約束 【1】
朝になっても依子の心は晴れなかった。
しかし、そんな日だが予期せぬことが…
父は急に用事を思い出したと言って、そそくさと出かけてしまった。
もう少し、父と話したかったのにと思ったが、致し方なかった。
依子は昼過ぎには家を後にしなければならなかった。
ピアノの上の母の写真は、帰ってきた時と同じ微笑を依子にかけていたが、母に対する思いは先ほどとは違ったものに変わっていた。
真実と記憶の狭間で、依子の気持ちは手放された風船のようにゆらゆらと漂っていた。
誰もいないガランとした家の空気に、押しつぶされそうな重圧感を感じた。
お母さん、本当にもうどこにも居ないの?
依子の弱々しい声に、柊の白い花がかすかに揺れた。
明くる朝、依子は勢いよくベッドから飛び起きた。
背伸びをしながらカーテンを開け、ベランダに出る。
この二日間ろくなものを食べていなかったせいか、軽い空腹を覚えた。
少し冷たい朝の空気を思いっきり吸い込み、キッチンに向かった。
「今日から展示会だ。よし、頑張るぞ」
自分の気持ちに気合をいれるために、頬を両手で軽く叩いてみる。
朝は軽めの食事で済ませるのだが、今日から五日間の目まぐるしい忙しさを思うと、そうそう落ち込んでなどいられなかった。
野菜ジュースを冷蔵庫から取り出し、空腹を満たすために一気に飲み干した。
昨日久しぶりに寄った実家の近所の八百屋や肉屋など顔見知りの人たちの元気な顔を思い返すと、胸が少しだけ熱くなった。
産みたての卵の黄身が、プルンとフライパンの上で揺れている。
ハムを焼く香ばしい香りが依子の食欲をそそる。
依子は手際よく朝食の準備を済ませた。
雑穀入りのパンが香ばしく焼け、その上にハムと半熟の卵を乗せて食べるのが子供の頃からの依り子のお気に入りだった。
大きめのカフェオーレボールを抱え込むように持ち、ゆっくり喉に流し込む。
毎日のように繰り返される食事も、まるで一種の儀式のようなものだと依子は思った。
身支度を整えながら、鏡に向かって、化粧を施す。
「誰が見るわけでもないのに」
とつぶやきながら、昨日、神社で会った義男の道着姿を思い出していた。
いつもとは違う義男に出会えたことの嬉しさが、今更ながら込み上げ、顔が綻んでくる。
今日からは、義男のために、綺麗になろう
そう思うと、鏡の中の自分も嫌いではなくなってきた。
時計を見ると、八時を回っていた。
テーブルの上に散らばっていたものを、必要なものだけ鞄の中に投げ入れ、玄関の扉を勢いよく開けた。
約束【2】 へつづく