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二、驚天動地! キグルミオン!

二、驚天動地! キグルミオン!


「おはようございます!」

 仲埜瞳は誰よりも早く事務所にきていた。

 瞳が初めて宇宙怪獣を倒した日から、幾日か経った土曜日の朝だ。

「おはよう。早いわね」

 二番目にやってきたのは桐山久遠博士だった。美佳もかくやという眠そうな半目で、欠伸交じりに事務所に入ってくる。

「土曜日ですから!」

「そう。あら、奇麗にしてくれてるのね」

 久遠は辺りを見回す。ホコリが積もりがちだった部屋が、これでもかと磨かれている。机や床がピカピカに光っていた。

 実際瞳は窓を拭いているところだった。机や床を先に掃除し、今は窓に取りかかっている。そんなところだろう。

「一日の始まりは先ず掃除から! 部屋がきれいだと、気持ちもいいですし!」

 瞳はシャツにショートパンツというラフな姿で、元気にそして軽快に窓を拭く。

「そう…… 感心するわ」

「おはようございます……」

 須藤美佳がやはり眠そうな目で事務所に入ってきた。こちらはいつも通りだ。いつも眠いのか、いつも眠いように見えるだけなのか、瞳にはまだ美佳のことがよく分からない。

「おはよう! 美佳!」

 だが先日の初出動以来、自然と名前で呼んでおり。暇があれば、話をするようになっている。

 美佳はその眠たげな顔から、色々なことに興味無さげに見えた。

 だが着ぐるみやぬいぐるみの話をし出すと、話すのを止めようとしない。どうもファンシーなものが好きなようだ。

 今日は私服で、その服にも小さなぬいぐるみがついている。左の頬に縫い傷のついた、コアラのぬいぐるみだ。ユカリスキーのミニチュアらしい。

 服そのものもリボンとチェク柄の、ファンシーなデザインだった。

「おはよう…… 瞳…… おおっ、机が…… 端末が…… モニターが……」

 美佳は自身の机を前にして、驚きに立ち尽くす。机が、端末が、モニターが――皆光り輝いていた。アルバイトにきて以来、ついぞ美佳が見たことのない輝きだ。

「窓も床もよ。美佳」

 瞳は一通り拭き終わったのか、床にあったバケツを拾い上げる。

「慣れない…… 慣れないわ……」

 美佳は恐る恐るキーボードに手を乗せようとする。もちろんキーボードも磨かれていた。

「滑らない…… 指、滑ったりしない……」

「いやね、美佳! 滑る程奇麗にした訳ないじゃない――キャッ!」

 そう言いながら瞳は自分が床で滑る。滑る程床を磨いてしまったようだ。

「あっ……」

 そう呟く久遠の前を、瞳の手を離れたバケツが放物線を描いて飛んでいく。

 遠心力で得た外向きの力でバケツ内に留まっていた水は、慣性の法則に則ってバケツ一と緒になって飛んでいく。

 そして天井に当たる前に、万有引力に引かれ僅かに落下を始めた。

 だがまだ運動エネルギーを失っていない。位置エネルギーによって落下しつつも、バケツはドアに向かって飛んでいく。ドアは開いていた。

 バケツはニュートン力学に逆らわず、位置と運動量の予測できる範囲内でその向こうに飛び出すだろう。バケツは廊下の向こうの壁に当たり、運動の第三法則――つまり作用反作用の結果、バケツの材質よりも質量が軽く粘度の低い水は、その場でバケツから飛び出しぶちまけられる。

 後は表面張力の原則に従いつつ廊下に広がる、その汚水を見るだけだ。

 久遠はそこまで頭の中で考えたが、もちろんどうすることもできずにバケツを見送る。

 そして久遠があちゃーと手を顔にやった瞬間――

「おはよう」

 まさにそこしかないという坂東士朗隊長の頭の上に、バケツが襲いかかってきた。


「ごめんなさいです!」

「いや…… いい……」

 ずぶ濡れの坂東に、瞳がひたすら頭を下げていた。

 坂東はもちろん今日も、たった今紛争地域から帰還したような迷彩服の軍服を着ている。その軍服が、上も下も水浸しになっていた。

「ずぶ濡れ、床は任せて……」

 美佳が雑巾を絞り、床を拭き出す。

「夏だし、ちょうどいいんじゃないですか、隊長。気化熱が奪われて、いい感じにひんやりできるかもしれませんよ」

「そんな久遠さん。雑巾絞った水ですよ」

「どんな泥水も飲んできた。レンジャー時代に比べれば――」

「ダメですって! 着替えは? ないですよね! どうしよう…… 平日なら学校のジャージがあるのに……」

 瞳はオロオロと辺りを見回した。

「この骨と筋肉の塊みたいな隊長が、瞳ちゃんのジャージを着れる訳ないでしょ」

「大丈夫ですよ! ジャージ、伸びますし!」

「伸びたきり、戻らないかもしれないけどね……」

「意地悪言わないでよ、美佳。あっ! 違う! そのジャージがないの! ああ、どうしたら――」

 瞳はそこで、思いついたように顔を跳ね上げる。

「あっ、そうだ! 今日の訓練用に持ってきた、私の学校指定の体操服が――」

「いや、いい…… 気持ちだけで十分だ……」

「遠慮なさらずに!」

 気が動転しているのか、瞳は坂東が遠慮をした理由に思い至らなかった。

「瞳ちゃん。それ――もう一回警察のお世話になっちゃうから、気持ちだけにしておきなさい」

「そうですか……」

 瞳がしゅんと小さくなる。

「そうですね、隊長。せめて上だけでも、洗って絞ったらどうです」

「そうだな」

 坂東はそう言うと、迷彩柄の戦闘服の上着を脱ぎ始めた。

「私が洗ってきます!」

 瞳はそう言って、両手を差し出す。

「そうか……」

「シャツも! すぐ洗いますから、シャツも脱いで下さい!」

「そうか……」

「セクハラ…… セクハラ……」

 床を拭いていた美佳が、嬉しそうに振り向く。

「む……」

「本気で言ってませんわよ、隊長」

「そうですよ! 私達女子陣は気にしませんから、ズボンも脱いで下さい!」

「それは気にする……」

 美佳が頬を赤らめて顔をそらした。

「いや、ズボンはいい……」

「遠慮なさらずに――」

「瞳ちゃん!」

 久遠は瞳の言葉を遮るように大声を出し、

「瞳ちゃん…… いいから、その上着だけお願いね」

 一転して優しく続けた。


「隊長…… 今の内にこちらをどうぞ」

 瞳と美佳が給湯室に消えたと見るや、久遠は一枚の資料を差し出した。坂東はタオルで上半身を拭いているところだった。

「ああ…… ありがとう。前回の出動の被害状況か…… 死者十二名に、負傷者百七名…… 最初に工場に降りられたのが、痛かったな……」

「ビルやマンションよりはマシだった――そうは思いたいですけどね……」

 久遠は冷め始めたティーカップに口をつけた。そして己の気休めの為に続ける。

「でも、キグルミオン出動後の被害者はゼロですわ」

「そうだな。宇宙怪獣の方は? 十年前と同じか?」

 坂東は机の脇に置いたシュレッダーに、その資料を放り込む。死者が出ているのは、繰り返し報道もされている。だが瞳や美佳に、生々しい数字を見せるのは嫌だった。坂東は資料が裁断されるのを、その必要もないのに最後まで見守った。

「宇宙怪獣の解析は、まだ時間が必要ですわ。私見ですが、前回の『破れの日』と同じ、やはり反粒子・反物質の生命体ですわね」

「そうか……」

「本来なら地表に降り立った時に――いえ、少なくとも大気圏に突入した時点で、大量の物質に接触するはずなのに…… 何故か消えない…… これは科学の敗北なのでしょうか? それとも科学の勝利――新たなコペルニクス的転回なんでしょうか……」

「納得がいかないようだな、博士」

「もちろん…… 地球の危機はもとより、科学の見地から言っても、ガンマ線の一つでも出して、対消滅してくれたら、どんなに楽か……」

 久遠は下唇を噛み締める。

「だがその為のキグルミオン――」

「そのキグルミオンが、一番納得がいきません!」

 久遠はつり目がちな目を更に吊り上げて、八つ当たりのように坂東を睨みつける。

「グルーオンは力の粒子です! 何ですか、あれ? 何で手で触れるんですか! 何故チャックまでつけられるんですか? ダークマターが何で真綿状に、加工されてるんですか? 究極の素粒子はヒモだからですか? ヒモと繊維だから一緒って、どんな超ヒモ理論ですか! 何故『ダークマワター』に放り込んだら、観測問題を回避できるんですか! ていうか、暗黒物質――ダークマターが当たり前のようにあるって、一体どういうことですか!」

「博士……」

「そもそも宇宙怪獣が目指しているのは、『ダークマワター』そのものだというのは本当ですか?」

「それは不確定情報だ。俺も博士と同じレベルでしか、情報は与えられていない」

「何故反物質生命体とでも言うべき宇宙怪獣が、こちら側の『ダークマワター』を必要とするんですか? 反物質に、暗黒物質…… そして未知の超対称性粒子かも知れない、『グルーミオン』…… 分からないことだらけです。上はもっと色んなことを掴んでいるのではないのですか? そもそも何故狙われているはずの『ダークマワター』」を、こんな町中に置いておくのですか?」

「いや…… 落ち着け博士…… 施設の移転は、再三再四上申している。だが、頑としてキグルミオンのことを認めない連中もいる。キグルミオンの重要性を認めることで、通常兵器への予算が削られることを嫌がる政治的な輩もな。奴らは今頃泡を食っているところだろう。キグルミオンの力を、我々はやっと見せつけたからな。これに続いて発言力をつけることが、今の我々にできる数少ないことだ」

「ですが……」

「それに科学的なことは、博士に分からないなら、我々ではどうしようもない…… そうだろ?」

 坂東はタオルで拭きながら、困ったという風についでに頭を掻いた。

「そうですわね……」

 久遠はプッと頬を膨らませて、冷めた紅茶を飲み干した。


「うっわー…… やらかしてもうた……」

 おのれのやらかした失敗に、消えてしまいたい。そう思いながら、瞳はビルの共同給湯室で身悶えしていた。

「気にしない…… 隊長さんなんて、いじってなんぼ……」

 瞳につき合って隊長のシャツを石けんで洗いながら、美佳は嬉しそうに応える。

「でも美佳、坂東隊長ずぶ濡れだったよ!」

「隊長さんはいつも汚れ役…… 毎度あんな感じ、だから瞳も気にしない……」

 二人は一通り水切りをすると、上着とシャツを持って給湯室を後にする。

 そう何歩も廊下を歩かないうちに、事務所にたどり着いた。瞳が気まずそうに、美佳が楽しそうに入っていく。

 坂東は窓の外を見ていた。上半身裸のその背中には肩甲骨がくっきりと浮かんでおり、背筋の筋もはっきり浮き出ていた。日頃から鍛えているのが、一目瞭然の肉体だ。

 久遠は坂東の上半身に興味が湧かないのか、澄ました顔で自分の席でティーカップを傾けていた。

 美佳もその背中を気にせず中に入っていく。二人とは対照的に、瞳はしばし入り口で立ち止まってしまう。

 瞳の目についたのは、その鍛えた体よりも、その皮膚に走っている幾多の傷跡だ。

「どうしたの、瞳ちゃん?」

 入り口で立ち止まって動かない瞳を見て、久遠がティーカップから顔を上げて訊く。

 ティーカップからは湯気が立っていた。一度飲み干して、入れ直したようだ。

「あっ、いえ……」

 瞳は慌てて事務所に入ってくる。部屋が狭いため、美佳とは逆方向から机を回り込んだ。

「坂東隊長…… これ、ドライヤーで乾かしますから……」

「いや、構わん。今日も暑いしな。着ていればすぐに乾くだろう」

 坂東は己の言葉通り、美佳から受け取ったシャツを着ながら応える。

「そうですか」

「うむ。気にするな、すぐに乾くさ」

「……あの、坂東隊長……」

「何だ?」

 坂東はシャツを着る為に、いつもつけているサングラスを机に置いていた。

 瞳は坂東の素顔を初めて見た。それは間違いないと思う。

 だが――

「坂東隊長って、以前お会いしたことがありませんか?」

 瞳は何となくそう感じ、上目遣いで坂東を見上げる。

「ん、どうした? そう言えば――」

 シャツを着た坂東は、瞳から上着を受け取る。

「そう言えば隊長も、そんなこと言ってましたわね。瞳ちゃんが初めて事務所にきた日に」

「そうだな…… そんな気がしたな。昔に一度会ったかもな」

 坂東は瞳から受け取った上着を羽織り、サングラスをかけ直す。そしてそれ以上この話題に興味がないのか、自身の机に座って資料を見始めた。

「……」

 瞳はそんな坂東の顔を、しばらく見つめてから席に着いた。


「どうした仲埜!」

 独立行政法人宇宙怪獣対策機構の地下格納庫で、坂東士朗の怒号が響き渡った。

「はい!」

「お前の着ぐるみ愛は――」

「く……」

「その程度か!」

 坂東の声には容赦がない。叱責するかのように瞳に投げつけられる。

 だがその坂東の姿はこの地下にはどこにもなかった。

 代わりにそこにあったのは――

「このカティから、一本とってみろ!」

 そうくぐもった声で叫ぶペンギン――その笑顔も愛くるしい着ぐるみだった。

「はい! 坂東隊長!」

 応えた瞳の姿もやはり見当たらない。そこにいたのは、猫のキグルミオン――チュウのキャラスーツだ。

 瞳は今、チュウのキャラスーツに入って特訓を受けていた。先程話題に上がった学校指定の体操服を汗に濡らしながら、瞳はキャラスーツの中で躍動する。

「ダッ!」

「ヤッ!」

 ペンギンの着ぐるみが駆け出し、猫の着ぐるみが身構えた。ペンギンの脚は短い。それにもかかわらず機敏な動きで、猫に向かっていく。

 ペンギンが駆ける度に、カチャカチャと金属音がした。まるで拍車でも鳴っているかのようだ。

 ペンギンがその平たい羽を、手刀のように繰り出す。鋭い本物の刃のような一撃だ。その笑顔に似合わない、殺人的な鋭さだ。

「グワッ!」

 チュウがその手刀を避けきれずに、まともに胸板に食らって後ろに飛ぶ。ふわふわでもこもこな猫の着ぐるみが、格納庫の床に転がっていった。

「どうした! このペンギン型キグルミオン――カティは、水陸両用! 陸戦専用の猫型キグルミオンのチュウが遅れをとるとは、いい訳が利かんぞ!」

「く……」

 瞳は直ぐには起き上がれずに、ペンギン型キグルミオン――そのキャラスーツを見上げる。

 強い…… このペンギンは強い――

 戦慄にも似た思いで、瞳はペンギンのカティを見つめる。

 もちろん只のペンギンではない。中に入っているのは、隊長の坂東だからだ。

「瞳ちゃん、しっかり! 確かに陸戦では、チュウの方が一枚上のはずよ! 落ち着いて、相手をよく見て!」

 壁際で見学していた久遠が、両手を口に当てて声援を送る。

 その横では美佳が、一心不乱に端末を操作していた。

 美佳が指を踊らせる度に、周囲を固めたヌイグルミオン達がこれまた踊るように動いた。無言ではあるが、手足を振って声援を送っているようだ。

「キグルミオンは心身模倣外装着! ちゃんと猫に――チュウになり切れ、仲埜!」

「ぐ……」

 そうは言われても、瞳は唸ることしかできない。瞳は十分チュウになり切っている。少なくとも本人はそのつもりだ。

 だがまだまだ上には上がいる。坂東のペンギンを見ていると思い知らされる。

 坂東は確かにペンギンになり切っていたからだ。そう、ペンギンそのものだったからだ。

 どっしりと構えたその立ち姿は、まるで卵を暖める親ペンギンのように揺るがない。

 それでいながら一旦駆け出すや、まるで海中を泳ぐ――いや、海中を飛ぶペンギンのように自由自在に動き回る。

 繰り出される手刀は、その海水を切る羽そのものの鋭さを持っていた。

 坂東はペンギンに――カティになり切っているのだ。それは瞳のそれと、遥かに違う次元のなり切りだ。疑うことすら、坂東はしていないのかもしれない。

「あっ、ちなみにカティって名前なのは、ペンギン過程からね。ストレンジ・クォークがね、一時的にトップ・クォークに変わってWボゾンを放出するの。ものすごく短い時間だけどね。でねその時のファイマン図が、脚を踏ん張っているペンギンに似てるの。だからペンギン過程って言うのよ! 脚を踏ん張っているペンギンよ! かわいいでしょ!」

「はい! てか、それ今何か関係があるんですか?」

 瞳が突っ込みながら立ち上がると、カティが体当たりをかましてきた。

 チュウはとっさに身を翻す。右足を後ろに下げ、右肩を同時に引いた。カティの体当たりをかわし、己の有利な体勢をとろうとする。

 そして狙い通りカティの体を目の前で捉えるや、両の拳を組んで上から叩きつけた。

 だがそれはカティに――いや坂東に読まれていたようだ。カティは無理なくその場で停止すると、体を捻りながら右肘を跳ね上げる。

 自分の両腕よりカティの肘の方が先に己に到達する。そう見てとった瞳は、思わず体をくの字にして避けてしまう。

 だがカティの肘は、チュウのお腹の直前で止まる。

 フェイント――

 とっさに本能で理解した瞳だが、もう遅かった。

 肘を避けくの字に曲げてしまった体は、どうぞ打って下さいと言わんばかりに着ぐるみの顔を突き出していた。

「ガッ!」

 チュウの変わらない笑顔の鼻っ柱を、カティの左翼の突きが襲う。自ら突き出した勢いと、完全に芯を捉えた坂東の力量により、瞳の目の中に火花が散った。

「この!」

 上体をのけぞらされた瞳は、状況を打開しようと左の拳を堪らず突き出す。

 カティはとっさに右の羽を跳ね上げ、そのチュウの拳を防ぐ。その時に見えたのは、がら空きのチュウの鳩尾だ。

 だが坂東は直接そこを狙わない。

 一際大きな振りで、己の左足を振り上げた。

 僅かに目の端に映ったその動作に、瞳は思わず右の手を伸ばして相手の蹴りを防ごうとする。

 そしてそれもやはりフェイントだった。

「ヌン!」

 カティの左の羽が、チュウの鳩尾に突き入れられた。カティの左の脚は、チュウの右手の遥か下で元に戻され床を踏ん張っていた。

 着ぐるみの素材越しに、瞳の鳩尾のそこしかないという一点に鈍い衝撃が走る。

「ぐ……」

 チュウの体が、今度は己の意思に反してくの字に折れ曲がる。

 短い振りで突き込まれたその手刀は、力強いものではなかった。だが正確無比とでも言うべき角度で、それは瞳の内臓に潜り込んでいく。

 そしてくの字に折った瞳が曝していたのは、無防備な首筋だ。

 もちろん着ぐるみの首筋だが、カティは――いや坂東はそれをものともしないようだ。カティは裏拳を放つ要領で、右肩を後ろに引いて体ごと回転する。右の羽を遠心力に乗せ、更に己の筋力を加えてチュウの首筋に叩き込んだ。

「このっ!」

「ほう……」

 瞳が反射的に右手を挙げてその攻撃を防ぎ、坂東は思わず感心の声を漏らした。

 久遠が二人の右手に生じたであろう物理的なネルギーをとっさに計算して、ニヤニヤと笑う。

 壁際では美佳が冷静にキーボードを操作し、それに合わせてヌイグルミオン達が手に汗握るかのように拳を振り回していた。

「――ッ!」

 だが瞳の右手から、瞬時に相手の手の感触が消える。

 代わりにまだ体を折ったままだった瞳の目の前に飛び込んできたのは、己の腰に向かって突き入れられたペンギンの右のつま先だ。

 坂東は右手に伝えた回転の勢いが殺されるや、すぐさまそれを引っ込め、右脚に力を乗せ換えたのだ。

「あまい!」

 坂東のその一言とともに放たれたカティの蹴りに、

「キャーッ!」

 瞳は壁際まで蹴り飛ばされた。


「疲れた……」

 宇宙怪獣対策機構の事務所の机に、瞳は帰ってくるなり突っ伏した。

 坂東による瞳の特訓は、瞳が立ち上がれなくなるまで続いた。いや、もっと続くはずだった。終わったのはお昼の時間だったのと、坂東が所用で出かけなくてはならなかったからだ。

「今日残業だって、言ってましたっけ?」

「そうよ、瞳ちゃん」

 先に席についていた久遠が、作った澄まし顔で応える。無意識に視線をそらしてしまったが、元より机に突っ伏していた瞳には気づかれなかったようだ。

「まさか…… 残業も、訓練じゃないですよね……」

「あはは、違うわよ。お疲れ様ね、何か飲む?」

 瞳が見てないとは知っていつつも、久遠は自身のティーカップを持ち上げながら訊いた。

「栄養ドリンクを…… タウリンが超入ってそうなやつを…… 下さい……」

 瞳は机に突っ伏したままで応える。顔を上げる気力すら湧かないようだ。

「ダメよ。若い内から、そんなものに頼っちゃ」

「でも……」

「はい、レモンティー…… 蜂蜜たっぷり入れておいたし……」

 遅れて事務所に入ってきた美佳が、両手に持ったカップを一つ瞳に差し出した。

「うはっ! 蜂蜜! 元気でそう! でも、ホットなの?」

 瞳は元気を取り戻して顔を上げ、熱さに取り落としそうになりながらカップを受け取る。この夏の最中に、カップは白い湯気を立てていた。

「ふふん」

 美佳は満足そうに鼻を鳴らすと、瞳の隣りの席に着いた。席に着くや否や、目の前の端末に電源を入れる。

 モニターが瞬時につき、ポーズをとるヌイグルミオン達が壁紙で踊っていた。本物のヌイグルミオン達ではなく、そのCGのようだ。

「そう言えば久遠さんって、いつも紅茶ですよね。それもホット」

 真夏に思い切り体を動かした後に振る舞われたホットレモンティーを、瞳は己の息で吹かして冷まそうとする。だが少し口をつけて見たが、直ぐに放してしまった。しばらくはまともに飲めそうにない。

 真夏でも平然とホットをたしなむ久遠を、瞳はその湯気から思い出した。

「そうよ。紅茶の色と香りが好きなの。もちろん味もだけど。何て言うの、カラーとフレーバーが分かるセンスがないと、量子や素粒子は語れないのよ」

 久遠は持参しているのか、机の奥から魔法瓶タイプの水筒を取り出す。中からやはり湯気の立つ紅茶を、自分のティーカップに注ぎ始めた。

「?」

「気にしないで、物理学者の遊びみたいなものよ。目に見えない想像するしかない程小さい世界の成り立ちを、色や香りで表すのよ。グルーオンは量子色力学って言ってね、色に――光の三原色のRGBに例えた考え方で説明されるの。フレーバー――香りも、バリオンやレプトンの世代を言い表すのに使うのよ」

 注いだ紅茶の色に満足げに頷きながら、久遠はその香りを楽しもうと鼻で息を吸う。

「へぇー」

 瞳は全く単語が分からないが、物理を色や香りで表そうとするその感覚に素直に頷いた。

「まあ、その知識も、『グルーミオン』にはなかなか通じないだけどね」

「久遠さんにも、よく分からないですか? その、キグルミオンは?」

 やっと少し冷めた紅茶に口をつけながら、瞳が遠慮がちに口を開く。

「そうよ。とりあえずそうなっているから、深く考えずにそういうものだと思っているの。まるで量子力学のコペンハーゲン派よ」

「? よく分からないです。ヌイグルミオンもそうなんですか?」

 そう言いながら、瞳は隣りの席の端末モニターを覗き込む。

 美佳のモニターの中では、ヌイグルミオン達がそれぞれお茶をしていた。

 美佳は時折端末を操作してヌイグルミオンを動かしながら、自身もそのお茶会に参加しているかのように自分のカップを傾ける。

「ヌイグルミオンはキグルミオンの端切れを流用して、またその予算に紛れ込ませて美佳ちゃんが作ったのよ」

「ええ!」

「しかもキグルミオンだけを作る予算と、ヌイグルミオンも作る予算が全く一緒なの。端切れももちろん余るだけだし、予算は同じなのに仕事だけは作り出したのよ。美佳ちゃんは」

「ほえぇ……」

「ふふん…… さて、お昼お昼……」

 美佳が得意げに鼻を鳴らし、三人がそれを合図にしたかのようにお弁当を取り出した。

 久遠が市販のサンドイッチ、美佳が手作りのお弁当箱だった。

 その二人を尻目に、瞳は筒状の大きなお弁当を取り出した。魔法瓶をそのまま太らせたような、保温機能つきのランチジャーだった。机にドンという音を立てた質量感が、その中身の多さを物語っていた。

「作ったって言っても、もちろん直接制作したんじゃないわよ。予算折衝したり入札にかけたりして、外注したり委託したりしたの。美佳ちゃんのマネージメント能力の賜物ね」

「凄いね、美佳ってば」

「ふふん…… ふんふん、ふふん……」

 美佳は更に上機嫌で鼻を鳴らし、お箸を片手にキーボードを操作する。モニターの向こうのヌイグルミオン達が、同じくお箸を片手に一斉に頷いた。

 CGのヌイグルミオン達も、お弁当にそれぞれ舌鼓を打っていたようだ。

「それとヌイグルミオンは『グルーミオン』を生地に使っているせいか、時折不思議な振る舞いをすることがあるわ」

「不思議? どんなですか?」

「夜中に勝手に…… 仕事が片付いていたり……」

 久遠がいかにも不思議で仕方がないという風に、アゴに手をやりながら呟いた。

「それって小人さんじゃないですか! 本当ですか?」

「さぁ、どうかしら。まあ、何て言うか、そう…… まさに奇妙としか言いようがない『それ』――()『グルーミオン』を使っているのよ、キグルミオンとヌイグルミオンは」

「えっ? 前回と何か説明が違うような」

「いいのよ。着る『グルーミオン』で()『グルーミオン』なのを、誤魔化す為の方便だから、何でも」

 久遠は自嘲気味に瞳から目をそらして、サンドイッチを咀嚼した。

「いいんですか! そんなんで!」

「心身模倣外装着じゃ、お固いでしょ?」

「そうですけど……」

 瞳はお弁当をかき込みながら応える。

 誰よりも量のあったそれは、誰よりも早くなくなっていく。

「着ぐるみにオンするとも、考えては見たんだけど……」

「えっ? 着ぐるみは、インじゃないんですか?」

「そうなのよ。そのせいか、さすがに書類が通らなかったわ」

「通そうとは、したんですね」

 独立行政法人である宇宙怪獣対策機構が通そうとする書類。その書類に記載された冗談めいた専門用語に、管轄省庁の役人がどんな顔をしたかは、瞳は想像すらできなかった。

「ふふん…… ちなみにヌイグルミオンの『ヌイ』は、縫うとは関係ないから……」

「それも無理があるよ、美佳! そこは素直に縫い『グルーミオン』だと言っておこうよ!」

「ヌイとはフランス語で夜――まさに陽のあたらない世界で活躍する、もう一つの『グルーミオン』――ヌイ『グルーミオン』…… ヌイグルミオンとは、そう言う意味……」

「頑張るわね…… でも、とってつけたみたいだよ、美佳」

 瞳は瞬く間にお弁当を平らげた。

「ふ……」

 とってつけた自覚があるのか、美佳は更に鼻を鳴らす。

「でもヌイグルミオンって、凄い数いるよね? どうやって操縦しているの?」

「手足を動かしたりとかの、そういう細かい操縦はしてない…… 指示を出しているだけ……」

「へぇ。どんな風に?」

「『はい、ここ笑うところ』とか…… 『巻きでお願いします』とか……」

 お弁当を食べ終わり、画面の向こうのヌイグルミオンとともに、ごちそう様の合掌をしながら美佳が答える。

「随分とアバウトね……」

 それこそ『ここ笑うところ』だろうかと、瞳は内心思いながら応える。

「さて、時間ね。休憩は終わりよ、瞳ちゃん」

 久遠がサンドイッチを食べ終わり、時計を見てイスから立ち上がる。

「でも…… 隊長も帰ってきてないし……」

「さぼりたいの?」

「えっ? えへへ……」

 図星を突かれた瞳が、ごまかしの笑みを浮かべる。

「大丈夫…… 瞳の相手は、この子達……」

 美佳がそう言って端末のモニターを瞳に向けると、

「へっ? この子達?」

 そこにはファイティングポーズをとるヌイグルミオン達がいた。


「……」

 コアラが無言ですごんでいた。左の頬に縫い傷のあるコアラだ。口に葉っぱをくわえている。コアラなのだから、おそらくユーカリの葉なのだろう。

 コアラはぬいぐるみだ。コアラのぬいぐるみが、格納庫の床の上に仁王立ちしていた。くわえた葉がその余裕からか上下に揺れた。

「く……」

 猫型キグルミオン――チュウのキャラスーツに入った瞳は、そのコアラのすごみを前にして一歩も脚を踏み出せない。

 小学校低学年程の子供の背丈しかないコアラのぬいぐるみ――いやヌイグルミオンに、瞳はその身をすくませていた。

 ここに至るまでに、三度攻撃を跳ね返された。まるで自分の方が、ぬいぐるみをあしらうかのようにあしらわれた。

 ヌイグルミオンは背が低い。

 先ずはとアッパー気味のフックをけん制に瞳が放つと、その背丈の低さを生かして、気がつけば懐に入られていた。体の捌きすら見えなかった。瞳のフックはいとも簡単にかわされたのだ。

 慌てて飛び退き右足を放つと、軽く左手で押さえられた。勢いに乗り切る前の、脚を振り上げた瞬間だった。読まれていたのだ。

 脚を下ろしてその踏ん張りを利用して腰に回転を入れると、瞳は右の突きを放つ。

 だが――

「――ッ!」

 そう、だが気がつけば自身が宙に舞っていた。着ぐるみの体が、ぬいぐるみ程の大きさのコアラに投げられたのだ。

 瞳は慌てて受け身をとって立ち上がった。

 だがコアラの体捌きのすごみの前に、打つ手をあっという間に失った――という訳だ。

「すごい……」

 そう呟いて瞳は美佳の方を振り返る。美佳は机のイスにもたれて、両手を頭の後ろにやっていた。もちろん端末から手を離している。

 自分はヌイグルミオンを操作していない。そう瞳にアピールする為か、こちらに向かってニヤッと笑ってみせる。

「どう?」

 こちらは壁に寄りかかった久遠が、楽しそうに瞳に声をかける。

「どうって……」

「これが、ヌイグルミオンの自律戦闘モード――モデル坂東士朗よ。瞳ちゃん」

「ふふん…… 『勝って!』とだけ指示してある……」

 美佳が嬉しそうに鼻を鳴らす。

 美佳の笑みを合図にしたかのように、コアラが格納庫の床を蹴った。

「く……」

 瞳が身構えると、スッとコアラが視界から消える。

「この!」

 コアラは左に消えた。僅かばかりに視界に映った、陽炎にも似た残像を頼りに瞳はそう判断する。

 本能にも近い反応で、瞳は己の右足を左に蹴り出した。

 だがコアラはもうその位置にはいなかった。チュウの右足を跳んで避け、あまつさえその脚を蹴り飛び上がっていた。

 それは単純な回避行動でもなかった。上ではなく斜め上に飛び上がったヌイグルミオンは、瞳が気がついた時にはもうその眼前にいた。

「痛ッ!」

 ヌイグルミオンが全身に捻りを入れて、キグルミオンの顔に右の回し蹴りを叩きつける。

 体重差のせいか、キグルミオンは倒れない――そうと見たのか、コアラは更に体を捻って左足の膝を折り曲げる。

 コアラの体が空中で一回転し、その左足の裏がチュウの顔面に向けられた。

「――ッ!」

 瞳がコアラの攻撃を悟ったのは、後ろに倒された後だった。左の脚の裏を鼻先にくらい、堪らず瞳は背中から倒れてしまう。

 その瞳の――チュウの上にコアラが馬乗りなった。

 コアラのヌイグルミオンの体重など、たかが知れている。

 とっさにそう判断し、はね除けようとした瞳のノド元に、

「ぐ……」

 ヌイグルミオンの手刀が、先手を打って突き入れられた。


 コアラが床を蹴って、キグルミオンの体から跳んだ。そのまま少し後ろに着地する。

「かは……」

 キグルミオンのチュウが、首を振って立ち上がった。コアラのヌイグルミオンの前に、全てが後手に回ってしまっている。

 敵の素早さが、そして判断の早さが瞳の行動を全て上回っていた。

 その後も瞳はまるで歯が立たない。

 打っては払われ、突いてはかわされ、ふるって避けられる。それでいながら相手の攻撃は防ぎきれない。

 叩かれ、払われ、投げられ、蹴られ、突かれ、自分だけが攻撃を当てられてしまう。

「がは……」

 瞳はキグルミオンの中で、大量の汗ととともにそう呻いた。今は床に四肢を突いて、己の息を整えるだけで精一杯だった。もう一突き鳩尾にでも食らっていたら、チュウの中で吐いていたかもしれない。

「どう…… 隊長さんの力を手に入れたヌイグルミオン――コアラのユカリスキーの実力は……」

 美佳が自慢げに呟く。

「そんなふざけた名前のコアラに……」

「ふふん…… シベリアでやんちゃして、オーストラリアで癒しに目覚めた、ユーカリ大好きな義理人情に厚いコアラ…… それがこの子――ユカリスキーよ……」

「コアラはユーカリが好きなんじゃなくって…… ユーカリしか食べられないの…… てか、何でコアラがシベリアでやんちゃすんのよ…… 何の設定よ……」

 瞳は喘ぎながら、途切れ途切れに何とか言い返す。

「コアラにこんなに…… コケにされるなんて……」

 瞳は目の前で身構えるコアラを見る。左頬の縫い傷は、シベリアでやんちゃしていたころのものかもしれない。口にくわえているのは、やはりユーカリの葉だったようだ。

 そのユーカリの歯を、このユカリスキーというヌイグルミオンは、戦闘中一度も離さなかった。それだけ余裕なのだろう。

「アカシアや、ティートリーも食べるそうよ、瞳ちゃん」

 久遠がまるで、今調べてきたかのような知識をひけらかす。

「物知りですね…… 久遠さん……」

「ありがとう。でも瞳ちゃん。突っ込むところは、そこでいいの?」

「く…… 坂東隊長の力って、ここまで強くはなかったもん……」

 瞳はペンギンのカティに入っていた坂東の動きを思い出す。あの時はここまではやられなかった。マシだったはずだ。瞳は己のプライドの為に、そう反論する。

 実際カティの攻撃は何度か防いだ。ユカリスキーのように、ここまで直接的にはやられてはいないはずだ。

 坂東をモデルにしているこのコアラが、隊長よりも強いのはおかしいと瞳は思った。

「あら、負け惜しみね。これが隊長の本当の力よ…… 体が万全ならね……」

「えっ? 坂東隊長って…… どこかお悪いんですか……」

 瞳の息はまだ整わない。ヌイグルミオンが体力知らずとはいえ、これは完全に後手に回った自分のせいだと瞳は自覚する。

「それはプライベートなことだから、聞きたかったら本人に直接訊いてね」

「はぁ…… でも坂東隊長って……」

「俺がどうした?」

 そこにブーツの拍車を鳴らして、坂東がエレベータから降りてきた。

「あ、お帰りなさい、隊長。ちょうど瞳ちゃんの息が切れて、一息入れていたところでしたのよ」

「そうか、博士。仲埜、ユカリスキーと戦っていたのか?」

「はい……」

 瞳の返事には元気がない。久遠と美佳の言うことが正しければ、ユカリスキーと戦っていたのではなく、この坂東と戦っていたことになる。その本人を前にして、これ以上歯が立たなかった話をしたくはないのだろう。

「そうか。ユカリスキーは強い。だが完璧という訳ではない」

 坂東はそう言うと、美佳の隣りに座る。

「むっ…… ユカリスキーは完璧…… 完璧に隊長さんを、模倣している……」

「そうだ。完璧に模倣しているからこそ、俺の昔の弱さもある」

「昔? 弱さ? 何ですか、隊長?」

「それは自分で見つけろ、仲埜! 須藤くん、トレーニング再開だ!」

「えっ、隊長? もう少し休ませた方が……」

 久遠は医師の立場から、体をいじめ切った瞳の為にインターバルの必要性を説こうとする。

「構わん! 宇宙怪獣は待ってはくれん! 須藤くん、ユカリスキー起動だ!」

「はい……」

 美佳は坂東に応えると、端末のリターンキーを押す。

 ユカリスキーが身構え直した。それはやはりすごみのあるコアラだった。

「く……」

 瞳は強引に息を整え、コアラに――モデル坂東士朗のヌイグルミオンに相対した。やはり相手に呑まれそうになる。

 瞳は相手の隙を探そうと、ユカリスキーに視線を送る。だがまるで攻略の糸口すら見えない。

 そして――

「……」

 ユカリスキーが無言で先に床を蹴った。


 ユカリスキーがチュウに迫る。

「――ッ!」

 瞳は気がつけばコアラに懐に入られ、脚払いを放たれていた。

 慌てて脚払いを跳んで避けたが、それは裏目に出た。跳んでいる脚の裏を、今度は手で払われたのだ。その下から上への衝撃に負け、瞳は着ぐるみの後頭部から床に落ちてしまう。

「この……」

 瞳は直ぐさま起き上がろうとした。その瞳の――チュウのこめかみに、ユカリスキーの右のハイキックが襲いくる。

 ヌイグルミオンは背が低い。ハイキックは威力が最も乗る瞬間に、ちょうど腰を屈めていた瞳の頭部に衝撃を与える。

 瞳は蹴られた勢いを利用して、相手との距離をとろうと派手に床を転がった。

「どうした仲埜! キャラスーツがなければ、今頃気を失っているところだぞ!」

「ぐ……」

 瞳は首を振って立ち上がろうとする。だが思った以上に正確に、頭に打ち込まれたようだ。目の前がくらくらする。

「あれ……」

 瞳はそれでも立ち上がったが、その場で尻餅を着いて倒れてしまう。体が言うこと聞いてくれない。体の芯を抜かれたように、瞳はへろへろと腰を着いた。

「脳しんとうですわ、隊長。さすがに休憩が必要です」

 その様子を見ていた久遠が、少々きつい口調でそう進言する。

「ふん…… 分かった。休憩だ。五分やろう」

「ご、五分…… ですか……」

 瞳が息も絶え絶えに呟きながら、床に突っ伏していく。

「短い時間で、己の呼吸を整えるのも必要な訓練だ。五分で復活しろ」

「はい……」

 瞳は床に手を突いて、己の体の自由を取り戻そうと内心で格闘する。

「隊長さん…… 例の件は……」

 ユカリスキーに『待ってて!』と待機命令を送った美佳が、隣りの席に座る坂東に振り返る。坂東の横顔が見えた。坂東は厳しい視線を、サングラスの脇から見せている。

「ああ、大丈夫だ。事務所に先に置いてきた」

「そうですか、ありがとうございます…… それで、領収書は……」

「これだ」

 坂東が美佳に紙片を手渡す。どこにでもある市販の領収書のようだ。

「むっ…… 金額欄は空白に――と、お願いしたはず……」

「そんな真似できるか! 我々は独立行政法人だぞ!」

「ち…… 使えない……」

「あのな……」

 話し込み始めた坂東と美佳を尻目に、久遠は凛々しい足取りで瞳に近づいていく。

「瞳ちゃん、大丈夫?」

「はい……」

 瞳は着ぐるみを着たまま顔を上げる。

「めまいはしない? 記憶が飛んでいることもない?」

「はい。めまいは直ぐにおさまりました。記憶も大丈夫です」

「そう。痛みは? 頭痛がひどかったら――」

「頭痛もないです。体はそこら中が痛いですけど……」

 瞳はえへへと笑いながら答える。

「そう。脳しんとうが重いようなら、ドクターストップだけど…… 悪いけどそれなら、私も止めないわ……」

 久遠は少し考えるように黙り込むと、

「……『破れの日』って言うのはね、最初科学者が言い出した言葉なの……」

 唐突に話題を変えた。

「?」

「最初はね『対称性の破れの破れの日』って呼んだの。長いし、全部言えても意味が分からないから、しばらくして単に『破れの日』と呼ばれるようになっていったのよ」

「対称性…… 何ですか、それ?」

「この世界は初め、物質と反物質が同数だけ生まれたと考えられているわ。元々対生成という現象でペアで生まれるの、物質と反物質はね。だから同数なの。でも物質と反物質は互いに接触すると、今度は対消滅という現象を起こして消えてしまうの。でねこの理屈で考えると、同数のペアで生まれてくる以上、対消滅が進むと世界に物質なんて残らないはずなの。だけど僅かばかり物質の方が多く残り、反物質はほとんど姿を消したわ。実際その証拠に、ご覧の通り物質は――物質そのものである世界は、歴然たる事実としてここにある。でも世界に物質があるというのは、当たり前のようでいて、ほんの少し前までは対生成と対消滅から考えると、不思議で仕方がなかったのよ」

「はぁ……」

 聞き慣れない単語を並べられて、瞳は大きく首を捻る。

「そこでそれに答えを与えてくれたのが、『CP対称性の破れ』という考え方。三つしか見つかっていなかったクォークが、全部で六つあるはずだと考えて、そうであれば完全に物質と反物質は対消滅しない――その対称性は破れているとする考えね。それ自体は正しいのよ。でもね――」

「?」

 瞳は今度は逆の方向に首をひねった。久遠が今この話をするのと、その話の内容そのものに着いていけないからだ。

「世界は十年前、その『CP対称性の破れ』を破られてしまうの……」

「宇宙怪獣に――ですか?」

 十年前。反物質。その二つの単語から、瞳が想像できるのはそれだけだ。

 久遠は宇宙怪獣の話がしたかったのだ。瞳は同時にそれを悟る。

「そう、反粒子からなる反物質からできた、謎の敵性生命体――宇宙怪獣。反物質がこの世にあること自体は不思議でも何でもないわ。今の科学なら、粒子加速器で作り出せるもの。でも何故物質だらけの世界で対消滅せずにいられるのか? 何故生命体として我々の前に現れたのか? 何故地球に降りてくるのか? 分からないことだらけなのよ」

「……」

「対生成は量子的な真空の揺らぎにより、真空中で常に起こっていると考えられているわ。量子力学を必要とするミクロの世界では、ハイゼンベルグの不確定性原理により運動量と位置は同時に確定できない。これは時間とエネルギーでも言える関係ないの。時間を限りなく小さくすると、エネルギーの方が無限大に大きくなるの。こうやってその不確定性原理を場の量子力学で考えると、極めて短い間なら粒子と反粒子が生まれる程のエネルギーが場に生まれるのよ。まあこの粒子の対は、生まれた端から対消滅しているけどね。生まれては消えていく運命にある粒子と反粒子…… そして『CP対称性の破れ』により、反粒子には生き残る可能性はほとんどない。だけどもしその運命に抗おうとする意思が反粒子にあれば…… 素粒子に意思? 何を言っているの私は……」

 久遠はまたもや途中から、独り言のように呟き出す。

「あの…… 久遠さん……」

「あっ? ごめんなさい。また独り言よ、気にしないで」

「はい」

「でもね、反物質は物質と対消滅してしまうから、そのままにはしておけないのよ。放っておくと、いつ我々を巻き込んで、対消滅してしまうか分からないわ。それに何だがこちらに敵意を向けて、攻めてくるし…… 我々物質側の存在――人類としては、宇宙怪獣は倒さざるを得ないの」

「久遠さん……」

「そしてその宇宙怪獣に唯一対抗できる手段が、このキグルミオンよ。そして心身模倣外装着であるキグルミオンは、中に入る人がとても重要なの。そのキャラクターになりきれる人が必要なの。誰でもいいって訳じゃないわ」

「……」

「だから瞳ちゃんには、私達皆が期待しているの――」

 そう言って久遠は後ろを振り返る。一番期待しているであろう人物は、隣りに座った少女とともにモニターを覗き込んでいた。

「辛いかもしれないけど、頑張ってね」

「……はい……」

 瞳が小さく応えると、

「五分だ」

 坂東がモニターから顔を上げてそう告げた。

 それはきっちりとした、過不足のない五分だった。


「――ッ!」

 猫の着ぐるみが宙を舞った。

 先程の休憩が終わってから、何回目か分からない舞だった。そしてどこから見ても、自分から舞っているようには見えない。弾き飛ばされただけの舞い方だった。

 猫型キグルミオン――チュウのキャラスーツが、もんどりうって床に転がっていった。まるで中に人などいないかのような、無抵抗な転がり方だった。

「どうした! 仲埜!」

「ぐ……」

 床にうつぶせに倒れ込んだ瞳は、まともに体を上げることすらできない。片肘でやっと上体を上げて、苦しげに呻いた。

「隊長…… いくら何でも……」

 一度は続行に合意した久遠だが、さすがにそろそろ限界だと感じていた。

「ヌイグルミオンは、疲れることを知らない…… やればやる程、瞳が不利……」

 美佳が端末のリターンキーに手を置きながら呟く。そのモニターには、ユカリスキーへの緊急停止のアラート『もう止めて!』が映っていた。

 美佳から見ても、瞳は限界だった。指示があれば、直ぐにでもユカリスキーを止めるつもりだった。

「まだだ! まだ――」

「ダメです、隊長! ドクターストップです! 瞳ちゃん、今日はもうお終いよ。美佳ちゃん、キャラスーツから瞳ちゃんを引っ張り出して!」

「はい……」

 美佳の指が端末の上で踊った。いつもより幾分か素早い動きだと、美佳は我ながら思った。

「む…… 博士――」

「いいえ、ダメです! 今度ばかりは医者の言うことを、聞いてもらいます!」

「仲埜! それでいいのか?」

 ヌイグルミオン達が、はぎ取るようにキャラスーツから瞳を引きずり出した。

「……」

 瞳は汗だくになってへばっていた。直ぐには返事ができないようだった。ヌイグルミオンに身を任せながら、学校指定の体操服で引っ張り出された。喘ぐように息をしている。

「いいのよ、瞳ちゃん。さすがにやり過ぎだから」

「いえ…… 私はまだ…… やれます……」

 瞳は絞り出すようにそう言うと、キッと坂東の方を睨んだ。意地だけで返事をしたようなものだった。

 その証拠に――

「やれるのなら、自分の脚で先ず立つことね」

 ろくに立てもしないことを、久遠に指摘されてしまう。

「ぐ……」

 久遠に言われ、瞳は膝に掌を突いて立ち上がろうとする。

 だが膝は笑うばかりで、まともに体を支えようとしない。がっくりと肩で息をしながら、瞳は尻餅を着いて座り込んでしまった。

「仲埜。宇宙怪獣は疲れたからといって、お前の体力の回復など待ってはくれんぞ。スタミナの消費が早過ぎる。もっと持久力をつけろ」

「体力が…… 必要以上に奪われるのは…… 暑いキャラスーツを着ているからで……」

「キグルミオンに乗る以上、それは当たり前だ。着ていることを忘れるぐらい、着ぐるみを――キャラスーツを自分のものにしてみせろ」

「う……」

「隊長。瞳ちゃんは、つい先日初めてキグルミオンに乗ったんですよ」

「隊長さん、ちょっと言い過ぎ…… 瞳が可哀想……」

「俺は仲埜の為に言っているんだ。それにこいつならできる。こいつはまだ、自分の限界を乗り越えていない」

「隊長、期待が大きいのは分かりますが――」

 ――ガンッ!

 と大きな音がして、瞳が床に拳を叩きつけていた。

「私だって…… 私だって――」

 瞳はふらつく脚で立ち上がる。その体は怒りと疲れの両方からか細かく震えていた。

「私だって! 一生懸命やってます!」

 だが瞳は立ち上がるや、逃げ出すように駆け出してしまう。向かった先はエレベータだ。

「あっ? 瞳ちゃん、待って!」

 久遠の制止を振り切り、瞳はあっという間にエレベータに乗ってしまう。

「放っておけ!」

「しかし隊長……」

「あの程度の覚悟で、キグルミオンに乗られるのは迷惑だ!」

 坂東は取りつく島もない。

「しかし少々訓練が――いえ、しごきがきつ過ぎじゃありませんか? まだ高校生ですよ」

「高校生だろうが、何だろうが、宇宙怪獣は待ってくれん。自分の命を、地球の運命を守る為には、泣き言など――」

「でも、瞳…… 泣いてた……」

 美佳がぽつりと呟く。

「ふん…… それがどうした」

「泣いてたわよね、美佳ちゃん……」

 そう呟きながら、久遠は大きく溜め息をついてみせる。

「それが――」

「はぁ、泣いてたわ……」

「泣いてた、可哀想な瞳……」

 ちらちらと坂東を見ながら、久遠と美佳はわざとらしく溜め息をつき合った。

「何だ…… 何が言いたい?」

「いえ別に…… 瞳ちゃん、泣いてたな――って思っただけですわ」

「そうそう…… 瞳、泣いてた…… あんなに芯の強そうな娘なのに……」

「そうは言ってもだな……」

「このままだと…… せっかく隊長にいってもらった買い出しも、無駄になるわね…… どうしたものかしら……」

「領収書の日付も今日…… 日を改めると、事務処理が大変……」

 二人はやはり非難の眼差しで坂東を見る。

「ええいっ! 分かった! 追いかければ、いいんだろ! たくっ!」

 坂東はその視線に耐えられず、堪らずエレベータに向かって歩き出す。

 だがそのエレベータは今まさに、瞳を乗せて一階に向かっているところだった。

「瞳ちゃん、泣いてた…… ううん、泣かせた――だよね…… 美佳ちゃん」

「うん、泣かせた…… 泣かせた…… 大の大人が、高校生を……」

「く……」

 エレベータが戻ってくるまで、坂東は女子二人の冷たい視線に背中を射られ続けた。


 坂東はビルの出口から地上に出るや、慌てて繁華街の左右を見渡した。もちろん坂東は視力に自信がある。

 しかしエレベータの上り下りの時間の分、瞳は先にいっている。それに角を曲がられていたら、見つけるのは厄介になるだろう。

 一刻でも早く瞳の背中を見つけようと、坂東は人ごみの中に目を凝らした。

 ビルの前は土曜の繁華街。その日中。幾多の種類の人々が、街をいき交っていた。

「仲埜!」

「ついてこないで下さい!」

 だが瞳は直ぐに見つかった。元より体力の限界まで体を酷使していた瞳は、幾ばくも距離を稼げなかったようだ。

 人ごみに完全に消える前に、坂東の視界にその背中が捉えられた。

「どうせ私なんか!」

「落ち着け! いいから話を聞け!」

 坂東は街ゆく人をかき分け、走って瞳を追いかける。

 瞳はまだ少々ふらつく脚で走り出した。

 会社員。学生。買い物客。

 誰もがその突然の、二人の男女の追いかけっこと、言い争いに目を奪われた。

 片や汗だくの体操服の女子高生。

 片や迷彩服の軍服のサングラスの男。

 怪しい。うさんくさい。

 そう周りに思われたことに、二人は全く気がつかない。

 実際通行人の内何人かは、警察に電話しようかと懐の携帯電話に手を添えた。

「待て! どこにいく気だ」

「離して下さい!」

 坂東が追いついて瞳の手をとると、瞳は直ぐさまその手を振りほどいた。

「ちょっと…… 何事ですか?」

 たまたま近くにいた会社員風の男性が、あまりに怪しい二人の様子に堪らず声をかける。

「失礼。私は独立行政法人の職員で――」

 坂東はそう言いかけたが、

「本当ですか? 信用できないな……」

 やはり信用してもらえない。

 むしろ勇気をもって声をかけた男性に加勢しようと、周囲の人々が坂東が取り囲み始める。

「いや、これには訳が…… 仲埜、お前からも説明してくれ」

「……」

 瞳が無言でそっぽを向いた。

「……」

 周囲の視線が一際鋭くなり、坂東を容赦なく貫く。

「仲埜! こら――」

 坂東が堪らず声を荒らげようとした、その時――

 ――ゴッ!

 という地響きとともに、不意に地面が揺れた。


「えっ! 地震?」

 瞳はその揺れに、思わず近くの街灯にしがみついた。

 それは大きくはあるが、瞬発的な揺れだった。縦に二、三回地面が揺れると、始まりと同じく唐突に終わる。

「いや、違うぞ――これは!」

 坂東は空を見上げる。内心の焦燥感と戦いながら、その姿を探す。

 ――ゴオオオォォォ……

 姿よりも先に、その存在を知らしめたのは鳴き声だった。

 空気を揺るがして、人々の耳に地鳴りめいた咆哮が届けられる。

「まさか! 隊長!」

「ああ……」

 坂東は空気の振動から、注意を向けるべき先を察知する。

 坂東が改めて首を上空に巡らすと、

「――ッ!」

 ビルの屋上の向こうに、は虫類然とした巨大な宇宙怪獣の頭部が現れた。

「キャーッ!」

 瞳と坂東の周りを取り囲んだ人々が、悲鳴を上げてクモの子を散らすように逃げ出す。それは本能的な逃避だった。

「宇宙怪獣…… そんなバカな…… 自衛隊からは何も連絡が……」

「坂東隊長……」

 だがなまじ知識と義務感のあった二人は、他の人が逃げ出す中、その場で宇宙怪獣を見上げて立ち止まってしまう。

 そして怪獣が何気ない様子で首を振った。

「キャーッ!」

 人々の悲鳴とともに宇宙怪獣は、ビルの屋上を瓦礫の固まりへと粉砕した。

「――ッ!」

 ビルは瞬く間に砕け散る。

 そしてそれは――数多の瓦礫は、凶器と化して二人の頭上に降り注いだ。

 

 大地の揺れは、久遠達がいる地下格納庫でも感じられた。

 軽くホコリをまき散らせながら、格納庫の天井と壁が震えた。久遠と美佳は思わず、格納庫の天井に目をやる。もちろん何かが見える訳ではない。

「何! どうしたの? まさか、宇宙怪獣?」

「外部モニターと接続……」

 美佳がとっさに街に設置された、監視用モニターに画面を切り替える。そこに映っていたのは、ビル群をなぎ倒して直立する巨大なは虫類だった。

「宇宙怪獣です…… もう――地表に…… いえ、ほぼこの真上に到達しています……」

 美佳がいつになく深刻な顔で、モニターから面を上げる。土曜日とはいえ、怪獣が降り立ったのはオフィス街。犠牲者がいるのは火を見るより明らかだ。

 ましてや頭上に降りられてしまっている。美佳でなくても緊張せざるを得ない。

「そんな。監視衛星は何やってるの? 自衛隊からの連絡は、美佳ちゃん?」

「今ありました…… 宇宙怪獣襲撃…… 場所と時間だけ…… こちらで掴んだ情報と、大差ありません…… 向こうも後手に回ったようです……」

「使えないわね、もう! 隊長と、瞳ちゃんに連絡して! すぐ戻ってくるようにって!」

「はい……」

 美佳が端末を打鍵する。

 その机の前で、久遠が苛立たしげに歩き回った。我ながら非科学的だと思いながらも、同じところをいったりきたりしてしまう。

 遅れた情報。タイミングの悪い敵の出現。しかもほぼこの真上に降りられてしまった。

 何よりもう一度現れた――その科学では説明しきれない存在。

 その全てが久遠を苛立たせた。

「それで…… キグルミオンは、何号機を用意しますか……」

「それは、もう少し情報を集めてからよ」

 宇宙怪獣は地表に到達した。瞳が乗り馴れている点から言っても、陸戦用の猫型キグルミオン――チュウが最適だろう。久遠は既に結論を出している。

 だが――

「瞳ちゃん…… 帰ってくるわよね……」

 だが万が一の可能性を考慮し、久遠はキグルミオンの用意をギリギリまで遅らせることにした。

 モニターの中の宇宙怪獣は、何かを探すように首を巡らせている。探しているのは、おそらくここだろう。

 不確定情報として、宇宙怪獣は『ダークマワター』に惹かれると久遠は聞かされている。しかし久遠には結論が出せない。その情報自体が、情報のかく乱を狙った意図で漏れてきているのかもしれないからだ。

「……」

 久遠は地下格納庫の天井を見上げた。 

 今はシェルター代わりとでも言うべきこの地下格納庫が、ひとまずは『ダークマワター』の存在を隠してくれている。

 それでも広大無辺の宇宙の中の、悠久の大地である地球の、まさにここ――独立行政法人宇宙怪獣対策機構の地下格納庫まで特定して、宇宙怪獣は降下してきている。ここを見つけられるのも時間の問題だろう。

「瞳ちゃん…… 隊長……」

 久遠は祈るような気持ちで、二人の帰りを待った。


「キャーッ!」

 瞳達の上空から、砕けたビルの瓦礫が降り注いだ。

「仲埜!」

 坂東はそう叫ぶや飛びかかり、身をすくませていた瞳を押し倒す。

「――ッ!」

 一瞬遅れて、寸前まで瞳がいた場所にビルの瓦礫の山ができあがった。

 怪獣は何かを探しているようだ。自らが壊したビルに興味を示さず、さまようように辺りを歩き出した。

「坂東隊長!」

 瞳は土煙が舞う中、坂東が己の上にうつぶせに倒れていることに気がつく。

 坂東が瞳をかばっていた。瞳を押し倒し、その上に覆い被さって瓦礫から身を守っていた。

「大丈夫か…… 仲埜……」

「はい…… ――ッ!」

 瞳は坂東の脚に目を見張る。その左足は落石を受けたのか、ズボンの膝から下が破けていた。

「そうか……」

 坂東が瞳の上から体を起こし、その横で尻餅を着いて座り込んだ。坂東は投げ出すように左脚を前に出す。まるで自分の意思では、曲げられないかのようだ。

「……」

 瞳が息を呑む。

 瞳がその左脚に見たのは、黒ずんだ坂東の膝と、それを支えるサポーターだった。

 坂東の膝の黒さは、それがたった今できたものだとは思えない。身の内側から壊れており、己の体に染みついてしまったような黒さだ。おそらく古傷だろう。

 瞳は坂東がズボンを脱ぎたがらなかったことと、それを久遠が助けるように発言したことを思い出す。

「坂東隊長…… その……」

 瞳の目は坂東の左膝に釘づけになっている。

 サポーターは左足を補助しているようだ。膝の曲がる方向に、軸のついた器具になっていた。

 だが今の衝撃で壊れてしまったのか、布地から金属質のパーツがむき出しになってしまっている。

「これか……」

 そう応えながら坂東は周囲を見回した。

 自分達以外に、この場で助けがいる人はいないようだ。

「気にするな…… いくぞ……」

 それを確かめると坂東は、左足をかばうように立ち上がる。

「隊長の脚って……」

「ああ…… 昔、やらかしてな…… 今はご覧の有様だ……」

 今度は左足を引きずるように、坂東は歩き出す。左足の膝につけた器具が壊れた今、上手く膝が曲がらないようだ。

「カチャカチャいっていたのは、その器具の方でしたか……」

 瞳はそう言うと、坂東に肩を貸そうとする。

「ああ、実際ブーツの方も鳴っていたさ。まぁ、膝の音を誤魔化す為にかな……」

 坂東は素直に腕を瞳の肩に回した。

「隊長……」

 瞳はなるべく相手の負担を軽くしようと、坂東の腕を力一杯引いてその体を担ごうとする。

「もう体力は回復したのか?」

 その力強い瞳の動きに、坂東は労わるように尋ねる。

「はい」

「返事をする気力はあるようだな。よし、いこう。キグルミオンが待っているぞ!」

「はい!」

 瞳はやはり力強く頷くと、坂東とともに事務所へ歩き出した。


「隊長…… 十年前のあの日――『破れの日』……」

 瞳は坂東に肩を貸しながら、ビルへと一歩一歩向かっていく。

 宇宙怪獣がゆっとりと歩く度に、地面が大きく揺れた。お腹が下から突き上げられるような、全身に響く振動が二人を襲う。

 その揺れの中を、瞳は坂東をかばうように歩く。

「ん?」

「微笑みの巨人が現れましたよね……」

 『破れの日』に突如現れた巨人は、そのアルカイックスマイルから今では『微笑みの巨人』と呼ばれている。

「……ああ……」

「菩薩様のような笑顔で、それでいて強くって…… あれもキグルミオンだったんですか?」

「さあな…… 何故俺に訊く?」

「知っている――かなって、思って」

「あれは宇宙怪獣共々に謎だ。我々の宇宙怪獣対策機構も、近年に発足されたものだ。関係がない。あれがキグルミオンの可能性は――」

 坂東は瞳に肩を借りている。そのため互いの顔はすぐそこにある。

 それでも目を合わせたくないのか、坂東は顔を瞳からそらして答えていた。

「いいんです。どっちでも。微笑みの巨人は大きくって、強くって、それでいて優しくって……」

「優しい? 一度だけ現れただけだぞ。宇宙怪獣を退けたとはいえ、敵か味方かは厳密には分からん」

「はい。でも、私は知っています。微笑みの巨人は優しい人です。笑顔の似合う人です」

「……」

 坂東はまだ顔をそらしたままだ。

「だからキグルミオンじゃなくても、キグルミオンと一緒なんです。いつも笑顔で強くって、そして皆に優しさを振りまくんです。そうキグルミオンは――」

「……」

「皆の希望の星なんです!」

 瞳は意識して面を上げ、目を輝かせて言う。まるで今その微笑みの巨人が、目の前にいるかのようだ。

「そうか…… まぁ、俺には関係がない。あんな笑顔は、俺には――できん」

「隊長さんは確かに、ちょっと笑顔が足りないです。チュウやヌイグルミオン達を見習うべきです。あっ、私でもいいですよ」

「生意気を言う……」

 坂東はやっと首を前に戻した。

「へへ……」

 二人は事務所の入るビルに戻り、瞳がエレベータのボタンを押した。

 だがボタンは反応しなかった。

「そんな…… 止まってるの?」

「この揺れではな…… 仕方がない」

「階段で、降りましょう!」

 瞳はエレベータ横の非常階段の入り口に手を伸ばす。

「それでは時間が……」

 坂東は己の脚を見て、そう悔しそうに呟いた。


「久遠博士…… エレベータは使用不能…… 非常階段を使って帰ってくるとなると、二人は間に合わないかも……」

 美佳が携帯端末のモニターを見つめながら言った。宇宙怪獣の踏み鳴らす衝撃で、辺り一面が揺れている。

 宇宙怪獣対策機構のエレベータといえども、安全の為に最寄りの階に止まって使用不能になっていた。

「そう…… でも私達は、できることをしましょう。美佳ちゃん! キグルミオン一号機――チュウをランチャーから出しておいて!」

 久遠は覚悟を決める。瞳に賭ける覚悟だ。彼女は戻ってくる。きっと帰ってくる。

 だから用意すべきキグルミオンは――チュウだ。久遠はそう信じる。

「はい!」

 美佳が珍しく力強く返事をして、こちらも思いを込めたようにキーを叩く。

 キグルミオンを乗せたランチャーが横滑りを始めた。巨大な機械が動く金属音が、格納庫中の空気を震わせて鳴り響く。

「待たせた!」

 その金属音に負けない音量で、坂東の声が格納庫内に響き渡った。

「隊長!」

 久遠は安堵の声ととともに、非常階段の出口を見る。だが誰もいない。代わり見えたのは、垂れ下がった一条のロープだ。

「隊長! 瞳ちゃん!」

 格納庫の内壁を、坂東がロープを使って滑降してきた。その脇に少々顔を赤らめた瞳を抱えている。

 ロープにぶら下がった瞳と坂東は、滑降の名の通り滑るように降りてくる。階段を駆け降りていれば、こうはいかなかっただろう。

 坂東達は降り始めたゴンドラを追い越して、するすると床を目指して降りてくる。

「隊長! その脚で滑降してくるなんて……」

「どうということはない。仲埜に事務所に戻ってもらった時間はロスしたが、むしろ左足が浮くので、好都合だった」

 坂東は格納庫に着地しながら応える。

「ていうか、こんな長いロープまで、持ってらしたんですね」

 坂東は戦闘服以外にも、自衛隊時代の持ち物が捨てられないらしい。

 初めて瞳を助けた時に、とっさに己のロッカーを開けてロープを取り出した坂東を久遠は思い出した。

 あのロッカーは一度、中身を改めさせてもらわなくてはならないのかもしれない。久遠はそうも思う。

「ロッカーに重火器類とか、隠し持ってらっしゃいません?」

「失礼な。持ってないぞ、そんなもの。君の危なげな薬品類と、一緒にしないでくれ」

「私はちゃんと、危険物取扱者の免許が――」

「美佳、お願いがあるの」

 瞳は床に降りるや話し込む二人を無視して、美佳の下に駆け出していた。

「何? 瞳……」

 端末を操作していた美佳が振り返った。

「ユカリスキーを――モデル坂東士朗で起動して」

「どうしたの、瞳ちゃん? そんな時間はないわよ」

 久遠が瞳と降りてくるゴンドラを交互に見やる。あれが降りてくれば、瞳は直ぐさまキャラスーツに乗り込まなくてはならない。

 今まさに宇宙怪獣に、地表は蹂躙されているのだ。余計な時間などない

「直ぐに済みます。ゴンドラが降りてくるまでに」

「でも…… 瞳はさっき、やられたばかり……」

「大丈夫。やらせて、美佳」

 ヌイグルミオンが訓練の後に脱ぎ捨ててあった、チュウのキャラスーツをわらわらと担いでくる。

「瞳ちゃん…… どうしたの?」

 久遠は瞳の真意が分からない。確かに息も体力も取り戻したようだ。そして自信までも取り戻している。何があったのだろうと思った。

「……許可する。どちらも一発で決めるつもりでやれ」

 坂東は一瞬だけ考えたようだが、瞳の我がままを許すことにする。

「はい」

 瞳はヌイグルミオン達に手伝われながら、素早くキャラスーツを着ていった。

「ユカリスキー、ゴー……」

 美佳の合図に、瞳の手伝いをしていたユカリスキーが飛び退いた。一瞬で距離をとり、睨みを利かすように振り返る。

「こいっ!」

 そして瞳のその呼びかけに応じるように、ユカリスキーが格納庫の床を蹴った。


「ユカリスキーは坂東隊長の万全の時期…… つまり――」

 コアラが格納庫の床を蹴った。跳ぶような勢いで真っ直ぐに、瞳の懐に飛び込んでくる。

「坂東隊長が怪我をする前――そう、若かった頃の模倣!」

 瞳は思い出す。

 カティの攻撃、ユカリスキーの攻撃。今の坂東の攻撃、昔の坂東の攻撃。

 どちらも歯が立たなかった。だが――

「若いですよ! 隊長!」

 瞳はあえて前に出る。遅れを取りに取った相手に対して、むしろ前に出る。

 そしてユカリスキーとぶつかる瞬間、その眼前に己の拳を真っ直ぐ突き出した。

 カティに入っていた坂東の、フェイントを多用した老かいとでも言うべき攻撃。

 そしてその今の坂東よりも一方的に力で押し込んだ、ユカリスキーの――昔の坂東の攻撃。

 そう、二つの違いはその経験だ。

 そしてその経験がないユカリスキーは、向かってきたチュウにやはり真正面からぶつかろうとする。その為に突き出されたチュウの突きを、自身の右手で払おうとした。

「はっ!」

 瞳はその瞬間に右手を引っ込める。フェイントだ。

 ユカリスキーの右手は空を切った。更に踏み込んだチュウが、そのユカリスキーの手を、その勢いと同じ方向に左手で払った。

 自分の力に加勢されたユカリスキーは、一瞬でバランスを崩す。走っているところを左側に払われ、上半身だけ力の方向を変えられてしまう。

 そしてつんのめるように突き出してしまった頭を、

「えいっ!」

 瞳の頭が突き飛ばした。

 ユカリスキーは口にくわえたユーカリの葉をこぼしながら、のけぞるように後ろに倒れていく。

「やったー!」

「むっ…… もう一回……」

 様子を見ていた美佳が、ムキになったように頬を膨らませながらキーを叩く。

 ユカリスキーがユーカリの葉を拾って機敏に立ち上がった。

「へへん。何回やっても同じです」

「な……」

「ほら、二人とも。もう遊びはもうおしまいよ。ゴンドラ降りてきたでしょ」

 呆れる久遠の背後にゴンドラが降りてきていた。

「ぐぅ……」

 美佳は軽く唸るとキーボードを連打し、『次よ! 次!』と指示を送る。

 ユカリスキーを慰めるかのように、他のヌイグルミオン達が一斉に周りをわらわらと取り囲んだ。

 ヌイグルミオン達は『ファイト! オーッ!』と今にも言い出しそうな雰囲気で、円陣を組んでから解散しゴンドラに駆け出す。

「仲埜……」

 ゴンドラに片脚をかけた瞳の背中に、坂東がその名を呼んだ。

 チュウが振り返った。

 その脇で駆けてきたヌイグルミオン達が、やはりわらわらと我先にゴンドラによじ登る。

「大丈夫です。私は――」

 先に昇ったヌイグルミオン達に手を差し伸べられながら、瞳はゴンドラの上に上がる。

 そしてもう一度振り返って、

「私はキグルミオンのチュウ――仲埜瞳です!」

 そう力強く言い切った。


 擬装出撃ビルが、警報音を鳴らしながら瞬いた。

 そのビルは不意に、真ん中から縦に二つに割れる。ビルの正面が巨大な扉になっており、その中は空洞になっているようだ。

 だが今その空洞には、巨大な猫の着ぐるみが収まっていた。

「キグルミオン――チュウ! 仲埜瞳! 出ます!」

 猫型キグルミオン――チュウが、力強い足取りで擬装出撃ビルから出てくる。

 その足下で、久遠が運転するジープが同時に飛び出した。助手席に坂東が、後部座席に美佳がそれぞれ乗っている。

 前回と同じ国道を、巨大な着ぐるみが駆け抜けた。

 直ぐに宇宙怪獣が目に飛び込んでくる。今回の怪獣は、四足歩行のようだ。

 ――ゴオオォォォ……

 チュウの足音に反応したのか、宇宙怪獣が首だけ振り返った。

 その周りでは自衛隊の戦闘機が、形ばかりにミサイルを撃ち込んで旋回している。

 宇宙怪獣はミサイルを意に介さないようだ。うるさそうに首を一度振っただけで、後は無視を決め込むように無反応だった。

 到着が間に合ったのは、戦闘機だけのようだ。前回はいた自衛隊の陸上部隊は、まだその姿が見えなかった。やはり後手に回っているようだ。

 宇宙怪獣が駆けてくるキグルミオンに気がつくと、おもむろに首を捻ってその姿を見やる。

 怪獣は太さの揃った四本の脚で、体の向きを入れ換えた。前後に長いその体が、周囲のビルをなぎ払った。

 その宇宙怪獣の背中には、菱形のひれが生えている。尻尾は長く、四本の刺がその尖端に上向きに伸びていた。

「あれは……」

 瞳はその姿にやはり昔見た図鑑から、ステゴザウルスを想像する。

 だが案の定この宇宙怪獣も、ステゴザウルスもどきのようだ。その証拠に、背びれが怪しい光を放って明滅していた。

 ステゴザウルスもどきの宇宙怪獣が、不意に身構えた。その一瞬の後に、四肢を駆る。

 宇宙怪獣はキグルミオンを目がけて突進した。

「こいっ!」

 瞳はそれを正面から受け止める。だが相手の勢いの方が、瞳の力より上だったようだ。

「ヌオオオォォォオオッ!」

 瞳は気合いを入れて踏ん張るが、アスファルトの道路にヒビを入れて滑っていく。

「強い…… なんて力……」

 瞳は相手の力に舌を巻いた。ずるずると後ろに押されていく。

「く……」

 そのすぐ後ろでは遅れて近づいてきていた久遠が、横滑りするかのようにジープのハンドルを切っていた。

 だがそこはもう、滑ってきたチュウと宇宙怪獣の足下だった。

 ジープはキグルミオンの脚の間を、そして四足歩行の宇宙怪獣の脚の間を抜けて、間一髪難を逃れた。ひび割れたアスファルトで上下に揺れながら、ジープは脇道に逃げ込む。

「久遠博士…… 運転が乱暴……」

 ジープから弾き飛ばされまいと、美佳が端末とシートを掴んで踏ん張る。

「十四の時から転がしてんのよ! 私を信じなさい!」

「十四! どこの国の免許だ、それは? 博士!」

「免許が必要と知ったのは、十六の時でした!」

 久遠は答えになっていない答えで坂東に応じ、そのまま脇道に入る。乗り捨てられていた車の間を、縫うように進んだ。

 反対側の大通りに抜け出るや、交差点でこれまた派手に車を反転させた。

 ジープの三人は止めた車から、キグルミオンを見上げる。

 猫型キグルミオン――チュウは、宇宙怪獣を押し止めようと、両手で相手と組み合っているところだった。

「博士! 仲埜のところに!」

「しかし……」

 久遠は出てきた脇道を見る。キグルミオンと宇宙怪獣の脚が、押し退け合うように乱舞していた。時折乗り捨てられた自動車を踏みつぶしている。

「この道からは無理です!」

 久遠はそう言うと、車を発進させる。別の脇道を探して、元きた方向に車を走らせた。

「く…… 仲埜……」

 坂東は悔しげに唸り、ひとまずは遠ざかっていくキグルミオンを見上げた。


 キグルミオンの体が宙を舞った。左右のビルに頭と脚をぶつけながら、チュウの体が滑っていく。

 ビルのガラスが音を立てて割れた。倒壊こそ免れたが、化粧板やコンクリートがその表面から次々とはがれ落ちる。

 相手の宇宙怪獣は、四足歩行の利点を生かして力押しでチュウに向かってきた。

 最初の攻撃をひとまずは押しとどめた瞳だが、更なる突進を止められずに突き飛ばされたのだ。

「仲埜!」

「瞳ちゃん!」

「瞳……」

 ようやく回り込んだジープから、三人がそれぞれ瞳の名を呼ぶ。ジープの後ろでは、押っ取り刀で到着した自衛隊員が車両から飛び出していた。

「やり過ぎたか……」

 直ぐには起き上がられないチュウの様子に、坂東が奥歯を噛み締めた。

「でも隊長…… キグルミオンは元々立ち上がりにくいですし……」

「いやあれは…… やはり体力の方の問題だ……」

 体力の限界まで訓練させた。瞳は回復したような顔をしていた。瞳ならやれると思った。

 だが坂東の考えは、あまかったのかもしれない。

 力で押してくる相手に苦戦する瞳を見て、坂東は自分が間違っていたかと後悔する。

「隊長……」

 久遠がその坂東の横顔を思わず見つめる。坂東は瞳を一人前に育てる義務がある。その義務感が、しごきとも言える訓練に現れていた。

 坂東は確かにやり過ぎたのかもしれない。無理をし過ぎたのかもしれない。

 だが坂東だけを責めていいようにも、久遠には思えない。

 坂東の義務が瞳を無理してでも育てることなら、久遠の仕事は本当に無理なら止めることだったはずだ。久遠は自分の力不足に、歯噛みする。

 チュウがようやく上体を起こした。

 ――ゴオオォォッ!

 その様子に歓喜したのか、宇宙怪獣が咆哮を上げる。

「仲埜! 無理なら撤収しろ! 俺が代わりに――」

「なっ? 何を言ってるんですか、隊長!」

 左足のサポーターの機能を失った坂東は、車の運転すら久遠に譲っているのだ。キグルミオンに入って戦うなど、できるはずがない。

 驚く久遠の向こうで、

 ――ゴッ!

 立ち上がったチュウに、更に宇宙怪獣が突進した。

「キャーッ!」

 瞳が悲鳴を上げて地面に転がる。

「仲埜!」

「――ッ!」

 坂東が思わず名を呼び、久遠が目をそらしてしまった。

「瞳……」

 美佳はどうすることもできずに、キグルミオンを見上げながら拳を握る。

 だが三人の心配は的中する。瞳はやはり直ぐには起き上がれない。

 その様子を見た宇宙怪獣は満足げに頷くと、距離をとる為にか後ろ歩きで後退し出す。

「仲埜! やはり撤収――」

「嫌です!」

 瞳の声が辺りにこだました。

「だが、その様では――」

「嫌です! 私は…… 私は――十年前のあの日! あの『破れの日』!」

 瞳はそう言って立ち上がる。そして振り返って坂東達の乗るジープを見た。

 いや瞳が見たのは――

「私は微笑みの巨人に助けられました!」

 坂東のその左足だ。

「――ッ!」

 坂東がキグルミオンを見上げたまま固まる。

 久遠がチラリと坂東の横顔を盗み見た。

 驚いている。坂東は瞳の言葉に驚いてる。まるで心当たりがあるかのような驚き方だ。

 久遠は思い出す。思い出したのは、いつか見たあの日の資料映像だ。確かにあの微笑みの巨人の後ろには、逃げ遅れた少女がいた。

「逃げ遅れた私をかばう為に、巨人はしなくてもいい怪我をして――」

 そして瞳も思い出す。巨人がどうして左足を怪我をしたのかを。

「ぼろぼろになりながら戦ってくれたんです!」

 微笑みの巨人は瞳をかばった後、一歩も後ろに退かなかった。

 大人に抱え上げられて助け出されるまで、瞳はずっとその巨人の背中を見ていた。

 不思議と怖いとは思わなかった。巨人は瞳の為に微笑み、頷いてくれたからだ。

「美佳! 避難状況は?」

 瞳は立ちはだかるように、宇宙怪獣に向かって両手を拡げる。

「――ッ! ステージ3レベル9で継続中…… 半径三百メートル以内に一般人が十人いる確率、現状で九・九九パーセント以下レベル…… ダメ、避難が遅れている……」

「そう…… 私の後ろに人がいるのね――」

 瞳は十年前をもう一度思い出す。

 あの時は守られる側だった。今は違う。守る側だ。

 後ろに人を背負う側だ。

 宇宙怪獣が再度突進してきた。距離を取った分、先程より威力のある突進だ。

「――ッ!」

 キグルミオンが正面から受けて立ち、宇宙怪獣とまともに激突する。

 今まで以上に深く道路にめり込んで、チュウの脚がアスファルトをはぎ取った。

 だが――

「私はもう、一歩も退きません!」

 瞳はその言葉とともに、その場で宇宙怪獣を受け止めた。


 宇宙怪獣がまたもや距離を取る。その姿は少し疑問に囚われているように、瞳には見えた。

 会心の突進が止められたのだ。少しぐらいは自信を失ってもらわないと困る。そう思って瞳は、宇宙怪獣を睨みつける。

 体力はやはり限界のようだ。睨みつけたはずの視界が、一瞬ぼんやりと霞んで見えた。

 長期戦は不利――

 瞳はそう判断し、乗り捨てられていた乗用車を両手で一台ずつ拾い上げた。

 そして自分から駆け出す。

 ――グルルゥゥゥ……

 宇宙怪獣が警戒するように唸った。

 瞳は宇宙怪獣に駆け寄るや、その右手を乗用車ごとふるった。

 そのキグルミオン――チュウの右手を迎え撃つように、宇宙怪獣が右から左に首を振る。

 瞳の右手はその宇宙怪獣の首に払われてしまった。

 だが瞳はかろうじて車を手放さない。

 チュウは右手を払われた代わりに、今度もやはり車を掴んだ左手を振り上げる。

 宇宙怪獣はその左手も打ち払おうと、今度は首を左から右に振った。

 その瞬間、宇宙怪獣の眼前で――

 ――ゴッ!

 という大きな音とともに、チュウの両手が爆発した。


 猫型キグルミオンの両手が爆発した。

「猫だまし? フェイントか!」

 そうと見るや、坂東がその意図を悟る。

 それはその古典的で、それでいて相手の本能に直接働きかけるフェイントだ。

「そう! 猫の得意技です!」

 乗用車同士をものの見事に打ちつけて爆発させた瞳が、自慢げにそう叫び上げる。

「瞳、それ逆……」

 猫はどちらかと言うとだまされる方だと、美佳が思わず呟いた。

 しかし効果はあったようだ。思わぬ爆発に衝撃を受けたと勘違いしたのか、宇宙怪獣はのけぞるように上体を持ち上げた。

 その一瞬にステゴザウルスに似た相手の首が、無防備に瞳の前にさらけ出される。

「もらった!」

 瞳はそう叫ぶと車を投げ出し、宇宙怪獣の首筋にしがみついた。相手の首の横に、必死になってへばりつく。

 ――グゥ……

 宇宙怪獣はとっさに首を振る。

「ニャーッ!」

 だが瞳はそのまま両の脚の爪を、宇宙怪獣の脇腹に食らわせる。脚の筋力を全て使った――力の限りの猫キックだ。

 ――ゴオオォォォォオオオオォォォ……

 宇宙怪獣が堪らず身をよじった。

 しかし瞳は離れない。

 宇宙怪獣は首を振り、前脚を掻くように上げる。だが体の構造上、チュウには届かないようだ。

「ニャ、ニャ、ニャ、ニャ、ニャーッ!」

 瞳は暴れる宇宙怪獣から離されまいと、ひたすらに柔らかな腹に猫キックを繰り出す。

 宇宙怪獣は堪らず横倒しに倒れ込んだ。

 キグルミオンがその上に馬乗りになる。

「もらった!」

 そう叫ぶと瞳は、宇宙怪獣の上で身を翻しその長い尻尾を掴んだ。

 

「坂東隊長! SSS8――スペース・スパイラル・スプリングエイトは?」

 瞳のその言葉に、坂東が助手席から後部座席に身を乗り出す。

 美佳がモニターを差し示し、

「四分二十七秒後に、この真上に到達する!」

 坂東はその画面のカウントダウンを読み上げた。

「オッシャーッ!」

 瞳は宇宙怪獣から降りると、その尻尾をこれでもかと振り回し始めた。

「ちょっと、瞳ちゃん! 早いわよ! 時間より先に、目が回っちゃうわよ!」

「大丈夫です! もう、ぐるんぐるんに回してやります!」

「でも、瞳ちゃん! 必要以上に回しても、遠心力は――」

 科学的に瞳を諭そうとする久遠を、

「構わん、仲埜! 思いっきり回してやれ!」

 坂東が真剣な顔で遮った。彼が内心心を躍らせているのが、むしろその真面目な態度から窺い知れる。

「はい!」

 瞳は嬉しそうに返事をすると、更に宇宙怪獣の回転速度を増した。

「瞳、嬉しそう……」

「そうよ! 私は十年振りに、恩を返せたの! だから嬉しいから、ぐるぐる回るのよ!」

 瞳はそう言って更に加速する。巨大な着ぐるみであるキグルミオンのチュウが、嬉々として宇宙怪獣を振り回していた。

「あれ…… ちょっと目が回ってきたかも……」

「ほらっ! 言わんこっちゃないでしょ!」

 久遠がつり目がちな目を、更につり上げる。

「仲埜! 後三十秒だ、根性を見せろ!」

「はい!」

 瞳は脚を踏ん張り、最後の回転を始める。宇宙怪獣は回されるがままだ。チュウに尻尾を掴まれ、前回同様手足を振ってもがいている。

 そして――

「今だ!」

 そして三十秒が過ぎ、坂東が上げたその合図に、

「ダーッ!」

 瞳が宇宙怪獣を空に投げ上げた。

 遥か上空でスペース・スパイラル・スプリングエイトが閃光を発し、

「ほおおおおぉぉぉえええぇぇぇーっ!」

 やはり間抜けな声を上げる瞳の頭上で、宇宙怪獣は一瞬で消滅した。

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