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×××
麦畑が広がる丘陵地帯にいくつかの村落を含むその地域は、人々にバックス地方と呼ばれている。バックス公爵家が国王からノウェン市を賜るよりも前、爵位とともに最初に下賜されたのがこのバックス地方の地だ。ノウェン市の発展に伴い、公爵家はいまでは拠点をノウェン市へ移したが、バックス地方の管理は継続している。
「十二の時から、ここ一帯の管理を一人で任されててさ。勉強だって父さんに言われて」
「へえ」
「ここでは、農園と酒蔵、服飾工房を主に営んでる。公爵家の重要な収入源だから責任は重くて、最初はほんと大変だった。父さんは大して助言くれないし。――いまでは要領つかめるようになったけど、最初の三年は寝る間も惜しんで必死にやったなぁ。もちろん、失敗もかなりした」
「……へえ」
あまりの規模の大きさに、ミーアは具体的な想像ができなかった。やはり公爵家ともなると教育の仕方が違う。普通するような、学校に通い教本と卓に向き合う、なんてことはさせず、豪快に土地を一つ任せてしまうわけだ。
「晩餐まで時間あるな。ちょっとこの辺歩くか」
二人は夜明け前に公爵邸を発ち、ずっと揺られてきた馬車をようやく降りたところだった。テオは栗毛の馬にまたがると、ミーアに手を伸ばす。だがミーアは差し出された手をとらなかった。
「わたし、一人で乗ってみたい」
「え? 乗ったことないだろ。危ないぞ?」
「大丈夫。テオが教えてくれたら。わたし、運動はできるほうだから」
「だとしてもなぁー。その恰好……」
ミーアはおろしたてのワンピースを着ていた。白の生地に黄色の小花模様があしらわれたワンピースで、旅行用にとテオが贈ってくれたものだ。ミーアによく似合ってはいたが、乗馬に適した服装ではない。
「わたしが馬に乗る瞬間、テオがスカートの中を見なければいいだけの話よ」
「……がんばって目ぇ逸らすよ」
ミーアはテオの真似をして別の馬の背に乗った。テオが「お見事」と拍手をしてくれる。公爵家の馬丁によく調教された、人慣れした馬なのだろう。
ミーアはそれから、馬の簡単な操作をテオに教わった。その場で少し歩かせ、慣れたところでテオと並列し、草道をゆっくりと歩き出す。
草道は丘の向こうまで長く伸びていた。視界の左右には秋の麦畑がどこまでも続く。麦は秋に種蒔きをし翌年の初夏に収穫する。そのためいまは、新芽が育っている最中で、畑は緑が少なくもの寂しい。
「春から夏にかけては、絶景なんだけどな。緑の麦畑に、金色の麦畑。そりゃあもう、すべてを忘れるくらいきれいだよ。ミーアにも見せたかったな」
凍える冬を耐え超えて、力溢れ育つ緑の葉は、やがて実を蓄え黄金に波打つ。
「来年、また一緒に来ればいいわ」
二人の明るい未来を提示され、テオは嬉しそうに頷いた。
「そうだな。公爵家の別荘は使えなくても、二人でここへ来ることはできるもんな」
ミーアは風にあおられた髪を抑えてから、柔らかな笑みを返した。
二人が乗る馬は、やがて酒蔵に行き着いた。麦畑の中心に建つ巨大な酒蔵は、一級品から大衆向けまで様々な種類の麦酒を醸造している。テオの勧めで、ミーアは出来上がったばかりの麦酒を試飲させてもらうことにした。
「うん。とってもおいしい」
「だろ? 丹精込めて育てた麦だけじゃなくて、水も湖のきれいなものを使ってるから、王都でも好評なんだ」
「知ってる。これ、公爵家自慢の一番高価な麦酒でしょ? 一瓶銀貨十枚はするから、普通の人はまず飲めないわよね。まさか飲めるなんて」
「高価なのは、それだけのこだわりがあるからで」
「なるほど」
商人と顧客のような会話をしている間に、ミーアは麦酒を一杯飲み終える。
「おい。飲んじゃって平気か?」
「これくらいじゃ酔わないわ。料理に使うお酒を試し飲みすることも多いし」
「そう……」
「どうして残念そうな顔してるの?」
「酔ったミーアも、かわいいだろうになと思って」
ミーアは顔を赤くした後、テオの脇腹に拳を入れた。周りには仕事中の従業員が何人もいる。そばに控えていた麦酒を運んでくれた従業員も、二人のやりとりに気恥ずかしげだ。テオだけが、楽しそうに笑っていた。
従業員たちと仕事の話がしたいと言うので、ミーアは少しの間、酒蔵の出入り口でテオを待つことにした。開け放しの木戸に寄りかかっていれば、香る酒の匂いは外気と中和され薄らいでいく。
視界の隅で、枯れた緑の群生が風にそよいでいた。酒蔵前に植えられた蔓草の畑だ。晩夏に、麦酒の原料である毬花を採ることができる。
いまは枯れた葉や蔓が寂しげに揺れているだけだが、夏には何百本もの蔓草が、整列する支柱に巻きつき空へと背高く伸びる。畑の一列はまるで一枚の幕のようになり、幾重もの緑の幕が風を孕む――そんな風景を幻覚のように束の間思い浮かべた。
建物の中の会話が、ずっとミーアの耳に小さく届いている。聞こえる言葉は、テオがいなくなることを残念がるものばかりだ。
(もったいない、な)
テオは経営者として優秀だっただけでなく、従業員への姿勢も誠実だったのだろう。爵位を継げば、きっといい領主になる。ミーアは目を閉じて、風が運んでくる枯れ草と土の香りに身を委ねた。
×××
「もしかして、この部屋に二人で泊まるの?」
湖の畔にある別荘に着き、景色がいいとテオが案内してくれた大部屋は、大人二人が広々と使えそうな寝台を備えていた。
「そうしたい気持ちはあるけど、結婚前だからやめときます。ここが一番いい部屋だからさ。ミーアが使えばいいと思って」
バルコニーからは清らかな碧い湖が一望できた。湖を囲む樹林の紅葉は、赤、黄、橙と色鮮やかで、そよ風が吹くたびに穏やかに葉を散らす。紅葉の盛りは過ぎていた。気がつけば、秋は終わろうとしている。
「確かにここは素敵な部屋だけど、わたしはいいわ。もう三回りくらい小さな部屋のほうが落ち着いて寝られそうだから。テオが使って」
「うーん。ミーアがそう言うなら……」
「景色だけ楽しませてもらうね」
適当な会話をしているうちに、傾いた陽は、遠くの麦畑の丘にゆっくりと沈んでいく。湖面には夕陽の朱色が反射し、木立の間から長く伸びる陽光は少しずつ力強さを失っていく。
太陽が完全に隠れてしまうと、残照の空の下、一日の終わりを惜しむように魚が一匹湖で跳ねた。その音に、ミーアの腹の虫が追従する。
「そろそろ夕食にしますか、お嬢さん」
「そ、そうね」
ミーアはほんのり頬を染め、澄まし顔で頷いた。




