その名は……
何が驚いたって、"忍"という名前にだ。
僕の知る限り"忍"とつくのは、あーやといつも一緒の暮崎 忍こと忍兄さんだ。もちろん僕と苗字が違うので血の繋がりは何もないけれど、行動、言動あらゆることが大人びていて、兄がいたらこういう人がいいな、という憧れも含めて呼んでいた。
けれども今、隣で暴言を吐いた"忍"という言葉。忍兄さん本人じゃないよね? まさかね。
だって、僕が日本にいた時、中学生だった忍兄さんは家柄のことを気にしてか、誰がどうみても真面目一直線な人で。髪型も短くしていて。
ついさっき、あーやと一緒に消えた人は、髪の色は黒で一緒だったけれど……。前髪も肩くらいまでかかる長さを、ラフなウェーブをかけて、いかにも女好きですっていう雰囲気あるし。それに、僕の隣に人がいるのに、関係なしに不埒なことするような人じゃない。常に回りに気を配っているような人だから。
となると、別の"忍"という人なのだろう。うん、きっとそうだ。
「……い、おい、忍を知ってるのか?」
名前だけで色々と考えていた僕に、隣の不機嫌人物が話しかけてきた。
「い、いえ、僕の思っていた人じゃないみたいで」
って、なんで答えてしまってるんだ。答える必要性なんて特にないのに。
「思ってた人? どういう人?」
不機嫌さはどこにいったのか、澄んだ蒼い瞳で首を傾げられてしまった。……ちょ、ちょっとドキってしてしまうんですが。
「え、あ、その。あーやの幼馴染も同じ"忍"っていう名前だったんですけどね」
ドキっとしてしまったからか、自然と言葉が続いてしまった。
「ふーん。幼馴染の忍ね」
腕を組んで考え込まれてしまった。
「そ、そんなに考え込まないでください。僕の勝手な推測だったんで」
「……そいつの苗字、暮崎って言わない?」
閉じていた蒼い瞳が一瞬輝いたように思えた。けれど、そんなことはあり得ないと言い聞かせつつ、暮崎という苗字が意図も簡単に出たので驚いてしまった。
「え? どうして知ってるんですか?」
「知ってるも何も、同じ学校だし」
「あ、え、そうですよ、ね」
そうだ、僕の知る忍兄さんならあーやの傍を離れるはずがないじゃないか。……ん? 離れない?
何かが引っかかった。
「いつも忍は大切に想ってるよ、あやのことを」
にっこりと微笑まれた。あまりにも綺麗でゾッとするほどに。男でこれほどまでに、綺麗だ、と思わせる笑みに出会ったことがない。
「美しいよね、そう想えるのって」
「え?」
言っている意味がわからない。
「まぁ、君にはわからないと思うけど」
肩をすくめて、……鼻で笑われたように感じたけれど、言った本人はこちらも振り返らずに、二階へあがっていってしまった。
一人残され、少し冷静になってみる。
あーやに会える、という嬉しさで来た自分自身を殴ってやりたくなった。
それと同時に――。
三年。
短い期間だと思っていたけれど、確実に僕もあーやも取り巻く環境が変わっている現実に。
過去に思いを馳せたって還れるわけじゃない。頭ではわかっていたけど、突きつけられると悲しくなる。
……あーや、あーや、と今言ってるけど、向こうに住んで一年くらいで、初恋のあーやのことを半分ほど忘れかけた。たくさんの友達できてガールフレンドと呼ぶ子もできたし。結果的にうまく続かなかったけど。
僕でさえそうなんだから、綿菓子のようにふわふわで、守ってあげたくなっちゃうようなあーやに彼氏の一人や二人……。いやいや、同時に二人とか想像できないけど、彼氏くらいはいる年だものね。
あわよくば僕が、という余地はないのかもしれない。
「おい、瑞樹そんな深いため息ついてどうした?」
石けんの匂いが鼻につき、なにげなく顔をあげると、そこには湯上りしたばかりの好青年がいた。肩までかかっていた髪を一つに結わえて。
馴れ馴れしく名前を呼んでほしくない。すぐさま顔を背けて、自分の足元を見つめた。
「……悪いな、変なとこに出くわせて」
「……」
悪いと思うなら最初から玄関に鍵をしとけばよかったのに。
「まさか、こんな早くに来るって知らなかったから」
えぇ、驚かせようと思って来たから、とは言いたくなかった。僕の心の中を知らせてしまうみたいで。
「まぁ、色々思うことはあると思うが、俺や美礼が……と言っても美礼はほとんど来れないんだけど。綾音がこの家で一人っきりで過ごすことがなくなったのはひとまず安心だよ」
「え?」
「――とりあえず綾音のことよろしくな。あぁでも、綾音に変な気、起こしたら……わかってるよね?」
言葉の最後がやけにどすが利いた声色で、思わず顔をあげてしまった。
そこには切れ長の黒い瞳が、鋭く僕に向いていた。先ほどまでの優しげな眼差しは消え、恐ろしく冷たく感じた。
この視線、以前どこかでも受けたような気がする。
どこだったかな?
「聞いてるのか瑞樹?」
もう少しで思い出せそうだったのに、やたら親しげに呼びかける声に嫌気がさす。
「あの、さっきから僕のこと馴れ馴れしく呼んでますけど、やめてもらえます?」
声を荒げて言うと、僕の尊敬している人とはかけ離れている、同じ名前の”忍”という人は固まってしまった。まるで鳩が豆鉄砲喰らったかのように。
「あ、あの。だ、大丈夫ですか?」
心配になり、爪先立ちで彼の目元で掌をひらひらさせながら反応を待った。
「……随分なまいきになったな。っていうか俺のことわかってない?」
僕より背が高いので、少し屈んで顔を覗き込まれた。
「え?」
知ってる人? 黒い瞳をまじまじと見つめてしまう。
「俺だよ、俺。忍、暮崎忍だよ」
ニッと白い歯を覗かせた。ちょ、ちょっと待って。暮崎忍? ――って、
「え――――っ」
何回驚いた声あげてるんだろうと思ったけれど、色んな意味で衝撃過ぎてどうしていいかわからない。