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速度を上げながら馬車は揺れる。窓掛けが下りているため外の景色は見えない。市門の門兵との会話から馬車が市外へ出たことはわかったが、ミーアには行き先がまるでわからなかった。
しばらく進むうちに、やがて道が悪くなった。激しい揺れから、山道に入っているのかもしれないと推測する。ノウェン市のすぐ西側には国境となる山脈が存在していた。
移動の最中、対面の席に座るエトレシカはずっと口を閉ざしたままだった。馬車が停止したところで、ミーアは男に抱えられ馬車から降ろされた。
推測通り、馬車が到着したのは無人の山間だ。上ってきた細い山道の果てに朽ちた山小屋があり、その小屋の奥にミーアは放り投げられた。エトレシカが男たちに指示する。
「わたくしが呼ぶまで、外で待っていなさい。報酬の残りは、無事わたくしをノウェン市まで送り届けた際にお支払いいたします」
二人の男は従順そうに頷き小屋を出て行った。簡単に手に入る金にすっかり目が眩んでいる様子だ。
山小屋は納屋のように小さく、入り口の壊れた木戸から続くのは一間だけだ。壁際に、かつては使われていたらしき土埃まみれの竃と、寝床用の古い麻布がある。板もふいていない野ざらしの床には割れた材木が散乱し、屋根の穴からは枯れ葉が入り込んでいた。
ミーアは手足の自由を奪われながらもどうにか上体を起こした。エトレシカが冷ややかにミーアを見下ろす。
「話せるようにしてあげて」
命じられた侍女は同じ年頃の少女だった。くせ毛が肩口でくるりと踊り、快活そうな顔立ちはいまは緊張している。ミーアは口が利けるようになった途端にエトレシカに尋ねた。
「どうしてこんなこと!」
「どうして?」
エトレシカが目を細くする。
「理由など決まっているでしょう。あなたが邪魔だからです。あなたさえいなければ、わたくしとセオドアさまの結婚は、何の問題もなく実現された」
「結婚の心配ならもういらないはずでしょう? わたしはテオと結婚する気はない。テオにも伝えたわ。あなたたちにも伝わっているはず。こんなこと、する必要ないわ」
「ですが、セオドアさまは、納得されていない」
「それは――……きっと、いまだけよ。しばらくしたら、考えを変えてくれる」
エトレシカはわずかに沈黙した。
「……あなたは、何もわかっていないのですね」
人一人をさらって来たにも関わらず、怖いくらいに落ち着いた声だ。
「セオドアさまが考えを変えることは、ありませんよ。二人きりでお話をしてみてわかりました。あの方は、恋に浮かされ、あなたに心酔してしまっている。しかしあの方、決して頭の悪い方ではないのです。……公爵家嫡子として、ずっと期待を背負い生きて来られたお方です。立場の重さを十分に理解し、その上であなたを選んだ。つまりはそれだけの覚悟があるということ。多少あなたに反対されたくらいで意見を変えるくらいなら、初めから立場を捨てるなどとは言い出さない。……そんなことも、あなたにはわからないのですね」
エトレシカが深紅のマントの内側に手を入れた。取り出された時、白い手袋をはめた彼女の手には、短剣が握られていた。銀色に光る刃先にミーアは思わず息を呑む。
「……わたしを、殺す、つもりなの?」
「公爵邸に書き置きを残し、あなたが自ら去ったことにいたします。セオドアさまからの愛は身には余るから、と」
「そんなの、うまくいくわけ……」
不審な点が多いはずだ。何より、エトレシカはミーアの筆跡を知らない。真似ることなどできないはずだ。
だが考えてみればテオにも筆跡を見せたことはなかった。偽の手紙だと気づかないことはあり得る。
ふと、皮むきの仕事の面接の際にロッソに見せたことを思い出すが、しかしロッソが覚えているとは限らず、書いた紙も破棄している可能性は高い。
「も、もしテオが嘘の手紙を信じたとしても、あなたとの結婚が絶対になるとは限らないんじゃ……」
「何もしないよりは、試す価値があると思います」
「試す、って」
試しで命を奪われるというのか。思わず気の抜けた笑みが出そうになると、エトレシカが短剣を構える。
「わたくしは、本気です……!」
ぐっと力を入れて柄を握ったエトレシカは、座り込むミーアの胸元に向かって直進して来た。ミーアは肝を冷やした。
だが強張る身をひねり、どうにかエトレシカの剣を避ける。両手足を縛られた状態だ。通常なら避けるなど無理だったろうが、エトレシカが目を閉じていたため可能だった。
手応えのないまま通り過ぎたエトレシカは、目を開け失敗したことを悟る。
「この状況であなたが助かるはずはないのですから、逃げずに諦めたらいかがですか?」
エトレシカは再びミーアに向かって来た。またしても目を瞑っている。ミーアは今度はやや余裕を持って剣を避けた。
「あっ、また! 避けないでくださいっ!」
「……そんなこと言われても」
「お嬢さま! やっぱりおやめください、こんなこと!」
そばで見ていた侍女が、涙を流しながら間に加わってきた。
「どうしてもなさると言うのなら、代わりに、わたしが!」
エトレシカが静かに首を横に振る。
「いいの。この罪は、わたくしが墓まで背負っていくと、深く考えて決めたの。……わたくしに、やらせて」
「お嬢さま……」
二人の主従が涙を浮かべ合う。主人に心情を慮る理想の侍女だが、ミーアからすれば真に主人のためを思うなら、誘拐という犯罪行為をまず止めて欲しかった。
エトレシカの手元を見ると、剣を持つ手が震えていた。今更ながら、エトレシカは自分より一つ歳下なのだとミーアは思い出す。
「……どうしてここまで――人殺しまで、しようと思ったの?」
エトレシカが振り向き答えた。
「それはもちろん、お父さまのためです。そして、ヒュロッケン伯爵家の未来のため。……伯爵家の娘であるわたくしの役割は、有益な相手と婚姻すること。そのために産まれ、期待され育てられてきました。幼い頃からあらゆる知識を身に着けてきたのも、修道学校にも通い礼節を学んだのも、培ってきた何もかもすべてがその役割を全うするため。それなのに婚姻を成し得ないというのであれば、わたくしには価値などない。生きてきた時間も努力も、何もかもが無意味なのです」
「……そんなこと」
「あなたには、決して理解できないでしょうね」
エトレシカは泣きそうな顔であざ笑う。
「わたくしは、あなたとは違う。あなたがここで死んで、だから何だと言うのです? せいぜい病気のお母さまが哀しむくらいではありませんか? ――あなたについては、多少ですが調べさせていただきました。小さな自営業のお家だとか。数少ないお店の常連のお客さまは、確かに哀しむでしょう。でも、それだけ。元から借金で経営難だったようですし、いずれは離れてしまう存在だったとも言えます。……公爵家との婚姻話を手に入れるまでに、お父さまがどれほどの犠牲を払ってきたか、あなたにはわかりますか? どれほどの時間に労力、富を割いて来たか。この婚姻が成功するかどうかで、伯爵家の未来も、雇用する何百人という人の人生も、大きく変わるのです。それをあなたは、理解できていますか?」
エトレシカの手に再び力がこもり、剣先がミーアに向く。
「理解できていないのは、きっとあなただけ。問題の中心にいるというのに、あなただけが理解できていない。あなたさえいなくなればまだ可能性が――そう考えてしまうのも、仕方のないことだと思いませんか」
華奢なお嬢さまでしかないエトレシカに、剣は全く似合っていなかった。心許なく突進してくる剣先をミーアはまた避ける。
「あっ、また!」
「やめてエトレシカさん。お願い。あなたが人殺しをする必要なんて――」
「黙って!」
エトレシカが何度向かって来ようとも、ミーアの避け方が上達していくばかりだった。侍女と協力すれば一瞬で終わるはずだが、侍女はエトレシカの望み通り律儀に手を出さずに見守っている。




