薪能【1】
凍てつく寒さの中、薪能が始まる。
その中で、出会ったものは…
カフェの重い扉を開けると、暮れなずむ空が朱鷺色から暗い闇へと変わろうとしていた。
温かな家の中からすると、外は大分冷えこんできている。
肩をすぼめて、二人は足早に車に乗りこんだ。
「寒くなってきたね」
「防寒、バッチリよ」
温かな飲み物は、人の心までも温かにするものだ。
一時間余りで、二人の間には、先ほどからの暗い沈黙は消え、お互いの距離が縮まったような温かさを感じていた。
車のエンジンをかけ、薪能の会場がある城跡に急いだ。
開演まで、時間が三十分もなかった。
少し長居をしてしまった。
と、思いながら、義男は逸る気持ちを押さえた。
駐車場がまだ開いていたのが、せめてもの救いだった。
能舞台の会場までは、大手門から石の敷き詰めた広場を抜け、坂を上らなければならなかった。
明りといえば、所々に焚いてある松明の灯りのみだ。
日もいつの間にかとっぷりと暮れ、寒さも先ほど以上に厳しくなっていた。
凍てつく寒さを頬に感じながら、義男と依子は、暗闇に伸びる城壁を眺めた。
「よし、行くぞ」
義男はそう言うと、依子の手をしっかりと握りしめ、坂道を掛け上がった。
依子は、息があがりそうになるのを必死で我慢した。
しかし、義男の健脚には敵うはずもなく、坂の途中で走るのを断念した。
依子が急に止まったので、義男は前のめりに倒れかけたが、持ち直しながら、ゆっくりと、依子の歩調に合わせて歩き始めた。
「ご免、せっかちで」
「いいの、私が運動苦手だから」
握りしめた手が少し汗ばんできた。
「走ったら、暑くなっちゃった」
義男の握りしめた手からするりと抜けると、依子は一歩先を歩き始めた。
見上げると、人々の黒い影が、坂の上の城跡に流れこんでいた。
その群れに流されるように、二人も上へ上へと登って行った。
薪能【2】 へつづく