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×××
生い茂る木々の間を駆け抜ける。追ってくる男たちの気配はもう真後ろだ。
下草や落ち葉で靴底が滑る。土のぬかるみには足をとられそうになる。心臓を絞りあげられているように息が苦しく、あとどのくらい走っていられるかわからない。昼食をとり損ねなかったら逃げ切れたのに、なんてことを現実逃避のように考える。
開けた場所に出たと同時にマントを強く引かれた。勢いのまま地面に倒れる。すぐに身を起こしてまた走り出そうとしたが、腕を掴まれ再び地面に倒された。
「はっ。やっと、捕まえた……!」
追って来た男はミーアの体の上に馬乗りになった。互いにひどく息を弾ませている。男はミーアの細い首を脅すように握り締めた。そして気がついた。
「あ……? こいつ、貴族の女じゃねえ」
仲間が一人、後ろを追いかけて来ていた。二人で顔を見合わせる。彼らに向けて、ミーアは精一杯の皮肉を込めて言った。
「残念。お目当てのお嬢さまは、もうとっくに逆方向に逃げてるわよ。捕まえるのは無理でしょうね。あとは、逃げたもう一人の子が兵を連れてくれば、あんたたちはおしまい」
エトレシカが逃げているというのは勿論嘘だ。どうにか騙し、男たちを山から早く遠ざける必要があった。そうすれば侍女が兵を連れて戻るまで時間がかかったとしても、エトレシカは助かるはずだ。
「わたしが買い出しから戻らないことが、公爵邸でも問題になってるかもしれないわ。そうすれば、逃げた子が助けを連れてくる前に、兵たちがここへ来ちゃうかも。さっさと逃げたほうが、いいんじゃないの?」
実際はサラ辺りが心配するくらいで、買い出しに時間がかかっていると思われる程度だろう。大きな問題になりはしない。助けがまだ来ないのは確実で、ミーアは自分はもう助からないと思っていた。
「くそっ! なめやがって、この女!」
男はミーアの頭の横を一発強く殴った。視界が一瞬昏くなる。朦朧とする中で男たちが話し合う声がした。
「どうする? ここにいちゃまずいだろ」
「ほかの奴らにも伝えて、さっさと逃げよう」
「この女は?」
「連れてく。ただじゃ殺さねえよ」
ミーアは腕を引っ張り上げられた。連れて行かれた後にどんな扱いを受けるかは想像に難くない。馬車から放り投げられた時に短剣を手放してしまったことが悔やまれる。逃げる術は、もうない。
僅かの抵抗すら諦めた時だった。木立の間から、視界を横切り誰かが現れた。その人は、ミーアを掴む男の胴に体当たりをした。おかけでミーアは解放された。
「ミーア! 無事か!?」
信じられない思いで声を聞いた。覆い被さり男を抑えつけるのは、テオだった。ミーアは地面にへたり込んだまま、揉み合うテオの姿を放心して見つめた。すっかり諦めていたのに、どういう理由かテオが助けに来てくれた。
もう一人の仲間の男が短剣を取り出した。テオの背中に向かったところでミーアは我に返る。
「テオっ、危ない!」
銀色に光る剣先がテオの肩を掠めた。テオが退いたことで揉み合っていた男は解放される。そして男も剣を取り出した。武器を持つ二人の男に対し、テオは何も持っていない。ミーアは自分が殺されそうになった時よりも血の気が引いた。
そこへ、今度は老齢の執事が登場した。執事は瞬く間に武器を持つ二人を昏倒させてしまう。歳の差を微塵も感じさせない動きだった。
「ロッソさん……」
「ご無事ですか、ミーアさん」
ロッソが乱れた襟元を正しながら尋ねる。息一つ乱れていない。
「坊ちゃまも、お怪我はございませんね?」
「あ、ああ……かっこいいとことられた感はあるけど、助かったよ」
「お命優先でございます。二度と、勝手に先を走って行かれませんよう」
木の間からまた音がした。知らない若い男が二人現れる。男たちの仲間かと思ったが、彼らは昏倒した二人を縄で拘束し始めた。公爵家の護衛だろうかとミーアが考えていると、テオに抱き締められた。
「ミーア!」
温もりと、彼の匂いに包まれる。
「間に合って良かった、本当に! ちゃんと生きてるよな?」
気の抜けるような問いに、ミーアの頭も徐々に衝撃から戻ってくる。
「もちろん、生きてるわ」
「良かった。本当に良かった。怪我ないか? 叩かれたり殴られたりしなかったか?」
テオはミーアの顔や手、腕を見たりと忙しい。心配そうに眉根を寄せている。
「……テオこそ、すごく、危なかったよ。剣持ってる人に、何も持たないで」
「いやぁー。つい、な」
「ついで死んじゃったら、大変でしょ。ロッソさんが少しでも来るのが遅れてたら、どうなってたか……テオは、公爵家の跡取りでもあるんだから、こんな無茶しちゃだめよ」
テオの表情が硬くなる。後方の木立から、髪を振り乱し駆けてきたダリオンが現れた。テオは低い声を出した。
「どういう意味だよ、それ」
続いてリチャードも木立から現れる。
「俺が公爵子息だから、だからお前が危険でも、お前を助けず自分の命を優先するべきだって、そう言いたいのか?」
「それは……だって、そうでしょ。テオに何かあったら、困る人はいっぱいいて――」
「ふざけんなっ!」
テオが大声で怒鳴った。ミーアは目を丸くしてテオを見つめる。
「お前は、ぜんっぜんわかってない! 俺はもう、ずっと何度も何度も、貴族だとか公爵だとか、そんな立場は抜きにして、ただお前が好きだって言ってる。それなのにお前は、俺のほうが助かるべきだとか、ほかの貴族の女と結婚しろだとか、そんなことばっか言って……」
「ああ、くそっ」とテオは瞳に滲んだ涙を乱暴に拭う。肩を下げ、声を抑えて続けた。
「もっと、単純に考えてくれよ、ミーア。俺はお前が好きだ。これから先、お前とずっと一緒にいられたら――家族になれたらどんなに幸せかって、そう思って、だからお前と結婚したいって伝えた。……お前は、どうなんだよ。俺とは、結婚したいとは思わないのか?」
互いに地面に膝をつき向き合っていた。テオは手の平を握り締めて返答を待つ。
ミーアは素直な気持ちを吐き出した。思いのままであろうと思うと、堪えていた涙まで溢れてくる。
「わたしも、テオとずっと一緒にいられたら、楽しいだろうなって思う。結婚するなら、テオがいい。テオと、結婚したい……!」
テオがゆっくりとほほえんだ。つられるようにミーアも笑う。
そんな二人の様子を、ダリオンは何も言わずに見つめていた。




