最低の悪役
「苺、車に気を付けるのよ」
「わかってるわよ、ママ。行ってきます!」
「万が一渡せなくても、あなたの気持ちはきっとカイザーさんに伝わるはずよ」
「うん」
母の言葉に勇気づけられた苺さんは元気一杯の足取りで家を出ました。
目指す先はスタードーム。カイザーがいつも試合を行っている場所です。
水色のリュックサックの中には大好きなレスラー名鑑やカイザーの姿がよく見えるようにと用意した双眼鏡、そして桃色のラメの施された袋に入れた大切なクッキーが入っています。
自転車にも乗らず徒歩ですから時間もかかり、汗も噴き出します。
ハンカチで汗を拭き、途中で自動販売機でジュースを買って、喉を潤してから再出発です。
「やっと着いた!」
目的地にたどり着いたのは午前11時でした。まだお昼には早いこの時間帯、人通りもまばらではありますが、待っていれば必ずカイザーは訪れます。好機を逃すまいと気合を入れて、彼女は辛抱強く待つことにしました。
「カイザー様、早く来ないかな」
喜んでいる彼の姿を想像しワクワクしていますと、ドンッという物音と共に誰かにぶつかりました。衝撃で尻餅をついた苺ちゃんは立ち上がり、抗議します。
「ちょっと。どこ見て歩いてるの!」
「それはこっちの台詞だ、チビ」
「アンタは、ジャック!」
頭には一本の髪の毛も無く、右目には黒い眼帯をした凶悪な顔つきの男の名はジャック。スタープロレス所属の悪役レスラーで、黒のトゲ付きの皮ジャンパーからでもわかる屈強な肉体には無数の傷がついています。
非道の限りを尽くす彼が、苺ちゃんは大嫌いでした。
「アンタなんてカイザー様にボロボロにされるがいいのよ。べーだ!」
「口だけは達者なようだが、残念だったな。今夜は俺が奴を血の池に叩き落としてやるのよ。まあ、それはともかくとして、だ。そいつぁなんだ」
上から見下ろされながらも、ジャックの冷たい目がクッキーの袋を捉えたことを察知した苺ちゃんは内心パニックに陥っていました。
まずい。何とかしてクッキーを守らないと。
「あ、アンタには関係ないでしょ!」
「まあな。けどここで会ったのも何かの縁だ。よこせ」
口角を上げた残忍な笑みを浮かべ、ジャックは有無を言わさず袋を奪い取ると、太陽の光でかざして中身を確認します。
「ほほー、チョコチップクッキーとは豪勢だねぇ。ふーむ、そういや今日はバレンタインだったな。ということは、これはカイザーに渡すためのものか」
「返しなさいよ」
「ああ、悪い悪い。返してやるよッ」
片手に持ったクッキーの袋を簡単に潰して中身を粉々に砕いてしまいました。
それを更に足でぐりぐりと踏みつけます。
「おっと、手が滑ってしまったようだな。だが、良かったんじゃねぇか。
砕かれたおかげでクッキーも食べやすくなってよぉ! ヒャハハハハハハハッ」
あまりの衝撃に声も出ない苺ちゃんを無視し、ジャックは誰よりも早く会場入りしてしまいました。
残された苺ちゃんは両膝をつき、見るも無残になったクッキーをそっと手を覆います。言葉が出ない代わりに大粒の涙が彼女の大きな瞳から流れ落ちました。