泣きそうになった
それから一週間彼女は当たり前のように練習場に姿を見せた。なんでも付き合ってた人に「好きな人ができた」と告げて別れたとか・・・。彼女にとっては彼氏とも別れてまさに背水の陣と言ったところだろうか。それでも俺は彼女のことなど気にも留めなかった。
俺がやっと彼女から解放されたのは抽選会の時だった。さすがに野球部でない彼女が抽選会の為に公欠することはできず、抽選会の会場には姿を見せなかった。
それでも照雄は「どうせ帰ったら練習場にいるよ」と冗談にならない冗談をを言って笑った。考えただけでため息が出た。でも彼女の作るクッキーはあれ以来野球部の中では大好評だった。
どうせ待っていてくれるなら胡さんが待っていてくれれば良いのに。と心の中で俺はいつの間にか呟いていた。
あれからの俺たちはほとんど話すことはなかった(正確には話すことができないになる)。それでも目が合えば互いに会釈をして微笑んだ。それだけで俺の心は大いに高鳴った。まるで中学生のように、あの頃の俺と彼女はとても初々しかった。
正直に言えば日に日に俺の中で胡さんという存在は大きくなりつつあった。いつも俺の為に練習前にクッキー渡してくれたり、会えばべたべたしてきて、好き好きと言ってくれる彼女ではなく、まともに話したこともなくて、ただ会釈するだけの関係の胡さんに気が向いてしまうなんて、この世界の神様とやらはなんてひにくれものなのだろう。
抽選会が終わり学校に戻ると、今日は短縮授業だったので部活で残っている生徒以外は皆帰宅していて、やけに静かだった。
駐輪場に自転車を置いて、早く皆に抽選会の結果を教えてやろうと部室に向かって走っているとき、バス停(うちの学校はバス停が学校の敷地内にあった)の前で不審な動きをしている女子が目に入った。胡さんだ・・・。俺は彼女だと気付いて走るのを辞めた。
「どうした?」振り向いて俺に尋ねた照雄に「わりぃ先行っててくれ。後で行くから。」と言って返事も聞かずに俺は胡さんの方に走っていった。
胡さんは俺に気付くと今にも泣き出しそうな顔をしながら、少し笑顔を見せてくれた。
「どうしたの?」
俺はゆっくりとできるだけ聞きやすいように聞いた。
「かえれない」
ただそれだけ言って彼女は我慢しきれずに泣き始めてしまった。
「だいじょうぶ」
俺がそう言うと「ほんとう?」と言って彼女は俺を見上げた。
そうは言ったものの、彼女が何で、どうやって、どこまで帰るのかがわからない俺にはどうしようもなかった。それでも俺は彼女を見捨てることができずに彼女のそばにいた。
「なにでかえるの?」と聞いても、まだその言葉が通じないらしく首を傾げられて、しかも胡さんは一向に泣き止むことは無かった。誰も助けてくれなくて寂しくてそして怖かったのであろう。
「バスでかえるの?」多分わからないと思いながら投げかけた言葉で思わぬ打開策を見つけた。
「バス!」彼女はそう言って大きく頷いた。そうか英語なら通じるんだ!俺は最近習ったばかりの英語を駆使して彼女とのコミュニケーションを図った。
どこ駅で降りるとか、どこまで行けば大丈夫なんて話をした。それでも彼女の圧倒的な英語力に聞き取れない部分などもあったが、彼女の表情や仕草でなんとなく感じ取った。
そこにやっとバスが来てこれで安心だと思っていると、彼女がふと俺に英語を言った。その英語は長くて聞き取れなくて彼女の方を向くと、不安そうな顔をしていたので、きっと「バスの乗り方がわからない」と言ったんだと思い、俺はバスに先に乗り込み振り向いて手を差し出して「This way, please」というと、彼女は笑顔で「Thank you」と言って俺の手を掴んだ。
それから彼女は緊張も少しほぐれたように見えて、いつの間にか涙も止まっていた。それに俺は練習のことなど忘れて、彼女のことを見ていた。
バスに揺られながら俺たちは慣れない英語で、一生懸命言葉を交わした。互いの想いを伝えるように。
時間が過ぎるのがあまりにも早く、俺の中では5分も経たずにこのバスの終車の駅に着いてしまって、俺たちは顔を見合わせて微笑んだ。
降りるのも彼女が苦労すると思い、通じないとわかってても「おれがはらっておくね。」と言って二人分のお金を払った。
彼女が切符を買う所まで付き合って、改札のところで別れる時
「その電車は二番線だからね。」とわからないといけないので手もピースの形を作って念を押すと彼女は「だいじょうぶ」と笑顔で言った。
「そっか」と俺が手を振って帰ろうとした俺の背中に、彼女が「ありがとう。じゃあね」なんて片言に、でも一生懸命言うから、ちょっとぐっと来た。
俺が学校に戻った時、もう既に六時を回っていた。
着くなりまた君恵に「あの子今日も来てて、祐史まだ来ないよ。って言っても「来るまで待ってる」って言ってずっと待っててくれたんだから少しは話してあげなよ」と言われた。
俺は言われた通り彼女の元に行って「待っててくれたんだ。ありがとう」と言った。すると彼女は今まで見た彼女の中で一番嬉しそうな笑顔を浮かべて(悔しいけど確かに可愛かった)「ううん気にしないで。それより今日も作ってきたんだこれ」と言って多分クッキーが入っている袋を手渡された。
「ありがとう」と言って受け取って、名前ぐらい聞いておこうと思い俺は「名前なんていうの?」と聞くと、彼女は少し驚いたような顔をして(多分当然のように俺が彼女の名前を知っていると思ったのだろう。)「戸田早苗って言うんだ」と笑顔で言った。
「そっかよろしくね戸田さん」そう言うと彼女はまた笑顔で「うんよろしくね祐史君」そう言って俺は練習に戻った。
これが俺と戸田さんが初めてまともに話した瞬間だった。
次の日、胡さんが学校を休んだ。
ただそれだけが気になって俺は高校になって初めて部活を休んだ。何もやる気が起きなかったから。照雄は簡単にごまかすことができたが、君恵は俺の異変に気付いていた。
「なんかあるんだったら相談してね。力貸すから」君恵の言葉は少しずれているような気はしたが、正直嬉しかった。幼馴染ってこともあって普段は恥ずかしくてそんなこと言えないし、言ってもらえないから。
家に帰っても脱力感は拭えなかった。これでは俺が明日学校を休んでしまう。そう思った俺は、少しの間全て忘れるために素振りの練習をした。それでもなんの意味もなく、頭には胡さんがちらついた。
ただ何をするわけじゃなくただ時間だけが過ぎて、一時ごろ明日は胡さんが学校に来て欲しいと強く思いながら俺は遅い眠りについた。
朝俺が教室に入るなり驚きの出来事が起こった。
ドアを開けて入ろうとした俺に胡さんが近づいてきて「おはよう」と言ったから、俺は少し泣きそうになった。
「おはよう」と返すと彼女は通じた喜びからか笑顔がはじけた。
それから胡さんは覚えた日本語を一番最初に俺に聞かせてくれた。どこから覚えたのかわからない方言なんかも言っていた。それに「好き」とも言った。
「それは告白の時に言う言葉」と言うと「告白?」と聞かれたので、必死にない頭を絞りに絞って「プロポーズ」と言うと、顔を赤くしてはにかんだ。この役目を俺が一生担っていけたら良いなと思った。
あの子を好きになったのは同情とかそんなんじゃなくて、いつの間にか惹かれていたからなんだ。
あの頃楽しい時も、嬉しい時も、辛い時も、悲しい時もただあの子が横にいてくれるだけで私は幸せだった。