シアター
土曜、ではなく金曜の夕方。わたしは準備にとりかかった。
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授業おわりの開放感、すこし肩にのこる疲労、そして明日が休みというだけでうまれる安っぽい高ぶり。部屋はそれなりに片付いているが、もう少々、整頓してもいいだろう。
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メールが届く。ちょっと早めに着くとのこと。壁に掛けた、すこし時代遅れとも言えるアナログ時計の針を見ると、待ち合わせまであと1時間ほどの余裕がある。彼女らしいと思いつつ、了解の旨を返す。さて、いそがなくては。ほうきでカーペットの塵をはらい、ソファーをテレビの前まで動かす。一度、実際に座ってみるがすこし近すぎた。もう一度動かす。
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しばらくしたのちに、チャイムが鳴る。インターホンから間髪入れずに声が響く。
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わたしと彼女はソファーに座っていた。彼女の持ってきたスナック菓子はまだ開けず、テレビをなんとなく眺める。淡々とした空気のなか、アナウンサーが明日の天気をこれまた淡々に告げた。明日もどうやら、晴れ。
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時計の長針がちょうど12を指したとき、チャイムがふたたび鳴った。インターホンに近づいて、ようやく彼女が来たことを知る。
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観衆は揃った。夕暮れの町並みが名残惜しく映える窓を、カーテンで覆い隠す。電気は消す。準備も整った。
「さて、何から観ようか」
「分かりやすいのがいいな」
「わたしは、どちらでもかまいませんよ」
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一本目。男が女に電話をかける。叫んだり、叫ばれたり。そして女が走る。走る。さらに走る。音楽はけっこう鋭めのテクノ調。銃を取り出したり、ちらつかせたり。どうも、この男の性格はいただけない。気が短い。べつに、そういう作品だからだろうけど。ああ、ああ、泣き始めた。背景の音像が霧に包まれたように濁り始め、映像も回想へと向かいだす。メリーゴーラウンドよろしく、カメラが非現実的に回転する。
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ソファーに寄りかかりながら、スナック菓子をほおばりながら、彼女が尋ねる。
「これってつまり、こいつが悪者?」
「そうとも言えない、と思いますよ」
「ちょっと難しいところかも」
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突然の静寂。思わず息をのむ。画面が銃を真正面からとらえ、男の顔を遠景に映しだしている。憎悪、というだけではちょっとチープすぎる表情。そこに割って入るのは我らがヒロイン。たぶん走ってきたのだろう。息は上がってても肩は上がってない気がするけど。音楽が鳴り響き、役者が走り、カメラがそれを追いかけまわす。ひとしきりビルの中を駆け抜けていくさまは、ここだけ見たらスラップスティックそのもの。そして、お約束であるかのように、屋上。
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スタッフロールが画面を流れていく。電気を点けてから、ゆっくりとジュースに口をつけた。
「わざわざ飲み物を買ってきてくれてありがとう」
「いえいえ、お気になさらず」
「わたしにもついで、ついで」
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二本目。静かで遠い映像から、ゆっくりとクローズアップして人物に迫っていく。まだオープニングなのだろうけど、やけに重厚なセリフ回しと音楽が目立つ。風を感じさせる平原。男と女を乗せた馬が駆け、それを追うようにして走る馬、馬、馬。いっぱい。いつの間にか馬に刺さっていた矢がたいへん痛々しく、すこし目を覆いたい。こういうのはどうやって録っているのだろう。さすがに本当にけがをさせたら不味いだろうし。追跡劇は、うやむやのうちに終わる。ヒロインとヒーローは森で静かに目を閉じた。
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シーンが途切れたおり、ふと横に目をやるとソファーに座る彼女と目が合った。
「こういうロマンチックなやつって好き?」
「わたしは、けっこう好きですよ」
「馬がいたそうだったなあ」
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暗い暗い地下道。男の暗く淡い影に這い寄る何か。存分にフィルムの持ち時間を使った長い回し。男が気付いたときは既に遅し。何かを察知するヒロイン。愛の力か、ご都合か。悪役が悪役らしく笑い叫ぶ、音楽がモールを重苦しく奏でたとき、物陰から飛び出すのは。殺陣が始まり、ヒーローがばったばったばったと敵を斬る、斬る、むしろキル。壮大と思わしき一騎打ちの後にファンファーレが華々しく響きわたり、カメラがヒーローとヒロインに寄っていく。
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電気をつけると、ソファーに寄りかかりながら彼女は泣いていた。
「良かったなあ。本当に良かったなあ……」
「おもしろかったねえ」
「そう、ですね。それでは、今日はどこに行きましょうか?」
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それなりに歩き、最寄りのファミレスに向かう。週末始まりということでそれなりに店は繁盛していた。軽く夕食をとる。あくまで軽く。いわゆるドリンクバーで、飲み物を慎ましやかにお代わりしつつ会話に花を咲かす。学校のこと、知人のこと、身近な噂の話。ゆっくり、ゆっくりと。時計の短針が12を指した頃、わたし達は家に帰ってきた。映画の話題は、半分以下でもなければ以上でもなく。
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灯りを消すと、無自覚だった眠気が騒ぎだした。かまわず、ディスクをプレーヤーに押し込むが。
「たぶん、これは派手なやつだと思うよ」
「それは良いな。楽しみだ」
「ふふふ、楽しみですね」
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三本目。だいたい、ここら辺りから変わる。人殺し、となじられる男。それを甘んじて受ける男の表情。そこに見えた、怒りとも悲しみとも取れない何かに一瞬とらわれかけた。物語が断片的なイメージに変わっていくのを自覚しつつ、ジュースに口をつける。人口的なオレンジの風味が味覚と意識を刺激し、ストーリーの理解を妨げていく。この女はヒロインだろうか。それにしては酸っぱい表情をして主人公を見つめている。爆発、さらに火薬増しで爆発。派手なのは良い。建物が木っ端みじんに弾け飛び、辺りを火と灰と塵が支配してから、しばらくした後に現れる男。ああ、主人公か。
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静かだ、と思ったらやはりだった。ソファーにもたれかかり、カーペットに気持ちよく倒れている彼女。
「わたし、毛布を取ってくるよ」
「映画、止めておきましょうか?」
「……ありがとな……」
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物語が加速し、主人公も走る。どこか緊張感のある光景は作り物らしいギラギラした魅力にあふれて見えた。銃を手に持ち、男が叫ぶ、走る、そしてまた叫ぶのだ。ヒロインはなかなかシーンに登場しないように見えた。あくまで自堕落で不真面目な観衆の感想。テンポとノリの良い、ひずんだギターリフが画面のベロシティをさらに増加させる。飛行機に飛び乗る主人公。これは墜ちる。たぶん墜ちる。きっと墜ちる。墜ちた。現実の飛行機が墜ちるところなど見たこと無い。それでも、わたし達の脳内に飛行機の墜落するイメージがあるのはこういうことなのだろう。業界は訴えていいのに、わたしは支持するのに。死んでいたはずの男が、当たり前のように生きており、世界を救った。ヒロインと結ばれた。愛と正義は勝つ。知っていたし、知っていてもこの映画はたぶん面白い映画。
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さて、そろそろだろうか。
「寝る?」
「…………」
「ええ、そうさせて、もらいますね……」
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部屋の角のベッドを一人に貸し、もう一人はソファーに。程なくして、静かな二つの寝息が真っ暗な部屋を重なるように満たしていた。リモコンを操作し、その暗闇に光を点す。ソファーに寄りかかると、そこに微かな温もりを感じた気がした。
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四本目。見慣れたロゴなどが静かに流れ、私だけの映画館が始まる。白黒の甘いコントラストの中、静かに揺れるゆりかご。それを見つめる、女性らしい優しさを漂わせる、女性。サイレントのなか、引き続き寝息だけが聴覚を支配する。時代は現代、古代、中世。そして古代、また現代、されど中世。場所を変え、時を変え、遷り遷り行く4つの背景が一つのテーマに収束しそうで、まだ、しない。人々の怒り、悲しみ、そして許すべからざる心とそれに立ち向かう意思が、時代や場所を越えようとして、まだ、越えない。長大で広大で、いうなれば誇大そのものとも言えるような、四次元的な世界すら内包した歴史的作品、とは、たぶん言い過ぎ。ただ、私は言える。この偉業の名と、その主題を、
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カーテン越しに、すこし遅い朝の光が部屋に差し込んだ。
わたし達はそれなりに身支度を整え終わると、それぞれの場所へ戻る。
「まだ眠いね」
「眠いなあ」
「眠い、ですね」
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玄関の扉を閉め、ベッドに向かおうとした時、わたしは気付いた。
点けっぱなしになっていたプレイヤーからディスクを取り出し、うやうやしく、わざとらしい仕草でケースにしまい、言う。
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「どうかお許しください。あなたの、寛容さで」