106. 「帰りたい」
覆いをかけられた籠のなかで小鳥はもう眠っているのか、羽音ひとつも聞こえない。
ニィカはずっしりと重い金属の籠をかかえあげた。暖炉とろうそくの火をたよりによろよろと窓辺に行く。目をこらして掛け金をはずし、体重をかけて分厚いガラス戸を押しあける。凍えるような風がさしこんでニィカの体はぶるっとふるえた。
ふたたび鳥籠をかかえてバルコニーの外へ。タイルの床はじんじんと足のうらを冷やした。
指先を息であたため、ほとんど手さぐりで鳥籠のとびらをあける。軽い金属がふれあう音がニィカの心をあせらせる。
「ねえ、ごめん、ごめんね……」
鳥籠に入れた手がふわふわした羽毛を包みこむ。息をつめて、止まり木からほそい爪を一本ずつはずす。
「起きて。ね、おうちに帰っていいよ。パパとママに会いたいでしょ」
小鳥はふるっと羽根をふるわせる。
「ごめんね、ひとりぼっちでさみしかったよね。ごめんね」
一心に謝りつづけるニィカ。小鳥はその手のなかで冷気にうずくまるばかり。
「ねえ、おうちに帰れるんだよ。飛んでってよ、はやく行ってよ」
ニィカの声はかすれたひきつれた響きを帯びはじめる。
「……帰ろうよ、かえりたいよぉ……」
ぼろっと大粒のしずくが落ちる。小鳥は羽根をばたつかせたものの、飛びたちはしなかった。
いちどこぼれてしまった涙はあとからあとからわいてきて、ニィカはドルジャッドの冬の冷たさを吸いこんでは声をあげて泣き返った。
「ニィカ=アロアーラ様!」
息を切らせたヘレーの声と厚い毛布が降ってきた。
「どうなさったのです、このような夜更けに外に御出でになるなど」
しゃくりあげるばかりでニィカののどからことばは出てこない。
「お部屋に入って、ベッドにお戻り下さいませ。お風邪を召されます」
石のようにうずくまったままいやいやと首をふる。ヘレーが何度呼びかけても答えられなかった。
「ニィカ=アロアーラ様、ニィカ=アロアーラ様。 ……失礼致します!」
脇の下に手が差しこまれて引っぱりあげられる。あお向けに近いかっこうで部屋に連れもどされる。高い天井をさえぎって、ヘレーのほそいあごが間近に見えた。
かろうじて床についているかかとが絨毯に乗り上げて、ヘレーはようやくニィカを下ろした。
ニィカがぐすぐすと鼻を鳴らす音、ヘレーが息を整えようとする音、暖炉の薪の音がまじりあう。
「ヘレー、こ、ことり、は……?」
手の甲で目をこすりながらたずねる。
「……連れて参ります」
ヘレーの足のはこびが床から伝わる。バルコニーへ出て、戻ってきて、おおきな鳥籠をつくえに置く。それからすこし後に、バルコニーへのガラス戸が閉まる重い音がとどいた。
「ニィカ=アロアーラ様、小鳥でございます。さあ、ご覧になったらもうお寝みくださいませ」
その口ぶりから、小鳥はずっとおとなしく籠におさまったままだったのがわかった。やるせなさにニィカの体の力がぬける。
「……ニィカ=アロアーラ様?」
首をふると、じんじんと目の奥が熱い。
「もう、ねる……」
「……かしこまりました。ベッドまでお連れ致します。失礼ながら、お手を」
涙で冷えた手をヘレーの手がつつむ。ベッドに入るまでの短いあいだに、泣きたい気持ちがぶり返した。
息をすうたびに泣き声がもれて、胸のなかの空気がおおきくふくらんではちぢむ。
ヘレーはもうその理由を聞かなかった。
「お傍におりましょうか、ニィカ=アロアーラ様」
ニィカはことばもなく、おおきく二回うなずいた。