一・五、一旦休憩! キグルミオン!
一・五、一旦休憩! キグルミオン!
キグルミオンのチャックの中にロボットアームが差し込まれた。戦闘を終えたキグルミオンは、出撃した擬装出撃ビルから地下格納庫に格納された。キグルミオンは格納庫の床に降り立つや、その四肢を機器類に拘束された。
伸ばされていたロボットアームの関節が屈折を始める。しばらくすると、その尖端にキグルミオンそっくりのキャラスーツが掴まれて出てきた。
その様子を桐山久遠は、ゴンドラの柵に手を突いて見つめる。
初めての実戦。その成果。そして無事の帰還。何より操縦者の安全。
それらを確認しようと、ついつい力が入って久遠は身を乗り出してしまう。
「お疲れ様。よくやってくれたわ」
キャラスーツの様子が見えると、久遠は心底安堵の息を吐いた。一刻も早く本人の声が聞きたいと、早速声をかける。
「はい」
キグルミオンのチャックの中を満たす、謎めいた黒い物質から出されながら瞳が応える。
久遠はもう一度微笑む。理屈の上では何ともないと分かっていても、やはり生の声を聞くと安心する。
「でも、この黒いの何ですか? 沈むでもなく、浮くでもなく、キャラスーツを包み込んでいましたけど」
キャラスーツはキグルミオンの闇の中から、抜き出されようとしている。それは只光が差し込まない闇ではなく、質量を持った何かだった。
だがチャックから出る際に、瞳はその一部をすくってみたが、まるで何かある感じしない。
「それは黒いんじゃないのよ。全く見えないのよ、瞳ちゃん」
そう、見えないのだ。
「はい?」
キャラスーツが完全に剥き出しになると、直ちにキグルミオンのチャックは閉められた。
自走式のようだ。シャッっというチャックの滑る音がして、金具が下から上へと駆け上がった。
「黒く思えたのは、外部からの光りが差し込まないからよ。今は逆に光を素通りさせているから、全く透明な状態で見えないはずよ」
「はぁ……」
「暗黒物質って知ってる?」
「知りません。何ですか?」
「ダークマターとか呼ばれる物質よ。宇宙に存在しているんじゃないか? もしかするとむしろダークマターの方が多いんじゃないか? って言われている、観測できない未知の物質なの」
「はぁ……」
キャラスーツがゴンドラに降り立つ。久遠の脇に控えていたヌイグルミオン達が、やはり一斉にわらわらと寄ってきた。
「そのダークマターから作った繊維状の…… ううん、ヒモ状の物質――」
久遠は真剣そのものの表情で続ける。
「『ダークマワター』と呼んでいる物質が、この中に詰め込まれているのよ」
「マ? 真綿?」
キャラスーツから顔を出した瞳は、チャックの開口一番そう驚いて振り返る。また何か、どさくさに紛れて駄洒落を言われたような気がしたからだ。
「『ダークマワター』よ。これが一体分しかないから、八体もあるのに一度に一体しか動かせないのよ、キグルミオンは」
久遠は真面目そのものの口調で平然と続ける。
ヌイグルミオンの一体――ウサギのそれが、久遠の白衣を引っ張った。まるで子供が大人の注意を引いたかのように、ウサギは久遠を見上げていた。
「あ、そうね。この子達の中にも、『ダークマワター』は詰め込まれているのよ」
「はぁ」
「それでね。この『ダークマワター』はありとあらゆる電磁波でも見えないから、あることにとても役に立つの」
「あることですか?」
キャラスーツを脱ぎ終わった瞳は、その着ぐるみ状の操縦席に改めて向き合った。
ヌイグルミオンがキャラスーツの、四肢と背中を支えて持ち上げている。その為逆さを向いたキグルミオンの頭が、瞳の目の前にあった。
「じゃあね、チュウ。また、頑張ろうね」
瞳がそう言って手を振ると、キャラスーツがヌイグルミオン達によってわらわらと運ばれていった。その姿はやはり、ぬいぐるみが着ぐるみを運んでいるようにしか見えない。
ヌイグルミオンに担がれた猫のそれは、支えられていない頭をばたばたと揺らして奥へと消えていった。
「もっと大事に運んでよ……」
「はは、あれだけのヌイグルミオンを、美佳一人で操作しているんだもの。仕方がないわ。でね、『ダークマワター』が必要な話なんだけど…… そうね、シュレーディンガーの猫の話は知っている?」
久遠が踵を返した。向かう先は降りた時に使ったエレベータだ。事務所に戻るのだろう。
「いえ。何ですか?」
瞳が慌てて久遠の後を追う。
「観測するまではどういう状態になっているのか分からない、量子的な振る舞いをするものを説明する――猫を使った思考実験よ。キグルミオン一号機が猫なのは、この思考実験にあやかっているのよ」
「へぇ……」
「量子というのは、粒のようにも、波のようにも振る舞うものなの。そしてそういう振る舞いをする、原子や電子のようなものをそう総称するのよ。それでねそれら量子の位置や運動量がどこにあるか、どうなっているかは、観測してみるまでは分からないの。観測するまではどこにあってもおかしくない存在なの。そして更に言えばその確率が収縮する――つまり量子の振る舞いが確定するのは、それがまさに観測された時なの。何て言うか覗いて見た時ね。見られた! じゃあここ! ってな感じね。ミクロな――極小の世界では、そういう不思議な振る舞いが許されるのよ」
「はぁ……」
瞳は全く話についていけない。同じような気の抜けた返事をしてしまう。
「この観測が行われるまで、どのような状態もあり得る――そういう状態を分かりやすく説明するのが、シュレーディンガーの猫の思考実験ね。その実験はね、猫を箱に入れるの。その量子の振る舞いが、中の猫の生死を決める装置と一緒に閉じ込めるの。可哀想だけど思考実験だから勘弁してね。それでね、猫の生死を決める装置が量子の振る舞い――確率に左右されるのなら、猫の生死もやはり量子の確率に左右されるのでないか――というお話なのよ。箱の中を覗いて見るまでは生きているか死んでいるか分からないし、もしかすると生きていると生きていない――その重ね合わせの状態の猫を発見するのかもしれないの。量子は一度にどのような状態でもとり得るからね」
「?」
瞳はやはり話についていけない。
久遠がエレベータのスイッチを押した。
「不思議でしょ? 見る――観測するという行為が、ミクロの物質に影響を与えるのよ。それで更に言うと…… 猫は観測しては――見てはいないのか? 猫の代わりに友人に入ってもらったら、誰が観測しているのか――っていう問題も引き起こすわ。観測問題って言うんだけど、これがまた厄介でね」
「はぁ……」
瞳は気の抜けた返事しかできない。
「あはは、分からないって顔してるわね。まあいいわ。とりあえず、猫だ、箱だとごちゃごちゃ考えるぐらいなら、いっそのこと一緒すればいいんじゃない? ていう大胆で馬鹿げた発想で作られたのが、このキグルミオンよ」
「はい?」
エレベータが下りてきて、ドアが開いた。久遠が先に入り、瞳が後に続く。ドアが閉まる前に、ヌイグルミオン達が楽しげに手を振ってくれたので、瞳は力一杯振り返した。
「キグルミオンは実を言うと、三層構造になっているの。一番大きい実際に敵と対するアクトスーツ。そのすぐ下にある、ほぼ同じ大きさのベーススーツ。そして瞳ちゃんが着るキャラスーツよ。それぞれAとBとCの頭文字を持っているから、その順番で覚えてね」
「へぇ…… でも、どうして三層構造なんですか?」
「そうね先ずは、キグルミオンがキグルミオンの中に入ることで、見られていない状態を作り出すの。『ダークマワター』の力を借りてね。『ダークマワター』はアクトスーツと、ベーススーツの間にも満たされているの。その上でキャラスーツのキグルミオンと、ベーススーツのキグルミオンを互いにもつれている――一方が一方の状態にどんなに離れていても影響する――そういう状態にしてあるのよ。量子エンタングルメントという、双方が互いの状態に影響を与える状態にしてあるの」
エレベータ内で上への加速が始まると、久遠が嬉しそうに膝を折る。確かに下向きの力が働いているが、膝を折る程の強さはない。久遠はわざとこの加速を楽しんでいるようだ。
「量子は見られて確定する。でも見られていないのなら、確定していない。ありとあらゆる電磁波に反応しない『ダークマワター』の中なら、密封してしまえば全く見られることがない。このへ理屈――失礼。この強引な理屈で、キャラスーツのキグルミオンは、『ダークマワター』のお陰で誰にも見られることなく量子状態を保つの。そしてベーススーツのキグルミオンとエンタングルメントな状態――もつれた状態――互いが互いに影響する状態を作り出して、キャラスーツの動きを伝えることが可能になるの。そうすることでベーススーツにぴったり張りついている形の、アクトスーツが動くのよ。ヌイグルミオンが動くのも同じ理屈よ。中に小さいロボットが入っているの」
「よく分からないです…… でも、びっくりでした! キャラスーツで体を動かしているのに、まるで自分が巨大化して戦ってるみたいな感じでした」
「そうでしょ? キャラスーツとベーススーツが、完全に一つの状態になっていたのよ。キグルミオンは猫を閉じ込めた箱でありながら、それ自身とエンタングルメントしており、その箱に閉じ込められた猫そのものでもある。そういう重ね合わせの状態にしてあるの。この不思議で不自然な重ね合わせの状態を可能にするのが、『グルーミオン』と『ダークマワター』よ。全くもって納得いかないけどね」
「納得いかないんですか?」
「そうよ。科学ではあり得ないわ。少なくとも今の人類の科学ではね。キグルミオンはまさにブラックボックス――いいえ、ダークボックスとでも言うべき、未知の技術をつなぎ合わせて作ってあるの」
「つなぎ合わせですか……」
「そうよ――あっ! でも安心してね。瞳ちゃんの安全は最優先。私が保証するから」
エレベータが急減速した。上向きの力が二人を襲う。
久遠はやはりわざとらしく、その力の向きに合わせて背伸びをしてみせる。
「はい。てか、楽しそうですね?」
「ふふん。すばらしいわ運動の第一法則――そう、慣性の法則。こういう物理法則を感じる瞬間が、この世に生きているって一番感じる瞬間なの。私はね」
エレベータが止まり、ドアが開いた。通路を五歩も歩けば、そこはもう事務所だ。
瞳はあらためて事務所の前の看板を見る。
――『独立行政法人宇宙怪獣対策機構』
こんなストレートな名前でいいんだろうか?
そう思いながら瞳がドアをくぐると、
「一旦休憩にしましょ」
久遠が振り返って笑い、事務所の中にいた坂東と美佳が微笑んで迎えてくれた。