2. 膝枕十分追加で
それからというもの、私の部屋は勇者の『実家』と化した。
彼はダンジョンで死ぬたびにクローゼットから転がり出てきては、私のベッドやソファでくつろぎ始めるのだ。
「ただいま」
「早かったですね、今回は」
「五階層のエリア設計がおかしいんだ」
現在、ライアス様は私の部屋でお茶を啜りながら愚痴をこぼしている。
目の前のテーブルには彼が要求した山盛りのお菓子。
「毒の沼地が広すぎて解毒が間に合わないんだ。沼から湧いてくる敵は硬いし……。あーもう嫌だ」
彼の言い分はよくわからないが、要するに「難しすぎて心が折れそう」ということらしい。
常人離れした戦闘力を持つ彼は、普通の冒険者とパーティーを組むと逆に足手まといになるらしい。
基本的にはソロ攻略だ。
その分、愚痴を吐き出せる相手は私しかいない。
「もう今日は休んでいいかな? 明日また頑張るから」
「ダメです。魔王は待ってくれません」
私は心を鬼にして彼の尻を叩く。
「毒沼が広いなら気合いで走り抜ければいいじゃないですか!」
「は? 君、さらっと無茶を言うね? 毒だよ? 死ぬよ?」
「死んでもクローゼットに戻るだけでしょう。それにライアス様なら毒が回る前に抜けられるはずです!」
「できるかもしれないけど、痛いのは嫌だし……」
「(よくわかんないけど)大丈夫です! ほら、この特注の高級クッションをあげますから!」
私はふかふかの羽毛クッションを押し付けた。
「……っ! ふかふかだ……。これ持って行っていいの?」
「はい、クリアしたら差し上げます」
「……わかった。死ぬ気で走る」
チョロい。
チョロすぎる。
彼はクッションを愛おしそうに撫でた後、再び聖剣を担いで出ていった。
私の適当かつ強気なアドバイスと安らぎグッズで、彼は今日も死地へと向かう。
私は勇者のメンタルケアという名の介護をしつつ、報酬を小出しにしてなんとかやる気を維持させた。
そんな奇妙な同棲(?)生活が続いて数週間。
ついに在庫のお菓子が底をつきかけた。
死に戻ったライアス様は血を拭った顔で不満げに口を尖らせる。
「ハンナ、あのお菓子もうないの?」
「あいにく物流が止まっていますので」
「えー……じゃあやる気出ない。今回のボスは理不尽な強さなのに」
――また始まった。
勇者の職務放棄宣言である。
「お菓子はありませんが……次のエリアを踏破できたら、私の手料理を振る舞いましょう」
「手料理?」
彼は疑わしそうな目を私に向けた。
「貴族の令嬢が料理なんてできるの?」
「失礼な。趣味はお菓子作りと料理です。実家のシェフにも負けません」
「ふーん……。あのお菓子よりおいしいの?」
「と、当然です! あのお菓子の三倍はおいしいと保証します!」
あのお菓子よりおいしいとは言えないかもしれないが……。
実際のところ、私の料理の腕はそこそこ自信がある。
それに、彼のような単純な……素直な男性なら胃袋を掴むのが一番手っ取り早いはずだ。
「三倍か……」
彼は真剣な顔で数秒悩み、やがて決意したように頷いた。
「じゃあ、やってみるか。三倍の対価に見合う働きをしてくるよ」
そうして彼は再びダンジョンへ向かい──数時間後、ボロボロになりながらもボスを撃破して戻ってきた。
……次の階層で死に戻ってきたようだが。
「約束通り倒してきたよ……」
「お疲れ様です! さあ召し上がってください!」
用意していた特製シチューと焼きたてのパン。
彼は目を輝かせて席につき、スプーンを口に運ぶ。
「……」
「どうですか?」
緊張の一瞬。
彼はゆっくりと飲み込み、そして静かに言った。
「……おいしいけど、せいぜい八割ぐらいかな」
「は?」
私は思わず真顔になった。
「あのお菓子の衝撃に比べると家庭的な味というか……。いや、おいしいんだけどね? 三倍というハードルが高すぎたというか……」
「……」
「なんかこう、やる気が減りそう……」
「じゃあ食べなくていいです!」
私が皿を下げようとすると、彼は慌ててテーブルにしがみついた。
「うそうそ、百倍おいしい! めちゃくちゃおいしいから下げないで!」
「まったく……」
本当に手のかかる勇者様だ。
私はため息をつきつつ、ガツガツとシチューを頬張る彼を見つめる。
文句を言いながらも彼が完食してくれた皿を見て、少しだけ胸が温かくなったのは秘密だ。
◇ ◇
「次の階層守護者を倒したら、膝枕十分追加で」
「……は?」
「だから膝枕。十分間。それがないともう一歩も動けない」
私の部屋の絨毯の上で大の字に寝転がりながら、勇者ライアス様は真顔でそう言い放った。
手には私が焼いたクッキーを持ち、口から出るのは英雄らしからぬ駄々っ子のような要求。
私はこめかみを指で押さえながらため息交じりに彼を見下ろした。
「勇者様、膝枕は世界を救うためのエネルギーになり得ますか?」
「なるね。あの高級羽毛クッションよりも回復効率がいい」
「……わかりました、十分だけですよ」
「よし、行ってくる!」
彼はそう言うと、さっきまでの死にそうな顔が嘘のように跳ね起きてクローゼットの中へと消えていく。
……チョロい。
相変わらずチョロすぎる。
けれど最近はその背中を見送るたびに胸の奥がチクリと痛む。
最初はただの利害関係だった。
彼には領地を救ってもらいたい。私は安心して眠りたい。
そのためにお菓子やちょっとしたご褒美で彼を釣っていただけだ。
けれど、彼がいつもボロボロになって帰ってくることに改めて気づいた。
即死トラップに何度も引っかかり、強力な魔物に身体を引き裂かれる。
そのたびに私のクローゼットで蘇生する。
死の苦痛は蓄積し、精神を削り取っていくはずだ。
「残酷なことをしているのよね……」
ある夜、私はぽつりと漏らした。
「戦わせてごめんなさい、ライアス様」
「ん? 何を言ってるの?」
彼は私のベッドに腰掛け、不思議そうに首を傾げた。
「僕は他の誰かに言われるより、君に『行ってきなさい』と言われる方が楽なんだよ」
「え?」
「王都の連中は言うんだよ。『世界のために』『人々の希望になれ』って。顔も知らない誰かのために命を懸けろって、正義を押し付けてくる」
彼はそこで言葉を切り、ふにゃりと笑った。
「でもハンナは違う。君は『私のために戦え』って言うだろう? 『領地がなくなると私が困るから』って」
「うっ……それは、その通りですけど……」
「それがいいんだ。高尚な正義より君の私利私欲の方がずっと分かりやすいし頑張れる。僕は世界中の期待に応える英雄じゃなくて、君の欲求を満たすだけの都合のいい男でいたいんだよ」
――なんてことを言うのだろう、この勇者は。
嬉しそうに「都合のいい男でいい」と宣言している。
その歪んだ信頼関係がどうしようもなく愛おしく思えてしまった私は、もう手遅れなのかもしれない。




