1 腰が。
「逃げなさい。王として、私の息子として――」
ランドール王国王子――ルージス・グリューウェルは無意識のうちに寝たまま、天に手をかざしていた。太陽はまだ天頂まで昇ってはおらず、手の間から光がもれることは無く、横から顔にガンガンと照らされている。
――腰が痛い。
彼の、寝起き一発目の感想はそれであった。彼は、地べたに少しの枯れ葉のみを敷いて寝ていた。これが農地の民であったならばそんな繊細な感想は抱かなかったかもしれないが、彼はランドール王国の王子であり、つい先日まで天蓋付のふかふかベッド以外では寝たことが無かった。
王都クロスティアの崩壊より今日で十四日――。
現在王都より南に九十キロの地点。ランドール王国を囲う北、南、東の山脈の内壁となっているオールトの森の中。
王子たちは三日前よりここの樹海に入ったが、木々の密度が高いために地にはほとんど日が届かず、現在追われる身となっている王子達にとってそれは、好条件だ。だが、日の光が届かないことでより一層寒さを感じる。
ルージスも人間だ。適応能力が備わったおり、逃げ初めに較べればましになった。
最初は、寒さで寝ることもできず、痛みでなかなか起き上がることもできず、一日中その痛みを背負い逃げ続けていたのだから。
起き上がり、それに向き合って座っている男も気づいたらしく、男は一礼して、
「おはようございます――ルージス、ちょうど朝飯ができたところです。……しかしまあ、いいご身分ですね」
男は、言葉に皮肉をたっぷり載せ王子へと届ける。
「ああ、王子だからな」
ルージスは、可憐にかわし一つ大きなあくびをしてから、
「……おはよう」
「おはようございます」
男はもう一度繰り返す。
声の主は、マグナス・フロー。
ランドール王国警備隊のトップである首宰に、その持ち前の魔力と明るさと忠誠心そして情の厚さで国王より厚い信頼を持たれて任されていた男である。
王子の眼前には、たくさんの果物が置かれていた。
それだけ。
王子はその視線を果物から主宰へともっていき問いかける。
「おいおい、これは……なんだ?」
「恐らく果実です」
マグナスはにこやかな笑顔で王子に言葉を返す。
ルージスは、顔をこわばらせた。ここ最近よくあることだった。
――恐らく……
「それは分かるぞ、果物だな」
「ええ」
「他には?」
「もちろん、ありませんよ」
王子の顔がだんだんと曇る。
「昨日は、何を食べた、マグナス君」
「果物と……あと、水ですね」
首宰は右手の人差し指をピョコンと立てて、先より続きている笑顔も返し続けた。
が、これが応じの癇に障ったらしく、ルージスの感情は雷雲と化す。
「肉食わせろやあああああああああああああああ!」
立ち上がり、果物を見る。が、そこにあるのは果物であって果物でしかなくて果物以外ではない。
彼らは一四日もの時を果物のみを食べて過ごしてきた。
「私だって、食いたいですよ……」
マグナスの表情は一変して無表情となり、王子のように激昂する元気も無いといった感じでうな垂れる。
彼らは王都崩落からの十四日間それまでの王宮で食べていたものに較べれば食野菜の皮よりも良くないものを食べてきた。そして王子はすべての食事を主宰に用意させ、それにすべて軽く文句を言って来ていたのである。
そして王子はここに来てようやく、マグナスの表情を見て王子も何か思うところがあったらしくとりあえず座り、首宰にやさしく問いかける。
「なあ、最後にいつ肉食べたっけ?」
「あれは私が王に仕えようと決心して警備隊に入ったころのことでした。そのころ私はようやく国王のおかげで事件より立ち直りかけて――」
ここで話が長くなろうと聞いても良いと思った王子であったが、それは昔から毎月一度は聞かされている一話一時間の自伝であり、王にとってそれはちょっとしたトラウマであった。
――すまんが、それはもう聞きたくない。
だが、それを直接伝えるのも今のマグナスにはかわいそうだと思い真実を伝える。
「いや、三週間ぐらい前にウィンズで一緒に羊肉食ったよな?」
三週間前――王子と首宰は国王とその妃と共に英雄への感謝祭とされる『ウィンズ』にて神への献上品とされる羊肉を神の代わりとして式典で食べた。本来首宰であるマグナスが食べるものではないが、式典で料理を作ったコックが作りすぎたためにそのあまりを護衛中にパンに挟んでサンドウィッチとして食した。
――もう味も思い出せないが、ここ十四日で食べたもの合計より栄養価は高かっただろうな。今食べればおいしさで彼らは死んでしまうかもしれない。
「そうでしたっけ……」
「ああ、うまかった」
「そうでした、あのサンドウィッチですね。では、この果物をあのサンドウィッチと思って食べましょう、ルージス!」
パアッと表情が明るくなり、俯いていた顔を上げ王に視線を送る。
「俺が食ったのはステーキなんだがな」
「まあまあ、そう言わずに」
だがそこにあるのは、果物であった。肉ではない。
噛み溢れるのは果汁であって肉汁でない。
「せめて、焼いて焼きリンゴみたいに出来ないものか?」
「無理ですね。王都より逃げてからも毎日何かと魔法を使おうとしてはいますがやはり無理なのです。王子も出来ないでしょう?」
――俺は、逃げたのではない。
ルージスの表情が一瞬曇る。
「そうだな、手を天に翳そうが地に翳そうが火すら生み出せない。剣に込めようとしてもいまいち実感がもてない」
「やはり、月ですかね?」
「まあ、そう考えるのが妥当だな」
今日の日は神紀六〇八年一月二十三日。
それより二十三日前、神紀六〇七年の一二月三一日。
――この世から月が消えた。
一二月三十一日の午後六時八分。太陽が沈み月が輝き始めたころ、月が砕けた。
内部爆発といった感じではなく、端から順に欠けていった。
いや、散って言った。
それより一一七分後、その欠片が地球へと襲い掛かった。人々は各々魔法を使い自己防衛を行ったために死者はでなかった。だが、月を魔力の根源としている人々にとって晴天の日に月が見えないそのことでパニックとなった。しかしそれは、国王自ら警備隊を使った陣頭指揮によってどうにかその混乱は収拾され、民は眠りについた。
そして、その翌日――
――すべての人から魔力そのものが消えた。
零ではなく無に。
もとよりそんなものがなんて無かったかのように……。
「ですが、月と魔法に何か因果なんてありましたっけ?」
「まあ、一説であれば知ってはいる」
「えっ……」
自分の知らないことを自分の半分も生きていない王子が知っていることに首宰は驚いたようだった。それもどうでもいいような雑学などではなく自分たち人間にとっての文明の根源的な大事なものだ。
王子は、そんな首宰の反応には気づかず淡々と話し始めた。
「『トラ』にある国立の魔導図書館があるだろ」
「ええ」
トラとは王都の中央聖堂のことである。議会審議場から国王の住処まで国の運営はすべてそこで行なわれていると言ってもいい。天から見ると宇宙からでも見えるほど大きな正方形となっており、正面より見ると、側面が美しい曲線美となる三角形のようになり、全体としては大きすぎるほどに大きな三角錐を逆さにしたような形だ。その最上階には、この国を作った英雄『サダム・イオ』が民に見せることを禁じた魔道書達が収められている。
ーー死刑に使われる人体の内部爆発を行う魔法。
ーー自らの心臓を止める魔法。
ーー相手の動きを操る魔法。
主としてそこには使えば負のベクトルへと進行する魔法の発動方法が収められている。
そしてそこの扉を開けることが出来るのは、純粋な男の王族のみ。国王は入れるが、貴族出身であるその妃は入ることを許されない。それは王女もしかりだ。
現在入ることの出来る者は、国王とここにいる王子のみ。
――国王が生きていればだが……いや、俺がそれを考えるのはやめよう。
王は、そんな沈んだ心一瞬顔に出してしまったたが、跳ね除け話を続ける。
「俺は、あそこが好きなんだ。あの空気がな。だから良く行く」
「しかしルージス。あそこの内容は外に漏らせばそれは例え国王であっても死刑になるのでは?」
マグナスは王子が心配であり、ポツンとつぶやく。
世界を滅ぼすなどというあからさまなものまでそこにはある。
「まあ、いいだろ。あそこにある魔法を教えるんじゃない。そのぐらいお前が誰にも言わなければ大丈夫だろ」
「秘密はそうやって広がるものですよ」
「じゃ、やめとくか?」
「……っ」
マグナスは、顔を俯かせ苦い顔をし少し迷う。
そして、知りたい欲求に支配された彼は、顔を上げ王子に言葉を告げる。
「我、マグナス・フロー、命をかけて他者への口外はしないと誓います!」
目を大きく開き王子の目を見て軽くそう叫んだ。
「では、教えよう――」
――ばれたなら、そのときだ。逆に今はばれてしまえるような世界に戻りたい……
王子は少し笑みをこぼした後、表情を式典用のまじめな王子にして左右の手の指を組み顔を前に出し、一応周辺にマグナス以外の人間がいないか顔を振り耳で気配を確認してから、語り始める。
「月はな、大きな魔導石とかいうそれ自体がとてつもなく大きな、人類最強といわれていたお前以上の魔力をもつ石の塊なんだ――」