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「何よ……いきなり笑い出して」
「ごめんなさい。確かに、じゃが芋だったなと思って」
「何それ。どういう意味? 詳しく教えなさい!」
「大した話じゃないわ。おもしろくもないし」
「いいから教えなさいっ!」
「本当に、何でもない話よ。――今年の春のことでね。市場へ買い出しに行った帰り道、偶然テオがそばを歩いてて……その時に――」
「メリル!」
話し終わる前にテオの声が廊下に響いた。メリルが肩を跳ねさせたと同時に、廊下の奥の階段からテオが下りて来る。
そばまで来たテオから、メリルは決まりが悪そうに視線を逸らした。
「メリル。ミーアにひどい態度とってたんじゃないか? 声が階段まで聞こえてたぞ」
ミーアは、サラが階段の陰からこちらを覗いていることに気がつく。心配してテオを呼び出しに行ってくれたようだ。
メリルは唇を固く引き結んでいる。テオは肩から力を抜いて言った。
「この人は、兄さんにとって大切な人なんだ。頼むから、仲良くしてくれよ」
するとメリルはテオを睨んだ。瞳がやや潤んでいる。
「絶対に、いや! だって、この人がいるせいで、兄さまは家を出ていくって言ってるんでしょう?」
「……メリル」
「絶対絶対、仲良くなんて、してやらないんだからっ!」
叫ぶように言い放ち、メリルは廊下を駆けて行く。テオはメリルの背中を見ながら頭を掻いた。
「悪いな、ミーア。気悪くしたろ」
「大丈夫。わたしが妹さんの立場でも、きっと同じこと思うもの。兄が道を外れる原因になる女なんて、邪魔だわ」
「邪魔って……」
テオが返す言葉に迷っている間に、ミーアは掃除に戻ろうとした。
「あっ、ミーア。あとで、部屋にお茶運んでくれるか?」
働き始めてから、テオは何かとミーアを呼び出してくる。その際の表情は、どこか嬉しそうだ。ミーアが公爵邸で働き始めたことが楽しくて仕方がないという気持ちが溢れ出ている。
「かしこまりました。セオドア坊ちゃま」
「な……なんだよ、その言い方」
テオは一転していじけ顔をした。
「やっぱり、まだ怒ってるのか? 貴族だって、隠してたこと」
「……怒ってはない。けど、ただ、距離感が難しいの」
目前にいるテオは、間違いなくたんぽぽ亭に通っていたテオだが、身なりも違い、堂々と使用人らに命じる姿を見ていれば、彼が本当に公爵家の令息なのだと嫌でも実感させられる。それは、近かったテオが遠い存在なのだと思わせるには十分なものだった。
「いまのわたしは、公爵家の使用人でもあるから、いままでと同じ態度じゃ良くないんじゃない?」
「……俺は普通に、いままで通りにして欲しいんだけど」
不安げな、ミーアを窺う瞳だ。ミーアは肩をすくめた。
「わかった。掃除の区切りがいいところで行く。それまで待ってて」
仕事の区切りがついたところで、茶器を乗せた盆を手にテオの自室へ行った。すると、中にはリチャードもいた。長椅子に優雅に腰かけ、柔和にほほえみかけてくる。
「やあ、ミーア。仕事には慣れたかい?」
「……ええ」
ミーアが公爵家で働き始めたことを機に、ダリオンはテオの軟禁を解いた。テオは自室に戻り、執務机に向かって仕事をするようになった。
テオの自室は、続き部屋の寝室も含めると、たんぽぽ亭の店内よりも広い。落ち着いた色調の部屋で、壁際の書棚には難しい用語の背表紙が並ぶ。室内装飾が少ないため、まだ火がない暖炉の上にある唯一の姿絵が目を引いた。
姿絵は二枚あり、どちらも描かれているのは三人だ。片方が古く、片方が新しい。新しいほうはここ数年のうちに描かれたと思われるテオとメリル、ダリオンの絵だ。もう片方の古い絵は、幼いテオと若いダリオン、そして鳶色の長い髪の、麗しい女性が描かれている。テオの母だ。メリルを出産した際の産褥で亡くなっていると、巷の噂でミーアも知っていた。
「リチャード。お前、いつまでここにいる気だ? 王都に帰ったと思ったら、またすぐ来やがって」
「あれからお前がどうなったのか、心配で堪らなくて来たっていうのに。叔父さんとはまだ話がつかなそうだね。あ。僕の仕事の心配は無用だよ。持参して来たんだ。僕も、忙しい身だからね」
「……長居する気満々かよ」
ミーアはリチャードに紅茶を置き、それからテオの机にも紅茶を置いた。テオは「ありがとう」と礼を述べた後、ミーアに尋ねた。
「父さんに、何か言われてないか? 俺と縁を切らないと、痛い目にあうとか」
ダリオンがテオの軟禁を解いたのは、ミーアを用いた作戦に移行したためだが、その事実を知らないはずのテオにもお見通しらしい。
「そんなことは、言われてない」
リチャードが、紅茶の香りに穏やかに目を細めながらも、鋭い思考で言う。
「なら、テオが公爵になるよう説得してくれ、とか?」
ミーアは無言でいた。それが肯定だった。テオが深く吐息する。
「今度はミーアを差し向ける気か。嫌な手使うなぁ」
「……わたしは、頷かなかったわ」
表情を明るくするテオに向け、素早く言い足す。
「領主さまの意見に反対したってわけじゃない。わたしが何を言うかは、わたしが決めるって、それだけの話」
テオが表情を元に戻し、また不安げにミーアを窺った。
気づいていながら、ミーアはテオと視線を合わせなかった。貴族だとを打ち明けられて以来、テオには笑顔を見せていない。
「思うんだけどさ」
リチャードが口を開く。
「ミーアを、どこかの貴族の養子にすればいいってだけの話じゃないかな? 貴族じゃないのが問題なんだから」
公爵家の人脈があれば、養子先の家を探すこともわけはない。
「僕が、いいところ探してもいいよ。養子だってのは、形式だけでも構わないわけだし」
貴族社会とはそういうものなのだろうかと思いながら、ミーアは首を横に振った。
「ごめんなさい。……わたしの両親は、お父さんと、お母さんだけだから」
仮に形だけでも、ミンロを独りにしてしまう気がした。リチャードが残念そうに眉を上げる。
「うーん、そう……」
「だいたい、俺はミーアを貴族なんかにしたくない」
テオが、確認を終えた書類の束を寄せながら言う。
「貴族なんて、いいもんじゃないだろ。堅苦しいし、中身より外聞だし、面倒な駆け引きばっかでやることも汚いし」
「そんな身も蓋もない言い方……いいところだってあるからね、ミーア。きれいな恰好はできるし、おいしいものもたくさん食べられるし、公爵家の財産使って豪遊だってし放題だよ、きっと。テオが君に惚れてる限りは、文句言わないさ」
「そりゃあある程度は好きにしていいけど……度が過ぎると、俺だってさすがに言うぞ?」
「わたしは、贅沢をしたいわけじゃない。普通の、苦しくない生活ができれば、それでいい」
会話が切れる。ミーアは空の盆を抱え、部屋の扉へ向かった。
「次の仕事があるから、行くわ」
部屋を出ると、テオがすぐに追って廊下へ出て来た。静かな廊下で二人きりになる。テオは頼りない声音で言った。
「ミーア……その……、ずっと、元気ないよな?」
テオは慎重に言葉を選んでいるようだった。
「俺が嘘ついてたこと、怒ってないっては言ってたけど、その……もし、俺が鬱陶しくなったんなら、はっきり言ってくれていいから……」
ミーアは瞬きをした。テオは自分が嫌われたと心配しているらしい。ミーアの態度が悪かったこともあり、彼の立場からすれば当然の思考かもしれない。
「ごめんなさい。そうじゃないの」
ミーアは弱く、笑みを作った。
「ただ少し、これからのことを考えてて」
「あ……うん。そっか。……でも、さ。ミーアは何も考える必要はなくて。父さんの言うことだって、気にしなくていい。これは全部俺の側の問題で、俺が片をつけなきゃいけないことだから。ミーアは、悩まなくていいんだ」
「……うん。テオの気持ちは、わかってるから」
「あー、……うん。それなら、いいんだけど」
「うん。……じゃあ」
互いにすっきりとしない空気を自覚しながら、ミーアはテオに背を向けた。背中にまだ視線を感じたが、そのまま歩く。
テオが、好き。貴族をやめてまで自分を望んでくれる気持ちも、本当は素直に嬉しいと感じている。
娼館に助けに来てくれたのも、また会えたのも、嬉しかった。もう会えないと思っていたのに、嫌われたと思っていたのに、まだ変わらずに想っていてくれていて、嬉しかった。いまだって本当は、こんなにもそばにいられて楽しくて仕方がない。気を抜けば、テオの笑顔につられて頬が緩みっ放しになるだろう。
だからこそ、手放しで喜ぶことはできない。迷わずに、悩まずにはいられない。本当にテオのためになる選択は、行動は、何だろうと。




