そのに 9
薄暗い階段を地下へ向かって下りていく。この階段はレストランへ行く人のための階段のようで、一階から七階までのリゼイン社オフィスへは入れないようにシャッターが下ろされていた。今は五階のシャッターの前。「ちょっとこれ開けて」と馬鹿に開けさせてみるが、もちろん開くはずも無い。そもそも手で開ける物でもない。
「ならやらせるなよ」やる方もやる方だと思うけど?
「念のためよ。それにしてもオフィスに行けないのはちょっと不利だよね…逃げ道が階段しかないもん…挟み撃ちされたらアウトだね」
「その心配は無いんじゃないか?多分犯人達は全員地下にいるだろうし、来るとしても下からだけだろ?」
足音が鳴るからと私が指示して脱がせた靴をプラプラとさせながら、馬鹿はのんきに言う。あんたは何もわかってないのね…ふかーい溜息を見せつけるようについて、
「あのねえ…階段はここだけじゃないでしょ?リゼイン社専用の階段もこの向こうにあるんだから。そこから八階に行って、この階段から下りてくるってこともあるでしょ?」
「でもその階段、八階では扉が閉まってたぞ?動力が落ちてる限り開かないんじゃないか?」
確かにそうだけど…
「だったらいいんだけど…奴ら『マグネット』も掌握してるみたいなのよ。詳しくはわかんないけどもしこの建物の動力とかセキュリティーが『マグネット』に接続されてたら、特定の場所だけ動力を復活させることもできるかも知れないじゃない」
「それは…そうかもなぁ…もしかしたらいきなりこのシャッターが開いてドカンとか」
「ちょっと!やめてよ…もう…そうならないうちに早く下に行こう」
シャッターから離れて再び階段を下り始める。馬鹿が先を行き、その後ろを私がぴったりとついて行く。何しろこいつは盾だから。一階また一階と下りるたびに、犯人に近づいていると思うと、緊張感が高まり、心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。
「怖いのか?」
「そ…そんなわけ無いでしょ!」
「いやだって、俺の服の裾を掴んでるし」
そんなわけ無いでしょ!と思ったらホントに掴んでた。無意識って怖い。
「こ…これは、あんたが逃げないように掴んでるだけよ!」
声が震えてる。全く説得力がない。それを見てこの馬鹿は階段の途中で立ち止まり、
「だったら手を掴まれた方が逃げにくいな」
とか言って自分の手を差し出してきた。
私はしばらく差し出された手を眺め、そして…
この馬鹿のお腹を蹴飛ばしてやった。
見事に階段から転げ落ちていく。
「ふざけんな!私は怖くないって言ってんでしょ!」
「くそっ…」馬鹿は起き上がりながら、「何しやがる!せっかく気を利かせてやったのに!」
余計なお世話だっての!私は怖くないって言ったら怖くないんだから!階段を下りきり、馬鹿の前まで行って、
「そんな気を回さなくてもいいのよ!それとも何?そんなに私の手を握りたいって言うの?」
「あほか!だれが好き好んでお前の手を握るか!」
「何よそれ!それじゃあ私の手が汚いみたいじゃない!私はバイキンか!」
「そこまで言ってないだろ!何でそうなるんだよ!」
「じゃああんたはどんな子の手なら握るって言うのよ?」
「そうだな…俺だったらお前みたいにうるさくなくて、乱暴じゃなくて、新聞紙って言っても怒らない奴かな」
無言でこの馬鹿に本日二回目の蹴りをお腹にお見舞い。
「おおお…お前…ちょっとは手加減しろよ…」
とか何とか言って。ホントは痛くもかゆくも無いくせに。私は魔法の教科書を見て、防御魔法ってものがあるのを知ってるのよ。それが証拠に、あんなに派手に階段から転げ落ちたというのに完全無傷。どうせそれを使っていたに決まっている。
「階段から落とされた時は使ったけど、今みたいにふいに攻撃されたら使う暇無いっての!お前もしかして防御魔法は効果が持続するとか思ってないか?」
「え?違うの…?」ゲームでは大体数ターン効果が続くけど?、
「効果はもって数秒だけだ!したがってお前の蹴りのダメージはダイレクトに受けた!」
「…ごめん…」
自分でもびっくりするほど素直にこの言葉が出てきた。
こいつも予想外だったのか驚いた顔で、「え?なんだって?」と、もう一度聞きなおしてきた。
「…だから…ごめん…って…」
いつもの私ならこの馬鹿に対して謝罪の言葉なんて口が裂けても言わないのだが、何でか今の私はあの言葉を発してしまったんだから仕方ない。薄暗いところに居るから気が弱ってるのかも知れない。
「え…っとだな…」
そんな私を見てこいつは戸惑っている。私が謝るのがそんなにおかしいか?一発殴ってやろうかとも思ったが、まあ今のは私が悪いんだからこいつに何を言われても仕方がない。素直に聞こう。
「なーんてな!嘘だよ!」
「は…い…?」
嘘?何が?
「蹴られる前に防御魔法使ってたっての!いやー!いいものが見れた!あんなしおらしい美南はもう当分見られないかもな!うん!今年はもう死んでもいい!」
「ああ、そう。嘘だったんだ。よかったー」(棒読み)
じゃあ、遠慮なく。
本日三発目の、そして本日最強の蹴りを五十路君のお腹にプレゼント。
馬鹿が復活するには数分を要した。よっぽどいいところに蹴りが入ったみたいで本当に痛そうだ。でもじゃあさっき言った嘘って言うのも嘘ってこと?ホントは防御魔法なんて使ってなくて…じゃあ何でそんな嘘を…私のことを気遣って?もしかしてこいつって結構…
幸いにもこの休んでいる間に犯人はここにはやってこなかった。結構な大声を出していたけど私達にも気付いていないようだった。地下での作業に集中しているからか、それとももう、この建物から出て行ったからなのか。
「それじゃあ、そろそろ行くか」
「あ!待ちなさい!」
私はこいつの手をがっしりと掴んだ。
「ここで逃げられても困るからね!やっぱり掴んでおくことにするわ」
「逃げねえよ!ってか、さっきあんだけ言ってたのに結局握るのかよ」
「違うわよ!『握る』じゃなく『掴む』よ!」得意満面!
「どっちでも一緒だろうが…」
「違うの!全然違うの!」そう、全く全然!
「そうかい。んじゃ行くぞー」
「はうっ…待って」引っ張るな!
今いる場所は三階と二階の間の踊り場。この下に行けば立体駐車場にも繋がっている二階入口があり、そこから出られればわざわざ地下まで行くこともない。出たその足で駅前交番に駆け込んで事件解決だ。でも、世の中そんなに甘くはなかった。入口のドアはしっかり施錠されて開かなかった。そのまま一階まで下り、そしてドアを開けようとしたが、やっぱり無理だった。
「それより何?この『本日休業』って書いたコピー用紙は!」
「犯人が貼ったんだろ?他の客が入ってこないように」
それはそうだろうけど、こんなのに騙されてすごすご帰るほうもどうかと思う。手書きでしかも字が滅茶苦茶下手糞。怪しさ満点なのに。『魔法世界』の人はよっぽどのんびりしてるのかしらね?私は貼られた紙を剥がし、びりびりに破いて紙吹雪のように投げた。
「さてと…」
ここから階段を下りればついに犯人達の集まる地下一階。頼りはこいつの魔法だけ。そもそもどれほどの魔法を使えるのかわからないこの馬鹿に頼らないといけないってのが情けない。
「言っとくけどやりあうなんて無理だぞ?一対四十なんて絶対勝ち目がない」
「わかってるって…だけど、見張りの一人や二人くらいなら何とかなるでしょ?って言うか何とかしてよ?それより、動力室ってどこにあるのかな…あんた場所知ってる?」
「知ってるわけ無いだろ!俺は八階のレストランの、ただのバイトだぞ?この会社の人間でもなければ、警備員でもない」
「だよね…」あんたに聞いた私がバカだった。
「とりあえず途中まで下りてみるか…お前、ここで待ってろ。俺が一人で見てくるから」
「え…やだ!置いてかないで!」
こいつの手をぐっと掴む。こんなとこに女の子一人残していくなんて非常識にも程がある!
「大丈夫だって。そこの踊り場から下の様子を見るだけだから」
「私も行くの!」
「…あのさ美南…」
何よ!変なこと言ったら殴り飛ばすわよ?
「お前って結構可愛いとこあるんだな」
変なこと言いやがった!でも殴り飛ばせなかった。
「は…はあ?あんたこんな時に何言ってんの?」ちょっと赤面してみたり。
「いや、学校で見せる顔と今の顔じゃ全然違うと思ってな。学校じゃいつも俺のこと睨んだり殴り飛ばしたり罵倒したりしてるけど、ここではそんなことを…してたな、さっき」いやいやと首を振って「何と言うか、お前がこんな怖がったり、素直に謝ったりすることなんて今まで想像も出来なかったからさ」
悪かったわね。でもそれはあんたにだけの対応よ。他の人にならそんな態度はとらないわ。感謝しなさいよ、特別待遇してあげてるんだから。でも、それっていつからの印象なんだろうか。私が『魔法世界』に来たのは数日前。その前までは『この世界の私』が居たはずで、その『私』も、今のこの〈私〉みたいな感じだったんだろうか。
「ねえ、あんたって入学してからずっとそんな感じで私を見てたの?」
「ああ。でもまあこんなに凶暴だったって知ったのはここ数日だけどな。それまではそんなに話もしたこと無かっただろ?いつも工藤とつるんでて、こっちからは話しかけにくかったってのもあるけどな」
「ふーん」
『この世界の私』の姿が少し垣間見られた気がした。どうやら〈私〉と『私』はそんなに違わないらしい。魔法も使えないし、性格も同じ。違うのはこいつとあんまり話さなかったことくらいか。もしこちらの『私』が〈元の世界〉に行ってたとしても、この〈私〉みたいになんとかやっていそうだね。
「ところで…凶暴ってどういうこと?」
「うわ…覚えてやがった…」
本日三度目のゴスッという鈍い音が響く。こいつは殴られるのが趣味なのか?
「どうだ?気はまぎれたか?」
そのためだけにあんな話をしたの?じゃあどこまでが本気だったのか。「可愛いとこあるんだな」って言ったのは冗談だったのか?それだとちょっと残念…なんて思ったりするもんか。
だけどまあ、お陰で気がまぎれたわ。
「ちょっとだけね」
「そうか、んじゃいくか」
そう言うとこいつは私が殴った時に離した手をまた差し出してきた。やっぱり私の手を握りたいんじゃなかろうか?まあしかたない、『掴む』ことにしてやる。