記憶の欠片
ここからは主人公祐史の回想です。
今から43年も前の4月11日。私にとって忘れもしない鮮烈な出来事が起こった。と言うよりもやってきたと言った方が正しいだろうか。その出来事がやって来なかったらいつもと変わらないつまらない始業式になっていたことだろう。
始業式の前のHRで突然先生は一人の女の子を教室に招いた。入って来た子は、綺麗な顔立ちでスタイルが良かったがどこかおどおどしていて、先生にしきりに目で助けを求めているような姿が可愛らしかった。その子を黒板の前の真ん中に立たせると、先生は紹介し始めた。
「え〜っと今年から転入してきた胡美咲さんだ。え〜っと出身は・・・中国だったよな?」
先生は度忘れしたらしく転入生に確かめた。先生の言葉に何も言葉を発せずただ頷いた。
中国か・・・珍しいな。俺は(この頃はまだ俺と言っていた。)心の中で呟いた。その頃はまだ日中平和友好条約も結ばれておらず、中国との関係が良かったともいえないから。
「そうだ。出身は中国で、日本人とのハーフだ。まだ日本語は片言だけど皆仲良くしてやってくれ。じゃあ胡さんも何か一言」
先生の言葉が聞き取れにくかったのか一瞬戸惑っているように見えたが、一回自分を指差して先生に確かめた後で少し安堵の表情を浮かべ話し始めた。
「えっと・・・これから・・・よろしくおねがい・・・しま・・・す」
覚えたてであろう日本語を間違えないようにゆっくり言う彼女に俺はどこか親心にも似た「頑張れ」と言った気持ちを抱いた。一言が終わると彼女は行き場をなくしたような顔を浮かべ、また先生に目で助けを求めた。
「じゃあ席は・・・
言いかかった時俺はいつの間にか手を上挙げていた。
「ここ・・・空いてます」
いつもの俺だったら考えられない行動だった。周りからの「おっ!?」とかニヤニヤした顔をこちらに向けられたりする冷やかしに恥ずかしさで顔が赤くなったのを感じた。
それでも多分彼女は日本語がわからないなりに、今の俺の行動がわかったのだろう。彼女が安心した顔を浮かべたのを俺は見逃さなかった。それだけで俺はどこか嬉しかった。
「そうだな。じゃあ胡さんあそこの席に座ってください」
手で先生が指すと彼女は少し足早に俺の隣の席に着いた。カバンを横の取っ手にかけてこちらを向いた。俺も彼女の方を向くと
「ありがとう」
彼女は片言な日本語で言った。初めて見た彼女の笑顔つきで。自然と俺も笑顔になってゆっくりとした口調で滑舌良く「どういたしまして」と言った。
なんなんだろうかこの感覚は?あの頃の私が経験もしたことない感覚だった。でもそれがなんなのか深く自分に問い詰めれば理由など容易にわかり得たはずだった。でもそれがわかってしまうことはあの時の私にとっては「不都合なこと」でしかなかったのだ。
でもこれが私と私の初恋のあの子との紛れもない出会いだった。
その日は始業式ということもあって午前中には皆帰宅となった。俺は彼女に「じゃあね」と言うと「じゃあ・・・ね?」と聞き返されてしまった。
なんと説明していいかわからなかった俺は笑顔を浮かべ手を振ると、彼女も笑顔を浮かべて、なんとなくは理解してくれたみたいで俺に笑顔で手を振り返してくれた。
廊下で俺を待っていた幼馴染の照雄(彼と呼んでいた人物)と君恵(彼女と呼んでいた人物)がその一部始終を見ていたらしく、俺が廊下に出るなり照雄に「誰だよさっきの子は?」とニヤニヤしながら聞かれた。
「転入生だよ」と答えると今度は君恵が「転入生には優しいんだね。彼女が可哀想」と白々しく言われた。深くため息が俺から漏れた。こうなるとこいつらは異常にめんどくさい。部室前に着くまでいくら俺が違うと言っても、延々と二人になじられた。
そこで君恵と別れ、俺と照雄は二人「野球部」の部室の中に入った。そこでも俺は照雄になじられ続けた。ここが野球部の悪いとこで、長い上に広まるのが早い・・・。もうどうしようもない。
昼を食べてても、ユニフォームに着替えていても今度は照雄だけでなく、他のやつにまで言われ始めた。「この浮気者!」とか「彼女がかわいそうだ」だとか「手出すの早すぎだ」とか。
それでも俺ら野球部の良いとこはグラウンドには私情を持ち込まない所だった・・・が最近ではそうもいかなくなっていた。
「また見に来てるよ」マネージャーをしている君恵が部室から出てきた俺に真っ先に伝えた。
「またかよ・・・。」と俺は怪訝そうに彼女の方を見ると彼女と目が合い、目が合った瞬間彼女はこっちに駆け寄ってきた。
学校のマドンナと言われているだけあって顔は確かに端正な顔立ちしてて美人だし、スタイルだって悪くない。でも俺は彼女があまり好きじゃなかった。彼女は俺のことすっごい気に入ってくれてるみたいだったけど。
「祐史くんこれ!練習終わったら食べてね。味見はしてないけど、自信はあるから」
まだ俺は彼女の名前も知らないのに、彼女は俺のことを祐史くんと呼ぶ。差し出された袋の中にはクッキーが沢山入っていた。
「ありがと。じゃあね」
受け取ると、すぐに君恵に渡し俺は走り込みを始めた。嫌われるように愛想悪く振舞っていたつもりだったが、彼女にはそのクールさが逆にいいんだとか・・・。
気に入られることは別に悪い気はしない。でも俺はそういうのは逆に冷めてしまう性質だった。まぁそんなこと言ってるから恋の一つもできないんだろうけど・・・。
そんなこと考えながら走っていると後ろから「相変わらずラブラブだね」なんて声が聞こえた。照雄だ。「うるせぇ好きでラブラブしてんじゃねぇよ。」俺は即座に言い放った。
練習も終盤になり、やっと練習に身が入り始めた。彼女の所為で練習の効率はがた落ちだった。
練習が終わり先生の周りを囲むと、一週間後に抽選会があると知らされた。部長である俺と、副部長の照雄は選択の余地なく行くことになる。
解散になるとさっきのクッキーを皆に食べ与えた。皆おいしいおいしいと言うので俺も一つ食べたが、確かにおいしかった。自信あるっていってたしな・・・。でも俺はそんなことあまり気にもせず照雄と君恵と帰り始めた。
もしもあの頃、素直に彼女のことを好きになれていたら私には違う未来が待っていただろう。
暖かい日差しが照り付けていた青春の夏に私は過ちを犯した。
次回も回想です。