そのいち 2
ここで「やった!万歳!」とか言える人は私の敵です。グーで殴ってやる。
私はよろめきながら近くの椅子に腰掛け、片手を顔に当て俯いた。心配そうに寄ってきたお母さんをもう片方の手で制して、「大丈夫」と言い、水を一杯くれるように頼んだ。
なんで…どうして…?『魔法世界』って…ありえないでしょ!電化製品は魔力で動く魔力製品?魔力で動くなら電気代もかからないからいいよね。夏もエアコン使い放題?エコの時代に贅沢だね。でも洗濯機はちょっと欠陥品かも…いや!問題はそこではなく!
ブンブンと頭を振る。
どうするの?どうしたらいいの?私どうやったら戻れるの?い…いや…落ち着こう。今はちょっと落ち着こう。深呼吸して、まずは水を一杯…
一息ついてから水の入ったコップを手に取り、朝食を作っているお母さんの後ろ姿を見ながら水を口に含むと、
「ぶぼっ?」
飲み込む前に噴き出してしまった。ありえないものを見てしまったからだ。料理をするお母さんの側にある、全長十センチくらいのネズミのぬいぐるみ。そのぬいぐるみが顔を真っ赤にして、口から必死に火を吹き続けている。これこそ珍獣だ。
「お…母さん…?それ…なに?」
「それって…ああ、クーちゃんのこと?何って…うちの使い魔じゃない。この子、那美が子供の頃どこかから拾ってきたのよね。もう家に来て十年になるかしら?早いものねぇ。あ、クーちゃん、ちょっと火が強いわ。焦げちゃう」
私があんな珍獣を拾ってきた?確かに子供の頃、あれに似たぬいぐるみを拾ったような覚えはうっすらとあるけど。でもそのぬいぐるみ、いつの間にか無くなっていたし、もちろん生きて、動いて、火を吹いていた、なんてことはなかった。
「さすが『魔法世界』…ぬいぐるみも動き出しちゃうんだね…」
苦笑いしながら頬杖をついて、ぬいぐるみのことをあらためて見てみた。一生懸命火を吹く姿はとてもかわいい。何と言うか、ほっこりとした気持ちになる。
なんでこうなって、どうやったら戻れるのかわかんないけど、頑張ってるぬいぐるみの姿を見てたら、とりあえずこの世界を楽しんでみるのも悪くないかも…なんて思えてきたから不思議だ。
そうこうしているうちに朝食が出来上がってきた。ご飯に、卵焼きに、焼き鮭に、味噌汁。『魔法世界』といえども、朝の定番メニューに変わりはないみたい。イモリの丸焼きとか出てくるんじゃないかと思ったけど一安心。
朝食を済ませ、着替えるために自室へと戻った。真新しい夏服を手に持ち、体にあてがって全身を写せる大きな鏡の前でクルクルと回ってみる。
「やっぱりいいよね?夏服♪絶対こっちの方がかわいいよね?♪」
「半袖になって、ラインの色が赤から黄色になっただけじゃない」(母親談)なんて意見は一切受け付けません。誰がなんと言おうと、夏服最強なんです。
私はササッと着替えを済ませ、
「よ?し!それじゃあちょっと『魔法世界』の生活でも楽しんでみますか!」
鼻歌を歌いながら自室を出て、玄関へと向かう。
『魔法世界』、まだ戸惑いはあるけど、ちょっと楽しそう!元の世界に戻れるまでこの世界を満喫してやろう!
…なんて気持ちも、玄関を出て半歩ですっ飛んだ。
「いってきまー…す?」
玄関を出たとたん、空を飛ぶ大きな影とともに、もの凄い突風に襲われ、折角セットした髪をクシャクシャにされてしまった。恨みの目線を空にやると、そこには全長十メートルはあろう、巨大な鳥が何羽も飛び交っていた。
あまりにも非常識なその光景を見て、もう笑うしかなかった。
学校に行く途中、あの巨鳥のような非常識な生き物と出会わないかと、辺りを見回しながら登校した。幸いなことに、通学路には怪物は居なかった。どうやらあの鳥は通勤用の乗用鳥らしい。通学途中の生徒が、「乗用鳥に風で髪を乱された」などと愚痴を言っているのを聞いてそのことを知った。
それにしても皆も被害にあってるんだね。乗用鳥反対!の横断幕をもってデモ行進でもしてみようか。行政も通学路上空の乗用鳥を禁止してくれるかもしれない。
ところで、辺りを見回していて気付いたことがある。それはあの鳥以外に非常識なものはなかったということ。でも少し変わっている所も見受けられた。まず自転車が一台も走っていない。そして道路には車は走っているものの、圧倒的に少ない。どうやら車に乗る人より、乗用鳥に乗る人の方が多いようだ。
「でも温暖化防止にはいいかも。車も『魔力機関』で動いてるみたいだし」
問題はあの鳥が出す糞だよね…かけられないよう注意しないと。そういえば、雨でもないのに傘を差してる子がさっき居たな。もしかしたらあれは鳥の糞避けだったのかもしれないな。
そんなことを考えている内に、学校へと到着した。見た感じ元の世界の学校とどこも変わった様子はない。
下駄箱から上履きを取り出して履き替え、教室へ。
でも、私の足は教室の前でピタリと止る。一抹の不安が過ぎったからだ。
「もしクラスの人が全員違ってたらどうしよう…そうなったら私誰の名前もわかんないし絶対怪しまれちゃうよね…記憶喪失だって、病院に連れてかれちゃうかも…」
大の病院嫌いの私には、それは耐えられない。それだけは勘弁してほしい。病院に連れて行かれるくらいなら、牛乳十リットル一気飲みしたほうが百倍マシだ。
私は数分、教室の前で考え、祈るような気持ちで教室を覗いてみた。
不安は杞憂に終わった。
クラスの人は皆、見知った顔ばかりだった。向こうも私のことを知っていて、「おはよう」と挨拶もしてくれる。世界は変わってしまっても、クラスメイトは変わらなかった。
「は?…よかったぁ?…」
私は心底ほっとして、そのまま自分の席へ向かった。
席につくと、梢ちゃんもすぐ登校してきた。そして顔を見て一言。
「那美、顔がアホになってるよ?」
「誰がアホかな?」
私はやんわりと言い返す。朝の挨拶にしてはあんまりな言葉だけど、いつもは腹の立つこのやり取りが、こんなに嬉しいとは!今日は何度言われても、怒らないでこのやり取りが出来るような気がするよ。
「いや、だから顔がアホになってるってば」
「うるさい!早くカバンを置いてきなよ!」
今日は何度言われても、怒らないでこのやり取りが出来る…ような気がしただけで、やっぱり何度も言われると腹が立つ。まったく!朝の挨拶も知らんのか!
「そうそう、その顔、その顔。やっぱりそうでなくっちゃ」
そう言うと梢ちゃんは満足そうに笑いながら、カバンを置きに自分の席へ。その後ろ姿を、私が鋭い視線のナイフで貫いていると後ろから、
「よーっす」
と、誰かが挨拶してきた。ご機嫌ナナメの私は、
「おはよう!」
と、梢ちゃんを睨みながらぞんざいに挨拶を返した。
「おお!何だよ…雑な挨拶だな」
こんな気分の時に挨拶してくるからだよ!まったく!それに後ろから挨拶してくるなんて、そっちも失礼じゃ…
「は?後ろ?」
勢いよく振り返る。
誰も居ない席。入学以来ずっと空席のままのはずの席。そこには…
見知らぬ男子生徒が座っていた。