発症
夏休みが明け、俺と胡さんはいつものように隣の席に並んで座った。周りの人も誰一人として変わった様子もなく、前学期からの席に着いていた。
部活を辞めてから俺は急激に胡さんと親しくなった。いつの間にか俺と照雄と君恵のグループに入っていて、長く連れている友達のような感覚になっていた。
夏休みの間に彼女の日本語はかなり上達していて、痴話げんかや共通のことで笑いあうこともできるようになっていた。俺は彼女の上達の早さに感心させられているうちに、いつの間にか戸田さんのことは頭の隅に追いやられてしまっていた。
戸田さんとはあのデート依頼会う事はなかった。「諦める」なんて言ってたけど、新学期が始まれば今までどおり俺のことを付きまとうだろうなんて勝手に思っていたけど、彼女は一度も俺の前に姿を現さなかった。
少し寂しくも感じたが、俺は胡さんが好きなんだと自分に言い聞かせて、いつの間にか戸田さんの存在は俺の中で小さいものになりつつあった。
でも新学期が始まって一ヶ月くらいが経ったある日、俺の胸に「戸田さん」という名前が刻み込まれるような出来事が突然、怒涛のように起こった。
六時間の授業が終わりいつものように照雄のもとを訪れようとした時、桑畑直弥(戸田さんの元彼氏でバスケ部部長)という人物が俺を訪ねてきた。
「沖原(俺の苗字)いるか?」桑畑は扉近くのヤツにそう聞き、そいつが指した人物・・・まぁ俺を血相を変えてにらみ、ずかずかと俺の方に風を切るように歩いてきた。
180を超える身長の男が血相を変えてこっちに歩いてきているので、俺もただならぬ気配を感じていた。
桑畑は俺のところにたどり着くなり胸倉を掴み、一発俺の頬をグーで殴った。頬を殴られた時の鈍い音と共に俺は地面にへばりついて、桑畑の方を見た。
「何すんだよ!」俺が言うと桑畑は俺の胸倉を掴み「てめぇ早苗の気持ち考えたことあんのかよ!」と間髪いれずに言ったので俺はたじろいだ。
「早苗って・・・戸田さんがどうかしたのかよ」俺の言葉が気に入らなかったらしく、桑畑はまた俺を一発殴った。クラスのヤツは誰も止めに入ろうとせずただ見ていた。
「どうかしたじゃねぇよ!早苗の気持ち考えたことあんのかって聞いてんだよ!」と言って俺の胸倉を掴み思いっきりゆすった。
「そんなの知らねぇよ・・・勝手に好きになって勝手に諦めるとか言って。こっちが気持ちわかって欲しい位だ」と俺が言うと、桑畑は血管が切れそうなくらい血管をこめかみに浮かべて怒りを露にした。
「早苗の気持ちも知らないで勝手なこと言ってんじゃねぇよ!」俺をまた殴ろうとしたとき、ほんのり桑畑の目に涙が浮かんでいることに気付いた。顔面を思いっきり殴られている事から、俺の口はほんのり血の味がした。
「早苗はなぁ・・・早苗は・・・お前のこと本気で好きだったんだよ!諦めたくて諦めたんじゃねぇんだよ!」そう言って桑畑は俺のことをがむしゃらに殴り始めた、恥ずかしがることもなく涙を思いっきり溢れさせながら。
その時誰かが呼びに言ったのであろう体育教官室の先生が桑畑を止めに入った。その時何発も殴られたことによって俺はもう意識が飛んでいた。
目覚めた時俺は病室にいた。俺の隣には桑畑がぐったりとして椅子に座っていた。俺が目覚めたのに気付くと
「さっきは悪かったな。ついカッとなって・・・」また桑畑は少し涙ぐんだ。
「別に良いけどよ・・・理由教えてくれよ」俺は痛む身体に鞭を打って、無理に上半身を立ち上げた。桑畑は何も言わずに頷いて、右手の親指と人差し指で目頭を押さえてから笑顔を作っって
「早苗はホントにお前のことが好きだったんだ。それだけは絶対に忘れないでくれ」と言った。
俺が頷くと「良かった」と言ってまた笑顔をこぼした。
「あいつはお前のこと諦めたくて諦めたんじゃないんだ。仕方なかったんだ・・・」そこで桑畑は我慢しきれずにまた泣いた。
「仕方なかった?」と聞くと「あいつ・・・病気なんだ」と言った。桑畑の言葉が俺の心にずしりとのしかかった。
あんなに元気だったのに?まさか戸田さんがと思わずにはいられなかった。
「俺と付き合ってる頃事故にあって、その時に早苗は頭部外傷を受けて、その時のレントゲンでは何も異常は見つからなくて後遺症も残らないって診断されたんだ。でも三ヶ月経ったある日早苗が突然「私おかしい」って言ったんだ」そこで桑畑は俺に「ごめん」と言って涙を拭き鼻をすすった。
「相手の言っている事が時々わからなったり、考えてることと違うこと言ったりするようになったんだって。それで病院に行ったら早苗は『失語症』って診断されたんだ。」
(失語症は、話すこと・聞くこと、読むこと、書くこと・計算するなどの機能に障害があります)
俺は桑畑の話に真剣に耳を傾けた。
「それで早苗はいっぱいいっぱい泣いて、毎晩のように泣いてた。失語症はうつ病も合併しやすいんだ。早苗は紛れもなくうつ病も合併している状態で、リハビリもあんまりしなくて、俺とも別れるって言ってたんだ。でも俺はそんなあいつを・・・支えたかったから・・・ちょっとわりぃ・・・」
そう言って俺に謝る桑畑はとても熱血漢な優しいやつなんだと俺は感じた。
「そんな時お前に出会ったんだ。野球にひたむきに頑張っていて、いつも笑っているお前に早苗は惹かれたんだ。それからお前と話したいとリハビリも頑張って結構いいとこまで回復してお前と話せるようになった時に早苗が俺に真剣に別れようっていったんだ。今まではいつも恋されてきたから、最後の恋は自分からアタックしたいんだって・・・。時間がなくてあいつ焦ってて無茶してたのかもしれない。野球部の最後の大会の二日前にあいつ悪化してるって言われて入院を勧められたんだ。それから俺のところに来て一晩中泣いて、あいつが・・・お前のこと諦めるって言ったんだ。お前には迷惑かけたくないからって・・・。」
話し終えると桑畑は堪えてきた涙を一気に流し、声を上げて泣いた。ホントに彼女のことが好きなんだ・・・。
「そうだっただ・・・気付けなくてホントにごめん・・・」俺も今までしてきた自分の態度を振り返り、なんて酷いことしたんだという罪悪の念に囚われ、涙を流さずには入られなかった。
それでも桑畑の話がここで終わったと言うことは、戸田さんは最後のデートのことを桑畑には話さなかったのだろう。あの時彼女が俺に伝えることができなかった「好き」という言葉は、もう彼女の頭の中のメモリーには残っていない。そうわかっていたならもっと彼女の言葉に耳を傾けたのに・・・もう何を悔やんでも遅かった。
俺は彼女と話したくて、話したくて、頭よりも先に口が動いていた。
「戸田さんの病室に連れてってくれないか?」
私の求めていた愛はここにあったんだと、何かを失ってからじゃないと気付けない私は
とんでもないばか者で、最後の愛のカウントダウンはすでに始まっていた
失語症について間違いがありましたら指摘お願いします。