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×××
「私も、若い頃、街の娘に恋をしたことがあった」
家を出て行くため自室で荷物を整理するテオに、ダリオンが語る。
「だが私は、身を切る思いで彼女を諦めた。公爵位を継ぐという自分の立場を優先したのだ。そして母さんと結婚した。初めから母さんを愛していたのかと訊かれれば、やはり違う。だがお前が産まれる頃には、母さんを愛せていた。――好きだった娘とはずっと会わないでいたが、やがて結婚をしたと耳にした。一度だけ、隣町に移り住んだという彼女の様子をこっそりと見に行ったことがある。子どもを五人、産んでいた。いまも、彼女は幸せに暮らしている」
「そうやって作り話で俺を誘導しようとしても、無駄だからな」
冷めた返しに、ダリオンが舌打ちをする。感動を誘う嘘の仕草をかなぐり捨てて怒り出す。
「お前は、本当に、いい加減にしろ! 自己本位の行動で、仕事相手にだってどれだけ迷惑がかかるか!」
「全員に丁寧な手紙を送ったよ。バックス領には挨拶にも行った。あとは後任がうまくやってくれる。もちろん、父さんにも指示を仰ぐ事態は出てくると思うけど……それはよろしく」
「知らん知らん! 私はあの領地はお前に完全に任せたんだ! もう知らん!」
ダリオンはしかめっ面で「何もやらないもーん」と腕を組む。駄々をこねる中年の父親に構わず、テオは必要最低限の荷物を鞄にまとめていく。明日には街へ住居を探しに行き、見つかれば引っ越しをするつもりだった。そばの椅子に座るメリルが、「テオ兄さまのばか……ばか……」と呪詛のように繰り返しているのは可哀想だが、決意は変わらない。
「ほんと頑固だなぁ。もうエトレシカ嬢と結婚すればいいのに」
ダリオンやメリル同様、部屋にいたリチャードが会話に加わる。
「ミーア本人もいいって言ってるんでしょ? お前が折れれば、みんな幸せだよ? なんでそんな意固地になるかなぁー」
「うるさい。お前もう王都帰れよ」
「ううっ。ひどい言い方傷つく……」
わざとらしい泣き顔を無視し、テオは作業をしながら別荘でのやりとりを思い返した。薄手の寝衣に、麦わら色の髪を肩に流したミーアが、月明かりのバルコニーで言葉を紡ぐ。
『あなたは、エトレシカさんと結婚をするべきだわ』
ミーアの言葉には、正直傷ついた。テオの立場を気遣ってくれていることは言われるまでもなくわかる。それでも好きな人からほかの女性との結婚を勧められ、嬉しいはずがない。
(ミーアは、何もわかってない)
苛立ちを募らせていると、扉を叩く音がした。応答の声にかぶせるように、焦り顔のロッソが部屋に踏み込んで来る。常日頃平静さを崩さない彼には珍しいことだった。
「失礼いたします、旦那さま、坊ちゃま。ズニパーという男が門前に来ておりまして、その……真偽のほどは定かではありませんが、ミーアさんが街でさらわれたと主張しておりまして」
部屋にいた全員がロッソに注視する。テオが最初に声を発した。
「は? さらわれたって……」
「詳細を伺うべきかと、ひとまずは玄関にお通しいたしましたが」
テオは急いで部屋を出た。ダリオンたちもついて来る。玄関広間で待つズニパーを目にしたテオは、瞳を鋭くした。
「……名前を聞いてまさかとは思ったが、やっぱりお前か」
テオの形相にズニパーが「ひいっ」と怯む。
「よくも俺の前に姿を現せたもんだな。言っとくが、身元は特定してある。家を追い出されたみたいで何よりだよ」
「か、監視でもつけてんのか? 怖えよ……もう何もしねえから放っといてくれよ」
「どうだろうな。それより、ミーアがさらわれたって一体……」
ズニパーはミーアが拉致された状況について説明し出した。
「――それで、市の屯所に行くよりお前に直接伝えたほうが、権力行使で早く探せると思って」
「馬車は? どんな馬車だった?」
「その辺の馬車貸し屋で取り扱ってる普通の箱馬車だよ。装飾も紋章もない、質素な」
テオは僅かに考え込んだ後、外へ向かわず階段を上り始めた。
「おい、助けに行かねえのか?」
ズニパーやほかのみなも戸惑う中、テオが向かったのは二階の客室だった。扉を叩き、応答を待たずに部屋に踏み入る。
「失礼します、ヒュロッケン卿」
ヒュロッケン伯爵は椅子に座り、市の雑報誌を読んでいた。七日に一度発行される、地域の情報が掲載された簡易本だ。伯爵はいきなり現れた面々に目を白黒させる。
「どうしたのですか? みなさんお揃いで」
「ミーアを連れ去ったのは、あなたですか? ヒュロッケン卿」
直球の問いに場が凍りつく。ダリオンがテオに激昂した。
「まさか、お前、ヒュロッケン卿を疑って……!」
「いまこの時期にさらわれたんだ。疑わないほうがおかしい。ミーアがいなくなることで利益を得る人間は限られる。そう考えれば、父さんも怪しいな」
「なっ! 私は何もしていないぞ!」
「みたいだな。その反応で嘘だったら舞台で主演張れるよ」
「お、お前という奴は……っ」
ダリオンが肩を怒らせる。テオは首をすくめた。
「疑って悪いとは思ってるよ。でも、仕方ないだろ。こんな状況なんだから」
「一体何のお話ですか? 私が、何をしたと?」
呆気にとられていた伯爵がようやく間に入る。
「街に出ていたミーアが、何者かにさらわれたのです」
「誘拐、ということですか? それでそれに、私が関与していると?」
伯爵の顔がみるみる赤くなっていく。尊厳を傷つけられたことへの憤怒だ。
「いくらセオドア殿でも、失礼が過ぎますぞ。私が、娘の結婚のために誘拐事件を起こしたなど、言いがかりも甚だしい!」
「……ええ。申し訳ございません、卿。……あなたは、関わっていらっしゃらないようだ」
部屋に入って以来、テオはずっと伯爵の表情を観察していた。これでも人との折衝が生業だ。他人の嘘を見抜く程度には目を養っている自負がある。
だが伯爵の反応に虚偽があるようには見えなかった。急激に全身の血が冷えていく。伯爵が相手ならば交渉次第でミーアを助けることは容易だと思った。しかし関わっていないとなれば、ミーアを助けられない可能性が出てくる。
一体誰の仕業なのか見当もつかない。本当に偶然、運悪くさらわれただけだというのか。テオは後ろから客室を覗く面々を振り向いた。その中に混ざるズニパーへ問う。
「ミーアを乗せた馬車は、西門小通り方面に向かったって言ってたよな?」
「あ、ああ」
「その辺りに人を集め、捜索させる。市の外に出た可能性もあるから、急ぎ門兵に確認もとろう」
市外へ出てしまえば捜すのはさらに困難だ。ロッソに詳細の指示を出そうとして、だが急に廊下に現れた少女に先を越された。
「ロッソさん。何かあったんですか?」
最後方に立っていたロッソに小声で話しかけたのは、ミーアと親しい使用人の少女だった。名は知らないが、そばかす顔が記憶に残っていた。
「サラ。あなたは仕事に戻っていなさい」
ロッソが眉根を寄せる。
「すみませ――あ、でも、その仕事について確認したいことがあって……。でも、あとにしたほうがいいですよね?」
「ええ」
「はい……」
ミーアがさらわれた件は聞こえていなかったのだろう、サラは部屋の中の会話を邪魔しないようにそろりと離れていく。廊下にあった台車も一緒にだ。台車の上には手つかずの食事が載っており、何となく目で追っていたテオはサラに声を投げる。
「ねえ、君。それって……」
サラが振り向き、テオの視線の先を見る。
「あ、はい。エトレシカお嬢さまの、お昼のお食事です」
隣の部屋が、エトレシカの客室になっていた。
「お食事の時間なのでお持ちしたんですけど、何度扉を叩いても応答がなくて。いつもは侍女の方がすぐに出て来てくださるんですけどね」
伯爵がエトレシカの名に反応する。テオが振り向くと、動揺したまま答えた。
「娘は、今日は部屋で休んでいるはずですが……」
「まさか」と伯爵は隣の部屋へ駆け出す。扉を叩き何度かエトレシカの名を呼ぶが、返事はない。取っ手に手をかけると、内鍵は開いていた。伯爵が開けた扉の中をテオも確認する。
部屋には、誰もいなかった。




