独り善がりな想い
失語症を発病した戸田さんと、日本語が上達していく胡さんの間に挟まれて苦しむ主人公祐史。
桑畑に連れられて訪れた戸田さんの病室の前で、俺は改めて桑畑に確認された。
「会ったらショックを受けるかもしれない。それでも入るか?」桑畑の言葉、それでも俺の心に迷いはなかった。
「それでも俺は彼女に会いたい」そう伝えると、桑畑は少し涙ぐみながら
「そうか・・・早苗も幸せだな。最後に恋したのがお前で。ここからは一人で行ってやってくれ。俺はもう早苗とは会えない。最後まで支えてやれなかったことを謝っておいてくれ」桑畑の言葉にはやけに重みがあって、どこか説得力もあった。たぶんそれはこの世で一番彼女を愛していた男の言葉だったからだろう・・・。
一人になり、いざ自分の手を彼女のドアノブにかけたとき、自分の手が震えている事に初めて気付いた。このドアを開いてしまったらもう後には戻れない。そんな重い責任が俺にのしかかってきてるのだろう。
それでも俺は勇気を出してドアを二度ノックし沈黙の中、少しずつ、少しずつ自分のショックが小さくなるようにドアを開けた。
多分彼女は桑畑が来たのだと思ったのだろう。俺を見た瞬間驚きの表情を浮かべ、その後全てを悟ったような表情を浮かべたような気がした。
「こんにちは・・・戸田さん。久しぶりだね。」
俺の言葉に彼女は、最後にデートをした時と変わらない屈託のない笑顔を浮かべて、何も言わずに頷いた。
それから俺は独り言のように沢山のことを一人で喋った。全ての話に戸田さんは笑顔で頷いてくれていたけど、もう彼女に俺の言葉は伝わっていないだろう。
最近では面会は桑畑と家族以外は拒否していて、病院の先生でも極力他人に会うことを嫌がっていて、リハビリもろくに行っていないらしかった。
そんなことを思っているといつの間にか俺の頬を涙が伝っていた。あんなに話すのが嫌だったのに・・・あんなに戸田さんを避けていたのに・・・もう好きと言ってもらえないんだと思うと悲しくていたたまれない気持ちがあふれ出したのだ。
俺の涙に気付いたのか気付いてないのか、戸田さんは端整な顔でただこちらを見上げていた。
その時戸田さんの母親が病室の中に入ってきた。母親は俺を見ると
「早苗は男にもてるんだね〜ボーイフレンドが二人もいるなんて」と冗談を言った。
戸田さんの母親と入れ替わるように俺は「明日また来るから」と言って病室を後にした。
帰る間際に病室の外で戸田さんの母親と話すと、戸田さんは失語症の中でも「全失語」に当たるらしく、全くと言って良いほど話すことができないということだった。
「だから無愛想だけど許してね」という言葉に「笑顔で頷いてくれてました」というと、とても驚いたような表情を浮かべて
「あんた相当気に入られてるんだね。早苗が笑顔見せるなんて最近じゃ考えられなかったよ・・・。桑畑君にも笑顔見せなかったのに」と少し俯いていった。
それと桑畑のことを話すと「そっか・・・今までありがとねって伝えといてくれる?」と言われ、「わかりました」と言って俺たちは別れた。
あの頃はまだインターネットなんて普及していなくて、病気のことを調べるには分厚い本を片っ端から読んでいくしかなかった。
それでもまだ失語症に関して載っている事は少なく、私はただもどかしくて行き場の無い苛立ちを覚えるだけだった。
第一人者と言われる人にだって会いに行った。でも「治らない」といわれるのが怖くて、まともに聞くことすらできなかった。
その頃の俺は、いつの間にかあんなに好きだった胡さんを遠ざけていた。彼女を見ていると胸が苦しくなった。目の前で日本語がどんどん上達していく胡さんと、もう滅多に言葉を発しなくなった戸田さんを比べてしまうから・・・。
一回胡さんに本気で怒ったこともあった。彼女は俺が冷たい態度を取ると、わざとイントネーションをおかしく言ってみたりする癖があった。その日も同じで彼女がイントネーションをおかしく言った時俺は我慢の限界が来た。
「ちゃんと話せるやつがなんでちゃんと話さないんだよ!」突然怒鳴った俺に胡さんと照雄と君恵は大いに驚いていた。
ごめんとも言えずに気まずい空気にいにくくなって教室を飛び出すと、後を照雄が追いかけてきた。
「どうしたんだよ?最近祐史おかしいぞ」本気で心配してくれているとわかっていても俺は「そんなことねぇよ」と言ってあしらってしまった。
今思えばちゃんと照雄や君恵にこのことを相談しておくべきだったと思う。でも一人よがりだったあの頃の私は、全てを一人で背負い込んで、治る見込みのない彼女を必死に看病して、周りから見たら惨めに見えたかもしれない。それでもそれしかあの頃の私にはできなかったんだ。結局それが二人を傷つけることになるなんて知りもしないで・・・。
あの日から俺は毎日戸田さんの病室を訪れていた。毎日彼女は屈託のない笑顔を俺に向けてくれた。言葉にできない想いを必死に表現してくれているようで、彼女が物凄く愛しく感じた。それだけで俺は嬉しかった。
俺が毎日お見舞いするようになってから二ヶ月ちょっとが経ったある日、いつものように病室に入り、彼女の目をしっかりと見てゆっくりとした口調で「こんにちは」と言うとかすかに彼女の口が動いたように見えた。
静かにして、彼女の口元にに耳を近づけると、声にならないような小さい声で「こ・・・こ・・・、こんにちは」と言った。伝わった?と聞くように首を傾げる彼女に俺は大げさに頷くと、安心したようにいつもの笑顔を浮かべた。
またちょっと前のように「好き」と言ってもらえるんじゃないかって期待から、驚きよりも嬉しさのほうが大きくて涙が止まらなかった。
後で戸田さんの母親に聞いたのだけど、俺が初めて病室を訪れた次の日から、率先してリハビリを始めていたらしい。
「言ってくれればよかったのに」というと「そしたらつまらないじゃない」と言った。その口調はどこか懐かしい気がした。戸田さんの話し方に似ていたからかな?思い出すとまた涙が出てきていた。またいつか戸田さんと話せる機会が来るんじゃないかと、自然と疑うこともなく信じていた。
怒鳴り散らして以来あの三人とは距離ができていた。そんなある日胡さんに帰り際に引き止められて「話があるからちょっと来て」と、いつになく真剣な顔で言われた。
受験で皆帰宅が早く、誰もいなくなった教室に俺は胡さんと二人っきりになった。いつもは照雄と君恵がいて四人で話していたから、二人きりで話すのは久しぶりで少し緊張した。
胡さんはなかなか話を切り出さずに、窓の方を見ていて俺に背中を向けたままだった。一分二分と沈黙の時間が流れ、胡さんは何回か深呼吸をして話し始めた。
「なんか久しぶりだね。ちょんとこうやって話すの」少し目に涙を浮かべて、今にも泣き出しそうな顔に無理矢理笑顔をつけたような顔で振り返った。
「そうだな」俺が淡白に答えると間髪いれずに「祐史君最近私のこと避けてるでしょ?私の事嫌いになった?」と一気に言って、胡さんは我慢しきれずに涙を流していた。
こういう状況になると俺は弱かった。一生懸命戸田さんを好きになろうとしていても、やっぱり心の中では胡さんの存在が消えることはなかったから。
「そんなことないよ」と言うと、もうかすれたような声で「避けてるよ・・・私が3ヶ月間どんな思いで過ごしてたかわかる?祐史君ともっと仲良くなりたいのに、嫌われたくなかったのに・・・苦しくて苦しくてどうしたら良いかわかんなくて」告白まがいなことを言われ、目の前で泣き崩れる胡さんに俺は何を言って良いのかわからなくなった。
少し経つと泣き止み「ごめんね。気にしないでね」なんて言われたけど、こんなこと言われて気にしない男などこの世にいるのだろうか?と思った。
しばらく経って君恵から聞いた話だと、この時胡さんは他の男から告白を受けていたという。でも初めて付き合う人は祐史が良いと言っていたんだとか。でも結局胡さんはそいつと付き合い始めた。もし俺がこの時ちゃんと彼女と向き合っていたなら傷つく彼女を見なくてすんだのだろうか?
あなたにいつでも言えると思っていた言葉が言えぬうちに、いつの間にかあなたは遠くに行ってしまって、私はその言葉を心の中に「後悔」と一緒にしまいこんだ。
今あなたの横に愛しい人がいるのなら恥ずかしがらずに伝えて欲しい、「好き」という言葉を。