渡来
大内氏は、中国地方から北九州にまたがる勢力を確立させ、その後再び挑戦した大友氏と少弐氏を、屈服させた。その後、足利将軍家が没落した後も勘合貿易を行いおおいにさかえた。大内義隆の時代には安芸や備後まできりしたがえ、西国の覇王として君臨。義隆の死が天文二十年(一五五一)である。織田信長は、まだ尾張一国を手に入れていない。
大内氏が、いかに早期から、中国、九州、四国にまで、存在感を発揮していたか、おわかりいただけるだろう。中国はもちろんのこと、九州四国の情勢は、つねに、大内氏の一挙手一投足を意識することとなり、掣肘(せいちゅう、制限)される。それだけ、大きな飛躍をする余地がなくなり、英雄時代がとおのく――これが、信玄・謙信・氏康・義元・信長・家康・秀吉と、きらぼしのごとく英雄たちの名があげられる東側エリアとの差違ではなかろうか――やがて、九州一円をなびかせる島津は、大内や毛利氏の存在感のおよばぬ南端薩摩から出発した。四国の長宗我部氏も、四国山地で区切られ、南海に洗われる辺境土佐から伸長した。
これら、地方の王といえる戦国大名たちが、ことごとく秦氏のにおいの特に濃いものたちなのが、おもしろい――やはり、地方野党だったのか。くわえて、猛将の気質も濃い。徳川十六神将内藤正成も秦氏だが、三河武者でも群を抜く猛将だった。島津はもちろん、長宗我部氏も、その麾下一領具足(いちりょうぐそく、農兵)の獰猛さは有名だ。
この頃、秦のミームは、火を吹くような勇猛さを発揮するものでもあったらしい――秦氏から発して、このひょうすべどもは、まったく別個の風貌をしはじめた。同時に、この勇猛さは、なにか、鎌倉武士の延長線上にあるもののようなきもする。理系の――合理と利害に端を発する苛烈さだ。それは、貧しさや野性にもつうじている――生存、食……そういったレベルのぬきさしならぬことには、畢竟合理がはばをきかせるからだ。富み、複雑な陰翳が生じるようになると、文化や文系の領分がひろがる。
理系は必要なもので、文系はそれが必要な理由なのだ。
……そうかんがえると、秦のミーム、渡来人の哲理は、それ以前の日本人が、みなむかえいれる素地をもっていたのかもしれない。
ツングースだか、ポリネシアだか、江南だか、アイヌだか――
太平洋と日本海となく、みな、やってきたではないか――フロンティアを夢見て、それぞれが、それぞれを持ち寄って。
高度な稲作文化や鉄器をもたらした古朝鮮の糸は、そのなかでも、瞠睰すべきものだった。
多彩に縅された異彩だったのだ。
だれもがこれをむかえいれた――フロンティアに、新入りがやって来た! これをうけいれなかったものたちさえ、無視することはできなかった。
一蓮托生――おなじ列島のうえで……
われらはにくみあい――むかえいれる。どっちつかず、左右にひょこひょことゆれる……ひょうすべなのだ。




