111. ゆらめく文字
ゆううつにしずむ一日を経た翌朝、待ちかねたようにケイヴィスがニィカの居室に押しかけた。
「お久しぶりでございますな、ニィカ=アロアーラ様。そう、以前に伺った際には睡眠が足りていらっしゃらない御様子でしたな。本日も少しばかり目が腫れていらっしゃるようではございますが、学問の世界は人間を待ちはしないものでございます。不肖このケイヴィスもニィカ=アロアーラ様の勉学のために粉骨を惜しまない所存であります故、ニィカ=アロアーラ様も今日からは存分に励まれてくださいませ」
ケイヴィスにしたがって、ニィカは従順に書物をひらいた。
「ばしゅ あるゔぇーな ぜくらー もりゃーが」
以前にも練習した句をくりかえしとなえる。
「結構、結構。自然と言葉が流れ出るようにおなりのようですな。それではペンをお取りになって、本日からは読み書きを始めて参りましょう」
言うや否やケイヴィスは自分でも羊皮紙にペンをはしらせた。ニィカにむけられた紙に黒々とした一行がうかぶ。ニィカはまったくぽかんとしていた。
「これが先程までニィカ=アロアーラ様が発音なさっていた句でございます。私どもロシレイを出た者にとっても一番身近な句でありますから、まずはこの綴りを学んでくださいませ。ああ、勿論最初は一字ずつでございますよ。音と文字とがニィカ=アロアーラ様の中で結びつくまで、時間をかけて修練致しましょう」
商売をしていた両親の教えで、ペンをもつのには慣れていた。けれどもこれまで身近に見ていた文字とは似ているようでちがう線の連なりはどうしても不恰好になってしまう。
「プロニエの書き方が御身に馴染むまでは、大きくお書きになってくださいませ。ロシレイの者は紙を無駄にしない方法を心得てございます」
ニィカは糸くずのような字のとなりに思いきりペンを走らせた。
「元気がよろしくて、結構でございますな」
できあがった字は、ニィカの握りこぶしくらいの大きさがあった。
一枚の紙がひとつの文字で埋めつくされた。
知らないうちに力が入っていて、中指の爪のわきと手のひらの真ん中がずきずきする。
「素晴らしいですな。初めの頃と比べると見事な上達でございます」
無心で書きつづけていた感覚が消えない。ニィカは口元でほほえむのが精一杯だった。
「それでは、次の文字に参りましょう」
ケイヴィスは言うなり、ニィカの目のまえの紙を横向きにした。
きょとんとするニィカにケイヴィスはつづける。
「こうすれば二倍の文句を書くことができますからな。ご心配なさらずとも、意外と読めるものでございます。私もロシレイにいた時分は毎晩のようにこうして手紙を書き、教授と言わず級友と言わず思いの丈を送りあったものでございます。そう、ニィカ=アロアーラ様もプロニエの文字を全て学び終えたらお手紙をしたためられてはいかがですかな。語るべきものがあれば自然と言葉は上達いたします。適当な相手がいらっしゃらないのでしたら、僭越ながらこのケイヴィスが文通相手を務めましょう」
ニィカはケイヴィスに見られないように思いきり眉をよせてから、二文字目の練習にとりかかった。
魚みたいな字。羊みたいな字。だんだんと何を書いているのかわからなくなってきて、インクの跡がゆらゆら動きだす。
ニィカはせわしなく手を動かしたままうとうとしはじめた。
「——ニィカ=アロアーラ様」
名前を呼ばれ、ぱん、ぱん、と手をたたく音がした。ニィカは顔をあげて目をぱちくりさせた。
「たいへん熱心に学ばれていらっしゃいましたな。喜ばしいことでございます。ニィカ=アロアーラさまの小さな御手を疲れさせてしまっては侍女のお人に叱られてしまいますからな、今日はここまでと致しましょう。もしも……、もしもニィカ=アロアーラ様がこれまでに学ばれた句を思い出されて一度でも二度でも誦えてくださいましたら、このケイヴィス、感激の念に堪えません。よろしいですかな。ばしゅ あるゔぇーな ぜくらー もりゃーが」
ニィカは素直にあとにつづいた。意味はわからないままだったけれど、その響きはしっかりと舌にしみついていた。
ふかいうなずきを残してケイヴィスは部屋を去った。ニィカは急にぐったりしてしまって、ベッドにおおきく手足をひろげた。
さっきまで見つめていた黒い文字が目のまえのまぼろしになっておどる。文字はだんだん寄り集まり、くっつき、ぐちゃぐちゃのうねるひとかたまりになり、ニィカの視界をいっぱいにした。
ヘレーにしつこく起こされてようやく目を開けたときには、もう夕食の時間だった。
食欲はまるでなかった。口がちぢみそうになる野菜の塩漬けも、透明な油が浮いた熱いスープもようやく一口だけ飲みこんだ。そのあとは、時間つぶしにパンを細かくちぎってばかりいた。
部屋にもどると不意にすかすかした胸のいたさがよみがえった。息がつまる。
ヘレーが足早に近づいてニィカの寝る支度を整えさせる。ニィカはなにか言いたいような気持ちで、くちびるをあいまいに動かしていた。
ようやくことばが出てきたのは、横たえた体にヘレーが毛布をかけてくれたときだった。
「あのね、ヘレー。プロニエの勉強してるとね、ほかのことなんにも考えなくていいみたい」
くすりと笑う気配がした。
「ええ、そうなのでございましょう。ケイヴィス様も」
「ケイヴィス先生?」
「いいえ、お気になさらないでくださいませ。おやすみなさいませ、ニィカ=アロアーラ様」
ヘレーとともに燭台の灯りが消えた。ニィカは一度ため息をついていつものお祈りをとなえた。
「あまーにぇ にぃか ふれた ざしと ぽとにぃた るいーすて あまーにぇ しぃやすと にぃこ ぷりぇはと るいーすて」
このお祈りの意味をあしたケイヴィス先生に聞いてみようかな。首をふってその思いつきを打ち消した。
理由はわからないけれど、心の奥で、どこかこわいような気がしたから。




