109. 「鳥を」
長い階段をどこまでもどこまでも下る。きまった速度で足を進めるヘレーはとても話しかけられる雰囲気ではなかった。ニィカは遅れないように一心についていく。
一様な幅と高さの階段をひたすらに歩いていると、次に踏みだすべき場所が目ではとらえられなくなっていく。壁に手をついて、足がおぼえた感覚だけで下りていく。
ひざが重たい。あと一段、あと一段と頭のなかでなんども繰りかえして、「あと一段」のことばの意味すらあやふやになってきたところで、ようやく階段の終わりが見えた。
ヘレーは下りきったところから二、三歩進んで振りかえり、ニィカが来るのを待っていた。
最後の段を終え、とつぜんのたいらな床に足のうらを打ちつける。
近くで見ればヘレーも軽く息を切らしていた。
「こちらでございます」
廊下を進み、外へ出る。身を切る寒さにニィカは首をすくめた。
高い石づくりの壁ぞいにふたりは会話もなく歩く。
しばらくは大小の庭を横目に見ることができたけれども、しばらくもいかないうちにそれもなくなった。
ほこりっぽくてうすい砂がつまさきにからまる。地面を踏む感触はかたかった。
「どこにいくの?」
前をいく背中から返事はかえってこなかった。ニィカはくちびるをかんで足をはやめる。
わびしい景色のなか、不意にひとが暮らすにおいがした。
煮炊きやあぶらや大小の便や炎のにおいをふくんだ熱気がたちこめている。ニィカはおもわず手で鼻をおおった。
十歩もすすまないうちに、そのむっとする空気のもとがわかった。王城の壁の、大人が手をのばしても届かないような高さにいくつもの窓があいていて、そこからしろい湯気がもくもくと出ている。
ヘレーは顔のまえの空気を手のひらではらいながらそちらへ近づいていった。ニィカもおずおずとついていく。
ならぶ窓のしたに、そまつな木のとびらがひとつ。ヘレーはそれを手荒に二回たたき、返事もまたずに押しあけた。
しめった熱さがどっとあふれる。ニィカはとっさに息をとめて目をつぶった。
「鳥を」とヘレーが声を張りあげた。湯気のむこうからなにごとかくぐもった答えがかえった。ヘレーが強いドルジャッドのなまりで言いかえした。
ニィカはゆっくり五つかぞえてそろそろとまぶたを上げる。
ヘレーと言い争っていたのはどっしりとした体格の女性だった。ひじまでがさがさに荒れた赤いうでをかたく組んでいる。
そのふかい眉間のしわと胴間声に、ヘレーはいちど首を横にふった。ため息をついてからのびた背中はひややかだった。
「これは命令です」
女性は一言毒づくときびすを返した。扉は開けはなしたままで、左右にゆれながらのしのしと進む背中が見えた。
雑然とした部屋のおくをさらに引っかきまわして、彼女はなにかを片手につかんだ。
大股で戻ってきた彼女はものも言わずにその手をヘレーにつきだした。ヘレーはつんけんとしたうなずきをかえして、両手でそれを受けとめた。かさ、とかるくかたい音がした。
手のなかに視線をおとし、ヘレーは振りかえる。ひざをかがめてニィカに向きあう。
「……ニィカ=アロアーラ様」
ひらかれた手に乗っていたのは、羽毛をみだして横たわる小鳥だった。くちばしをちいさく開けたままぴくりとも動かない。なにもかもがかわいてこわばっていた。
ニィカは小鳥とおなじだけうすく口を開いて立ちすくむ。建物からのなまあたたかい匂いが鼻にのどに流れこんだ。
一切の抵抗もなく風にゆられる死んだ小鳥は、いやだ、と声に出すこともできないほどおそろしかった。悲しさもなみだもわすれてニィカはただ見ていた。
「ニィカ=アロアーラ様。お手を……」
ヘレーの手がわずかにさしだされる。首を横にふるのがせいいっぱいだった。
「……よろしゅうございますか」
身じろぎもしないニィカを幾呼吸か見守って、ヘレーはさっきよりいくぶん落ちついた声で大柄の女性を呼んだ。
小鳥がヘレーから彼女へとわたり、ニィカの視野からきえた。
「戻りましょう。お風邪を召されてはいけませんから」
つまさきの向きをかえるヘレー。ニィカはちいさな子供のようにそのスカートをつかんだ。ヘレーはなにも言わなかった。
歩きながらも、すぐそばにあるヘレーのてのひらに、命をうしなった小鳥の気配がのこっているように感じられてしかたなかった。