愛の形
ここで改めて失語症について書かせて欲しい。
脳卒中や頭部外傷の時に、脳の冒された場所や大きさによって、半身麻痺や言語障害という後遺症が残る場合がある。失語症は左脳の言語領域が冒された時発症する。
失語症は、話すこと・聞くこと、読むこと、書くこと・計算するなどの機能に障害があり(戸田さんの場合全失語なのでこのほぼ全てに障害がある)よく言われるのは「日本人がフランスのパリに一人で旅行したような状態」と似ていると言うこと。フランス語は、聞こえていても意味は分からず、話もできない、これによく似た状態。
そしてリハビリの施設の少なさもある。今現在の日本でも数多くはないので、通院が無理な患者が多くてその場合在宅になるが、リハビリが不十分で孤独感に陥りやすい。そして復職も厳しい。
そしてこの病気は治ることなく、リハビリを何年も重ねて本当に少しずつ良くなっていくということ。それを医師に聞かされたとき私は絶望の淵にいた。それでも私の唯一の救いは失語症で死ぬことはないと言うことだった。
戸田さんは若いこともあってリハビリも人よりも順調に行われていて、戸田さんの母親も医師も明るく振舞っていたから、私もその気になりいつかまた話せるとこの病気を軽視してしまっていた。
クリスマスイブ、街にはいつもとは違うロマンチックな雰囲気が漂っている。街行く人もどこか幸せそうな顔をしていて、これからどこか高級レストランに恋人と食べにでも行くのだろう。
そんな中俺はいつものように病室へと向う。花束なんて抱えながら。
戸田早苗と書いてある病室のドアの前で少し深呼吸する。花束をあげるなんて初めてだったから緊張した。プロポーズする時はもっと緊張するんだろうなと思うとゾッとして俺には無理だと感じてなぜか笑えてくる。
自然な笑顔でドアをノックし開くといつものように彼女が目の前のベッドにいた。
「こんにちは」と言うと彼女の母親が会釈し彼女も「こんにちわ」とまだゆっくりだけどこの間より随分と上達した挨拶をした。続けて彼女は首をかしげて俺の後ろに隠してあるものを覗く仕草をした。
彼女の母親がいるということで少し照れはあったけど、彼女に花束を手渡し、驚きと嬉しさが混じったような表情を浮かべる彼女の目をしっかりと見つめて
「戸田さん、メリークリスマス」とゆっくりとちゃんと届くように言うと、彼女は伝わったのかいつもの屈託のない笑顔ではなく、恥ずかしそうに控えめにでも嬉しそうな笑顔を浮かべ、喜んだくれたように見えた。
一瞬彼女と母親がアイコンタクトしたように見えると、彼女の母親は「花瓶の水を入れ替えてくるわ」と言いながら彼女に頑張ってと言う様ににっこりと微笑みながら席を外した。その一瞬に彼女と彼女の母親の絆というか信頼感が伺えたような気がした。
彼女の母親が席を外した後、彼女がゆっくり口を開いた。か細い彼女の声を全て聞きたくて俺は彼女の口元に耳を傾ける。
緊張してかなかなか上手く言葉にできない彼女に「ゆっくりで良いよ」と言った。もし一日掛かったって一週間掛かったって俺はその言葉を待っていたかったから。
ゆっくりゆっくりと言葉を繋げていく彼女。「きょうは・・・とださん・・・じゃなくて
私の目をじっと見つめて言う彼女に「大丈夫。ちゃんと聞いてるから」と笑顔で言うと彼女も少し笑顔を見せてくれた。
「きょうは・・・きょうだけで・・・いいから・・・さなえって・・・いって?」結局この言葉を言うのに彼女は三時間を要した。きっと俺にはわからないところで必死にリハビリに時間をかけて今日に間に合わせたのだろう。
彼女の首を傾げる仕草を愛しいと思いながら「今日だけ?ずっと呼ばせてよ」と言いながら彼女を抱きしめた。
抱きしめた俺の耳元で「いって?」と言われたので、「早苗」と呼ぶと彼女は涙を溢れさせながら俺の唇に唇を重ねてきた。少し驚いたけど彼女に応えるように二度目は俺の方からキスをした。病室の中にもいつの間にかクリスマスムードが広がってほんわかとしたロマンチックな雰囲気が漂い始めた。
三時間も花瓶の水を替えに行っていた彼女の母親を探そうと病室を出ると、病室のすぐ前で泣いていた。いつも明るかった人が涙を流していて俺は少し動揺した。
俺に気付くと涙を拭いて笑顔を見せて「これからも娘をよろしくお願いします」と改まって頭を下げた。「こちらこそよろしくお願いします」というとよっぽど嬉しかったのだろう。涙を堪えきれずにまた流して「ありがとね」と言った。
病院を出た後少しブラブラしていて、行き着いた公園で缶コーヒーを飲みながらベンチに座った。人気のない公園なのか冬だから人がいないのかわからないけど広い公園の中俺一人だけがポツリといるだけだった。
太陽の光が気持ちよくてその光りで常に持ち歩いている本を鞄から取り出ししおりの挟まれた部分から読み始めた。
主人公はどこにでもいる大学生。ある日天真爛漫な子と出会い、主人公はその子に惹かれ始める。いつでも明るくて、ムードメーカーで元気彼女。
それでも人に言えない悩みを抱えていた。彼女は病気だった。いつ発症してもおかしくはない病気。もし発症したら助かる見込みは限りなく0%に近い。それでも主人公は弱っていく彼女を必死に支え続けた・・・
物語はまだ続くけど俺はそこで読むのを辞めた。日が暮れてしまうから・・・いやきっと結末を想像して読みたくなくなったからの方が正しいだろう。
「病気の女の子」という点で少し早苗とダブらせて読んでいた分「死」に直面すことから逃げた。読んでしまったら早苗までも死んでしまうような気がしたから・・・
そんなことを考えているといつの間にか涙が溢れてきた。早苗がいなくなるなんて考えたくもなかった。最初は偽りの愛だったのに、いつの間にか俺は本気で早苗を愛していた。
涙を拭き鞄に本をしまっている時に声が聞こえた。「祐史君?」声の方を向くとそこには胡さんがいた。
「久しぶり」と言いながら近づいてきて「隣いい?」と聞かれ「いいよ」と答えると、帰ろうとしていた俺の隣に腰を降ろす時
「よいしょ」と言いながら座る彼女に思わず笑うと「なんか変?」と聞かれ「よいしょなんて誰に教わったの?」と聞くと「君恵がそうした方が可愛いよって言ってたの」と答え「君恵も変な事教えるね。でも可愛いかも」と言って笑うと「もう」と笑顔で彼女は言う。
二人の間に懐かしい雰囲気が一気に立ち込める。
「なんか祐史君が笑ってるの久しぶりに見た気がする」彼女の言葉に俺は思いをめぐらせる。自分ではいつも通りやっていたつもりだったのに、胡さんにはそう思われていたのだろう。
彼女は続ける「祐史君はクリスマスに一人で何やってたの?」なんか嫌味な言い方だったけど俺は珍しく腹が立たなかった。でも「散歩かな」と言うと「おじさんだね〜」と笑われたのはさすがにちょっと腹が立ったけど。
「祐史君は大学行くの?」この問いをはぐらかすように「胡さんは彼氏と同じ大学行くの?」と言うと少し顔を赤らめながら「うん」と短く答えた。
そっか上手く行ってるんだとちょっとがっかりする自分に俺はがっかりしてごまかすように遠くを見た。今ならちゃんと応援できる気がしてたのに・・・。
「祐史君は?」とまた切り返されもう逃げ場もなく「行くよ」と言うと「どこら辺の大学?」と少し追求され「知ってどうするの?」と冷たく言うと「大学行っても君恵と照雄君と祐史君とは仲良くしてたいから」と照れ笑いを浮かべた彼女「俺も仲良くしたいけど多分あんまり会えないよ」と言うと少し残念がりながら「何で?遠くに行っちゃうの?」と言った
「そんなことないけど、勉強しようと思って」と言うと「祐史君らしくないね。なんかあった」と笑いながら言う彼女に俺は真剣に「ちょっとね・・・治したい病気があって」と答えた。人に初めて言ったこの言葉に嘘なんか一つもなく、俺は真剣に「失語症」に向き合う決心をしていた。
胡さんと別れる時「勉強頑張ってね」と手を振った彼女は紛れもなく俺の少し遅めの初恋の人だった。彼女はこれから彼氏に会いに行くのだろう。
俺はこの時そっと胸の中の胡さんへの想いをギュッと握り潰したつもりでいたのに・・・