二人
冬休みの間俺は一日のほとんどの時間を彼女の病室で過ごした。今考えると口下手な私がよくあんなにも話すことがあったなと感心してしまうほどだ。
クリスマス以来俺と早苗の関係は急速に近づき、母親公認の関係と言うことで病室の中では臆することもなく堂々と手を繋ぎあっていた。
リハビリの方も順調に進んでいて、医師も今までこんなに早いペースで回復をしていく患者は見たことないと舌を巻くほどで、それに加えて「祐史君が来てから急にだよ」と言われると照れながらも少し鼻が高い気分だった。
でも冬休みの終わる三日前医師から思いもしなかったことを告げられ愕然とさせられた。
「そろそろ娘さんには退院してもらうことになると思います」こいつは何を言ってるんだと俺と早苗の母は顔を見合わせた。まだ早苗は完治などしてもおらず、普段の生活に支障がないところまで回復しているとも思えない。
納得のいかない俺たちに医師は話を続ける。
今のように自殺も多くなく精神的な病気を軽視する傾向の強かったバブル崩壊前の日本では、結局死ぬことのない病気である早苗のような人物に一個の病室を長々と貸すのはありえないことで、それならガンや白血病などの治らないとされていた病気の方を入院させて集中して見られる環境を作るという考え方が主流だった。
その世の中の流れから早苗が病院を退院という形で追い出されるのは仕方ないことだったし、現に早苗のリハビリを行う施設に来ている患者のほとんどは退院して自宅静養していた。
退院してもリハビリは通院すればできるけれど、早苗の家からここの施設まで通うとなると毎日など通えるはずもなく、月に何度かしか通えず今よりも明らかにリハビリの効率は落ちるだろう。
今せっかく早苗のリハビリは実績を上げ始めて軌道に乗ったというのに・・・。落ち込む俺の隣で早苗の母は落ち込んだり、わめいたりせずに至って冷静さを保っていた。
医師との話を終え病室に戻ると何も知らない早苗がいつもの笑顔で俺たちを迎えた。もしかしたらこの笑顔はいつか失われてしまうかもしれない。そんなことが頭をよぎる
早苗の母は医師に言われたことは何も言わずに「花瓶の水をかえてくるね」と言って花瓶を持って少し足早に、早苗の顔もあまり見ないで病室を出て行った。
その素っ気なさ過ぎるとも思える程の態度に、早苗は少し違和感を感じて心配そうな表情を浮かべた。こんなママ見たことないという感じに
しばらくして早苗と別れを交わし、未だ病室に戻らない早苗の母に挨拶しようと探していると、早苗の母は水道のところで座り込み泣いていた。
早苗はもう医師に見捨てられたのかもしれない。その不安が俺と変わらずに早苗の母にもあったのだろう。どんなに冷静を装っていても、病室に帰ってきたときの早苗の笑顔を見たら我慢しきれなくなったんだと思う。
俺は結局早苗の母に挨拶することなく病院を後にした。
冬休みが明け例年通りに三学期が始まった。ただ高校最後の学期ということもあり、周り少し浮かれていたり、そわそわしていたけど俺はいつも通りの何も変わらない生活を送っていた。
廊下を歩いていると久々に見た君恵と照雄の姿があり、二人はいつになく仲良さ気で、俺が言うのも変なのだが見ない間にどこか垢抜けたような気がした。俺に気付くと二人は笑顔になり近づいてくる。
「私たち付き合うことになったの」君恵がそう言うと二人はお互いの想いを確かめ合うように見つめ合った。それを見ていると、昔一度照雄が俺に「君恵のことが好きなんだ」と打ち明けた時のことを思い出した。
あの後結局告白もせず、照雄は何事もなかったかのように過ごしていたので俺はすっかり忘れてしまっていたけど、照雄は小六の時俺に打ち明けてから、いやそれよりずっと前から君恵のことを想い続けていたのだろう。
その想いを遂に高三の冬休みに君恵に告げることができ、晴れてその結果を今六年越しに俺に報告する幼馴染で親友の照雄は見たこともないくらい幸せそうな顔をしていて、俺は心から素直に「おめでとう」と言えた。
それから七年後の二十五歳の時二人は結婚した。照雄は小六から想っていた君恵との初恋を実らせ、今現在の六十歳に至るまで他の女性には目もくれず君恵一筋を貫いてきた。そんな高尚な照雄の恋愛に自分の恋愛を重ね、私はいつしか羨ましく思い憧れまでも感じていた。私には一生手の届くことのない、綺麗な恋愛の形だと思えたから。
遂に俺が恐れていたこの日が来てしまった。
早苗の母から電話をもらい、俺は受験勉強なんか放り出してすぐに病院へと駆けつけた。俺が駆けつけたときにはもう既に病室は片付いていて、綺麗になったベッドだけが真ん中にポツリと在りどこか俺の胸を苦しめた。
きっと早苗は俺も早苗の母もいないときはここに一人で何をする訳でもなく、ただじっとして俺たちが来るのを待っていたんだと思うと悲しく感じ、退院させるのも一概に間違いとはいえないかもしれないと思えた。
病室に戻ってきた早苗と早苗の母は俺を見ると笑顔で「こんにちは」と言ったけど、二人ともいつもの笑顔とは違って少し憂いを秘めたような笑顔だった。きっと怖いのだろう。恐れているのだろう。私は、早苗は外の世界で生きていけるのかと。
二人は既にお礼参りを済ませていて、俺にできるのはせいぜい早苗の荷物を車につめるのを手伝うことくらいだった。
看護婦や医師に見送られ車に乗り込む早苗の顔つきはいつもと違ってどこか強張っていた。そんな表情を見ているともう後戻りはしちゃいけないんだと、俺はずっとこの子を支え続けなければいけないんだと感じた。桑畑のことが頭をよぎる。
最近桑畑を思い出すことが多くなった。学校で何回か見かけたけど何を話していいかわからず、一言も口を交わさなかった。
早苗を見ていると、こんな時あいつならなんて声をかけるのだろう?とか、こんな時あいつならどうするだろう?って思ってしまう。
俺の視線に気付くと早苗はこちらを向いて恥ずかしそうに笑った。
初めて見た早苗のどこか周りの家とは雰囲気が違い、そして家もとても大きく、きっとどこかの大きな会社の社長なのだろうと思った。
久々に見た自分の家に早苗はいつになく感激したような表情を浮かべ、真っ先に玄関に向いドアを開け中に入って行った。
「全くあの子は落ち着きがないね」なんて笑って言う早苗の母もどこか嬉しそうで、さっきの不安など忘れてしまったみたいだった。
荷物を持って早苗の後を追うようにドアを開け中に入ると早苗がまだ玄関にいた。
「どうしたの?」と言いながら早苗を追い越し荷物を床に置こうとしている早苗の母確認しながら、俺が早苗に合図すると、緊張したように深呼吸して、母の背中に
「ただいま」と言った。早苗はまたもう一度言った「ただいま」と。言いながら彼女は泣いていた。やっと戻ってこれたんだと実感して、安心したのかもしれない。
そんな娘を早苗の母は抱きしめながら俺に悔しそうにでも笑みを見せ、俺も笑顔を浮かべると視線を戻し、早苗の母は早苗に「お帰り」と言った。これは俺が医師に退院をほのめかされた日から早苗と、早苗の母には内緒でリハビリに励んだ結果だった。
そんな二人をを見ていると、そこら辺のどこか安っぽいホームドラマなんかより感動して心にしみこんだ。邪魔をしちゃいけないと思い、俺は「明日また来ます」と言って早苗の家を後にした。
これから二人を迎えるのは過酷な未来かもしれないけど、この二人なら乗り越えていけるような気がした。この時は・・・。
次の日学校に行き、もう卒業の決まっていた俺は嫌いだった古典の授業をサボり先生の来ない肌寒い屋上で寝転んでいると、普段誰も来ない屋上に珍しく誰かやってきた。
目をやると足だけが見えて、スカートだったのですぐに女子だとわかった。
「祐史君授業サボっちゃいけないんだよ」その声は胡さんだった。
「胡さんもサボってるじゃん」俺が見上て言うと彼女は悪戯に笑い俺のすぐ横にしゃがみこんだ。
「いつもココでさぼってるの?」
「まぁ大抵は。先生に絶対見つからないし」
「ふ〜ん。じゃあ今度から私もココ使っていい?」彼女はこっちを見て笑顔を浮かべた。何を考えてそんなこと言ってるのかは全然わからなかったけど、いつの間にか「いいよ」と言っている俺がいた。
少し二人の間を沈黙が流れたけど、もうそこに昔みたいな気まずさはなくなっていた。そんなことに寂しさを感じながら胡さんを見ると、彼女はただじっと校庭の方を見ていた。
彼女のに恋したことがもう何十年も昔のように感じる。俺の視線に気付いた胡さんは、こちらを向き俺に首をかしげながら微笑みかけた。
少し経って彼女が口を開く
「そういえばさ・・・昨日祐史君病院にいなかった?」思いも寄らない彼女の言葉に俺はドキッとした。
「なんで?」俺の言葉に彼女は少し慌てながら手を横に振って「あ、あのね。昨日ちょっとお母さんのお見舞いに行って、そしたら丁度戸田さんが病院から出てきて、そのときに祐史君っぽい人がいたからさ・・・」と言い俺を見た。
彼女の言葉に俺は見られていたんだと感じ、何かが俺の中で崩れていくのを感じた。
私の心が揺らげば揺らぐほど二人を傷つけていくなんて気付けないほど、あの頃の私はまだとても若かったんだ・・・。