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一、抜山蓋世! キグルミオン!

「止めなさい!」

 己を信じて疑わない――そんな凛とした、それでいてくぐもった声が響き渡った。

 そう、それはくぐもった声だった。何か空洞で反響するかのような少女の声が、それでいて力強く路地に響き渡った。

 それは昇り始めたばかりの今日の陽射しにも負けない程、力強い意思の籠った強烈な声だった。

 ここは繁華街。その路地裏。

 華やかな表通りとは裏腹な、人気がなく陽も差し込まない人生の裏街道――そんな場所だ。

 生ゴミの匂いが鼻をつき、湯気の熱気が皮膚にまとわりついた。路地を濡らす油が靴底を滑らし、煩雑に並べられたゴミ箱や自転車が衣服に引っかかる。雑然としたビルの谷間だ。

 何となく脚を踏み入れるのを躊躇われる、社会の裏舞台のような場所だ。

 だが――

「あぁん!」

「止めなさいって、言ってるのよ!」

 だがくぐもった声の主は、この路地裏の陰鬱な雰囲気に臆さないようだ。変わらずよく響く声で、相手を制止しようとしていた。

 声の主はやはり少女のようだ。しかもまだ若い。声から察するに、まだ高校生ぐらいだろう。

「何じゃわりゃ? 何のようじゃ? 儂がどういうもんか、分かっとんのか?」

 そう、これもんで、それもんで、あれもんな感じの――その筋のお兄さんに、立ち向かっていいような歳には思えない。

 裏地に龍の刺繍をした背広をはためかせ、その男は眉間にシワを寄せて振り返る。広い肩を怒らせ、脚を方々に投げ出すようにその少女らしき人物に近づく。

 剃り上げた頭も、悪趣味な光沢を放つ足下の革靴も、そして胸に光る、時折ニュースで見かけるマークのバッチも――その全てが僅かな隙間から差し込んだ光に、威嚇するかのように反射していた。

 その男の向こうには、怯えたように縮こまる男性が壁を背に震えていた。こちらは見るからに一般の会社員のようだ。

「あなたが何者かは知りません。ですがあなた方がぶつかったのは、お互い様なのは私は見てました」

「あん! 姉ちゃんよ! あまりふざけた格好で、ふざけたことぬかすと――」

「姉ちゃんではありません!」

 少女は相手に『ふざけた』と言われた格好で、ドンッと一つ前に出る。

 大きな影が背後の繁華街の光を切り取っていた。確かにその影は少女のものにしては大き過ぎた。こんもりと路地裏の入り口を陣取っている。だが声は間違いなく少女のものだ。

「姉ちゃんじゃなきゃ、何だってんだ! あぁん!」

 男の怒りは今にも頂点に達しようとしていた。

 沸々と湧き上がる感情のままに、剃った頭の皮膚に血管が浮き出る。その血管が内で破裂でもしているかのように、男の顔は真っ赤だった。

 歯は暴力の衝動を押さえるかのように噛み締められ、指先は今にも殴りかからんと内に折り込まれて震えていた。

 それほどの怒りを買う程、少女の格好は人を――食っていた。

「私は――」

 そう、なぜならその少女は――

「私はウサギのチャッピーです!」

 ウサギの着ぐるみを着ていたからだ。


「博士…… 被験者の候補だが……」

 狭い入り口を大きく切り取り、背の高い男が苦虫を噛み潰したような顔で事務所に現れた。手に持った書類をいぶかしげに眺めながら、男はこの狭い事務所に入ってくる。

 そして本当に相手に話しかけたのか怪しい程、自分の考えに入り込みながら呟いた。

 歳の頃は三十代の前半だろうか。色の濃いサングラスをしており、その下の表情を隠している。

「あら、隊長。どうかなさいました?」

 迎えたのは白衣を着た二十代前半の女性だ。軽くパーマを当てた髪を背に垂らし、白衣の下に下ろしたてのように白いワイシャツを着ている。足下は脚線美をさらけ出す短くタイトなスカート。そして踵の高いハイヒール。手には湯気を立てるティーカップを持っていた。

 博士と呼ばれた女性は、事務所の窓に背中を預けていた。博士は窓の外を見ていたようだ。カップを片手に、首だけ後ろを向けていたその顔を正面に戻す。

「全く話にならん。これで敵性生命体と戦うなど…… 上は何を考えているんだ?」

「仕方がありませんわ、隊長。我々は――」

 博士はキリリと鋭いつり目がちの目を、隊長と呼んだ男に向ける。

 男は事務所に入ってきても、サングラスを外そうとしなかった。この室内でも外さないのだから、余所では尚更だろう。

 男が歩く度に金属質なカチャカチャといった音がした。足下を見ればブーツを履いており、何の必要があるのか金具が一つ踵についていた。それは尖った歯を持つ、歯車の形をしている。

 乗馬の際、馬に蹴りつけて刺激を与える拍車と呼ばれる金具だ。

 拍車つきのブーツは換えがないのか、どんなに汚れてもいつも同じものを履いてくる。

 隊長はこの姿で毎朝出勤してくる。最初は雑居ビルの警備員と言い争いになった程だ。

 博士はその辺の苦情も兼ねて、率直に後を続けた。

「我々は――うさんくさいですからね」

 博士は男にそう微笑み、その笑顔のままにもう一度窓に目を戻す。見ているのは、窓の外――その下の繁華街のようだ。

「うさんくさい?」

「ええ、怪しいとも言われましたわ。警備員さんに」

「ふん。うさんくさかろうと、怪しかろうと、それが何の関係がある? 我々は唯一敵性生命体に対処できる部隊だ。この――」

「このリストに上がってきた隊員では、とてもじゃないが部隊を維持できない。そうですわね」

「そうだ。レンジャー有資格者が一人としていない。それどころか――」

「ただの勤務態度の優秀者――いい子ちゃんだけですわね」

「そうだ…… 我々が真に欲しいのは――」

「荒削りな才能の原石――ですわね」

「……そうだ」

 端々で言いたいことをとられながら、隊長は己の席に着く。窓を背にした、夕暮れ時には西日差し込む机だ。

 国の関係機関でありながら、民間の雑居ビルの一室を借りている。隊長の机以外は、博士の席と三人分の席しかない。そのうち二つは全く字義通りの空席だ。

 トイレはもちろん他の事務所と共同だ。応接室ですら予約制によるレンタル制だ。

 隊長が座るすぐ横で、博士が僅かに空いたスペースに立ち、窓の外を覗いている。

 部屋が角部屋の為、その窓は正面の他に側面に一つだけついていた。正面からは繁華街が、側面からはビルに挟まれた路地裏がよく見えた。

 博士が覗いているのは、側面の窓――路地裏だ。

 この狭い部屋を男は見回す。何度見てもスチール机とイス、ロッカーしかない。休憩室も応接室もままならない。割り当てられたれ予算を、忠実に体現しているかのような部屋だ。

「向こうにある擬装出撃ビルの方に、入れないのか?」

 坂東はチラリと後ろの窓を振り返る。自分達が入っているビルとは真逆な、光り輝く新築のビルがその窓の向こうにあった。

「あれは例のものを出撃させる為に、可動式になってるんですよ。動く事務所で働きたいんですか、隊長?」

「ふん、確かに…… で、須藤(すどう)くんは?」

美佳(みか)ちゃんですか? 今日は遅れてくるそうですよ。聞いてませんでしたか?」

「聞いてない。昨日も最後にちょっときただけだっただろう? そんなのでいいのか?」

「別に。本人は至って優秀とは言え、所詮高校生のアルバイトですもの」

「たく…… この世界の危機に、隊員をアルバイトでまかなうとは…… 懐疑派もいるとはいえ、上はどれほど本気なんだ……」

「仕方ありませんわ。ここ十年は何もなかった上に、外国からの圧力もありますしね」

「ことが起こってからでは遅い。世界を救うのに、何故外国が圧力をかける? ナンセンスだ」

「そうですわね」

 博士は隊長と話をしている間も、ずっと繁華街を見下ろしていた。

「今すぐ優秀な人材が必要なのに」

「優秀な人材ですか?」

 博士は楽しそうに応え、不意に隊長の方に振り向いた。楽しそうな声に相応しい、明るい笑顔を向ける。

「あそこにいるみたいですよ」

 そして眼下の、威勢のいいウサギの着ぐるみを指差した。


 ウサギの着ぐるみが、恐喝現場に割って入っていた。

 円らなプラッチックの瞳。常に笑っている口元。ウサギであることを主張する、アンバランスで大きな耳。そして白い――残念ながら少々薄汚れた生地の肌。

 その肌の上に、子供受けする原色が配された衣装を着ている。やはりこちらの衣装も、所々色あせている。

 そう何と言うか全体に安っぽい。いかにも低予算で作られ、使い古された着ぐるみだ。

 そんな少々残念でファンシーなウサギの着ぐるみが、肩甲骨も逞しいその筋の男の前に立ちはだかっていた。

 その異様な光景に、後ろの街路をいく人が遠巻きに通り過ぎていく。

「チャ、チャッピー…… だぁ……」

 男は苛立たしげに声を絞り出す。

 今月の上納金がまとまらず、金策に文字通り走り回っていた。街ゆく会社員風の男性に少々肩がぶつかり、頭の中が一瞬で真っ白になった。一気に血が上っただけだった。

 しかし元より舐められたままでは終われない職業だ。ましてやストレスは最高潮に達している。何より少しでも金になる。

 男は怯え謝る会社員を、有無を言わせず路地裏に連れていった。

 そこに突如現れたのだ。少女が、ウサギが、着ぐるみが。何だか頭の悪そうな奴が。

 苛立ちもここに極まれりだ。

「舐めてんのか!」

 男は怒りのままに拳を振り上げた。相手は素人。その上少女。それ以前に着ぐるみ。一発ヤキを入れれば、泣いて逃げ出すと思っていた。

 だが――

「――ッ! 何?」

 だがウサギの着ぐるみ――チャッピーは、さっと左足を後ろに退くやその身を半身に構えた。

 そして男の拳は空を切る。いや、ただ空を切るだけではなかった。伸ばし切ったその右腕は、完全に相手に懐を曝す結果となっていた。

 その懐にチャッピーが崩れぬ笑顔で潜り込む。

「何だ! おらぁ!」

 この男でなくとも、そう叫びたいだろう。

 楽しげで巨大なウサギの顔が、あくまで真面目にキレている己の顔に押しつけられたからだ。

 だが男は気がつけば右手の裾は掴まれ、左の襟も捉えられていた。腰は完全に相手の腰に浮かされ、全ての重心が右に傾けられている。脚の裏からは、瞬く間に地面の感触が消えていた。

 次の瞬間――

 男は宙を舞っていた。そう、一本背負いで投げられていた。むしろ心地よいまでに全身で空気を切り裂きながら、男の体はチャッピーの背中で反転する。丸で風車だ。

「えっ?」

 気がついたのは背中を地面に着いた後だった。そして地面で背中を強く打たないように、直前で体が引き上げられたのもその瞬間に悟る。

 しかし男はその現実が受け入れられない。ただただ呆然と、しばしビルの屋上に区切られた青い空を見上げる。

 投げられたのだ。この狭い路地裏で、ものの見事に。そして手加減されたのだ。素人に。少女に。着ぐるみに。ウサギのチャッピーに――

「この!」

 男はそこまで思い至って、またもや頭に血を上らせる。男は頭に昇る血の勢いのままに立ち上がり、闇雲に拳を振り回した。

 だがチャッピーはその大きな頭にもかかわらず、軽々と男の拳を上半身の動きだけでかわした。

 ストレートは少し右に左に体を傾けるだけで、男の腕はあさっての方向に外れていった。フックは前に屈んでかわし、男の拳は空しく宙だけを刈る。アッパーは後ろにそって逸らし、男の手は虚空に向かって突き上げられた。

 足下の動きも軽やかだ。

 男は目測をつける度に前に出る。だがチャッピーはすぐに、ステップを踏んで相手との距離をとる。横と後ろに軽やかに動き、必要充分な分だけ移動する。

 やはりこの狭い路地裏で、チャッピーは男の攻撃をいなし、そしてかわしていく。

 それはまるでウサギそのものの――

 見ている者にそう思わせる素早さだ。

「ぐぎぎ……」

 男の拳は何度放っても、相手に当たらない。男は歯ぎしりか唸りか分からない声を、思わず漏らしてしまう。そして業を煮やしたのか、

「てめぇ!」

 一気にチャッピーの懐に飛び込んできた。

 しかしその男を迎えたのは、足先に走る衝撃と、空転する視界だ。男の体はあたかも鉄棒に体を預けたかのように、空中で横に一回転する。

 男が地面に落ちた瞬間に見えたのは、軽く上げられたチャッピーの右足だ。

 また倒されたのだ。今度は右足一本で。やはりふざけたウサギの着ぐるみに――

 男の視界は一気に、理性が燃え尽きたかのように真っ白になる。全ての視界が狭まったかのように、周りが白くなり見えなくなる。

 もはや怒りで目の前のウサギの着ぐるみしか見えない。ここがどこであったのか、相手が何であるか、今がどういう状況か、男には全てが見えなくなる。

「てめえーッ!」

 怒りのままに男は立ち上がると、素早く懐に手を入れる。

「――ッ!」

 そして男は震える手でその手を突き出すと、

「キャーッ!」

 周囲の悲鳴に酔いながら、何か鈍く光るものをウサギの着ぐるみに突きつけた。


 男が取り出したのは拳銃だった。

「うわぁっ!」

 助けられたはずの会社員風の男は、その助けられた相手のチャッピーに目もくれずに駆け出す。拳銃を取り出した男の脇を抜け、逃げ惑う周囲の人並みに紛れて消えた。

「ちょ、ちょっと……」

 残されたチャッピーは、自分に向けられた拳銃に一歩二歩と後ずさる。

「姉ちゃんよ! もう後戻りできねえな!」

 男は銃を突きつけて前に出る。もはや完全に路地裏から、その身をさらけ出していた。人目につかない場所で恐喝していた男は、今や人目もはばからず着ぐるみに銃を向けていた。

「ちょっと…… それって本物……」

「おうよ…… 引き金一つで、バンッとならぁな……」

 男は自分のもたらした非日常に酔っているのか、暗い笑みを浮かべて答える。

 おそらく実際に撃ったことはほとんどないのだろう。ましてや人を撃つのも初めてなのかもしれない。

 投げられ避けられ転がされただけで、拳銃を出す。割が合う訳がない。男は冷静な判断ができていないのだろう。

 ウサギの着ぐるみにバカにされたことが、それ程頭にきているようだ。

 そしてそれ故に、脅しではなく本当に発砲する――そんな雰囲気が、男の周りから漂っていた。

 男が撃鉄を起こすと、リボルバー式拳銃の弾倉が一つ回転した。

「この……」

 チャッピーは変わらぬ笑顔で身構える。中の少女の表情はもちろん分からない。だが少なくとも拳銃を前にして、逃げ出さずわめかず相対しようとしている。勇気があるようだ。

「皆さん! 逃げて!」

 そしてその上我が身よりも先に、周りの通行人を心配している。チャッピーは――いや中の少女は、正義感が強いのだろう。

 少女の声に周囲の人々が逃げ惑う。その内の一人が他の通行人にぶつかって尻餅を着いた。それはチャッピーのすぐ後ろだ。そう、銃口の向けられた先だ。

 尻餅を着いたのは、小学校高学年と思しき少女。

 そのままその場で足首を押さえてうずくまってしまう。少女の顔は苦痛に歪んでいる。そして怯えた目で、チャッピーの背中を、その向こうの銃口を見上げた。

「止めなさい!」

 チャッピーはその場で両手を拡げる。己の後ろにうずくまる子供を守ろうと、その身を挺した。

 だがその最初と同じ一言は、相手の更なる怒りを呼んだようだ。

「やかましい! 誰にもの言ってんじゃ!」

 男は顔を真っ赤にして銃を突き出す。その全身は怒りと緊張からか、飛びかかる前の闘犬のようにブルブルと震えていた。

 いつまかり間違って引き金を引いてもおかしくない。更に言えば引き金が引かれれば、どこに弾丸が飛んでいってもおかしくない。

「キャーッ!」

「ウゥ……」

 群衆の悲鳴は最高潮に達し、尻餅を着いた少女は泣き出してしまう。

「く……」

 チャッピーは己の身で銃弾を阻もうとするかのように、両手を更に拡げてその場で立ちふさがる。

「死ねや!」

 そして今まさに男が引き金を引かんとした、その時――

「止めろ!」

 空高く戦闘服が――いや戦闘服を身に纏ったサングラスの男が舞い降りてきた。


 戦闘服の男はロープを伝って、ビルの壁面を駆け下りてきたようだ。

 直前まで持っていたと思しきそのロープを手放すと、ビルの二階あたりで一気に右足で壁を蹴った。

「止めろ!」

 戦闘服の男はそう叫ぶと、四肢を拡げて銃を持った男の上に落ちてくる。

「――ッ!」

 二人の男は空中で絡まり合ってぶつかると、そのまま地面に転がってしまう。回転が収まり上をとったのは戦闘服の男だ。

「何だ、てめぇ! 何しやがる?」

「俺か? 俺は坂東(ばんどう)――坂東士朗(しろう)だ」

 下になった男の質問に、戦闘服の男は冷静に答える。

「うるせぇ! 誰が名前なんか、訊くかボケェ! 警察か? 降りやがれ!」

「警察ではないが、銃を持った暴漢は見逃してはおけん」

 坂東と名乗った男は、両手で相手の銃を押さえ込んだ。

 暴発させない為にか、己の指を撃鉄に挟み込み、シリンダー状の弾倉を押さえ込む。銃の扱いに手慣れているのだろう。

 だが坂東の動きはどこかぎこちない。上半身は手際よく動くが、それを支える下半身が思うように動かないのだ。

 右足は相手を挟み込むように力まれているが、左足は地面に投げ出されたままだ。その左足は体の動きにあわせて、拍車を鳴らして揺れている。

 それでも坂東が相手の手から拳銃を取り上げようと、その手に力を入れた時、

「キェーッ!」

 くぐもった気合いとともに、着ぐるみの脚が一閃された。

 着ぐるみの脚は最も速度が上がる瞬間に、暴漢の銃に蹴りつけられる。それでいて余計な力みがない。

 まるでプロのゴルファーのドライバーショットだ。実に奇麗に弧を描いて振り抜かれている。これではどんなに力に自信があっても、銃を取り落としてしまうだろう。

 着ぐるみはかなりの武術の心得がある――

 着ぐるみのその蹴りに込められた力量に、坂東はとっさに相手の力を推し量る。

「ぐ……」

 案の定暴漢が苦痛に呻くと、銃は路地を転がっていった。

「やったー!」

「暴発する可能性がある。無茶はするな」

 坂東が首だけ振り返って、まさにウサギのようにはしゃいで飛び跳ねる着ぐるみに注意する。その一方で相手が銃を手放したと見るや、すぐさま暴漢の手首を握りしめた。

「イテテテッ! 痛えだろ!」

「静かにしろ」

 痛点を攻められたのか、男は痛みから逃れようとするかのように身を捩る。だがそれは男にとって逆効果だった。

 男は気がつけばうつぶせになっており、両手が坂東に押さえられていた。そのまま坂東に背中に乗られてしまう。もはやどうしようもない。

「てめぇ……」

「おとなしくしろ」

「何だ、おらぁ! やんのか、あぁん!」

 男は完全に押さえられているというのに、威勢だけは衰えないようだ。いくらも動かない体を揺らし、坂東を振り落とそうとする。

「おとなしくしろと言っている」

「あぁん! 何、偉そうにぬかしとんじゃ!」

「この……」

「俺がどこの誰か! てめえら知って――」

 尚もわめき散らす暴漢の後頭部に、

「知らないわよ」

 冷静な声とともに、拳銃のグリップが叩きつけられた。


「ぐ……」

 暴漢は生きているかどうかも怪しいぐらいに、唐突にその動きを止めた。

「博士…… 現れていきなり後頭部とは……」

 坂東は暴漢の頭部に、躊躇なく拳銃を叩きつけた女性を見る。

 博士と呼ばれた女性は両膝を折って踵の上に腰を下ろし、相手の後頭部に真っ直ぐ銃のグリップを叩きつけた。まるで頭部の耐久実験でもしているかのような、正確で無慈悲な動きだ。

 博士は興味をなくしたかのように、手に持った拳銃を坂東に差し出した。

「別に、死にはしませんわ。この桐山久遠(きりやまくおん)。工学の他に、医学の博士号も持ってますのよ」

「そうか」

 坂東は拳銃を受け取って立ち上がる。久遠と名乗った女性も立ち上がった。

 暴漢はもはやぴくりとも動かない。

「あの……」

 ウサギの着ぐるみが、立ち上がった二人に遠慮がちに声をかける。

「ああ。大丈夫か? 怪我はなかったか?」

「ええ――」

「見てたわよ。勇気あるわね。投げ技も最高」

「拳銃を蹴り飛ばした動きもよかったぞ」

「そうですか。それは見逃しましたわ。エレベータを使って下に降りましたから」

「あの……」

 ええ、大丈夫です。あなた方は?

 という質問を完全に遮られ、ウサギの着ぐるみは立ち尽くす。

「だから日頃から、体を鍛えた方がいいと言っているんだ。壁ぐらいロープで滑降できなくてどうする?」

「別にどうもしませんわ」

「その……」

 二人は困惑する着ぐるみと、ざわめく野次馬の視線をものともせずに語り合う。

「いかんいかん。体は鍛えんと、どんな困難も乗り越えられるように――」

「いいえ。どんなに体を鍛えても、世間体は乗り越えられませんから」

「世間体など、この緊急時に言ってられ――」

「えっと……」

 着ぐるみの少女は、もう一度勇気を出して話しかける。

「ん? ああごめんなさい。置いてけ堀ね。私は桐山――桐山久遠。久遠でいいわよ」

「俺は坂東だ」

「はい……」

「君は?」

 坂東はウサギの着ぐるみを上から下まで見回す。

 お金のかかっていない、使い古された、販売促進用か何かの着ぐるみだろう。中にいるのは、アルバイトの学生か店員だ。いずれにせよその正義感に感心させられる。先ずは名前が知りたいと坂東は思った。

「私はチャッピーです」

「いや…… その着ぐるみのキャラクターではなくてだな……」

「いえ。私はチャッピーです。これは着ぐるみではなく、チャッピーという一つの人格なのです」

 チャッピーと名乗ったウサギは、先程尻餅を着いた少女に手を振る。

 少女は立ち上がって母親らしき女性に抱きついており、こちらも泣き顔に笑顔を作りながら手を振り返した。

「……」

 そのチャッピーの言葉に、坂東と久遠は互いの目を見る。その後ろからパトカーのサイレンが聞こえてきた。誰か通行人が通報したのだろう。

 パトカーは耳に優しくないブレーキ音を上げ、タイヤをこすりつけるように滑らせた。タイヤ痕をアスファルトになすりつけながら、三人の脇の道路に横滑りするように急停車する。

 パトカーは三台。それぞれのドアから、血相を変えた制服警官が飛び出してきた。

「分かったチャッピーくん。まずはこの男を、警察に引き渡そう」

「はい」

「やれやれですわね」

 三人はそれぞれ一段落と、向かってくる警官を見やる。

「動くな! そこの――」

 警官はパトカーを飛び出すや、警棒を片手に勇んで駆けてきた。今こそ職務を果たさんと、意気込んでいるようだ。

 そして威勢良く口を開くと――

「そこの――怪しい集団!」

 戦闘服に白衣、着ぐるみの怪しい集団を取り囲んだ。


 サイレンを鳴らして、パトカーが去っていた。

 最後尾のパトカー。その後部座席のウインドウには、ウサギの着ぐるみの頭部がこれでもかと押しつけられていた。

 まるで無理矢理パック詰めされたお饅頭のようだ。ガラスに接地した面を平たくし、また隣に座った警官と顔と顔を押しつぶし合いながら、ウサギの後頭部が遠くなっていく。

「何やってんだろ、あの人達……」

 その様子を一人の少女が見送った。

 大きなぬいぐるみを抱いた高校生と思しき女子生徒が、そのパトカーが去りゆくのを静かに見守る。

 少女はいかにも眠たそうに、その目を半目にしていた。

 口調も抑揚に乏しい。こちらも何処か眠たげだ。

 『あの人達』と言うからには、知り合いなのだろう。その証拠に道路の曲がりしなにチラリと見えた、パトカーの中の戦闘服と白衣の男女に少女は呆れた視線をよこした。

 少女が抱き締めているのは、己の半分程も背丈のあるコアラのぬいぐるみだ。

 コアラの左の頬には、縫い傷があった。それがこのコアラをして、可愛らしくも勇ましい雰囲気を醸し出していた。

「他人、他人…… 入ろ、ユカリスキー……」

 少女はそう呟くと、戦闘服の男が降ってきたビルに向かって歩き出す。その動きに揺れたのか、抱き締めていたコアラのぬいぐるみが何度も首を縦に振った。

「む、でも誰もいないか……」

 少女はビルの前でふと立ち止まり、その入り口脇に止めれたスクーターを見る。

「むむ…… 博士、キー付けっぱなし……」

 少女はユカリスキーと呼んだコアラのぬいぐるみを、そのバイクの上に乗せる。次にぬいぐるみの手を、バイクのハンドルに持っていった。今にも運転しだしそうなポーズを、少女はコアラのぬいぐるみにさせる。

 自身はタンデムシートにちょこんと横座りするや、

「ふふん…… ドライブ、ドライブ…… 時間、潰そっと……」

 楽しそうに鼻で歌って呟く。

 少女のご機嫌な鼻歌に合わすように、誰も操縦していないはずのスクーターが颯爽と走り出した。


 こじんまりとした事務所に、坂東士朗の怒号がこだました。

「怪しいだの、うさんくさいだの、信用できないだの、散々に言われたぞ」

 坂東は憤慨しながら自分の机に腰を下ろす。怒りに任せて、勢いよく背もたれにもたれかかった。やはり拍車が鳴っているのか、カチャカチャと足下から音がした。

 坂東はお昼も随分と過ぎた頃に、やっと警察の取り調べから解放された。散々な気分で事務所に帰ってきた。容疑者を確保したはずが、自分が最も疑われた。

 憤懣やるかたないとはこのことかと、坂東は頭を掻きむしる。

「あはは」

 久遠はティーカップを片手に、窓に腰をかけて笑っていた。窓辺に腰をかけるのが、好きなようだ。

「だから言いましたでしょ? 怪しいし、うさんくさいって」

「ふん。信用できないとまでは、言われていなかった」

「そうですか。それは気が利きませんでしたわね。ではこれからは、それも言うようにしますわ」

「ふん…… で、須藤くんは?」

「さぁ? 私のスクーターがありませんでしたし、どっか買い出しにでもいってるんじゃないですか?」

「まだ十五だろ、須藤くんは? 免許もなしに」

「あはは。あの娘には、優秀な運転手がついてますから――」

「あの……」

 その時に不意に、半開きになっていたドアから、十五、六歳程の少女が顔を突き出した。

「あら? あなた」

 久遠が振り返ると、少女ははにかむように顔を赤らめた。

「ああ、きてくれたのね。どうぞ、入ってらっしゃい」

 少女は身を滑らせてドアから入ってくる。

 少女は高校のものと思しき制服を着ていた。夏服のそれは、少女の引き締まった四肢を事務所の二人に曝している。

 鍛えているようだ。坂東は第一印象でそう思う。それでいて筋骨隆々という訳でもない。

 言うなれば筋肉の筋に無駄がない。通るべきところに通っており、あるべきところにある。そんな感じだ。

 坂東は少女の溌剌とした容姿よりも何よりも、そのことに先ず感心する。そしてあることに疑問を持つ。

「ん? 君は? どこかで会ったかな?」

 そう、どこかで会ったことがある気がした。

「何を言ってるんですか隊長。ついさっき会った娘ですよ」

「そうか? いつ?」

「あの…… 先程は助けていただいて――」

 少女は顔を真っ赤にして、頭を勢いよく下げる。久遠が一瞬頭突きかと思った程の勢いだ。案の定勢いが余り過ぎたのか、少女は目の前にあった机に頭をぶつけてしまう。

「――ッ! 痛ッ!」

 少女はやはり赤い顔で面を上げ、

「へへ……」

 今度は己の失敗をごまかす為にはにかんだ。

「ああ。何だ、あの娘か」

「やっとお気づきになりました? 鈍いのは嫌われますよ」

「しかし、顔も見ていないのに、気づけという方がおかしくないか」

「どこかで会った気がしたくせに」

 久遠はティーカップに口をつけ、一貫していない坂東を笑う。

「ん? それもそうか。君、着ぐるみの――」

「着ぐるみではないです!」

 少女ははにかんだ笑顔を一瞬できらめかせ、坂東の台詞を遮ってしまう。

「あの子はチャッピーです!」

 少女は真っ直ぐ坂東の目を見る。曇りも揺るぎもない視線だ。

「しかし……」

 尚も言い淀む坂東に、

「警察の方にも、それで納得していただきました」

 少女は誇らしげに応える。

「えっ? 着ぐるみで事情聴取を受けたの?」

 久遠は取調室の机に座るウサギの着ぐるみを想像した。

 もちろん取り調べにあたっているのは、鬼の何とかと呼ばれてそうなベテラン刑事だ。

 鬼の何とかはふとした拍子に、仏の顔を見せる。それがベテラン刑事の落としのテクニックだからだ。


 カツ丼食べるか?

 いえ、自分草食ですから――


 そんな会話をしたのかもしれない。

 久遠は己の想像に笑いを堪え、ティーカップを震わせる。

「違います。チャッピーが事情を訊かれ、チャッピーが答えたのです」

「オッケー、分かった」

 坂東はその少女の真っ直ぐな視線に、言い争う愚を悟る。

「そうか…… では君にとってチャッピーは何だ?」

「友達です」

 少女は迷いもなく答える。

「で、その友達のチャッピーは、大丈夫だったか?」

「はい! いえ…… その…… バイトの途中で抜け出して、その上警察に連行されたので、もう…… 明日からはこなくていいそうです……」

 少女は急にしゅんとしおれてしまう。

「着ぐるみのバイト…… 大好きだったんですが、もうチャッピーには会えないみたいです……」

「そう…… それは可哀想に……」

 久遠が同情の視線を送ると、

「でも! 私がいつまでも落ち込んでいたら、チャッピーも悲しいと思います! 私は元気にいきます!」

 少女は一瞬で顔を上げた。立ち直りが早いようだ。そして落ち込みが似合うような顔も元からしていない。溌剌とした態度に相応しい、笑顔の似合う元気者の少女だ。

「では君は? 君の名前はまだだったな?」

仲埜瞳(なかのひとみ)です」

 瞳と名乗った少女は、その名に恥じない輝く瞳をしていた。

「そうかナカノくん――」

 坂東が立ち上がった。無駄のない動きだ。肉体派の彼は、心の動きがそのまま体の動きに現れるかのようだ。まさに居を正した動きで坂東は立ち上がった。

 久遠もティーカップを机に置き、真面目な顔で瞳に向き直る。ややつり目がちな目が、目の前の少女を頼もしげに射抜く。

 瞳の立ち姿は美しい。

 歪んでいる骨など一辺もない。弛んでいる筋肉など一筋もない。怠惰な血流も、愚鈍な内臓も、無様な神経ももちろんない。

 ここに立つと決めたから立っている。はにかみの笑みも、元気な笑顔も収めた少女は、そう思わせる凛々しい雰囲気を纏っていた。

 坂東と久遠は一度だけお互いの目を見た。それは最後の確認だ。二人は腹を決める。

 二人はこの『荒削りな才能の原石』を、自分達で磨くことにする。

「君を我々の仲間に迎え入れたい」

「? 仲間――ですか?」

「そうだ君に、巨大ロボットに乗ってもらいたい」

「ろ、ロボット!」

「そう!」

 坂東は一度大きく頷くと、

「君を、正義の味方にスカウトする!」

 やはり無駄のない動きで、握手を求めて右手を瞳に差し出した。

 

「ロボット? ですか?」

 瞳は体が上に持っていかれそうだと思いながら、一番不思議に思ったことを訊いた。

「そうよ。私達の地球は、今とても大変なの。ロボットの手も借りたいぐらいにね。まあ、ロボットって言うと語弊があるんだけど、一番分かりやすく言うとそうね」

 久遠は時折ふざけるように、上に飛ぼうとする。もちろんどんなに上向きの力が働いていようとも、体が浮くことはない。ここは只のエレベータだからだ。

 そう、二人は今エレベータに乗っている。瞳が坂東の事務所を訪れた時にも乗った、何の変哲もない只のエレベータだ。

 瞳は久遠に案内されるがままに、事務所を後にしてこのエレベータに乗った。坂東は事務所に残り、二人がエレベータに向かうのを見送った。

 だが只のエレベータではなかったようだ。どこまでも降りていく感覚に襲われる。高速過ぎるそれは、何時までも瞳に浮遊感を与えていた。

 どうもビルの高さなど、とうの昔に降り切ったようだ。それでいてまだまだ下に降りようとしている。

「地下ですか?」

「ええ、地下よ」

「あの……」

 瞳はもう一度久遠に話しかける。納得のいく答えではなかったからだ。

「そうね。地下は地下でも、地下一階、二階の話ではないわ」

 久遠はもう一度、空に浮き上がろうとする。年齢や外見、そして話し方以上にお茶目なことが好きなのかもしれない。

 はしゃいでいるようにも見える久遠の様子に、瞳は白衣の博士の一面を見たような気がした。

「超高層ビル一個分は潜ってるわよ。高速エレベータなの、これ。見た目はぼろいけど」

「いいんですか? 私達が独占して」

「巧妙な仕掛けで、二個あるのよこのエレベータ。凄いでしょ?」

 そのエレベータが急に減速した。瞳は今度は下に押さえつけられる錯覚を覚える。

「着いたわ」

 久遠はその衝撃を楽しむかのように、わざとらしく膝を屈めた。そして嬉しげに伸び上がると、開いたドアから鼻歌まじりに出ていく。その先に続いていたのは、長い廊下だ。

「これは……」

 エレベータを降りた後、廊下の角を二、三回曲がり、これまた二、三枚のドアをくぐると大きな開けた場所に出た。そこは薄ぼんやりとした空間だった。

「足下気をつけてね。危ないから」

 久遠がそう注意を促す。今光が照らされているのは二人の足下だけだ。確かに危ない。

「はい」

 瞳はそう応えて、辺りを見回す。

 風の動きが先程までの廊下とはまるで違う。地下でこの風のうねりは、この部屋そのものが大きい証拠だろう。上にも奥にも広がっているようだ。

 瞳はその空間に向かって顔を上げる。

 何かがいた――

 それは巨大な何かだ。

 超高層ビル程の高さをエレベータで潜ってきた。何の為にと瞳は思っていたが、今なら分かる。この巨大な何かを納める為にだ。

「これがあなたの乗る心身模倣外装着――」

 久遠がそう叫ぶと、一斉に照明に光が入れられた。

「――ッ!」

 瞳は眩しげに目を細める。だがそれが何だかすぐに分かった。瞳には慣れ親しんだものだったからだ。

 そう、それは――


「キグルミオンよ!」


 巨大な着ぐるみだったからだ。


 そこにあったのは、巨大な猫だ。いや猫をデフォルメした――

「え? えっ? ええっ!」

 瞳は目をこすっては見、瞬きをしては見つめ直す。真面目な顔の久遠と、そのふざけた巨大な猫の顔。何度も見比べてしまう。

 だが久遠は本気のようだ。その真剣な眼差し故に、瞳は余計に何度も何度も久遠と猫を見比べてしまう。

「えっ? き――」

 そう、何度見ても――

「着ぐるみ――ですよね?」

 着ぐるみにしか見えない。

 巨大な頭部。デフォルメされた円らな瞳。笑顔の形で固まっている口元。ずんぐりむっくりな全体のシルエット。そしてその丈夫さを優先した、化学繊維としか思えない布地の外見。着ぐるみだ。

 三角に尖った耳が二つ、頭部についている。

 左右に伸びた三本のヒゲは、とても弾力に富んでいるようだ。

 横長の扁平な顔はとても愛くるしく、今にもそのふくよかな頬をなでたくなる。

 鼻がちょこんと突き出ており、ギリシャ文字のオメガの小文字――ω型に楽しげに拡げられていた。

 口は今にも話しかけてくるかのように、半開きに開けられている。

 着ぐるみは長い尻尾を持っていた。全体はネズミ色と白色の二色からなっている。お腹と四肢が白で、背中と尻尾がネズミ色だ。顔は口元が白。目の回りと耳がネズミ色で、口元の白と暖簾を描くように『人』の字型に合流している。

 そして動物の顔と体をしながら、当たり前のように二本の脚で直立するようにぶら下げられている。

 どうも見ても猫の着ぐるみだ。その巨大版だ。二十階建てのビルがゆうに入りそうな空間に、その天井からつり下げられた着ぐるみだった。

「いいえ、違うわ。キグルミオンよ」

 だが桐山久遠博士は真面目そのものの顔で、それを否定する。

「はい?」

「正確には心身模倣外装着――キグルミオン、その先行課題試験用仮説検査試行型実践検証試作機ね」

「何ですか、それ? 何か、思いっきり不安なんですけど!」

「気にしないで。お役所仕事だから、名前が大仰なのは仕方がないの。簡単に言うとテスト機ね。テスト機なのは、勘弁してね」

「はぁ……」

「ちなみにこれは一号機。八号機まであって、奥のランチャーに格納してあるわ。一度に沢山は出せないから、今は一号機だけで説明するわね」

「こんな猫が八匹もいるんですか?」

「猫がモデルなのは、一号機だけよ。他はその特性に合わせてペリカンとか、ペンギンとか色々な形をしているのよ」

「へぇ」

 瞳が目を輝かせて奥を見る。

 縦に並んだ引き出しのような設備が、基地の奥に並んでいる。この一号機とやらと同じ大きさのものが、確かに入りそうだ。それぐらいそのランチャーは大きい。

「まあそれに、一度に動かせるのも、一体だけなんだけどね。今のところ」

「どうしてですか?」

 二人はキグルミオンの足下まで歩いていく。

「キグルミオンの中を満たす――ある物質が一体分しかないの」

「ある物質?」

「それは後で説明するわ。それとね、あれを見て」

 キグルミオンの背後に回り込み、久遠が上を見上げる。

 キグルミオン一号機の背中――ちょうど背骨の位置に、金属のラインが引かれていた。その金属のラインの一番上では、大きな板状の器具がぶら下がっていた。

「えっと…… チャック――ですか?」

「ええ、そうよ。チャックよ」

「巨大兵器にチャックがついてるんですか?」

 これでは増々着ぐるみだ。瞳は驚いて、久遠とチャックを交互に見てしまう。

「そうよ。あのチャックを下ろして、キャラスーツってやつで中に入るのよ」

 チャックであることは否定しないらしい。

「はぁ……」

「この上がちょうど、擬装出撃ビルってやつになっていてね。ここからそのビルの中に持ち上げて、キグルミオンは出撃するの。カッコいいわよ」

「へぇ……」

 瞳は見えもしないが格納庫の天井を見上げた。擬装されたビルから、巨大な着ぐるみが出てくる。カッコいいのだろうかと疑問に思わなくもないが、瞳は黙っていることにした。

「あとね…… そうね、触ってみる?」

 久遠はそう言うと、率先してその巨大な脚に片手を突いた。

 横に並んだ瞳は、久遠に習ってキグルミオンの外装を平手で叩く。

「布地ですよね。これ」

 遠目に見た印象の通りだ。触ってみてもただの布地にしか思えない。そう、着ぐるみとかに使っていそうな生地だ。兵器とは思えない外装だ。

 猫の外見にチャックつきの布地――

 瞳の目には増々着ぐるみに見えてしまう。

「違うわ…… これは『グルーミオン』よ」

「はい?」

 瞳が聞き慣れない言葉に思わず聞き返してしまう。

「現代科学ではあり得ない、謎の『それ』としか言いようのないもの――『グルーミオン』を纏っているのよ。キグルミオンはね」

「はぁ……」

「ボソン粒子である力の粒子――グルーオンのようでありながら、物質の粒子であるフェルミ粒子――フェルミオンのように振る舞う謎の物質…… 物質と言っていいのかすら、分からないわ。概念がないのよ。グルーオンってのは本来、フェルミオンの中のクォークをつなぐ『強い相互作用の力』の粒子のことなの。それなのにフェルミオンのように振る舞うのよね、これは…… 納得いかないわ…… それでね、そのグルーオンと、フェルミオンから名前をとって『グルーミオン』と名付けられた――」

「?」

 聞き慣れない単語ばかり並べられて、瞳は話についていけなくなる。

「力の粒子そのものを物質化している存在――あり得ない…… まさに謎の『それ』としかいいのようない、稀少な『それ』――()『グルーミオン』を纏っているのよ、キグルミオンはね」

「はい?」

 瞳は大きく首をひねる。難しい言葉の合間に、どさくさに紛れて駄洒落を言われたような気がしたからだ。瞳の首は限界ギリギリまで曲げられた。

 久遠は瞳の首の角度など、気にもせず尚も続ける。

「フェルミ粒子の中の力――グルーオンをそのまま具現化しているのよ。物質然としてね。それでいながら力そのものとしても振る舞う…… 言わば物質と力の重ね合わせの存在…… あり得ないわ…… グルーボールなの? それとも違うの…… どうやっているの…… ううん、どうなっているの…… ボース・アインシュタイン凝縮? いえ、違うわ…… そんなレベルの話じゃ…… まさかこれが超対称性粒子だって言うの…… そんなバカな……」

 久遠は途中から一人で呟き出す。そしていぶかしげに眉間にシワを寄せた。つり目がちな目と相まって、険しい表情に一瞬にして変わる。まるでこのキグルミオンの存在が、信じられないかのような顔つきだ。

「あの……」

「ああ、ごめんなさい。独り言よ。気にしないで」

 久遠は一瞬で硬い表情を引っ込めた。あらためて瞳に振り返り、しっかりと微笑む。

「ところでこれ? 着ぐるみだと思う?」

「えっと…… キグルミオンなんですよね……」

 着ぐるみではないと、最初に久遠自身が否定したはずだ。瞳は目の前の博士の真意が分からずに言い淀む。

「半分正解ね。でもそれじゃ、瞳ちゃんをスカウトし意味がないわ」

「?」

「これは着ぐるみなの? キグルミオンなの? それとも――」

「それは……」

 瞳が口を開こうとしたその時――

「――ッ!」

 格納庫内にけたたましい警報が鳴り響いた。格納庫内がその警報とともに明滅し出した警告灯で、瞬く間に赤く染まっていく。

 警報に合わせて、壁に取りつけられていた様々なハッチが開く。

 その中から何か出てきた。子供の背丈程の何かだ。

「何ですか? 久遠さん!」

「警報よ…… きたのよ――宇宙怪獣が!」

 久遠は見えもしない天を仰ぎ、その向こうを睨みつけた。


「博士!」

 壁際につり下げられていたモニターの一つが、唐突に光を放った。モニターに映し出されるや否や、坂東が声を張り上げる。

「隊長…… きましたか?」

「ああ、ついにきた。今から十三分十五秒後に、地表に到達する。もちろん、襲撃地点は――」

「ここ――ですわね」

 久遠は身構えるように半歩後ろに退いて、モニターに応えた。

 そうすまいと思っていても、力が入ってしまう。まるで今まさに目の前に敵がいるかのように、身構えてしまう。そんな感じに瞳には見えた。

「そうだ…… 仲埜くん」

「はい」

「訓練も何もない…… いきなりの実戦だ…… 正式に契約をした訳でもない……」

「……」

「それでも我々は今、君のその才能に賭けたい。キグルミオンに乗ってくれ。そして君の力で宇宙怪獣を倒してくれ」

「坂東隊長……」

「瞳ちゃん。ダメならダメで構わないわ。その時は――」

 久遠はそう言ってモニターの坂東を見上げる。正確に言うと、そのモニターには映っていない坂東の足下を見たようだ。 

「隊長が乗るから……」

「そうだ」

 坂東が頷く。瞳に、そして久遠に向けた頷きだ。

「いいえ! 私が乗ります!」

「いい返事だ。だが――」

「だが何ですか? 今まさに人が死ぬんでしょ! 十年前のあの日みたいに!」

「――ッ!」

「瞳ちゃん…… もしかして、いたの…… あの『破れの日』に……」

 十年前――初めての宇宙怪獣襲撃の日は、今では『破れの日』と呼ばれている。日常が破られた日とも、常識が破られた日とも言われている。ただ、正しい語源はまた別にあるとも言われている。

 だが多くの者が知っている。あの日は平穏が破られた日なのだと。

「いました。そして――いろんな人に助けられました。今こうして生きているのは、もしかすると他の人の犠牲の上かもしれません!」

 瞳はその何者にも恥じない、真っ直ぐな瞳を見上げる。

「お願いするのは私の方です! 私を! 仲埜瞳を! キグルミオンに乗せて下さい!」

「本気のようだな……」

「はい」

「分かった。では早速――」

「早速…… キグルミオンの出撃準備を始めます……」

 画面が唐突に切り替わり、何か言いかけた坂東がモニターから消える。

 代わりにそこに映ったのは、眠たそうに半目を開いた少女だった。

 事務所の机に座っているようだ。ロッカーを背後に、半目とショートの髪を曝している。

 そして少女は高校のものと思しき制服を着ていた。瞳とは違う高校の制服だった。キーボードを叩いているのか、その手元が忙しく動いている。

「美佳ちゃん、きてたのね。助かったわ」

「はい…… ユカリスキーもそちらに、向かわせました……」

 美佳と呼ばれた少女の言葉は、抑揚があまりなかった。こちらも今にも眠り出しそうだ。それでいて僅かにモニターに映る手元は、一瞬の淀みもなく指が動いている。

 キグルミオンの背中にゴンドラが降りてきた。頭上から降りてきたそれは、キグルミオンの背中を越えて、床を目指してくる。

 それと同時にエレーベータが地下に到着し、その扉を開いた。

「えっ? ぬいぐるみ?」

 瞳がそのエレベータの向こうにいた人物――いや、人の背丈の半分程のぬいぐるみに目を剥く。

 コアラのぬいぐるみだ。コアラのぬいぐるみが自分の二本の足で立っていた。

 そしてコアラは実に楽しげに、その短い手足を細かく動かして瞳の方に駆けてくる。

 それに合わせたかのように、先程ハッチから出てきた子供の背丈程のものが、瞳達に近寄ってきた。こちらもぬいぐるみだ。

「えっ? えっ?」

 瞳は自身を取り囲んだ、ぬいぐるみの大群を見回す。

 十数体のぬいぐるが、二足歩行で楽しげにわらわらとこちらに駆けよってきた。

 エレベータを一人降りてきたコアラを始め、犬や猫、ウサギにパンダなど。子供の喜びそうな動物がやはりわらわらと瞳達を取り囲む。

「違う…… キグルミオンを助けるサポートメカ…… 私の指示で考え動く、言わば自律人形…… その名を――」

 美佳の手元が一際早く打鍵した。

「ヌイグルミオン!」

 美佳のそのかけ声とともに、ぬいぐるみ達が一斉にポーズをとって固まった。

 鋭く斜めに手を挙げる猫。力こぶを見せつける犬。わざわざ後ろに振り返り、腰に手を当てて振り返るモモンガ。しなを作るように片足を上げ、投げキッスをするウサギ。持ってもいない剣を抜こうとするカメ。その他の動物達――

 そして両手の拳の関節を鳴らし、威嚇するかのように首を傾ける、頬に縫い傷のあるコアラだ。

 美佳もポーズをとっているのか、その手元が止まっている。わざわざ両手を交差させてキーボードから掌を浮かせていた。己に酔っているのか、そのポーズのままで目まで閉じていた。

「……」

 瞳が一通り、ぬいぐるみの姿を見回す。

「あの……」

 動かなくなったそのヌイグルミオンとやらに、瞳は不審に思いモニターを見上げた。

 モニターの中の美佳はまだ動かない。だが、ぽつりと呟く。

「見た……」

 ちらりと半目を薄く開けて、美佳がモニター越しに瞳の様子を窺う。

「見たけど……」

「ふふん……」

 美佳は鼻歌まじりにそう応えると、またもや淀みなくキーボードを叩き出す。

 ヌイグルミオン達が美佳の動きに合わせるように、一斉に動きを取り戻した。先程より動きが軽やかに見えるのは、操作している人間がご機嫌だからかもしれない。

「この子達はね、美佳ちゃんが全部操ってくれているのよ」

「はぁ……」

 どう返事をしていいのか分からない瞳の目の前に、大きなゴンドラが降りてくる。壁の端から端を結ぶ、細長く大きなゴンドラだ。

 その中央に一体の猫の着ぐるみがつるされていた。こちらは普通の大きさだ。そしてキグルミオンと瓜二つの着ぐるみだ。縮小版といったところだろう。

「これはキャラスーツ――操縦席だと思って。これに入って、更にキグルミオンに入るのよ」

 キャラスーツと呼んだ着ぐるみの前に久遠が立つ。

 ヌイグルミオン達が互いに押し上げ、引っ張り合いながら、やはりわらわらとゴンドラによじ登る。そのまま一斉に、キャラスーツの周りに取りついた。

 ヌイグルミオン達は器用にキャラスーツを取り外すと、後ろについてあったチャックを下ろす。そのまま瞳が入りやすいように、着ぐるみの手足を持ち、そのチャックを拡げた。そしてどうぞと言わんばかりに、ヌイグルミオン達が瞳の方を一斉に振り返る。

「はい」

 瞳はヌイグルミオン達に手を引かれてゴンドラによじ登る。そしてためらいもなく、制服のまま右足をキャラスーツに差し込んだ。ヌイグルミオン達が支えてくれているので、引っかかることもなく右足は奥へと入っていく。

「久遠さん」

「何、瞳ちゃん?」

「さっきの質問ですけど――」

 瞳は両足を入れ終え、両手を差し込みながら首だけ久遠に振り返る。

「えっとあれね。着ぐるみか? キグルミオンか? それとも――ってやつね」

「そうです。この子は只の着ぐるみでも、只のキグルミオンでもありません! この子はこの子です。この子の名前を教えて下さい!」

 瞳が完全に体全体を差し込むと、パンダのヌイグルミオンがその背中のチャックを上げた。犬のヌイグルミオンに肩車された猫のそれが、その頭上で頭部を支えていた。

「チュウよ。ネズミ色をしているから、猫だけどチュウって呼んでいるわ。言わば猫とネズミの重ね合わせの存在――キグルミオンのチュウよ」

「分かりました。この子はチュウ。いえ――」

 その言葉とともに、瞳は着ぐるみに包まれると、

「私はキグルミオンのチュウ――仲埜瞳です!」

 迷いもなくそう言った。 


 宇宙怪獣はやはり十年前と同じ、巨大な二足歩行のは虫類のようだ。

 地響きを立て大地に降り立つや、その上体をもたげて辺りを見回す。

 怪獣が降り立ったのは、工業地域のようだ。踏み崩した足下に、工場のものと思われる瓦礫が散らばっている。そして一瞬遅れて、無事だった建物から人が溢れ出てきた。

 怪獣が踏みつぶした工場にも、当然人がいたのだろう。敷地に飛び出してきた人々は、本能的に助けに駆け寄ろうとする。

 だがすぐに空を見上げてあきらめる。高層ビルもかくやという、見上げるようなは虫類がそこにはいたからだ。

 ――グオオォォ……

 地鳴りのような音を立て、怪獣は己のノドを鳴らす。

 そしてそのまま直進し出した。向かう先はオフィス街のようだ。怪獣よりも高いビルが幾棟か並び、その下には人々と車がいき交っている。

 オフィス街の人々は異変に気づきながらも、よく状況を把握できていないようだ。遠目に見える小山のようなものが、こちらに向かってくるのを只呆然と見上げていた。

 そこに空をつんざく爆音とともに、自衛隊の戦闘機が現れる。

 怪獣にはそれが何か分からないのだろう。戦闘機が撃ち出したミサイルに、無頓着に向かっていく。

 ミサイルが爆発した瞬間、怪獣は痛みを感じたように幾つか瞬きをした。だがまるで怯んだ様子を見せない。

 怪獣にとっては、些細なことなのだろう。

 怪獣は前に進む。怪獣はゆっくりとそこを目指す。

 慌てる理由は一つもないのだろう。自分に対抗できるものなど、この星にはいない。本能でそれを知っているかのようだ。

 そう、この怪獣の前に立ちふさがるものなど――

「止まりなさい!」

 いないはずだった。


「止まりなさい!」

 それは手を広げて怪獣の前に立ちふさがった。

「おおっ……」

 避難を始めていた群衆から喚声が上がる。

 だが恐怖と興奮が入り交じったその喚声を、誰もが途中で止めてしまう。

 無理もない。そこにいたのはどう見ても、どこから見ても巨大な猫の着ぐるみだったからだ。

「皆さん! 逃げて下さい!」

 巨大な着ぐるみは宇宙怪獣と相対して身構える。

 そこは国道だった。巨大着ぐるみと怪獣に驚いた人々が、車やバイクを乗り捨てて逃げ出す。

 ――ゴオオオォォォオオッ!

 空気を揺らして、怪獣は吠えた。自分の本能を邪魔する存在に、その本能の赴くままに吠えた。

「キグルミオン――チュウこと、仲埜瞳が相手よ!」

 名乗りを上げるキグルミオンの足下で、ジープがブレーキ音を響かせて止まった。運転していたのは坂東だ。その後部座席には、久遠と美佳が乗っていた。美佳は一心不乱に手元の端末を操作している。

 巨大宇宙怪獣と相対した瞳は、その相手が自分と大差ないように見えた。いやむしろ大きいのは瞳の方だ。その証拠にチラリと横を振り向けば、ビルの屋上が目の高さにある。キャラスーツの中にいるのに、まるでこの巨大なキグルミオンそのものに入っているかのような視界だ。

 そして瞳はその目に映る宇宙怪獣に、大きさと獰猛さで知られたある恐竜の姿を重ねていた。

 ティラノサウルスだ。幼い頃図鑑で見たことのある、ティラノサウルスを瞳は思い出す。

 いやあの恐竜は、もっと手が小さかったはずだ。瞳はそうも思う。

 この怪獣は違う。二足歩行を始めたばかりで、前脚がまだまだ大きい――そんな感じのティラノサウルスもどきだ。しかしその前脚は本家の恐竜と比べると確かに大きいが、人の手のように器用にものを掴める印象も受ける。

 そのティラノサウルスもどきの宇宙怪獣は、突如現れた着ぐるみに敵意の目を向ける。

「仲埜くん! 周辺市民の避難には、一定の時間がかかる! それまで怪獣をその場から動かすな!」

 坂東が拡声器を使って、ビル程の高さもあるキグルミオンに指示を飛ばした。

「はい!」

「うむ。キグルミオンは――」

「それと瞳ちゃん! 一つ大事なことを言い忘れていたわ!」

 久遠が後部座席から身を乗り出し、坂東の拡声器を奪うようにして叫んだ。

「何ですか?」

「キグルミオンには一つ、深刻な弱点があるの!」

「弱点? 何ですか?」

 瞳は宇宙怪獣と睨み合っている。

「それは――」

「?」

 宇宙怪獣が突進を始めた。地響きを上げて、キグルミオンに向かってくる。

「キグルミオンは、視界がとても悪いの!」

「あっ! 確かに! 戦えるんですか? これで!」

 瞳は宇宙怪獣とがっぷりと組み合う。互いの掌が、相手の肩を押さえた。

 もちろん片や怪獣然としたは虫類で、片や猫の巨大着ぐるみだ。

 二つの非日常的な存在が、オフィス街へと続く国道で力比べを始めた。

 そして瞳の視界は一気に、そのは虫類特有の固い肌で埋まってしまう。

「大丈夫…… サポートするから……」

 美佳がそう呟くと、手元のキーボードを一際大きく叩いた。美佳は一人だけ、イヤホンとマイクが一体化したハンズフリーのヘッドセットを耳にかけている。

 美佳が呟くだけで、その声は口元のマイクが拾い、キグルミオンに届けられた。

「あっ! 何かついた!」

 瞳のかぶったキャラスーツの頭部の中で、幾つものモニターが点滅した。視界そのものが広がり、また自身の姿を客観的に見るモニターも現れる。

 それでいて、固い物理的なモニターが目の前にある訳でもない。

 瞳には分からない技術で、モニターは中空に浮いて表示されていた。

 これなら狭い着ぐるみの中でも、瞳の邪魔にはならないだろう。

「外部監視モニターを、キャラスーツの中につないだ…… 視界はこれで大丈夫…… 私達の音声も直接内部で再生させる……」

 美佳はそう言うと後部座席から身を乗り出し、坂東と久遠に自らがするヘッドセットと同じものを手渡した。

「ありがとう…… えっと――ミカ!」

 宇宙怪獣の頭が唸りを上げて後ろに一度下げられた。そのまま突き入れられた頭を、瞳は自身も頭で突き返しながら叫ぶ。

 互いの頭に衝撃が走り、瞳と怪獣は同時に首を振った。

「――ッ!」

 初対面の人間に名前で呼ばれて、美佳は一瞬で真っ赤になる。

「ど、どういたしまして…… ヒ、ヒトミ……」

 相手に合わせて名前で呼んで、美佳は更に真っ赤になった。

「隊長! 避難はどれくらいで、完了しますか?」

「警報と同時に避難命令が出された! そこから考えても、あと二十分は欲しい!」

「隊長…… 声が大きい……」

 坂東の言葉が各自のヘッドセットでも再生されるのか、美佳が露骨に不快な顔をして首を傾けた。

「分かりました!」

 瞳のその言葉とは裏腹に、怪獣が組んだ腕を振りほどいてしまう。

 だが逃げる気ではないようだ。

 二、三歩ゆっくりと後ろに下がると、またもや突進してきた。

「この!」

 もちろん人々の避難待ちをしている瞳は、それを今度も正面から受け止めようとする。

「隊長! バック!」

 あの質量のあの運動量を受け止めるには、猫型キグルミオン――チュウは軽過ぎる。そうと見てとった久遠がとっさに叫んだ。

「おう!」

 坂東が反射的に応答し、ジープはキグルミオンの背後からバックで急発進する。

 ――ゴッ!

 と内臓に響く空気の振動を伴って、チュウと宇宙怪獣が激突した。久遠がその物理的な衝動を堪能するかのように、わざとらしく体を震わせる。

 キグルミオンが右足を後ろに引き、その脚の裏で地面に踏ん張った。もちろん猫型キグルミオンであるチュウには、ふくよかな肉球がついている。

 今にも触りたくなるようなその肉球が、踏ん張りを入れたアスファルトにめり込んだ。

「ぐぎぎぎぎーッ!」

 歯を食いしばる瞳の足下で、アスファルトがチュウの肉球にえぐられ、めくれ上がる。

 そして一瞬前まで坂東達がいた場所を、なぎ払うかのように掘り起こしながら滑っていった。地面と乗り捨てられた車両を跳ね上げ、チュウの脚が道路の表面をえぐっていく。

「止まれ!」

 瞳のその気合いとともに、キグルミオンと怪獣はやっと止まった。

「おっとと……」

 大地との摩擦の力を借りて、瞳はやっと怪獣の突進を止める。だが勢いに乗る相手は、更にそのキグルミオンの上半身を押してくる。

「瞳ちゃん気をつけて! キグルミオンには一つ、重大な弱点があるの!」

「えっ? それはさっき聞きましたけど」

 今にも背中から倒れそうになりながら、瞳はチュウの首を後ろに避難したジープに向ける。

「さっきのは『深刻な』よ」

「は、はぁ……」

「キグルミオンは、一度転ぶとなかなか起き上がれないの!」

「ただの着ぐるみですよね? それって!」

 物理的にではなく、精神的に転びそうになりながら瞳は、何とかその場に踏みとどまる。

「大丈夫よ、ヒトミ…… ヌイグルミオン量産の暁には、よってたかって立ち上げてあげるから……」

「嫌よ、そんなガリバーもどき!」

 チュウにわらわらと群がるヌイグルミオンを想像しながら、瞳は倒れまいと上体を押し戻した。

 宇宙怪獣の凶悪な牙が、そのキグルミオンの頭部を狙う。

「この!」

 瞳は宇宙怪獣の頭部をその牙ごと右手で振り払い、更にキグルミオンの両手をふるい出す。

 猫型キグルミオン――チュウの手の先から、鋭く尖った爪が伸び出した。半三日月型のその爪は、四本の軌跡を描いて宇宙怪獣の皮膚を掻きむしった。

 だが怪獣は一度だけ怯んだように後ろに下がると、そのままその場で反転し、自らの遠心力で尻尾を叩きつけてくる。

 瞳はもちろんそのような大振りの攻撃は食らわない。さっと身をそらして尻尾をかわすや、もう一度爪を食らわすべく相手の懐に飛び込んだ。

 空中に幾組もの、四本の爪痕が舞った。

 チュウの爪は瞬く間に、宇宙怪獣の皮膚に傷をつけていく。

 だが――


「やはり慣れないか…… 短期決戦は無理だな」

 攻撃は当てるものの、致命傷を与え切れていないキグルミオン――チュウに坂東が呟く。

 そう、チュウの爪は、宇宙怪獣の皮膚に浅い傷しかつけない。あれでは宇宙怪獣は倒せないだろう。

 チュウの足下には、坂東達のジープの他に、自衛隊と思しき車両と隊員が集まり出していた。

 彼らはそれぞれの銃器を構えている。だが対人用や対車両用と思しきそれらの装備は、宇宙怪獣にはどうにも通用しそうにない。

 上空は戦闘機とヘリが飛んでいるが、両方とも様子見をしているようだ。

 先程の戦闘機による攻撃は、まるで効いた様子がなかった。ヘリの武装はそれ以下だろう。

 彼らはキグルミオンの動きから戦況を見極めようとしているのか、その場で旋回を続けている。

「でも長引くと、不利ですわ…… 瞳ちゃん!」

「何ですか?」

 闇雲に爪をふるいながら、瞳が久遠に応える。

「キグルミオンには一つ、大変な弱点があるの!」

「えぇっ! またですか!」

「夏場はとても暑いわ。長引くと熱中症になっちゃうかも!」

「今がその夏なんですけど! てか、今はどうでもいいんですけど!」

 一際大きくふるった右手の爪が、宇宙怪獣の頬に大きな傷をつける。だがその傷はやはり、縦には長くとも深くはない。

「ダメよ! 熱中症をあまく見ちゃ!」

「はぁ……」

「それとついでに――キグルミオンには一つ、致命的な弱点があるの!」

「ええっ、致命的? もう何でもいいですよ!」

 宇宙怪獣がもう一度牙を剥いて突進し、爪では敵わないと見た瞳が拳を握って殴り返した。怪獣がバランスを崩して後ろにたたらを踏む。こちらは多少は効いたようだ。

「子供が近寄ってくるのよね…… 困ったわ……」

「それはそちらで何とかして下さい! て言うか、避難は?」

 瞳は足下を見回す。もちろん全ての人が避難している今、近寄ってくる子供などいるはずがない。根がお茶目な久遠の冗談だったのかもしれない。

 実際のチュウの足下には、坂東達のジープの他には自衛隊しかいなかった。

「もう少しだ!」

 その自衛隊とやり取りしているのか、無線機片手の坂東が答える。

「ていうか…… 弱点が多過ぎじゃないですか?」

「そう? まあ、気にしないで。あっ、それとキグルミオンは背中のチャックを開けられると、行動不能になるから気をつけてね」

「それは先に言って下さい!」

 瞳は拳を握り直すと、宇宙怪獣のアゴを目がけて右に左にとパンチを繰り出す。

「避難誘導、ステージ5レベル3で完了…… 半径五百メートル以内に一般人が十人いる確率は、現状で二・九九パーセント以下です……」

 美佳がモニターから顔を上げた。さすがに一般人の犠牲にかかわる話をしているせいか、いつになく真剣な顔をしている。

「仲埜くん! 避難は完了だ! 次の段階に入る!」

「えっ? そのレベル3ってやつ、まだ人がいる可能性があるんですよね?」

「完璧などない! どうしても気になるのなら、半径百メートル以上戦いの場所を拡げるな! 自分の実力でどうにかしろ!」

「はい!」

「いい返事だ! それと――」

「瞳ちゃん! とにかく宇宙怪獣を止めないといけないわ! 攻撃の手を休めないで!」

 坂東が全てを言う前に、久遠が割って入る。

「でも、爪も上手く効かないし…… パンチも今ひとつです!」

 瞳が左右の拳を繰り出す。は虫類然としたアゴに、両側からフックを見舞ってやる。

 だが怪獣は倒れない。表面の皮膚はやはり固く、内部まで衝撃が伝わっているように見えない。アゴを揺らしてやろうにも、それを支える骨は皮膚以上に堅固なようだ。

「この!」

 業を煮やした瞳が右足を蹴り出した。それでもやはりその攻撃は、敵の屈強な体躯を前に弾かれるように防がれた。

 瞳は引っ込めた脚が、思うように地面を踏ん張らなかったことに内心焦りを覚える。足下が覚束なくなってきている。

「気温、湿度とも上昇中…… 操縦者のサーモグラフィーも、高温を示しています……」

「そう、美佳ちゃん。キャラスーツの内部クーラーをつけてあげて、気休めにしかならないけど。それと――危なくなったら教えて……」

「はい……」

「仲埜くん……」

 心配げに見上げるジープの三人の前で、キグルミオンはそれでも拳と脚を繰り出した。

 しかしそれ以上に強烈な突進を、宇宙怪獣は仕掛けてくる。

 体当たりをされる度に、キグルミオンは後ろに下がる。そしてその度に、後ろに下がる距離が大きくなっていく。

 瞳の体力が削られているのは、誰の目にも明らかだった。


「この……」

 瞳はふらつく脚で、宇宙怪獣と対峙する。パンチもキックも決定打になっていない。

「……」

 その様子を見た坂東が、拡声器のグリップをぐっと握りしめた。

「仲埜瞳! それがお前の限界か? お前は――」

 坂東はヘッドセットをしていることを忘れたのか、声の限り拡声器に怒鳴りつける。

 ヘッドセットと拡声器で同時に拾ってしまったその声は、派手なハウリングをまき散らせながら周囲に響き渡った。

「隊長! お気持ちは分かりますが――」

「チャッピーに入っていた時のお前は――そんなものではなかった!」

 久遠の静止を振り切りように、坂東はそう叫び上げる。

 一際大きなハウリングに、美佳が大げさに後部座席で倒れてみせた。

「――ッ!」

 だがその言葉が瞳の背中に電流を走らせる。まさに雷に打たれたかのように、キグルミオンの背中が伸び上がった。

「今のお前は何だ? 仲埜瞳!」

「キグルミオンです! キグルミオンのチュウです!」

「そうだ! 猫型のキグルミオンであるチュウが――」

「ちょ、ちょっと隊長――」

 坂東はハウリングをものともせずに叫び上げる。だがすぐ側にいる久遠と美佳はそうはいかない。隊長を止めようとするが、

「そんなパンチとキック――するものか!」

 坂東は肺腑の底から絞り出した、肺活量の限界に挑むかのように拡声器に怒鳴り上げる。

 久遠が堪らず耳を覆い、美佳が上半身をのけぞらせて後部座席の背もたれに倒れた。

「キグルミオンは心身模倣外装着! 心身ともにそのキャラになり切らない者に――」

「――ッ!」

「キグルミオンが応えてくれるものか!」

「はい!」

 瞳は一度しゃんと伸ばした背を、大きく湾曲させるように丸めた。まるで猫の背中――そう、猫背のようだ。

 そして――

「ニャーッ!」

 瞳はそう叫ぶとアスファルトを両の脚で蹴る。目指すは牙を剥く宇宙怪獣だ。その宇宙怪獣の目の前で、瞳は更に大地を蹴りつけた。

「シャーッ!」

 怪獣の前で飛び上がり、瞳は相手との距離を一気に縮める。飛びかかる勢いを利用して、強引に相手を押し倒した。

 ――ゴォォッ……

 突然のその攻撃に、宇宙怪獣は唸るように倒れ込んだ。

 瞳は着地と同時に左右の爪をふるった。上から押さえ込んだ有利を利用し、相手の顔に爪を次々と食らわせる。

 それは今までと同じ爪でありながら、何かが違っていた。

 打ち込む爪の早さが違う。食い込む爪の深さが違う。

 何よりふるっている爪の意味が違う。

「まるで猫の爪磨ぎだわ!」

 久遠が思わずそう叫んだのも無理はない。それは人が平手打ちをするような、その延長に爪がついていたような今までの攻撃とはまるで違った。

 まさに猫の爪磨ぎを思い起こさせる鋭さと力強さで、瞳は左右の爪を宇宙怪獣の顔に突き立てた。

 ――グォッ!

 宇宙怪獣が堪らず瞳を押し退ける。

 だが道路に転がされながらも、やはり猫のような俊敏さで瞳は腰を跳ね上げる。瞳は寝転んだままに――むしろ好都合といわんばかりに、チュウの両手で怪獣の首をがっしりと掴んでいた。

「猫キック……」

 キグルミオンはビルを背に、腰を跳ね上げた勢いのまま脚を乱打する。その宇宙怪獣に次々と打ち込まれる脚の動きは、見ていた美佳に猫の蹴り技を思い起こさせた。

「いいぞ! 仲埜! そのまま押せ!」

「はい!」

 宇宙怪獣が堪らず立ち上がった。だが瞳は――チュウは相手の首を放さない。

 宇宙怪獣は首にキグルミオンをぶら下げたまま、立ち上がる。そしてそれでもチュウは脚の乱打を止めない。

「凄いわ、猫キック。こっちもまるで、本物の猫ね……」

 久遠が手に汗を握って瞳の戦いを見守る。

 宇宙怪獣はキグルミオンを振りほどこうと、闇雲に体を振り回した。

 だがチュウは四肢の爪を深く立て、宇宙怪獣にしがみついて離れない。

 業を煮やしたのか、宇宙怪獣が一際大きく体を振った。その動きにチュウが四肢を外す。

 チュウの体が宙を舞った。

 だが近くのビルの側面に膝を曲げて両足を着くと、そのままキグルミオンは伸び上がる。

 チュウが脚をかけたビルに大きなヒビが入った。

 キグルミオンを振りほどく為に体を大きくふるった怪獣は、相手に背中を無防備に曝す格好となっていた。

「シャーッ!」

 そこにビルを蹴ったキグルミオンが飛びかかる。ビルが音を立てて二つに割れた。

 そして怪獣とともにつれ合ったキグルミオンのチュウ――瞳は、

「ニャッ!」

 そのまま獲物をとらえた猫のように、上から相手を押さえ込んだ。


「やったわ!」

 キグルミオンが宇宙怪獣を完全に押さえ込んだ。そうと見るや久遠が叫ぶ。

「仲埜! よくやった! そのまま、押さえろ!」

「はい! でも、この後どうしたらいいですか?」

 キグルミオン――チュウが、怪獣を押さえたまま首だけでジープに振り返る。

「人工ブラックホールをぶつけるわ」

 久遠が美佳の端末を覗き込みながら応えた。美佳と額をつき合わせるように、モニターに覗き込んでいる。

 美佳がとっさに切り替えた画面には、地球とその衛星軌道らしきグラフィックが映っていた。

「ええっ?」

 その耳にはするが、想像もつかない現象の名前に瞳は目を白黒させた。

「その宇宙怪獣は反粒子でできているの。対消滅もせずにね。全く納得がいかないわ」

「はい?」

 宇宙怪獣がキグルミオンの下で暴れる。

 瞳はそれを力づくで押さえながら、素っ頓狂な声を上げた。

「詳しい説明は後よ。宇宙怪獣は反粒子でできているの。反粒子はブラックホールに吸い込まれると、その逆の粒子――つまり普通の物質がブラックホールから逃げ出ることがあるの。それがブラックホールの蒸発につながるから、むしろ好都合なのよ。宇宙怪獣をブラックホールにぶつけるのは、それを擬似的に再現することになるから」

「何のことですか? どうすれば、いいんですか!」

 後よと言われながら、十分詳しい説明をされた。そう思いながらも瞳が叫ぶ。怪獣はややもすれば、キグルミオンを押し返しかねない。

「人工衛星加速器――スペース・スパイラル・スプリングエイトが、今から二分三十秒後に、この上空を通過するわ!」

「何ですか? それ!」

 瞳は上空を見上げる。もちろん何か見える訳ではない。だが人工衛星と言うからには、空の彼方にあるものだろう。地表の宇宙怪獣にどうこうできるとは、瞳には素直に思えなかった。

「超大型ハドロン追突型加速器よ。出力が大き過ぎるから、宇宙に浮かべてあるの。陽子シンクロトロンブースターで加速した陽子ビームを、陽子―陽子衝突させるのよ。この時余剰次元のお陰で、極小ブラックホールを作ることができるわ。しかも大量にね。それでね――」

「もっと簡単に言って下さい! スペ――なんですって!」

「スペース・スパイラル・スプリングエイト――略してSSS8だ。ブラックホールはそこから――軌道衛星上から射出される!」

 ジープに備え付けたモニターを覗き込みながら、坂東が怒鳴り上げた。

「ええ! ブラックホールって、射出するもんなんですか? て言うか、射出していいもんなんですか?」

「十分に小さいから、射出してもすぐにホーキング放射で蒸発するわ。すぐにって言っても、光速近くまで加速されているから、ウラシマ効果で私達から観測すると長く存在してくれるの。ミューオンと同じね」

「全然分かりません!」

「そう? でも人工ブラックホールを撃ち込んでいいのは、宇宙怪獣の反粒子を吸い込んだ上での計算よ。だから絶対に外せないの。ていうかもう、準備の速度関係で、陽子はもう加速されているのよ」

「ひぇ!」

「それと、やっぱり地表付近での衝突は避けたいから、宇宙怪獣を上空に投げ上げてね!」

「な、投げるんですか? この巨体を!」

 瞳は押さえ込んだ怪獣を見た。少しでも油断すれば、一気に跳ね返されかねない。それ程の巨体と体躯だ。

「そうよ。むしろ空中で身動きが取れない状態にして、スペース・スパイラル・スプリングエイトの方から狙ってもらうわ。いいわね、瞳ちゃん」

「ぐぐぐ…… はい!」

「後、一分……」

 美佳がモニターに見入りながら呟く。

「この!」

 チュウが立ち上がり、宇宙怪獣の尻尾を掴んだ。

「オオオオォォォオオッ!」

 瞳が雄叫びを上げると、そのまま怪獣を振り回す。怪獣は最初はゆっくりと、そして回転する度に速度を上げて振り回された。

 怪獣はどうすることもできずに、ただ四肢を泳がしてキグルミオンの手から逃れようとする。

 だが――

「今だ!」

 坂東のその合図とともに、

「ニャッ!」

 瞳の最後の一振りをくらい、宇宙怪獣は宙に体を浮かされた。


 SSS8――スペース・スパイラル・スプリングエイトは、宇宙空間に浮かぶ陽子加速器だ。

 通常の円形加速器が輪を描いて一回転しているのに対し、SSS8はその名の通り螺旋を描いて一回転をしている。

 言わばバネで作ったドーナツだ。強引にビームを曲げられてそのスパイラルを進む陽子は、それ故に通常の加速器より多くの距離を進むことができる。

 それは今までにない出力を加速器にもたらした。

 そう、その大出力故に、宇宙空間での建設しか認められなかった人工衛星加速器――

 巨額の国際的資金が費やされて建設されたそれは、まさに今この瞬間の為に生まれたと知る者は少ない。

 その宇宙に浮かぶ円形加速器が閃光を発する。光ったのは一瞬。その一瞬にブラックホールが形成され、それは地球の重力の力をも借りて射出された。

 大気中の物質を吸い込みながら、ブラックホールは成長と蒸発の微妙なバランスを保って地表に向かってくる。

 宙を舞っていた怪獣との衝突――その一瞬。

 人では認識できない程の極小の時間で、人工ブラックホールはどん欲に反物質の固まりである宇宙怪獣を呑み込んだ。

 そして――

「ほえぇぇぇ……」

 間抜けな声を漏らす瞳の頭上で、宇宙怪獣は消滅し、人工ブラックホールも蒸発した。

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