01:位相世界
岩佐 綾は混乱中だった。
ほんのさっきまで友人の芹澤なずなと学校からの帰宅途中だったはず…なのだが、彼女の姿はおろか、周囲に人の気配すら無くなっていたのだ。
そもそも、自分の街ですら無い。
周りを見渡すと普通の町並みでは有り、看板などから日本で有る事は間違いないと断言できるのだが、耳が痛くなるような静けさだ。
様々な騒音や人の会話などは言うまでもなく、生活音すら聞こえて来ない。
まるで、死の街だ。
綾はそう思った。
パニックになりそうな自分を鼓舞して、綾は今の状態を整理し理解するよう努力していた。
時計を見ると、学校から出る前に見た時間から30分も経過していない。
確か、なずなと連れ立って学校を出た後は……そうだ、コンビニに寄ったんだった。
そして、買い物をして外に出たところで、なずなが黒い影のようなものに抱きかかえられるように攫われたのだった。
そうだ、何故こんなことを忘れていたのだろう。
綾は今更ながらなずなの姿を探すのだが、先程から人間が居るような気配は……無い。
なずなはどこへ行ったのだろう、そもそもあの黒い影のようなものは何なんだろう、いやそれよりも一体ここはどこなんだろう。
心を落ち着かせようとすればするほど、焦燥感が広がってゆく。
今にもあの黒い影がやってきて、自分まで攫われてしまいそうだ。
風景や看板を見ると、少なくともここは日本には違いないとは思うのだが、こんな町中で家もビルも有ると言うのに、人っ子一人居ないと言うのはあり得ない。
だんだん恐怖に心が捕らわれ始めると、視界の隅に黒い影が見えたような気がしてくる。
なずなを助けたいと思う自分と、さっさとここから立ち去りたい自分がせめぎ合い、一歩も動けなくなってしまった。
「何よ、ここ、どこなのよ。なんでこんな事になってるの……」
声を出すことで気を紛らわせようとするが、自分の声すら静寂に吸われてしまい、どこにも響く事は無い。
逆に、声を出したことで、あの黒い影に気づかれてしまったんじゃないかと思ってしまう。
パニックが心を支配し、ちょっとしたきっかけで大きな声を上げて走り出しそうだ。
そんな綾に声を掛けるのは、最悪のタイミングだったと言うべきだろう。
「おい」
「ぎゃぁぁぁぁあああああああぁぁぁぁああああああぁぁあああぁぁ……」
綾は走り出した。
目は前を見てはいるものの、その目には何も映っては居ない。
逃げようと言う意識すら無い。
単に反射で動いているだけだ。
数十メートルも走っただろうか。綾は何かにぶつかり転倒した事で、やっと我に返った。
目の前には、半透明の黒い人の影のようなものが、ゆらゆらと揺れていた。
「わぁあぁぁぁああああああああぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁああああ…」
もと来た道を戻るように駆け出した綾は、今度こそ何も見ては居なかった。
先程、声を掛けられて逃げ出した相手に体ごとぶつかって倒れるまで、自分が走っていることすら気がついてなかったに違いない。
綾は、転倒しながらも、今度は硬い地面に転がったのではない事だけは理解していた。
「よぉ、何してんだ、おまえ」
「え、えええぇえぇ。何、なに、なんなのよ」
「ラッキースケベとは行かなくて残念だった」
そこでやっと、綾は見知らぬ男の上に倒れ込んだのが判った。
反射的に突き飛ばすように離れた綾は、やれやれと立ち上がる男を不躾に眺めていた。
少なくとも、黒い影の仲間では無さそうだ。
そこまで思考が回復した時、やっと相手と周囲の状況を見るくらいの余裕が出てきた。
「え、なに……いえ、ご、ごめんなさい。怪我は有りませんでしたか?」
「この状況でよくそこまで考えられるな。大したもんだ」
「い、いやだって、ぶつかったのは私だし…」
「そうじゃなくて、そこの黒いのに追われてんじゃないの?」
「ひっ!」
黒いのと言われて、さっきぶつかった黒い影を思いだした綾は、小さく悲鳴を上げて振り返った。
綾とぶつかった黒い影は、特になんと言う事もなく、ふらふらと歩くようにこちらに向かって来ている。
それを見た途端、綾は男を盾にするように彼の背中に隠れた。
黒い影は人体を模したような形状をしているが、そんな形をしているだけで人とは思えない。
ぶつかったということは実体が有るはずだが、こうやって近づいて来るのを見ても、まるでピントが合ってないようにボヤケて見える。
注意して見ると、頭頂部らしき部分から直線的に鈍い光が並んでるようにも見えるが、明滅していて判りにくい。
この黒い影を一番判りやすく表現するならば、幽霊という言葉がぴったりだろう。
「おれを盾にするとか、酷い女だな」
「だ、だって……あの黒いのって何なの?」
「アレか?おれはフラグメントって聞いたけど、正確なところはどうなのかまでは知らんね」
「ふらぐめんと?幽霊とかじゃなくて?」
「似たようなもんじゃないの?」
男と話をしていると、少し心に余力が出来たのか、綾は周囲が目に入るようになっていた。
よく見ると、男の右腰にはハンドガンがホルスターに突っ込まれており、左腰には刃渡りの長いナタのようなナイフがケースに入ってぶら下がっている。
服も、革のジャケットにゴツいカーゴパンツとショートブーツで、ミリタリーオタクみたいなファッション……だと綾は思った。
もしかしたら、ちょっと危ない人と関わったのかな…とも考えたが、それでも目の前の幽霊みたいなものよりはマシだ。
いざとなったら急所を蹴って逃げれば男なんて追いかけてこれない…なんて物騒な事を考えていると、更に余裕も出てくると言うものだ。
「あの、アレ…ふらぐめんとだっけ?、どうにかできるの?」
「え、おれは別に何もしないけど?関係無いし」
「何それ。あなたも襲われちゃうんじゃないの?」
「おれはあいつに知覚されてないからなぁ。どうしても回避できない時は仕方ないけど、基本的には面倒くさいから関わらないようにしてんだよ」
「えぇ、それってつまり、私がどうなろうと知ったことじゃないと?」
「だって、助けるメリットが無いし」
「ええええ、なにそれ、酷い!」
綾は憤慨するが、それはそれとしてこの男は本気で自分を助ける気は無いように見える。
フラグメントと呼ばれる何かに捕まるとどうなるのかは判らないが、碌なことにはならない気がしている。
とは言え、何かのメリットを提示して男に助けてもらう選択肢も難しい。
荷物もどこかに行ってしまったし、身体とか要求されたら最悪だ。
じゃぁ…と考えた綾の思考を男は読んでいたらしい。
「おっと、おれのモノをかっぱらおうとするのもダメだ」
と、ナイフの柄を抑えて言った。
手詰まりとなった綾は、どうしようもなくなって、半泣きになって訴えた。
「なによ、どうすれば良いのよ。なずなみたいにあの黒いのに攫われればいいって言うわけ?」
「なずなって…もしかして他に誰か居たのか?」
「コンビニから出たとことで、友達があの黒いのに攫われたのよ。なんなの、ここ。どうなってんの?」
「ここは、位相世界と言われてる、おれ達の世界と部分的に繋がっている、まぁ…異世界?みたいなもんだ」
「異世界?」
「まぁ、友達がフラグメントに連れて行かれたって言うなら話は別だ。一緒に探してやろうじゃないか」
「なんで?私が襲われそうになってるのは無視するのに?」
「おれにはおれの事情ってものが有るんだよ。それに…」
男は右腰のホルスターに挿していたグロッグ33を抜くと、装弾を確認してからダブルハンドで構えた。
ふらふらと歩み寄ってくるフラグメントの移動速度はそう速くもなく、まだ10m以上の距離を残している。
「まだ余り実体化が進んでないヤツだな。これなら.357SIGでいけるか?」
男はそう呟くと、馴れた感じでグロッグを三連射した。
乾いた音と共に、フラグメントの中心付近にある鈍い光の部分に3つの穴が空き、黒い人影はその穴に手を当てるような動作をしながら消えていった。
「あ、消えた…なによ、簡単にやっつけられるじゃない」
「簡単に見えるからって、本当にそうなのかは考えた方が良いぞ。それに、今のはまだ存在定義が曖昧で実体化が進んで無かったせいもあるしな」
「存在定義?」
「我思う故に我ありってヤツさ。さて、お前の友達がどこ行ったか見当つくか?」
「ええっ……もうどこからどう来たのか判んないよ…」
「そうだろうな。じゃぁ、ここに来てどのくらい時間が経過したのかは判るか?」
「時間…ええと、まだ一時間も経ってないと思う。40分位…かな?」
「なるほど、それならまだトレースできそうだな」
男はそう言うと、スマートフォンを取り出し、アプリを起動していた。
後ろから綾が覗き込んでみると、この近辺の地図らしいものが表示されている。
男が地図の範囲を広げると、大小様々な光点が、あちこちに散らばっていた。
「おっと、意外と多いな。でもまぁ、このでかいのがそうだろう」
男はそう言うと、目星をつけた光点をタップし、目標として設定したようだ。
画面に方位と目標までの距離が表示され、ナビゲーションが始まる。
「あなた、ここは異世界とか言ってたよね。そんなところでもGPSが使えるの?」
「冷静になったようだな、結構。ここではGPSは使えないけど、地形は俺たちの世界と全く同じだから、データとして持っておけば地図も役に立つんだよ」
「いったい、ここはどこなのよ」
「言ったろ。位相世界って異世界だって」
「その位相世界ってのが判んないんじゃない」
「説明するのかよ、面倒くさいな…でもまぁ、目標まではしばらく距離が有るし、その間くらいなら大雑把に教えてやるよ」
そう言うと、その男、山城 天は、歩きながら色々説明を始めた。
ここは、自分たちの世界とちょっとだけズレて隣り合っている世界で、地形や植物、建物などは全く同じものだが、動物や人間は存在しない場所であること。
現実世界と位相世界は空間的に繋がる事があり、たまたまタイミングが悪いと、綾たちの様に位相世界へと転移してしまう事故が起きたりすること。
そして、この世界の主は、フラグメントと呼ばれる、人間の精神の残滓であること。
「位相世界は簡単に言えば意思の世界なんだよな。自分で強く望めば………とまぁ、こんな感じで」
天はそう言うと、何もないところから缶ジュースを2つ取り出してみせた。
それは、たった今、自販機から取り出したかのように、冷えた缶だった。
天は、一つを綾に投げて寄越し、残りは自分で開けて飲み始めた。
それを見て、少し警戒しながら、綾も缶を開けて口を付けてみた。
「これ…水じゃない」
「そうなんだよ。おれはジュースの構成要素を正確に知らないからなぁ」
「対象物の構成内容を知ってると作れるって事?まるで、錬金術で錬成してるみたい」
「そうだな、ここでは対象を正確に思考できれば錬金術みたいに錬成できると思ってもそうハズレちゃいないかな…そうか、錬成って言葉が有ったな。今度からそれ使おう」
「じゃぁ魔法も使えちゃうの?」
「魔法がどうやって成り立ってるのかが理解できてればイケるんじゃないか?残念ながら、そんなヤツに今まで出会った事は無いけども」
「そっかぁ。そうよね…じゃぁ超能力とか…?」
「まぁ魔法でも超能力でも何でも良いけどさ。そういう事をやってると、寄って来るモノがあるんだよな」
「寄ってくる…って、あの黒い……フラグメントってヤツ?」
「そう。あれは人間の精神から抜け落ちた垢と言うか澱のようなもので、言ってしまえば精神的なゴミのようなもんだ。ただ、ここが意識などの精神的なものを物理的に反映させる世界だから、そんなゴミでも存在定義が残っている限り、ああやって存在できている訳だ」
「じゃぁ、人間を攫ったりするのは…」
「奴らは自分の存在定義を強化して確固たる自我を確立したい為に融合を繰り返すんだけど、人間のように既に強い意識と自我を持ってる生命体が居れば、それと融合した方が早いと思うんだろうな」
「だから、強い感情みたいなものに引き寄せられるてくるのね」
「その通り。大体、この世界に来た人間はほぼこの環境に恐怖を抱くから、自動的にフラグメントを呼ぶ事になるんだよな」
「じゃぁ、なずなはどうなっちゃうの?」
「ほっとけば存在定義を書き換えられて、フラグメントに融合されてしまうだろうな」
「そんな…早く助けないと!」
「だから、そうしようと向かって居るところ」
そうこう話をしている間に、目標としていた光点が近づいてきた。
相手は移動していないようだ。
目の前の四つ角を右に曲がると、正面に居るはずだ。
「さて、目標のフラグメントと一戦やらかす訳だが、お前に言っておく事がある」
「なによ」
「怖がったり怒ったり泣いたり…要するに大きな感情の発露はなるべく避ける事。デコイになってくれるって言うならそれでもまぁ良いんだけど、二人共捕らわれるとちょっと面倒だから近づかないのが一番だ」
「二人とも捕まっちゃうとどうなるの?」
「どちらか、もしくはどちらも助けられないって事があるかもね」
「何か融合されないようにする手段とかないの?」
「要するに存在定義を常に確立している……自分は自分だと常に己を見失わなければ、正直フラグメントなんてどうってこと無いんだろうけど、そんな強靭な精神力の人間は見たことないなぁ。まぁ、なんとか頑張るくらいしかないんじゃないの?」
「………えーと私、ここで待ってて良い?」
「まぁ、それがベストだな。じゃぁ行ってくらぁ」
天はそう言うと、ちょっと出かける程度な感じで四つ角を折れていった。
綾は、先程のようにすぐ発砲音が聞こえるのかと身構えていたが、少し待っても静かなままだ。
更に待っても戦闘らしき音は聞こえず、まるで綾がここに取り残されているような気分になってきた。
その思いはどんどん強くなって行き、耐えきれなくなった綾はそっと天の行き先を覗いてみた…が、何も居ない。
天どころか、フラグメントすら居ない。
「え…えええ、どうなってんの?」
もしや、天がフラグメントに捕らわれてしまったのだろうか、とも思ったが、それなら争う音くらい聞こえても良いはずだ。
じゃぁ、他に有りそうなのは、綾を置いて何処かへ行ってしまった…とか?。
天を信用していた訳ではないが、突然独りになった事で混乱した綾が、音もなく自分に近づく者の気配に気づかなかったとしても無理はあるまい。
綾が自分の背後に迫っていたフラグメントに気づいた時には、もう逃げる選択肢を選べない距離だった。
しかも、フラグメントの胴体に半分埋もれるようにして取り込まれているのは、探していたなずなだった。
「あぁっ、なずな!なずな!!」
訳も分からずに、なずなへ取りすがって引っ張り出そうとするが、なずなの身体は固定されたように動かない。
それどころか、緩慢ではあるが、少しずつ中に引き込まれてゆくようだ。
消化されてる?…と嫌な思考が綾の脳裏を掠めそうになるが、頭を振ってそれを追い払った。
どうしすれば良いのか判らなくなって、フラグメントの身体を拳で叩き始めたが、ピントがボヤケたような身体なのに、叩くとゴムのような弾力がある。
叩けるのなら、なにか反応するかも…と思った綾は、とにかく叩き続けていたが、急にずぶりと肘のところまで腕がめり込んでしまった。
しまった…と反応する前に振り下ろしていたもう片方の腕も同じ様にめり込んでしまい、当然の様に固定されて動けなくなってしまう。
「あ……あぁぁあっ。もう!離しなさいよ!離してよ!!」」
フラグメントにめり込んだ手は、水中の様な抵抗を感じていたが自由に動かせている。
ただ、めり込んだ表面のところでがっちりと固定され、全く動く気配が無い。
これだけ強力に固定されているのに、まったく痛みが無いのがかえって恐ろしい。
脚でフラグメントを蹴り飛ばしたくなるが、脚まで飲み込まれてはたまらない。
単に取り込まれるのが遅くなるだけだったとしても、自分から取り込まれるのを早めるような行動はしたくなかった。
その横で、うつろな目を開いたままのなずなが少しずつ取り込まれてゆく。
まるで、自分の未来を見ているようで、綾はもう叫ぶしかなかった。
「誰か!誰か助けてよ!。いや、嫌よこんなの!」
「あいよ」
すぐ後ろで男の声が聞こえた。