです」
「私の参るこの短い時間に見聞きする限りでは、侍女のお人は職務を全うしているようでございますがな。それはそうと、どのような事情があろうとも書物の箱を蹴るなどなさってはなりません」
「あたし、蹴ったりなんかしてません」
「おや、それでは先程から繰り返し聞こえる音は……」
「音?」とニィカは椅子からおりて書物の詰まった箱に耳を近づけた。
たしかにコツコツとちいさく鳴りつづけている。どうやら箱の内側からのようだった。
「中になにか入ってるみたい」
ニィカはつぶやいて持てるだけの書物を出してみて、次の瞬間、悲鳴とともに放りだした。
いちばん下の巻物にぶら下がっていた生き物は慌てふためいて部屋の隅へ逃げた。
うろたえて眉を上げ下げするケイヴィスに、ニィカはとっさに言った。
「先生! ……ち、ちーむか!」
ふたりではっと目を見合わせる。ケイヴィスの顔に笑みがひろがった。
「生徒の成長を感じられるほど嬉しいことはございませんな。さて、囓られた資料がないか確認しなければ。手伝っていただけますな、ニィカ=アロアーラ様?」