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匿名の家

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/10/29

 第1話 母の呟き


(視点:由紀子/シングルマザー)


 ――章頭資料:団地掲示板のスクリーンショット


「#殺人鬼の家」

「夜中に子どもの泣き声」

「旦那、事故死じゃないって聞いた」

「生活保護だって」

「あそこのベランダ、黒い袋ぶら下がってた」


 雨上がりの朝、団地の廊下はいつも湿っている。

 白いコンクリートの壁に、子どもの落書きの跡。ピンクのチョークで描かれた笑顔の横に、「ママ だいすき」と読めるかすかな文字が残っていた。

 それを見るたび、胸の奥で何かが軋む。

 私はスマホを握り直し、団地掲示板アプリの通知を開く。

 【新しい投稿:#殺人鬼の家】

 スクロールする指先が止まる。

 そこに貼られている写真は、私の部屋のドアだった。郵便受けの錆び方も、玄関マットの模様も、見覚えがある。

 ただ、投稿主は“私”になっていた。

「投稿しましたか?」とアプリが問うように、画面の上で点滅する。


 この町では、ニュースよりも“団地掲示板”の方が早い。

 昨日もまた、別棟で主婦が刺殺された。

 テレビの中では警察官が「近隣住民への聞き込みを続けています」と繰り返し、アナウンサーが「犯人は逃走中」と区切る。

 だが、団地の人たちはもう知っているのだ。――“犯人は身近にいる”。


 その「身近」が、いつの間にか“私”になっていた。


 午前七時。

 息子の蓮が、寝癖のままリビングに現れる。

「ママ、今日、学校……」

 言いかけて、口を閉じる。

 私は弁当箱に卵焼きを詰めながら、笑顔を作る。

「今日は行こう。先生も待ってるよ」

「行きたくない」

「どうして?」

「だって……」

 蓮は言葉を飲み込み、ランドセルを抱えたまま、窓の外を見た。

 そこには、向かいの棟のベランダからこちらを覗く影があった。

 洗濯物の隙間に、誰かの目があった。

 私は一瞬、箸を落としそうになったが、何も見なかったふりをした。


 ママ友グループのトークルームは、いつも騒がしい。

「〇〇小の事件、怖いね」

「夜の外出、控えた方がいいかも」

「由紀子さんの棟の方だよね?」

「うちの子、あの辺通らせないようにする」

 コメントが流れるたびに、私の心拍が上がる。

 返事をしないと「感じ悪い」と思われる。

 返事をしても「空気が読めない」と言われる。

 既読だけつけて、スマホを伏せた。


 その夜、蓮が寝たあと、通知が鳴った。

 “由紀子さんって、前の旦那さん……保険金もらってたんでしょ?”

 送り主は、ママ友の香織。

 絵文字の笑顔が、刃物のように突き刺さる。


 私は「そうだよ」とも、「違う」とも返せなかった。

 否定する言葉を打とうとして、指が止まる。

 否定したところで、もう遅い。噂は、言葉より速く、形を持たない。


 深夜、玄関のカメラが赤く点滅した。

 “誰かが近づいた”という小さな通知音。

 覗き穴を覗くと、誰もいない。

 ただ、郵便受けの隙間から、細長い影が動いた。


 ポトリ、と音がした。

 一枚の紙が滑り落ちる。

 拾い上げると、ボールペンで大きく書かれていた。

 《見ている》


 その文字の癖は、どこかで見たことがあった。

 香織の字に似ていた。


 翌朝、団地の掲示板アプリには、新しいスレッドが立っていた。

 【#殺人鬼の家】

 ――「昨日の夜、例の部屋の前に人影」「保険金」「息子も不登校だって」「母親、病気らしいよ」

 まるで日記のように、私の生活が断片的に記されていた。

 誰が書いたのか、わからない。

 けれど、文体が私のものに似ていた。

 句読点の打ち方、改行の癖。

 まるで、誰かが私の中身をコピーして書いたみたいだった。


 私は震える手でログイン履歴を確認する。

 “昨夜23:42、投稿済み”

 場所は、自宅IP。

 ――私はその時間、寝ていた。


「ママ、学校で言われた」

 蓮が玄関で靴を脱ぎながら言った。

「“殺人鬼の家の子ども”って」

 私は息をのんだ。

「誰がそんなこと……」

「もう行きたくない」

「ママが悪いの?」

 その問いに、言葉が出なかった。


 “悪いのは誰か”――それを明確にできるほど、世界は単純じゃない。

 私はただ、あの日のことを思い出す。

 夫が事故で亡くなった夜。

 雨の匂いと、壊れたブレーキランプの赤。

 あの夜を思い出すたび、息が浅くなる。


 午後三時。

 警察が団地に来た。

 刺殺事件の件で、住民への聞き込み。

「昨夜、何か不審なことは?」と問われ、私は曖昧に笑った。

「特には……」

 言えなかった。――“見ている”の紙を。

 警察官の無表情が、私の沈黙を責めているように見えた。


 取調べのあと、ドアの外に置かれたカメラの赤い点を見た。

 “怖いときは通報ボタン”

 そう蓮には言い聞かせてきた。

 けれど私は、そのボタンを押せない。

 押した瞬間、何かが壊れる気がする。

 誰かが私を「犯人」と呼ぶ声が、聞こえる気がする。


 夜。

 アプリにまた通知が来た。

 【新しい投稿があります:#殺人鬼の家】

 私は震える指で開く。

 そこには、私の居間の写真が載っていた。

 カーテンの柄、子どもの絵、ソファの位置。

 誰かが中から撮ったような角度だった。


 コメント欄には、短い言葉が並ぶ。

「怖い」「通報した方がいい」「息子かわいそう」

 そして、一番上に固定されたコメント。

 《本人が上げたんでしょ? 狂ってる》


 私はスマホを落とした。

 床に当たって割れた画面が、まるで鏡のように歪んだ顔を映した。

 “私が投稿した?”

 意識が霞む。記憶が曖昧だ。

 寝る前に、何をしていたっけ。

 薬を飲んだ。蓮のノートを見た。

 そして――。


 カチ、カチ、と金属音がする。

 玄関の覗き穴を覗くと、また誰もいない。

 けれど、郵便受けが少し開いていた。

 ゆっくりと近づき、覗き込む。


 中に、スマホが一台入っていた。

 見覚えのない機種。

 画面がつき、録画アプリが開いた。

 再生ボタンを押す。


 そこに映っていたのは、私自身。

 寝間着姿で、スマホを構え、玄関ドアを撮っている。

 震える声で呟いていた。

「#殺人鬼の家」


 私は、息ができなくなった。

 部屋の隅で、赤い点がまた灯った。

 カメラの録画ランプが、私の顔を照らしている。

 蓮の部屋から、小さな足音がした。

「ママ、誰かいるの?」

 私は答えられない。

 声を出したら、何かが崩れる気がした。


 再び、郵便受けが鳴る。

 紙が一枚、滑り落ちた。

 拾い上げると、先ほどと同じ筆跡で書かれていた。


 《見ている》


 だが今回は、その下に小さく書き足されていた。

 《あなたの中から》


 第2話 警察官のメモ(視点:坂上/生活安全課)


 ——章頭資料:県警内部メモ(改ざん痕)


 件名:団地連続死傷事案(通称:母親連続事件)について

 差出:生活安全課 巡査部長 坂上

 宛先:刑事部参事官付

 本文(原本)一部抜粋:

 一、被害発生地点は市設置AI防犯カメラのカバレッジ(可視域)から恒常的に外れる回廊状エリアに集中。死角は照明更新後も解消されず。

 二、自治会・外郭団体・広告代理店の「安心安全事業」関連支出の増額が、各事件後に時系列で確認される。

 三、被疑者と目される主婦A(由紀子)の端末発信ログに、タグ「#殺人鬼の家」自動投稿の疑い。

 四、まとめ:手口は「可視性の調律」。

 ——


 メモの四の字が、あとから貼られた紙片で隠されている。紙片の影から、ボールペンの圧でできた微細な凹みが読み取れた。そこに私は、自分の字の癖を見つける。ひらがなの「し」を少し右に倒す癖。改ざんは、いつもこんなふうに不器用だ。上から白い薄紙、テープ、角がめくれて糊が透ける。事実の表面は、時間と湿気に弱い。


 私は自分の机に肘を置き、メモのコピーを二枚重ねにして光にかざした。蛍光灯のちらつきが、薄紙の下の線を波のように揺らす。夜勤明けの目は乾いていて、視界の端に砂粒が残る。課内は静かだ。椅子の油の匂いと、古い書棚の木が吐く粉の匂い。コピー機が一度だけ、低くうめいた。それがこのビルに住む獣の鳴き声のように思えるときがある。


 上から命じられたのは、早い段階で「SNS依存主婦の犯行」という語を使え、ということだった。依存、という言葉は便利だ。そこに理由を押し込み、蓋をすることができる。依存は個人の問題、と定義できる。個人の問題にすれば、組織の責任は薄まる。私はその便利さの形を、メモの白紙に何度も見た。警察の書式は、便利の形をしている。罫線はまっすぐ、記入欄は四角、余白は広い。そこに誰かの都合が置かれるとき、紙は簡単に変形する。


 私はまず、地図を広げた。市から提供された設置図は、A3に縮小され、生成AIで作ったような滑らかな線で区画が色分けされている。カメラの可視域は卵形の輪郭で示され、そこからこぼれた灰色の部分が死角だ。灰色は、薄いほど安全、濃いほど危険、と説明にはある。人は色の濃さで思考を省略する。私は色ではなく、線を見た。灰色が寄り集まって途切れ途切れにつながり、一筋の暗い蛇のように団地群を横断している。蛇は階段室を抜け、ゴミ置き場の塀の影を舐め、ベランダの下でいったん細くなり、また厚みを取り戻す。そこに、ピンで留めた赤い丸が重なる。被害者宅の位置だ。


「偶然にしては、でき過ぎだ」


 口に出すと、紙の上の赤い丸が微動だにしないのが可笑しくなる。事件はいつもこうだ。現場は無秩序に見えて、誰かの秩序の上を歩かされる。私が見ている秩序は、可視域という名の管理された光、死角という名の管理された闇だ。闇は自然発生ではない。照明工事のスケジュール、予算の配分、カメラの角度、レンズの焦点距離、ポールの高さ。どれも書類に残り、押印で確定される。闇は、誰かの承認印で作られる。


 設置図の完全版を請求したが、市の担当は渋った。電話で応対した男は、声に笑いの癖があり、文末が少し上がる。疑問形の告げ方をする者に、確信はない。彼は言った。「このページは、業者の営業秘密でして」「個人情報も含む形で」「今すぐは難しいですね」。後日届いたファイルは、スキャンの途中で紙送りが二度噛み、中央に白い帯が走っていた。偶然のような故意は、機械にも学習させられるのだろうか。白い帯が、ちょうど私が欲しいページの重要な図表の上を横切っている。白は、隠すのに向いている。


 私は白を想像で補った。現場写真、夜の光の滑り、住民の証言、ベランダの低い柵の高さ。被害者の一人は転落だった。遺族はいう。「ふだん、あの時間にベランダには出ない」。別の被害者はゴミ置き場の裏手で倒れていた。何かに追われたのか、誰かに呼ばれたのか。呼ぶ声は、見えないもののほうが強い。夜、赤いLEDが点滅する防犯カメラの存在は、人の歩幅を狭くし、背中を丸めさせる。見られていると思うと、人は足元を見落とす。足元に、段差がある。そうして人は落ちる。私はそういう落ち方を、いくつも見てきた。


 由紀子の故夫に関するファイルを調べると、十年前の自動車事故の記録が出てきた。県道沿いの植え込みに突っ込んだ車。運転席の男性は即死、同乗者なし。雨。路面にはスリップ痕はない。検視報告は簡素で、血中アルコール濃度の欄は空欄。空欄は、意図の形だ。保険会社とのやり取りのコピーには、「支払い手続」の文字のみ濃く、経緯の欄は短い。告発状が出されていたという噂は、新聞の縮刷版に小さく載っていた。差出人不詳、内容は黒塗りに近い。あの頃、私は交通課にいた。夜間の現場で撥ね飛んだガラス片を拾い集め、吸い込んだ排気ガスで喉を焼いた。誰もが「事故だよ」と言った。私は、交通課を出るとき、詰所の窓から夜明けの空を見た。事故と事件の境目は、空の色の違いほど曖昧だ。


 団地自治会と広告代理店の結びつきは、聞き込みの端々に出てきた。自治会長は、広告会社の顧問を兼ねている。「地域の活性化だよ」と笑った男の歯は白く、舌の動きが滑らかだった。彼は言う。「安心安全を可視化することは、住民の不安を抑えるために大事でね」「可視化のためには、投資が必要なんだ」。可視化、という言葉は、光を当てるという意味で使われる。私はその逆の意味を連想する。光を当てる場所があれば、当てない場所ができる。予算は光の向きを決める。光が当たらない場所に、何が置かれるかを決めるのは、誰だろう。


 夕方、課に戻ると、係長が書類の束を整えていた。彼は几帳面で、ホチキスの針を直角に打ち、角を揃える。その端に薄い茶色の錆が浮いているのを私は見た。錆は、飾られた几帳面さの縁に溜まる埃のように見える。私は彼にメモの草稿を渡し、「手口は可視性の調律です」と言った。係長は顔を上げずに、「言葉が強すぎる」と言った。彼の指は、紙の端の錆をなぞっていた。「精神的不安定による疑義、くらいにしとけ」。疑義、という言葉は、言葉の中で最も柔らかい刃物だ。切られた側の血が見えない。


 夜、由紀子の部屋の非常ベルが作動した。団地の通報システムは、ひとつ鳴ると連鎖するように別の棟のベルを震わせる。私は無線の雑音を背中に貼り付けるようにして階段を駆け上がった。夜の階段は、数を数えるためにある。踊り場の灰色、蛍光灯の帯、手すりの冷たさ、各階の匂い。カレー、洗剤、古本。夜は匂いが声になる。三階の廊下で、私はひとつの影を見た。扉の前に立つ細い影。影はベルの赤い点滅のたびに伸びたり縮んだりする。私が近づくと、影は動いた。扉の郵便受けに何かを差し込もうとしている。私が声をかける前に、影は駆けた。足音が床を蹴り、階段の鉄の段差が鳴る。私は追わなかった。身のこなしは軽い。住民のひとりだと私は直感する。ああいう足取りは、ここに住んでいる人間のものだ。


 由紀子の部屋の扉は閉まっていた。ベルは止まらない。私は管理人からマスターキーを借り、係長に無線で許可を取って、扉を開けた。室内は静かだ。室内の静けさは、外の喧騒よりも大きい。誰もいないリビング。テーブルの上に、子どもの宿題。解きかけの算数の問題。ベランダに続くサッシの向こう、暗い空気が流れている。私はサッシを開け、ベランダに出た。風が顔を撫で、遠くで犬が吠える。そこにあるはずのものがなかった。ベランダの上の角に取り付けられたカメラが、外れている。ねじ穴が二つ、空を向いて口を開けている。コードは壁に沿って垂れ、切断の痕はない。落ちていない。外した者が持っていった。


 私は内側からベランダの手すりに手をかけ、身を乗り出して下を見た。真下の地面は暗く、照明の円がそこに落ちる。円の外は灰色の海で、ゴミ置き場の塀の影が黒い島のように見える。その島とこちらを結ぶ細い渡しの上で、人は不意に立ち止まる。私は想像する。もしここに光が一瞬だけ点いたら。もし別の場所の照明が一瞬だけ落ちたら。人は、足を踏み出す場所を誤る。誤るように仕向けられる。恐怖は、音でも作れる。非常ベルの音は高く、速い。人の心拍を煽る。心拍に足が同調する。足は、段差を高く見積もらない。私はベランダから部屋に戻り、サッシを閉めた。ガラスに私の顔が薄く写る。薄い顔。眠りの浅い目。


 翌朝、係長は報告書の文言を直した。「可視性の調律」は「精神的不安定による疑義」へ。「ベランダ側カメラの意図的外し」は「落下の可能性あり」へ。可能性は、責任から遠ざかるための舟だ。舟に乗せれば、どこへでも行ける。私は言わなかった。言っても、書類の角は揃えられ、錆は増えるだけだ。課の空気は硬く、コップの水の表面張力のように張り詰めている。指をつければ、溢れる。だから誰も指をつけない。


 昼休み、私は庁舎の裏の自販機で缶コーヒーを買い、駐車場の端のコンクリートブロックに腰を下ろした。風が強く、紙カップのゴミが転がる。空は快晴で、遠くの送電線がピアノの弦みたいに見える。私は携帯を取り出し、地図の写真をもう一度見た。灰色の回廊は、陽の下でも灰色だ。明るい場所に出したからといって、闇の性質が変わるわけではない。私は、告発状の行方を考える。誰かが書いた紙。誰かが読まずにしまった紙。紙は、しまわれるためにある。公的記録は、しまうために作られる。しまい続けた結果、棚が重くなる。棚が重くなると、地面にひびが入る。そのひびに、私たちは気づかないふりをする。足元を見ないで歩く。歩きながら、スマホの画面を見ている。画面の中の赤い点滅は、危険を知らせるはずだった。いつの間にか、危険を呼び込む合図になった。


 夕方、自治会の集会所で聞き取りをした。長テーブルの上に配られたペットボトルの水は、冷えていない。自治会長は相変わらず笑っていた。広告会社の名刺を差し出され、「連携を密に」と言われた。何と何が連携するのか、彼は言わない。彼の背後の掲示板には、色鮮やかなポスターが並び、子どもたちの描いた絵が隅に追いやられていた。絵のクレヨンの線は柔らかい。ポスターのグラフィックは硬い。硬いものは、柔らかいものを押し出す。私はその押し出しの音を、耳の奥で聞いた。


 夜、課に戻ると、机の上にホチキスと針の箱が置いてあった。係長が私を見て言った。「明日までにまとめてくれ」。私は頷き、机に向かった。書くとき、私の手はいつも少し震える。震えは、恐怖ではない。体の中の小さなエンジンが回転を上げる音だ。私はメモの最後の行に、言葉を置いた。「公的記録は、事実の棺桶だ」。それは比喩ではなく、経験則だ。棺桶は、美しく仕上げられる。角は滑らかで、金具は光る。中に何が入っているかは、蓋が閉まれば見えない。


 私は保存ボタンを押し、プリンタに出力をかけた。紙は温かく、インクの匂いが指に移る。ページを重ね、角を揃え、ホチキスを構える。針が紙に入るときの音は、短く高い。小さな銃声のようだ。私は二箇所を留め、背筋を伸ばした。机の上に残った針の欠片が、光に反射して、微かにきらめいた。人が死ぬときにも、こんなふうに小さな破片が残る。破片は掃除機に吸われ、集塵フィルターに溜まり、誰にも見られないまま捨てられる。私は破片を指先でつまみ上げ、ゴミ箱に落とした。底に当たる軽い音が、部屋の四隅に跳ね返る。


 窓の外で、風が音を消した。遠くでまた、犬が吠えた。団地の上に、赤い点滅が浮かんでいるように思えた。私はメモのコピーを封筒に入れ、係長の机に置いた。封筒の上に、針の錆の色が薄く移った。私は電気を消し、部屋を出た。廊下の蛍光灯が一拍遅れて点く。足音が、静かな建物に自分の存在を刻印する。私は階段を下りながら、胸の中で数を数えた。段差の数。落ちるまでの数。落ちないように数えるのではなく、落ちたときに誰かが数えられるように。記録は、いつも少し遅い。遅れて届く記録は、いつもきれいだ。きれいに整った紙束を抱えて、私は外に出た。夜の空気は、紙の匂いを軽く洗う。洗われた匂いは、すぐにまた染みつく。


 駐車場の暗がりで、誰かのスマホの光が浮かんでいた。顔は見えない。光だけが顔だった。光は往復する。押された画面の向こう側で、誰かのハッシュタグが点滅する。点滅は可視化の合図であり、招き灯でもある。私は車に乗り込み、エンジンをかけた。エアコンの風が紙を揺らす。紙は軽く、軽いものほど、重い。私はハンドルに手を置き、しばらく動かなかった。ラジオから、天気予報の声が流れた。明日は晴れ、洗濯日和です。私は窓の外の団地を見上げた。ベランダの影は、夜の中で静止画のように止まっている。そこに、カメラのない角がある。角は、どこにでもある。角は、いつも人間の形をしている。


 私はギアを入れ、ゆっくりと車を出した。ヘッドライトがアスファルトの白線を照らし、線はまっすぐに見える。まっすぐに見えるものほど、曲がっている。曲がっているものほど、まっすぐだと信じたい。信じたいものは、すぐ信じられる。信じることは、疑うことよりも楽だ。私は飲み込むように息を吸い、吐いた。吐いた息の白さはない。季節はもう暖かい。暖かいと、気づきにくい。寒さは体に警告を出す。暖かさは、警告を包む。包まれた警告は、うたた寝を誘う。私は眠らないように、指先の傷を爪で押した。今日、ホチキスの針が少し刺さったところ。痛みは、可視化の最後の拠り所だ。痛みがあるうちは、まだ見える。見えているふりでも、見えている。


 庁舎の門を出るとき、守衛が軽く会釈をした。私は同じ角度で返し、夜の道路に出た。街灯が一定間隔で並び、明るい円が連なる。円と円の間に、見えない回廊がある。そこはいつも、誰かのために空けられている。私はその間を走り抜ける。走り抜けながら、思う。もし私のメモが、また白い薄紙で隠されれば、私は次に何をするだろう。次こそは声を上げると、私は今は思う。今はいつも、正しい。正しさは、夜明け前の空の色をしている。明るくなると、色は変わる。私はその変化を、何度も見てきた。変わるたびに、紙の色も変わる。紙の色が変わるたび、私の字は薄くなる。


 家に着く直前、ポケットの中の携帯が震えた。通知欄に一行。非常ベル作動。場所:別の棟。時刻:いま。私は方向指示器を出し、ゆっくりとUターンした。ハンドルの感触は軽い。軽さは、何かを見落としている合図だ。私はアクセルを踏んだ。踏み込みは浅く、音は静かだ。静けさは、長い廊下のように伸びる。その廊下の先に、私はまた紙を置くだろう。紙の上に、言葉を置く。言葉は、棺桶の蓋にもなる。私はそれを知っている。知っているから、書く。書くから、隠される。隠されるから、また書く。夜が長くなるたび、その往復は滑らかになる。滑らかさは、熟練の別名だ。私はまだ、拙い。拙さだけが、私を人間の側に留める。


 非常ベルの赤い点滅が、遠くに見えた。点滅は、まぶたの裏にも残像を残す。その残像の中で、誰かが落ちる。落ちる音は聞こえない。聞こえないように、音は作られている。私は車を止め、走った。走りながら、胸の中で数を数える。段差の数。躓くまでの数。人が紙になるまでの数。紙は、軽い。軽いものは、重い。重いものは、軽くされる。私は走り続けた。夜の団地は、息を潜めているように見えた。潜める息は、長い。長い息の先に、朝がある。朝は、記録を新しくする。新しくされた記録は、きれいだ。きれいなものは、信用される。信用されるものは、よく眠る。眠らない者だけが、起きていることを知っている。私は起きていた。起きているふりではなく、起きていた。起きている者の足音が、廊下に増え、また減った。私はベルの下に立ち、静かに手を伸ばした。赤い光が指先でまたたく。光は、見つめ返す者の目を好む。私は目を細めた。そこに、見えない顔がある。顔は、いつも可視化の外側にある。私は、目を離さなかった。目を離さないことだけが、今夜の私のメモだ。明日になれば、このメモもまた、どこかの針で留められるだろう。針は小さく、錆びやすい。錆びた針の色だけが、記録の縁で、ほんの少しだけ真実に似ている。


第3話 記者の手記

(視点:千尋/地方紙記者・元遺族)


――章頭資料:広告出稿表(黒塗り)

[年度:令和6年度/媒体:コミュニティ紙・街頭デジタルサイネージ・団地掲示板アプリ内スポンサード枠/出稿主:■■■企画、■■市安心安全推進協議会、■■信用金庫、■■建設 ほか多数(以下、黒塗り)]

[備考:自治会「安心安全だより」同梱広告連動キャンペーン/タグ連携オプション:#まもる町、#見守り強化、#不審者情報/KPI:PV、スクロール完遂率、シェア件数(値すべて黒塗り)]


                     *


 紙の匂いはもう、あまり好きじゃない。輪転機の油に混ざった古いインクの匂いは、ひと昔前の正義感の名残りみたいに、肺の奥に澱んでいく。私がここで働き始めた頃、記事は真実に向かって走る足で、誰かのための杖だった。いまは違う。PVの階段を昇るための、手すりの角度を測る仕事だ。

 「加害者家族」という単語が、編集会議の卓の上で毎日ひっくり返される。誰の顔写真なら、何本分のバナーが回るか。何文字目で泣かせば、完読率が伸びるか。私はそこで、必要な数字を積み上げる人間として、長くやってきた。

 そのたびに胸のどこかが削れて、削れた粉が喉に貼り付く。咳をすれば、同僚に心配される。私は笑って「喉弱くて」とごまかす。ほんとうは、姉の最期の夜のことを、喉が忘れられないだけだ。


 由紀子の名前が、団地掲示板のトレンドを占領したのは先週の金曜。主婦連続刺殺のニュースの横で、見出しに踊る言葉は早くも“犯人は近所”“子の不登校”“生活保護”“精神疾患”。それらに妙な既視感があると気づいたのは、週末、警察発表の待機で時間が空いた時だった。私は自分の端末で、炎上のハッシュ群を洗った。

 単語の連結、投稿時刻の刻み方、画像の解像度。砂の中の貝殻を拾うみたいに、細部を集める。見えてきたのは「偶然」の顔をした規則性だ。初動拡散の約四割は、十アカウントに集中していた。番号の末尾が似ている、生成されたばかりのアカウント。投稿文の癖が同じ。句点の前に半角スペースを置く癖。画像は、同じ機種のカメラで撮影され、同じアプリのフィルタがかけられていた。


 時間を軸にずらして重ねる。二十三時四十二分、由紀子のドア写真が匿名投稿される。その五分後に、自治会の「安心安全だより」がアプリ内でプッシュされる。「夜間の見守り強化のお願い」。そこに、見慣れないタグがついている。#不審者対策 #まもる町 ……そして、#殺人鬼の家。

 画面の前で私はしばらく動けなくなった。自治会がそんな過激なタグを使うはずがない。けれど実際に、プッシュのスクショにはそう記されていた。差し替えが間に合わなかったのか、五分後の同じ配信ではタグが消えている。

 誤配信。ヒューマンエラー。そう言って済ませるには、タイミングが良すぎた。


 月曜、私は広告出稿表を見せてもらうために管理部の棚を開けた。予算額は黒塗りだらけ。だけど欄外の備考に、かろうじて読める手書きのメモがあった。「連動:■■■企画(与党系)」の文字。社名に付箋が貼られ、その上から太いマーカーで、誰かがさらに黒く塗りこめている。

 背中で、デスクの椅子が軋んだ音がした。

 「千尋、何してる」

 デスクの鷺沼が、私の肩越しに覗き込む。

 「自治会の配信、変ですよ。タグの入れ方が……ハッシュの動きが人為的です」

 「だから?」

 「だから、これは、住民が自然に怒った話じゃない。煽ってるやつがいる。金が動いてる。広告ベンダと、市の外郭団体が絡んでる可能性がある」

 鷺沼は、笑った。いつもの、数字の話をするときの笑い方。目尻は下がるのに、目は笑わない。

 「お前の信念は立派だ。でも、うちは新聞社だ。うちの紙面を信頼して広告を出してくれてる相手を、無根拠にぶっ叩く記事は出せない。やるなら、名前の出る『犯人』を持って来い。顔写真がきれいに抜けるやつだ。自治会やベンダは“構造”だろ。構造は紙面では死なない。PVにならない」

 「死ぬのは、人だけですか」

 口をついて出た言葉が、会議室の蛍光灯に弾かれて、私自身に落ちた。鷺沼は一瞬だけ目を伏せ、「昼は出るな。内勤に回れ」と言い、出稿表をそっと私の手から抜き取った。表紙に戻したその紙は、もう二度と開けない本のように固かった。


 姉のことを思い出す。

 あのときも、構造は紙面では死ななかった。死んだのは、台所で水の音を止められなくなったひとりの女だった。

 最初の火種は、小さな匿名の書き込みだった。「家庭内トラブルの声がする」。次に、近所の「見守り」が始まる。見守りという名の見張り。集合ポストに白い封筒。中に入った「通報しました」のコピー。誰が送ったかわからない。何度か通報されたあと、姉はパート先を辞めた。

 私は記事を書いた。「匿名社会の罠」というタイトルで、編集長に持ち込んだ。安っぽく、何も起こらない言葉だった。

 その三週間後、姉は風呂場で見つかった。水の音と、止められなかった何かの音が、耳の奥に今も残っている。私はその音を、何度も見出しで薄めてきた。薄めるたび、無味になっていくのに、喉だけが焼ける。


 夜、団地の外周道路を車で流す。取材帰りの癖で、現場の周りを一周しないと帰れなくなったのはいつからだろう。窓を少し開けると、草の湿った匂い。駐輪場に残る子ども用のヘルメット。

 信号待ちでふと見上げると、夜空をゆっくり渡る黒い影があった。最初は鳥かと思った。羽ばたかない。小さな赤い点が、一定のリズムで点滅する。ドローン。

 団地の棟と棟のあいだを、縫うように滑っていく。灰色の塊の間に、目だけがあるみたいだ。

 風のない夜だ。プロペラの音はアスファルトに吸い込まれ、私の耳には映像だけが直接流れ込んでくる。

 黒い眼。

 見ている。

 見ているのは、誰だ。


 車に戻ると、スマホの通知が光った。掲示板アプリのスレがまた伸びている。「上から覗き込んでるやつがいる」「ベランダの鉢が動いた」「防犯のため」「監視は愛」。愛、という文字に指が止まる。愛は、こんなふうに立体を失って、名詞になって、壁に貼り付けられてしまうのだろうか。

 私はアプリの管理画面を開いた。報じてはいけないやり方だと知りながら、ログの裏口を探す。仕事で習得した小道具は、誰のために使うのが正しいだろう。

 初動拡散の十アカウントのひとつのIPが、市役所の外郭団体のレンジに引っかかった。もうひとつは、与党系広告会社のオフィス。

 手が震えた。そんなもの、真っ当に記事にできるわけがない。できたとしても、社は受け取らない。

 車窓に黒い影がふっとかぶさった。ドローンが、私の真上で止まっている。ライトがひとつ点滅して、こちらの存在を把握したことを告げるみたいに一度だけ強く光った。

 私はエンジンを切った。静けさの中、プロペラの音だけが、遠くのトンネルの轟音のように続く。

 落ち着け。まず撮影だ。証拠を残す。

 スマホを上に掲げた瞬間、影はすうっと上がって、団地の間に消えた。

 追うことはしなかった。追ったところで、どこにも辿り着けない種類の目だ。登録番号が読める距離まで近づく勇気も、私にはなかった。


 翌朝、出勤すると机の上に青いクリアファイルが置かれていた。人事の朱印。「席替え」。

 席図には、私の名前が社会面から暮らし面の端へ移されている。貼り付けられた付箋には、鷺沼の字で「しばらく様子見」とあった。

メールに「取材中止」の件名。本文は三行。「団地案件、当面は他紙に譲る。うちは公式発表のみ。話を広げるな」。

 キーボードの上に手を置いたまま、私は首の後ろの皮膚が、少しずつ紙やすりで削られる感覚に耐えた。

 「広げるな」。

 広げないほうが、何かが守られるのなら、それは誰の何だろう。

 私の姉は守られなかった。

 由紀子も、守られない。

 紙は、守らない。

 守ることが仕事だと教えられた。新聞の最初のページに。最初の上司に。最初の正義に。

 守らなかったのは、私だ。PVを稼いだ指だ。私はこの指で、何人の「加害者家族」を、加害者に見えるように置き直してきただろう。光の当て方を、ほんの少しずらしただけで、影は濃くなった。濃くなった影の中に、誰かが落ちた。

 鷺沼が通りかかり、「無理するな」と言った。

 何に対しての言葉かわからない。彼の声はやさしかった。やさしさという言葉の上に、広告のバナーがふんわりと被さるのが見えた。

 私は頷くふりをして、PCを閉じた。閉じた画面に、歪んだ自分の顔が映る。輪転機の油の匂いが少し弱くなる。かわりに、遠い日の水音が近づく。


 記事にしなければいい、とふと考えた。

 記事にしないのなら、誰にも止められない。

 私がやるのは、紙面ではなく、遺稿だ。

 遺稿。

 誰かの生を、最後までまっすぐに並べて、置き去りにしないための文字列。

 姉に間に合わなかったことを、誰かでやり直すことは、傲慢かもしれない。でも、傲慢以外に残った手段を、私はまだ持っていない。

 遺稿の宛先は、由紀子。

 彼女の声を、私のほうへ持ってくる。

 私が持ってくるのではない。彼女が選んで、私の手に渡す。その形だけが、許される。


 昼休み、屋上のベンチで風を浴びながら、私は由紀子のアカウントにDMを書いた。言葉を幾度も消して、また打つ。彼女のタイムラインには、最近の投稿がほとんどない。代わりに、彼女の家を撮った誰かの写真と、誰かの憶測が積もっている。それが雪の重みなら、彼女の屋根はすでにしなっている。崩れる前に、支えを入れたい。

 「はじめまして。地方紙の記者の千尋と申します」

 よくある挨拶を、消す。

 「あなたを記事にしたことはありません」

 それも消す。

 姉に宛てるみたいに、私は書いた。

 「あなたの声が欲しいのではありません。あなたの呼吸が、文字の間に残る方法を、いっしょに探させてください」

 センチメンタルだ。だめだ。

 言葉を換える。

 「記事にはしません。紙面には出しません。PVにも広告にも繋げません。私は『遺稿』を編みたいのです。たとえば、あなたがいなくなったあとも、あなたの声だけが残るような、一度も燃やされない手紙の束のようなものを」

 ここまで打って、指を止めた。縁起でもない、と叱られるかもしれない。だが、縁起を担ぐ人たちが、彼女の玄関に「見ている」の紙を落としていったのだ。

 私は最後の一文を、シンプルに置いた。

 「あなたの声、渡してください」


 送信ボタンを押す前に、画面の外で風がひとつ大きくなる。ベンチの足に小石がぶつかる音。見下ろす駐車場の端に、黒いケースを抱えた男が歩いていく。箱の側面に、英語のステッカー。「UAS」。

 無人航空システム。

 男は背を向けたまま携帯を耳に当て、笑っているように見えた。

 私は息を吸い、送信した。

 「既読になりませんように」と、一瞬だけ祈る気持ちと、「既読になってほしい」という焦りが、喉でぶつかった。

 通知は来ない。

 私は屋上の手すりに額をつける。冷たい鉄の感触が、額の熱を吸い取る。

 椅子の脚が軋む音。誰かが背後で咳払いをする。

 振り返ると、鷺沼が立っていた。

 「風、強いぞ。落ちるなよ」

 「落ちません」

 「そうか」

 彼は手すりを見ない。視線は空の遠く、雲の切れ間の白いものを測っている。広告の枠かもしれない。

 彼が去ったあと、私はもう一度だけスマホを開いた。

 DMの横に、小さな「既読」の印はついていない。

 ただ、団地掲示板のトレンド欄で、昨日のタグが一段落ち、代わりに「#見守り強化週間」が上がっていた。

 バナーがやさしい色になっている。

 愛は、いつもやさしい色をして、刃を隠す。


 夜、アパートへ戻る道の途中、ラジオの交通情報が流れ、言い添えるように地域ニュースが読まれた。「自治会の防犯活動が評価され——」。語尾を飲み込む。

 窓の外に、また黒い影が滑った。

 目が、こちらを通り過ぎる。

 目は、決してまばたきをしない。

 私はハンドルを握り直し、信号の赤を待つ。

 赤はやがて、黄に、そして緑に変わった。

 緑になっても、車は少し遅れてから動き始める。その遅れの間に、人はたぶん何度でも考え直せる。

 私は思い直さない。

 記事にはしない。

 遺稿にする。

 誰にも読まれなくていい、という強がりは嘘だ。読んでほしい。彼女に、まず。もし叶うなら、彼女の子に、その次に。

 私は家に着くとすぐ、PCを開いた。白紙のページに、タイトルだけ打つ。

 「遺稿:まだ名前のない母へ」

 カーソルが点滅する。点滅は、あの赤い光と違って柔らかい。

 私は深呼吸をして、手記の最初の一行を書く。


 ——あなたの声は、まだ届いていません。だから待ちます。届くまで、呼吸の間をあけて、待っています。


 画面の隅。DMのアイコンが一瞬だけ跳ねた気がして、すぐ止まった。

 気のせいかもしれない。

 気のせいじゃないかもしれない。

 私はどちらでも構わないと思った。どちらでも、私は書く。

 「あなたの声、渡してください」

 その短い文が、既読にならないまま、夜が更けていく。

 上空のどこかで、黒い眼が、私たちの生活の長方形を次々と並べ替えていく。きっと明日のバナーの色も、やさしい。やさしい色の刃が、団地の角で朝日を受けて、目に見えない虹を作る。

 虹はきれいだ。

 きれいで、人を立ち止まらせる。

 立ち止まった人が、背中から押される。

 押す手は、にこやかだ。

 私は、にこやかな手の構造を、書く。

 紙がそれを許さなくても、文字は覚えている。

 覚えている限り、誰かの最期は「記事」ではなく、「手記」に変わる。

 机の上で、インクが乾くのを待ちながら、私は窓の外の暗さに耳を澄ます。

 遠いところで、また、かすかな羽音がした。


第4話 息子の録音

(視点:蓮/中学生)

――章頭資料:ボイスメモ自動書き起こし(誤変換多数)


23:41:01[生活音]れいぞうこのもーたー/ピッ(タイマー)/こどもの足音(※推定)

23:41:09[ささやき]「みは…られてる……」(※「見張られてる」?)

23:41:14[不明音]カチ、カチ(※金属/扉)

23:41:18[声(女性)]「…怖いときは…通報ボタン」

23:41:22[声(小)]「でも…わたしは…」

23:41:24[書き起こし失敗]ノイズ「…#さつ…にん……」

23:42:05[通知音]ピン(※投稿)

23:42:07[不明音]郵便受け開閉音/紙の落下

23:42:10[声(男か子ども)]「…ママ?」(※不明確)

23:42:12[書き起こし失敗](風切り音/回転音?)


 母がいなくなってから、うちの冷蔵庫は、夜になると喋るようになった。喋ると言っても、言葉じゃない。低い機械のうなりが、壁と床の隙間を這って、耳の内側にこびりつく。眠ろうとしても、音が喉の奥で泡になって、息を飲み込むたびに増える。

 母のスマホに残っていたボイスメモは、そんな音を何本も繋いでいる。日付の横に、小さく「買い物メモ」「ゴミ出し」「学校」と書かれているのに、どれを再生しても、冷蔵庫のモーターが出てくる。途中で、母の息遣いが被さる。深く吸って、浅く吐く。その合間に、かすれた囁きが落ちてくる。

 「見張られてる」

 何度も聞き直して、そう言っているようにしか聞こえないところで、一度だけ僕は、イヤホンを外してしまった。畳の上で耳が裸になると、現実のほうの冷蔵庫が、ちょうど同じ高さで唸っていた。音が二重になる。ひとつは録音の中、もうひとつは今ここで。二つの音はずれて始まって、いつかぴたりと重なる。その一瞬に、母の声が現れる気がして、僕は何度も再生をやり直す。

 母が消えた日の夜、アプリの書き起こしは、いくつかの文字を落としている。「さつにん」の部分だけ、ノイズに置き換わっている。機械は、知らない言葉を消す。人間は、知っている言葉でも、消す。

 学校の壁は薄くて、脈がある。朝のチャイムの前に教室へ入ると、すでにチョークの粉の匂いが漂っていて、それが血の匂いと混ざるのは、多分僕だけの錯覚だ。

 席に近づく前から、机の天板が見える。黒いマジックの線が、乾いて光る。

 「殺人鬼の子」

 曲線のところだけ太くなっている。笑っている筆跡だ。いつもと同じ顔で、教室の空気が少し早く回る。誰かが前髪を直し、誰かが消しゴムを落とす。先生が来る前の五分間は、噂の匂いが一番濃い。

 僕は机を拭かない。言葉は拭くと広がる。跡だけが残る。前の文字より薄くなった跡の上に、新しい言葉が重なる。

 今日の体育は、体操服の袋を開けるだけで終わった。柔らかい布地の内側に、同じ言葉が赤いペンで繰り返し書かれていた。縫い目のところにも、斜めに。何回も洗っても落ちないインク。生地が水を含むと、赤が濃くなる。

 僕は誰にも言わない。言ったら、写真になる。写真は広報になる。広報は、回復の物語を欲しがる。

 僕の机の脇に立ったのは、担任の斎田だった。新しいスーツの匂いがして、ネクタイの結び目が少し斜めだった。

 「蓮、ちょっと来られる?」

 こういう時の声は、いつもより少しだけ低い。廊下に出ると、掲示板の前に僕を立たせて、例の決まり文句を言う。

 「ひどいことを書かれて、つらいよな。先生は味方だから」

 僕は頷く。頷くと、味方の顔になる。

 斎田は続ける。

「学校としてもね、こういうことが起きた時にどう対応しているか、社会に発信する必要があるんだ。ほら、広報紙。来月号で“支える学校特集”をやる。で、蓮の写真を——もちろん、顔はモザイクだよ、安心して」

 「回復した遺族、のやつですか」

 口に出したら、斎田の目が少しだけ細くなった。

 「違うよ。そんな言い方はしない。『一緒に歩む』だ。君も知ってるだろ、言葉には力がある。誰かを傷つけない言い方を、僕らは選ばなきゃいけない」

 言葉には力がある。だから、誰かがそれを武器にする。だから、武器みたいな言い方を隠すために、別の言い方を選ぶ。

 斎田は、プリントを僕に持たせた。校庭で撮った集合写真に、僕が小さく写っている。笑っていないのに、口元だけが笑っているように見える。

 「蓮がここまで来た、という記録になる。悪いようにはしない。安心して」

 僕はプリントを見たまま、別の写真を思い出していた。母の居間を誰かが撮った写真。匿名のタグ。赤く固定されたコメント。顔のない「安心」。

 「安心、って誰のためですか」

 斎田は答えなかった。答えないことが答えのように、廊下の蛍光灯が少し唸った。

 家に帰ると、玄関の赤い点が一瞬光って、すぐ消えた。カメラは、僕の動きを知っている。靴の踵を揃えて置くと、母の癖を思い出す。どんなに急いでいても、靴だけは整える。整えないと、日常が崩れるのだと、母は本気で信じていた。

 居間のテーブルにスマホを置く。母のスマホは、コードが弱っていて、角度を少しでも変えると充電が止まる。母のメモは、角度が狂うのを嫌うみたいに、いつもきっちりと揃っていた。

 ボイスメモを再生する。

 冷蔵庫が喋る。

 母が息をする。

 隙間風みたいな囁きが、言葉にならないまま、音だけで僕の胸に触れる。

 「見張られてる」

 録音の中の母は、誰に向かって言っているのだろう。僕に? 自分に? 機械に? それとも、ここにいない誰かへ?

 僕はスマホをもう一台取り出す。自分のやつ。匿名掲示板を開く。昨夜のスレッドは、まだ上のほうにある。

 「“母を殺した人たち”を列挙する」

 最初にそう書いた時、手が震えた。人を名指しすることがどういうことか、僕は知っている。だけど、言葉が曖昧なままだと、曖昧なまま死ぬ。

 列挙の最初は、誰でもない「仕組み」だった。仕組みは痛がらない。だから、次に具体的な名前を書いた。自治会の役員。掲示板アプリの管理者。広告代理店の社員。地元の外郭団体の事務の人。

 スクロールが速くなる。通知が増える。バズるという言葉は、蜂の群れのことだ。蜂が巣から出て、ひとつの匂いに向かってまとまる。針は一本ずつなのに、群れになると塊になる。

 「ソースは?」

 「デマ流すな」

 「やっと言ったか」

 賛成と反対と興奮と憎しみが、同じ熱を持って画面の向こうで揺れる。僕の指は、その揺れに合わせて勝手に動く。

 「母の録音に、自治会のプッシュと同時刻の通知音が入っている。タグの連動のスクショがある。広告会社の社員と外郭団体のスタッフが、初動のアカウントを使っていた可能性がある」

 可能性、という言葉を置いたのに、スレッドは可能性を本当のことに変えようとする。

 「確定来た」

 来ていない。確定なんて、どこにもない。だけど、言葉は勝手に確定する。

 「身の危険に気を付けろ」

 「消されるぞ」

 「証拠、保存しとけ」

 保存。僕は「保存」の二文字だけに反応して、母のスマホを手に取る。

 保存できるものは、どれだけあるのだろう。冷蔵庫の音は保存できる。息遣いも。郵便受けの音も。だけど、母が台所に立っている影の温度は、保存できない。

 保存できないものを、誰かは捨てる。捨てられるたびに、保存できるものの価値が上がる。価値が上がるたびに、誰かの広告が増える。

 夜の団地は、昼より明るい。防犯灯が、新しいバナーみたいなやさしい色で光っている。緑でも青でもない、安心のための色。安心のために、空の暗さが足りなくなる。

 僕は階段を上がる。エレベーターの前で一度迷って、やめる。密室は、鏡がある。鏡は、顔を笑わせる。

 屋上へ続く扉の前は、いつも鍵がかかっているはずだった。今日は、少し開いている。風が押して、金属が擦れる音がした。

 押すと、簡単に開いた。空の匂いが、コンクリートの粉に混ざって、喉に刺さる。フェンスの向こうに、棟と棟が並ぶ。その隙間を、黒い点がゆっくり移動している。赤い光が、一定の間隔で瞬く。

 屋上の片隅に、グレーの箱がある。指先が勝手にそちらへ向かう。ドローン格納ボックス。前に階下の張り紙で、そんな言葉を見た。

 箱の蓋に触れると、一度だけピッという音がして、ゆっくりと開いた。

 機械の中は、思っていたより静かだった。白いプラスチックの枠の中に、細いケーブルが規則正しく走っていて、その先に、タブレットみたいな端末が差さったままになっていた。

 画面は、点いたまま。スリープしていない。

 図が表示されている。上から見下ろした団地の地図。色の濃淡。赤、黄、緑。

 「危険度スコア」

 タイトルの横に、英語が揺れている。英語はやさしく見える。知らない言葉は、刃先を隠す。

 母の部屋が、真っ赤だ。

 赤の中心に、白い数字。高い数値。何を基準に? 誰が決めた? いつから?

 画面の端に、小さな文字がある。

 「排除プロトコル:作動済」

 指が震えた。震える指が、画面のスクロールに触れて、勝手に次のページへ進んだ。

 ログ。

 時間。

 「23:42 アラートタグ同期」

 「23:45 自治会プッシュ配信」

「00:02 見守り班出動」

 ログの文字は、ただの記録なのに、人の動きよりも正確に見える。正確なものは、正しいものに見える。正しいものに見えるものを、人は信じる。

 僕は端末のスクリーンショットを撮った。保存先の選択肢に、見慣れないアイコンが並ぶ。クラウド、共有、転送。どれも同じ穴に繋がっている気がして、怖くなる。

 端末の横のケーブルに、母のスマホのコードを挿す。合わない。規格が違う。規格の違いで、繋がらないものは、いつも急に、遠くなる。

 僕は自分のスマホで画面を撮った。端末に映る端末。二重の光。二重の証拠。

 匿名メールのアドレスを開く。送り先は、今日ずっと頭の中で点滅していた名前。千尋。地方紙の記者。姉の話を書かないかわりに「遺稿」を編むと言った人。母のDMは既読にならないままだったけれど、僕は別の穴から投げることにした。

 件名を打つと、指が空中で止まる。

 「母の部屋が赤い」

 文章はそれだけにした。画像を三枚添付して、送信した。送信中のバーが伸びていくのを、息を止めて見つめる。バーが終わりに近づくほど、風の音が強くなる。

 成功、という小さな文字が出た。小さすぎて、目を細めないと読めないくらいの成功。

 蓋を閉めようとした時、足音がした。屋上の入口のほうから、ゆっくりと。音は一定の間隔で、やさしく近づいてくる。やさしい音ほど、怖い。

 僕は蓋を片手で押さえたまま、振り返る。

 誰もいない。風がフェンスを揺らす。

 足音の代わりに、声が現れた。

 「夜は危ないよ」

 男の声。階段の影から、背の高い人が出てきた。自治会の腕章。紺色のジャンパー。

 「防犯パトロール」

 腕章の文字を、男は誇らしげに見せた。

 「屋上は立ち入り禁止。鍵、かかってたはずだけどね」

 鍵が開いていた、と言いかけて、やめた。僕が開けたように聞こえるから。

 男は僕の手元に目を落とした。蓋の隙間から光が漏れている。

 「ああ、これ。君、触った?」

 「触ってません」

 答えは準備されていたみたいに、口から滑った。

 男は笑って、笑っていない目で、僕の肩の高さを測る。

 「噂の子だよね。お母さん、……心配だね」

 言葉が、刃と鞘の両方の顔をしている。

 「君のためにも、見守りを強化してるんだ。安心して」

 安心、という言葉が、今日三度目の顔を見せる。

 「帰りなさい。夜は危ない」

 僕は頷いて、屋上の扉に向かった。振り返らない。振り返ったら、笑わなきゃいけない気がするから。

 階段を降りる足は、僕のものだ。なのに、誰かが背中を押している感覚がある。押す手は、やさしい。やさしいはずなのに、背骨の間に砂利が挟まったみたいに痛い。

 エレベーターの前まで来ると、やっぱり足が止まった。階段で降りればいいのに、膝が笑って、大きい段差で揺れそうになる。

 ボタンを押す。ドアが開く。

 中は明るい。鏡が大きい。自分の顔が、左右に少し伸びている。

 乗る。ドアが閉まる。

 鏡の中の僕は、僕だけではない。肩のあたり、少し後ろに、黒い影が揺れた気がする。プロペラの音の残響かもしれない。屋上の風かもしれない。自治会の男のジャンパーの色が、目の底でまだ乾いていないのかもしれない。

 鏡に近づく。

 僕の目の中に、赤い点が一瞬、生まれて、消えた。

 どこからの光か、わからない。

 母のボイスメモの最後の秒数が、脳裏でちらつく。

 23:42。

 エレベーターの数字は、階を減らしていく。

 五、四、三。

 鏡に映る僕は、笑っていない。笑っていないのに、口元だけが笑っているように見える。広報の写真の中の僕に似ている。

 二。

 母の部屋の赤。

 一。

 「排除プロトコル」

 ゼロ。

 ドアが開く。夜の匂いが、薄くて、鋭い。

 足音。廊下の向こうに、誰かの影。

 僕は息を吸う。

 冷蔵庫の音がないときの、静かな家の空気を、思い出す。

 誰かの足音と僕の足音が重なって、エレベーターの中の鏡が、一瞬だけ、違う誰かの顔に歪む。

 僕は、目を逸らさない。

 逸らしたら、写真になる。

 写真になったら、安心になる。

 安心になったら、刃が隠れる。

 刃が隠れたら、また誰かの部屋が赤くなる。

 赤くなる前に、僕は歩く。

 ポケットのスマホは、まだ温かい。送ったばかりのメールの熱が、指に残っている。

 既読にならなくても、いい。

 いいと、今は思う。

 思えなくなったら、もう一度、屋上へ行く。

 その時、蓋はまた、開くのだろうか。鍵は、かかるのだろうか。

 わからない。

 わからないまま、僕は歩く。

 廊下の電灯のやさしい色の下で、落書きのインクが、乾いて、光る。

 「殺人鬼の子」

 その文字の曲線の上に、僕の影が重なる。

 影は、誰のものでもない。

 誰のものでもない影が、僕の足に絡みつく。

 僕はそれを踏む。

 踏んでも、影は痛がらない。

 痛がらないものを踏むと、人は強くなった気がする。

 強くなった気がするほうへ、人は進む。

 僕は進む。

 鍵を回す。玄関が開く。

 冷蔵庫が喋る。

 録音の中の時間と、現実の時間が、また少しだけずれる。

 ずれた隙間に、母の声が落ちてくる気がして、僕は息を止める。

 「見張られてる」

 囁きが、鼓動に重なる。

 僕は、録音を止めない。

 止めないまま、部屋の灯りを消す。

 暗い中で、赤い点は、光らない。

 光らないことに、少しだけ、安堵する。

 安堵は、刃を隠す。

 隠された刃の場所を、耳で探しながら、僕は床に横になる。

 天井の四角が、目を閉じても、目の裏に残る。

 目の裏の四角は、いつも少し赤い。

 赤は、昼間よりも夜のほうが、静かに見える。

 静かに見えるものほど、怖い。

 怖いものほど、耳がよくなる。

 耳がよくなるほど、録音の細いところが、はっきりする。

 母の息の、呼と吸の間。

 その間に、僕は小さく答える。

 「僕は、見ている」

 囁きの相手は、たぶん、僕だ。

 僕は、見張られているのではなく、見る側に残る。

 残るという言葉は、弱い。

 弱いけれど、弱いまま、僕は次の音を待つ。

 冷蔵庫のモーターが、ゆっくりと、ひとつ、音を落とす。

 落ちた音の跡に、隙間ができる。

 隙間に、風が入る。

 風が、鍵穴の匂いを運んでくる。

 鍵の匂いの向こうに、足音。

 足音は、さっきのやさしいやつかもしれない。

 やさしくないやつかもしれない。

 どちらでもいい。

 僕は、録音を止めない。

 止めたら、音が死ぬ。

 音が死ぬと、言葉だけが生き残る。

 言葉だけが生き残る世界で、誰が次に赤くなるのか、僕は知っている。

 だから、録音は、止めない。

 止めないまま、僕は眠らない。

 眠らないまま、朝を待つ。

 朝が来たら、僕はまた列挙を続ける。

 列挙は、罪ではない。

 列挙の順番だけが、罪になる。

 順番を間違えないように、僕は指を温める。

 スマホの熱で、指の先が、赤くなる。

 赤は、僕のものだ。

 誰かに塗られた赤じゃない。

 僕は、その赤を、画面の角に押し当てる。

 送信。

 送信中。

 成功。

 小さすぎる成功の文字が、暗い部屋に浮かぶ。

 僕はそれを、信じないでも、眺める。

 眺めることだけは、奪われない。

 今のところは。


第5話 黒い防犯カメラ


(視点:西岡/システムエンジニア)


――章頭資料:AI仕様書のコメントログ(英語交じり)


// RFP-19: Dynamic Patrol Reallocation based on Social Risk Score (SRS)

// NOTE (W.Nishioka): weight_sns = 0.15 → 0.30? (too high?)

// TODO: avoid “feedback loop” from rumor propagation

// PATCH from EAO (External Agency Org.) v1.7.3:

// add function induce_path(), purpose: simulate “natural accident scenario”

// REVIEW: “誘導”って何? (Define boundary or remove)

// COMMENT (Vendor-EA): “No actuator. Only light/sound/route guidance. People choose.”

// FIXME: ethics_flag = false → true ?

// CLOSED by PM: “運用で回収”


                         *


 黒い半球が天井に並んでいる。昼も夜も同じ顔で、ただ一点を見ていないふりを続ける。レンズの奥の赤い点は、ごくまれに瞬く。ヒトが無意識にやるまばたきとは違って、機械のそれは理由のある点滅だ。理由を知らないのは、いつだってヒトのほうだ。


 サーバールームの冷気は乾いている。ファンの回転が重ね書きした鉛筆みたいに音の層を作り、耳の奥でざらつく。ラックの前に立つと、青いLEDの列が規則正しく鼓動して、整然とした臓器のように見える。自分の鼓動は、そこまで整っていない。年相応の不規則さが混ざる。その乱れを、機械は好まない。機械は一定を愛する。一定を崩すものを、危険とみなす。


 「SNS上の危険度を重みづけし、監視強度を動的に再配置」——この文言を、提案段階のパワポに載せたのは、他ならぬ僕だ。地元紙の取材に応じたプレゼンで、僕は「ヒトの見回りを最適化するシステムです」と言い切った。カメラの数は変えず、ただ見るべきところだけを濃く見る。夜は暗く、昼は人通りが多い。季節や雨量やイベントで、危険の場所と時間は変わる。見張るのではない、見逃さないための配分だ——そう説明すると、拍手が起きた。自治会の役員がうれしそうに頷き、外郭団体の職員がメモを取り、与党系の広告会社の担当は静かに笑った。笑いの意味までは、そのときの僕は見えなかった。


 運用フェーズに入って、仕様は静かに増殖する。増殖はいつだってコメント欄から始まる。外郭団体から届いたパッチは、仕様書の余白に小さく添えられていた。「自然発生的事故(転落・溺死)を想定した“誘導”の実装」。僕は会議で手を挙げた。誘導とは何か、物理アクチュエータはあるのか、どの層の権限で誰が起動するのか。答えは決まっていた。「アクチュエータはない。あるのは光と音と動線の設計。死角の生成、照明の点滅、誤作動アラームによる誘導、ベランダ側の恐怖強化」。

 それだけで、人は落ちる、と担当は言った。

 「落ちませんよ」

 と僕は反射的に返した。

 担当は微笑んだ。

 「人は、落ちるんです。疲れていれば。夜中なら。音が三回鳴って、光が二回消えて、見慣れた通路に小さな影があれば、足はそっちへ向く」


 NDAの文字が目の前で太る。契約書の紙はどれも同じ匂いがして、吸気のたびに肺に触れる。妻の通院の書類に、保険会社のスタンプが押される音が頭の中で反復する。持病に対する保障は、勤務先が契約している団体保険で延長されている。会社にいれば家族は守られる。会社を敵に回せば、その逆がある。

 「倫理フラグを立てたい」

 と言うと、プロジェクトマネージャが笑い、スクリーンに映した表の一番右端を指差した。

 「倫理は“運用で回収”になってるから」

 運用で回収できるのは、落ちたものの位置だけだ。落ちた音は、回収できない。


 年明けから、市内の団地で主婦の連続刺殺が起きた。警察は「逃走中」と繰り返し、自治会の「安心安全だより」はプッシュの頻度を上げた。うちのシステムは、SNSのハッシュを拾い、危険度スコアに重みをかけ、カメラの注視優先順を並び替える。タグが濃くなればなるほど、カメラはそちらを“見る”。

 ある夜、ダッシュボードに赤い塊が強く浮かんだ。ある部屋の周辺が、通常の四倍の観測強度に跳ね上がる。僕はログを開いた。「#殺人鬼の家」。タグの重み付けは通常0.15、外郭パッチで0.30に増し、さらに「地域の不安」フィードバックで0.45に上がっていた。

 赤が、動く。カメラが、追う。人が、振り向く。光が、消える。アラームが、鳴る。ベランダの側に、影が増える。

 誘導は、起動しない。起動したことになっていない。

 でも、起動するように、設計してある。

 僕はその夜、家に帰ると、台所で妻が薬を数える音を聞いて、目を閉じた。錠剤が小皿に当たる音は、冷蔵庫のモーターとよく似ている。息を整えているはずなのに、音が先に整ってしまって、息のほうが追いかける。遅れた息は、階段で躓く人みたいに、どこかで転ぶ。


 翌朝、地方紙の記者から問い合わせが来た。名は千尋。メールの本文は短い。「危険度スコアの上振れが、自治会の広報と連動していませんか。『排除プロトコル』という文言がログにありませんか」。

 背中の皮膚が薄くなったみたいに、空気が直接触れる。千尋という名前は、最近、団地掲示板のスレでも見た。煽る側としてではなく、なにかを止めようとしている文体だった。

 僕は返信しなかった。返信しなかったが、画面を閉じずに、そのメールを最前面に残した。誰かが背中を押すとき、手のひらは見えないほうが、重い。


 午後の会議で、外郭団体の担当が「夜間の事故が増えている件は、自然減に向かっています」と報告した。自然減。言い慣れた言葉。自然の反対語を誰も持っていないから、こういう場では便利に使われる。

 僕は会議室の隅で黙った。黙ると、言葉が焦る。言葉は焦ると、意味のなかで滑る。滑った言葉が、運用という名前の網で回収される。

 会議が終わると、プロジェクトマネージャが僕の肩を叩いた。「夜の監視でトラブル。サーバールーム、見てくれ」「自治会の男たち、現場にいるから協力頼む」。

 自治会の男たちは、いつでも現場にいる。腕章をつけ、ライトを持ち、やさしい声で「安心」を配る。僕はその「安心」を組み込む係だ。配られる先がどこなのか、確かめる係ではない。


 真夜中、オフィスの照明は省エネモードに落ち、廊下が呼吸するみたいに暗く明るくを繰り返す。サーバールームの扉にカードをかざすと、少し遅れてロックが外れた。中は、機械だけの国だ。声は出してはいけない。出した声はパケットに変換され、ログに残る。ログは決して忘れない。

 僕はラックの前に座り、管理端末を開いた。

 ——ロールバック。

 システムを前の状態に戻す。その操作は、履歴を残す。残すからこそ、正しい。残してはならない場合だけ、正しいことが難しくなる。

 指が勝手に動く。英数字の列は、長年の癖でまっすぐに並ぶ。誘導モジュールのフラグを外し、重み付けを既定値に戻し、自治会のプッシュ連動を切り離す。

 次に、ログの外部退避。

 内部ネットワークから切り出したセグメントに、一時的にトンネルを開く。先週までなら、ここでエラーが出た。今夜は、通った。運は、いつだって悪いときほど優しい顔をする。

 プログレスバーが、ゆっくりと右へ伸びていく。薄い灰色の上を、白い帯が進む。指先が勝手に汗ばむ。人差し指の腹が、スペースキーの横に留まる。この位置を、こんなに長く覚えているのは、パソコンとピアノを弾く人間だけだ。僕はピアノを弾けない。


 ふと、画面の隅で赤い四角が一瞬揺れた。監視カメラの管理オーバーレイ。顔がある。顔の上に、赤い枠。

 ——私だ。

 レンズがわずかに寄る。サーバールームの天井にある黒い半球のひとつが、まばたきをやめる。僕の顔に対して、中心を合わせた。

 これは、仕様外だ。サーバールームのカメラは、顔を識別しない設定になっている。社員の顔は、見ない。見ないことになっている。

 見ている。

 見ている、に切り替わった。

 僕は椅子を引いた。床のキャスターがわずかに鳴って、その音が過剰に大きく耳に入る。

 ラックの影が、ゆっくりと長さを変える。照明が一段落ちて、ふっと戻る。点滅。誘導アルゴリズムの初期値は、二秒消灯、一秒点灯、二回反復。その通りの観測が、今、僕の頭上で再現されている気がした。

 扉のほうから、足音。一定の間隔で、柔らかく近づく。柔らかい足音は、やさしい足音ではない。

 僕は画面に向き直った。

 プログレスバーは、**98%**で止まっている。

 止まると、時間は膨らむ。膨らんだ時間の中で、冷却ファンの音は海に変わる。耳の奥に潮が入り、後頭部に重くなる。

 メールのアイコンがふと震えた。千尋からだ。「受け取っています。あなたが名前を出せないなら、私が代わりに構造の名を出します。あなたは、ただ事実だけを逃がして」。

 逃がす。

 逃がす先を開いているのは、僕だ。開いた穴の縁に、自分の指をかけて、体重を分散しているのも、僕だ。指が滑れば、穴は閉じる。穴が閉じれば、ログは沈む。沈めば、息は続く。息が続けば、妻は薬を飲める。

 赤い枠が近づく。

 扉の向こうに、人の気配。鍵の差し込み口の金属が、控えめな音で鳴る。開錠の光がひとつ、緑に変わる。

 僕は椅子の背もたれを握り、身体を少しだけ横にずらした。ラックの陰影が僕の肩を切り取る。逃げるという選択肢はある。逃げると、NDAが牙を見せる。守られてきた保険は、反対側に傾く。

 妻は、薬を数えて待っている。数は、正確でなければならない。僕は数に強い。それで食ってきた。

 画面に、微かな揺れ。**98%**の右側に、短い白い点が点滅した。まるで、こちらを励ますみたいな、根拠のない明滅。

 扉が開いた。

 黒い制服の警備会社の男、その後ろに、自治会の腕章。ジャンパーは紺色。やさしい色。

 「夜分すみません。システムに不審なアクセスがありまして」

 言いながら、男は僕の肩越しに画面を見た。見ている。赤い枠の点滅が、男の瞳孔のなかで小さく反射する。

 自治会の男が、やわらかい声で言った。

 「安心のためですよ。何かありました?」

 安心のため。

 僕は口を開いた。声は落ち着いていた。

 「ログのバックアップです。明日のリリースに備えて」

 嘘は小さいほうが強い。大きな嘘は、倫理が邪魔をする。小さな嘘は、運用で回収される。

 「社外転送は、規約違反ですよね」

 警備会社の男が笑った。笑っていない。

 「社内です」

 「では、その確認を」

 身分証を求める手が、こちらへ伸びる。手の甲に細い傷。傷は古い。古い傷は、語らない。

 千尋から二通目のメール。「屋上のドローン格納ステーションのログに、あなたの“誘導”が残っています。あなたひとりのせいにさせない。構造を出します。こちらで請求します。あなたは、今だけ逃がして」

 逃がす。

 僕はキーボードの上に手を置いた。ショートカットで、VPNトンネルの先の先を切り替える。外郭団体のセグメントを経由しない経路。かろうじて残っていた旧運用の穴。

 扉のすぐ外で、別の足音。二人目、三人目。靴の音の高さの違いで、重量がわかる。

 赤い枠が、僕の顔から胸へズレた。胸の上で止まる。心臓の位置を測っているみたいだ。手がわずかに震える。震えは、仕様にない。仕様にない挙動は、いつだって危険だ。

 「西岡さん」

 自治会の男が、名前を呼んだ。いつ教えた? 覚えていない。名札はつけていない。

 「あなたは、いい人だと思う」

 いい人。やさしい言葉。

 「だから、協力を」

 協力。

 僕は、Enterを押した。

 白い帯が、**98%**からわずかに右へ、動いた気がした。気がしただけかもしれない。

 警備会社の男の手が、僕の手首のほうへ伸びる。掴む前の距離。掴む前の空気。

 天井の黒い半球が、まばたきをやめる。

 ラックのファンが、一瞬、音程を変える。

 画面の隅で、ログの小さな数字が、時間を刻む。

 ——23:42。

 あの時間だ。

 冷蔵庫のモーターの音が、遠い記憶の底から浮かぶ。僕の家の、古い冷蔵庫。氷が落ちる音。妻が薬を数える音。息の音。

 僕は、目を閉じずに、Enterをもう一度押した。

 扉の向こうの声が、すこし低くなる。

 「やめてください」

 やめない。

 やめない、は簡単だ。続ける、は難しい。

 **98%**の右に、細い白い線が、ほんの刹那、延びた。

 延びなかったのかもしれない。

 延びたと思った僕が、ここにいるだけかもしれない。

 赤い枠が、さらに強く、僕の体に密着する。

 警報の音が、遠くで鳴る。誰かが鳴らした。誘導の初期音程。低い、短い、三回。

 扉が、開き切った。

 やさしい色のジャンパーが、部屋の空気を少し暖める。

 僕は画面から目を離さない。

 離したら、写真になる。

 写真になったら、安心になる。

 安心になったら、刃が隠れる。

 刃が隠れたら、誰かが落ちる。

 僕は、落ちない。

 落ちないために、指を、キーの上に置く。

 冷気が、指先の汗を冷やす。

 汗の塩が、プラスチックの匂いを引き出す。

 Enter。

 ——通信途絶。

 小さな赤字が、白い帯の下に現れた。

 帯は、**98%**の位置に、戻りはしないが、進みもしない。

 サーバールームの空気が、少しだけ薄くなる。

 「連れていきます」

 制服の声が、近い。

 「事情を」

 事情は、ログにある。

 ログは、まだここだ。

 ここにあるものは、ここで死ぬ。

 死ぬ前に、逃がす。

 僕は、もう一度だけ、別のキーを探す。

 F12。非常停止。

 押せない。

 押したら、すべてが止まる。止まったまま、誰かの赤が増える。

 千尋へ、短い返信を打つ。

 ——“98”。

 数字だけ。

 送信。

 送信中。

 成功、の文字は出ない。

 出ないまま、扉の音が、背中の骨に触れる。

 骨が、冷える。

 目の前の白い帯は、静かだ。

 静かなものほど、怖い。

 怖いものほど、耳がよくなる。

 耳がよくなるほど、ファンの音の細部が増える。

 赤い枠の点滅が、一定になる。

 一定は、機械の愛だ。

 愛は、やさしい色をして、刃を隠す。

 僕は、刃の場所を、指で探す。

 押せるキーは、もうない。

 押せるのは、歯だけだ。

 歯を、噛む。

 噛んだ音は、ログに残らない。

 残らない音で、いまを繋ぐ。

 黒い防犯カメラの眼は、僕の顔の輪郭を、やさしい色に塗りつぶした。

 塗りつぶしの向こうで、白い帯は、**98%**のまま、光っていた。


第6話 匿名の家


(視点:千尋=編纂者/総反転)


――章頭資料:編者あとがき(公開不可の草稿・抜粋)


本稿は紙面に載せない。

署名もしない。

ただ、記録のために編んだ。

証拠は98%まで揃った。

残る2%は、あなたの呼吸の温度で埋まるはずだった。

けれど、呼吸の主は端末の向こうで改変される。

そのやり方を、私はここに置く。

置いた瞬間、私たちは“守るため”に目を伏せてきたことの、共犯になる。



 ファイル名は「匿名の家」にした。どんな名前を与えても、読み手はすぐに意味を探し、その意味が目の前の壁の色を変える。白が安全、灰が中立、赤が危険。簡単で、間違えやすい。

 机の上に四つの束を置く。

 一つ目は、由紀子の未送信メモ。下書きフォルダに残っていた「送られなかった長文」。文末だけが何度も修正され、送信ボタンの手前で氷のように固まっている。

 二つ目は、蓮の録音。冷蔵庫のモーター音に重なる母の息。時刻は23:42の周辺で何度も波打つ。

 三つ目は、坂上の改ざん前メモ。市の「安心安全だより」編集担当。上書き保存される前に残った自動バックアップ。ハッシュタグの連携スクリプトと、消し忘れられた注釈。

 四つ目は、西岡のログ。**98%**で止まった退避の断片。トンネルの向こうから届いたスクリーンショットの粒子は荒いが、数字は正確だ。


 順番は、紙の都合ではなく、呼吸の都合で並べる。読む速度は心拍に似る。早く読みたいときほど、行間が広がる。間に落ちるのは、書き手の声だ。

 私は、それらの行間に手を差し入れ、抜け落ちた骨を拾い集める。骨はどれも、やさしい色で塗られている。防犯灯の色、広報紙の見出しの色、AIのダッシュボードの配色。やさしい色は、刃を隠す。


 由紀子の未送信メモには、言いかけて止めた文字が多い。

 「私が“空気を読めない”と言われるのは本当です。だって、空気は読めません。空気は、吸うものだから。吸って、吐くものだから。あなたたちは、空気に文字を書いて、それを私に読めと言う。読めないと怒る。吸えない空気で、私を呼吸させようとする」

 未送信の理由は、いつも同じだ。「書いたら、写真になる」。写真になった言葉は、“安心”の飾りに使われるから。


 蓮の録音には、「見張られてる」という囁きがある。機械の書き起こしはそれを「見晴られてる」と誤変換した。見晴らすのは景色、見張るのは人。人が景色になると、責任は薄まる。景色が人になると、罪は濃くなる。

 23:42。郵便受け。紙の落下音。

 その音が、坂上のメモのタイムスタンプに合致する。「自治会プッシュ、ハッシュ追加。#見守り強化 #まもる町 #殺人鬼の家(仮—テストタグ)」。括弧付きの仮タグは、五分後の版では削除されている。誤配信。運用で回収。

 同じ時刻、西岡のログに「アラートタグ同期」「誘導フラグ:armed」の記録。仕様書上は誰も引かないはずのレバーに、軽く指がかかった痕跡。押してはいない。押したことになっていない。でも、押せないように設計されていない。


 四つの束を重ねると、紙の角がぴたりと揃わない。すべてが丸く削れているからだ。削れた角は、誰かの手の形の記憶。私はその丸みを、そっと撫でる。

 犯人を探してほしい、と言われた。デスクは「名前の出る犯人を持って来い」と言った。紙面は、顔写真を欲しがった。

 私はここでひとまず、顔を剥ぐことにした。

 “連続刺殺”の多くは、刃の手応えを持たない。報道では「事故死」か「自死」として通り過ぎた。だが、呼吸の間に挟まった光と音のゆらぎを重ねていくと、その多くが“誘導死”と呼ぶほかない軌跡を描く。

 誘導は、法的には“何もしていない”。物理アクチュエータはない。あるのは、死角の設計、照明の点滅、誤作動アラームの音程、怖がらせる角度。

 それだけで、人は落ちる。

 落ちた音はログに残らない。

 残るのは、AIが「見守り」のために再配置した視線の痕跡と、「安心安全」のタグに誘われた人の流れ。

 犯人は、ひとりではない。

 匿名アカウント群×自治会×外郭団体×警備会社×沈黙する報道。

 連なる“×”は、掛け算だ。乗数が増えるほど、やさしい色は濃くなる。濃くなるほど、刃は深く隠れる。


 私は公開を躊躇った。98%まで積んだログに、2%の“名指し”が足りない。名前を出さずに構造を描けば、“陰謀論”というラベルが貼られる。名前を出せば、法務が動く。

 メールの下書きに、幾つもの「もし」を並べる。「もし公開したら」「もし沈黙したら」。沈黙は容易だ。沈黙の上に、制度は積み上がる。

 そのとき、届いたのが蓮の最後の音声だった。

 件名は「ママの声、聞こえる?」

 添付の音は、ノイズに紛れた低い息から始まった。女性の声。

 「——やめて」

 蓮は書いている。「母の声だと思う」

 私は直感的に違うと思った。由紀子の録音を、何度も聴いてきたから。息の吸い方、語尾のルの音の落とし方、喉奥で擦れる子音の癖。違う。

 声紋の比較を、社内の機材ではできない。私は個人の古いツールで、近似の波形だけを重ねる。音量は小さく、解析は粗い。粗くても、方向はわかる。

 過去のシティプロモーションの動画の中、広報課のPRナレーション。同じ癖がある。

 非常勤スタッフの名前が候補に浮かぶ。SNS監視を外注された広告会社の下請けとして、アカウントの“健康管理”も兼務している、という噂。噂を噂として扱うことしか許されてこなかった自分が、その噂に初めて形を与えた瞬間だった。

 彼女の個人ブログは、何も言わない。目立つものは何もない。けれど、広告会社の内部向けスライドに「危機時のナラティブ再配列」というセクションがある。声の差し替え。代行投稿。タグ同期。

 “声”は、作れる。

 彼女の声は、由紀子の端末に植えられ、タグ発火の時刻に合わせて投稿を代行した。

 「#殺人鬼の家」

 蓮の録音の23:42に、小さく重なっている通知音は、あの代行の音だ。

 私は悟る。

 私たちは“守るため”に、見ないふりで殺してきた。

 議事録に残らない隙間で、ひとつずつ、息が止められた。

 私の姉の、あの夜の水音も。

 由紀子の、あの夜の赤い点滅も。

 西岡の、サーバールームの冷気も。

 坂上の、括弧付きの仮タグも。

 記者席から見下ろしていたものが、気づけば、私の机の上で呼吸を止めている。


 公開のボタンから、私は指を離した。

 新聞社のCMSに上げるのは、違う。紙は、構造を薄める。枠の都合で、刃が丸くなる。

 私は別の窓を開いた。

 由紀子の、個人ブログ。

 最後の更新は、子の遠足の前夜。写真はぼやけ、文章は短い。

 ログイン情報は、蓮から預かった。

 「お母さんの声を、そこに置きたい」

 蓮は言った。

 私は管理画面に「匿名の家」をアップロードする。

 修正箇所は最小限。名指しは、必要最低限。

 声紋の一致は、匿名化してグラフだけ。

 西岡の98%は、画像のまま。

 坂上の仮タグは、あの括弧も含めて。

 由紀子の未送信は、文末をそのまま。

 蓮の録音は、ノイズごと。


 深夜、団地の掲示板に新しい張り紙が出た、という連絡が入る。

 写真が添付されている。

 「この区域では、防犯AIがあなたを見守っています」

 やさしい色の地に、丸みのあるフォント。

 見守り、という言葉の上に、黒い半球のピクトグラムが微笑んでいる。

 私は、公開ボタンにカーソルを置く。

 画面の隅、ファイル転送のステータスが進む。

 “ログ転送:100%”

 由紀子の端末に、四つの束が吸い込まれる音は、聞こえない。

 聞こえない音ほど、重い。

 私は「公開」を押す。

 カチ、と小さな音が鳴る。

 押したのは、私の指だけれど、押させたのは、あの夜の水音だ。

 公開先は、新聞社のCMSではない。

 由紀子の、個人ブログ。

 タイトルは「匿名の家」。

 冒頭に、私は一行だけ付け足した。

 ——これは、記事ではありません。呼吸の記録です。


 公開から数秒間、世界は何も変わらないふりをする。

 やがて、通知の光が増える。

 団地の夜の窓に、スマホの灯がひとつ、またひとつ。

 ベランダの奥、レースのカーテンの向こう、やさしい色の光が揺れる。

 匿名の家は、団地の数だけある。

 匿名の家の内側に、誰かが自分の顔を映す。

 鏡の前で、前髪を直し、ため息をつく。

画面に「共有」ボタンがふわりと浮かぶ。

 共有はやさしい。やさしいものほど、刃を隠す。

 私は、ブラウザをいったん閉じる。

 仕事用メールには、法務からの連絡がすでに届いているはずだ。

 届いていなくても、届く。

 私は窓辺に立つ。

 遠く、別棟の屋上。格納ボックスの蓋は閉じている。

 閉じているはずだ。

 閉じているのに、風の向きが変わると、わずかな隙間が光る。

 その光が、誰かの足を、あの方向へ誘う。

 誘導は、起動しない。

 起動したことになっていない。

 起動しないと記録されながら、起動するように設計されている。

 それでも、今夜だけは、光が一定に保たれている気がする。

 錯覚でもいい。

 錯覚の間に、誰かが読み終える。


 「既読」の印が、由紀子のブログの管理画面にはない。

 読者は顔を持たず、家を持つ。

 彼らの家の窓が、数えられないくらい光る。

 由紀子の部屋の窓は、暗い。

 暗いままで、いい。

 暗い部屋の中で、冷蔵庫のモーターが、息を合わせる。

 私は耳を澄ます。

 23:42。

 郵便受けの音は、もうしない。

 かわりに、小さな拍手のような音があちこちから聞こえる。

 画面をタップする音。

 スクロールする指。

 ためらいの呼吸。

 ためらいが、2%を埋める。

 私は編者あとがきを閉じる。

 公開不可の草稿に、たった一言だけ、追記する。

 「見ている、から、見えるへ」

 見張るのではなく、見晴らすのではなく、見えること。

 見えることは、責任だ。

 責任は、やさしい色をしていない。

 刃の形をしている。

 けれど、その刃の先に、やっと風が通う。

 風は、鍵穴の匂いを薄める。

 鍵の匂いが薄まれば、戸は開く。

 開いた戸の向こうに、匿名の家が、等間隔に並ぶ。

 家々の中で、スマホの光に照らされた顔が、いくつもいくつも、こちらを見る。

 私は、見返す。

 見返すのは、報復ではない。

 呼吸の回復だ。

 息を吸う。

 吐く。

 画面のどこかで、誰かが「保存」を押す。

 保存されたのは、証拠と、声と、間だ。

 間の中に、二人分の呼吸が入り込む。

 母と子。

 加害と被害。

 見守りと監視。

 紙と網。

 私と、あなた。

 そのどれにも、名前はまだ乗っていない。

 名付けは、これからだ。

 これから、あなたの家の中で。

 あなたの指で。

 あなたの、やさしくない色の目で。


 夜が深くなる。

 団地のどこかで、ドローンのプロペラが一度だけ鳴り、すぐ止む。

 止んだ音は、記録されない。

 けれど、光は残る。

 窓という窓に、小さな矩形。

 世界の形は、いまそれに似る。

 矩形の内側にいる自分自身を、誰もが、はじめて「見る」。

 その視線の重さが、やがて、構造の名前になる。

 私は、スクリーンの明滅から目を外し、机に置いた四つの束に手を重ねる。

 由紀子。

 蓮。

 坂上。

 西岡。

 そして、書き手の席で長く息をひそめていた私。

 紙は、まだ乾いていない。

 乾く前に、風が通う。

 風の通った紙は、波打ちながら、静かに、立つ。

 匿名の家々の、ほんとうに小さなざわめきを、支えるように。


(了)

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