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 だがテオは落ち着いていた。強気に衛兵の手を払う。


「この子と知り合いなんだ。連れて帰らせてもらう」


 テオは、ミーアの肩に自身の上衣をかけると、手を引いた。この時初めて、ミーアはテオの恰好に気がついた。公爵邸の誕生会で偶然会った時同様、テオは仕立てのいい服を着ている。ミーアの肩にかかる上衣も、厚手の絹布でできた高価なものだ。


 衛兵は出て行こうとする二人の前に立ちはだかった。だが、力づくで捕らえて来ようともしない。問答無用で拘束するには、テオの身なりがしっかりし過ぎていた。対応に困っている様子だ。


「いいから、通してくれ。こっちは急いでるんだ」


 退こうとしない衛兵に、テオは億劫おっくうそうに眉根を寄せる。衛兵としても侵入者をただで帰すわけにもいかないらしい。


 するとテオは、服の中から上質な硬貨袋を取り出した。それを卓へ放る。紐口から眩い金貨が飛び出した。三十枚はある。衛兵も、そしてミーアも呆気にとられる中、テオは低い声で命じた。


「いいから、通せ」


 衛兵が自然と一歩下がる。話題のない一人の娼婦を買うには十分な金額だ。テオはミーアの手を引いて歩き出す。ミーアは状況に翻弄されたまま、ただテオの背中を見つめた。


 娼館の出口まで来た時、騒ぎを聞きつけた館主が現れた。館主は出て行こうとするテオを見て、目玉が飛び出さんばかりに驚く。


「セオドア、さまっ!?」


 ミーアは「え?」と声を漏らした。館主はミーアに対する時とは雲泥の差の、腰の低い態度で手を揉む。


「ほ、本日は、どのような、ご用件で?」


 テオはゆっくりと館主を振り向いた。


「先日の誕生会以来ですね、コンラッド殿。急に訪れた上、お騒がせしてしまい申し訳ない。ここに知り合いがいたものですから、連れて帰らせていただきます」

「へっ? お知り合い? なんと! それはそれは、なんと偶然な。こちらの女性が、ですか。そうでしたか。知人からの紹介でしたので、すっかり調べが足りず、ご無礼をいたしまして……よろしければお詫びでも――」

「急いでおりますので、いまは失礼します」


 館主はまだ言葉を続けようとしていたが、テオは構わずミーアをつれて館を出た。大通りから路地を曲がり、歓楽街の灯りがわずかに届くだけの薄暗い道を早足で歩く。向かっているのはたんぽぽ亭の方角だ。テオは本当に急いでいるようで、歩を緩めないまま話し出した。


「ごめん、ミーア。会いに行けなくて。父さんに、家から出してもらえなかったんだ。いまも、無理に出て来てる。見つかったらすぐに連れ戻される」

「あの……テオ」


 いい加減はっきりさせなくてはと、ミーアは無理やり足を止めた。つないでいた手が簡単に離れる。テオも立ち止まった。


「どういうこと? セオドアさまって?」


 テオは振り向き、ミーアをまっすぐ見つめた。切なげな瞳だった。


「ミーア……俺、いままで嘘をついてたんだ。俺は本当は、公爵家の庭師じゃない。――本当は、貴族なんだ。俺がセオドア。バックス公爵の、息子なんだ」


 貴族。全身に重く響く言葉だった。立場の違う、遠い存在だ。


「見つけたぞ、テオ!」


 路地の向こうから声がした。テオが「見つかったか」と忌々しげに舌打ちをする。現れたのは公爵家当主のダリオンと、執事のロッソ、そして自身をセオドアだと偽っていた緋色の髪の青年だ。髪を乱したダリオンがテオの腕を掴む。


「まったく、お前は! 小火ぼやを起こした上に、煙の中で死んだふりなどして――どこまで幼稚なことをっ!」

「幼稚なのはお互いさまだろ! 頼むからもうちょっとだけ待っててくれよ。話の途中なんだ」


 テオはダリオンの手を振り払い、ミーアに急いで言う。


「ミーア。父さんと話がついたら、必ず会いに行く。それまで待っていて欲しい。借金は俺がなんとかするから、もう二度とこんなことするな。金なんかのために、こんなこと」

「……金なんか、って」


 考えがまとまらないまま、思わず言葉が口を出た。


「金なんかって、何? そりゃあ、テオにはわかんないよ。あんなに簡単に、金貨何枚も出せるんだもん。そんな人に、わたしの気持ちなんて……わからない」


 テオは失言したように視線を揺らした。


「ごめん……そういう意味で、言ったんじゃなくて……。俺はただ、お前が心配で」

「だいたい、公爵家の息子のセオドア坊ちゃまは、貴族の令嬢と婚約をしたはずでしょ? それなのに、わたしと結婚しようだなんて……貴族と普通の人は、結婚なんてできないのに。わたしのこと、からかってたってこと? ……本気にしてるわたし見て、楽しかった?」

「違う、ミーア! 俺は本気だった! お前と結婚するために、貴族をやめようと思ってる。それで父さんと意見が食い違って、こんなことになって」


 ミーアは耳を疑った。


「貴族をやめるって、本気で、言ってるの……? わたしと結婚するために、貴族を、やめるなんて……」


 わざわざ平民に下る意味がまったく理解できない。金も地位も権力も、あったほうがいいに決まっている。裕福で、広い庭と大きな家があり、着るものにも食べるものにも困らない。それをすべて捨ててまで平民になるなんて、正気とは思えない。


「……正直に、言ってくれていいのに。わたしとは、ただの遊びだったって」

「違う! 俺は本当に、お前と結婚したいと思ってる!」


 ミーアはテオにかけてもらった高価な上衣を握りしめた。中に安っぽい薄手の服を着ている自分が恥ずかしかった。香水をまとい、身体を売る寸前で、あまりにみっともなくて、いますぐ消えてしまいたい。


「……嘘、ばっかり」


 テオは、本当に心配してくれているのかもしれない。本気で結婚するつもりなのかもしれない。わからない。だがそれを受け入れるには、いまの自分の恰好は浅ましかった。ミーアは地面にぽたぽたと涙を落としながら声を振り絞った。


「信じ、られない。軽い気持ちだったから、だから初めてキスした時、簡単に、あんなこともしたんじゃないの? わたしが、ただの街娘だから」


 胸を触ったことを指していることに、テオはすぐに気づいた。


「それは絶対に違う! 絶対に! 信じてくれ、ミーアっ」

「あんなこと?」


 急に、緋色の髪の青年が割り込んで来た。


「あんなことって、一体何をしたんだい? テオ」

「……リチャード。お前、ちょっといまは黙っててくれよ」


 テオの注意がわずかに逸れたのを好機に、ミーアは地面を蹴って逃げ出した。彼らの前にいることがつらかった。


「ミーア!」


 テオの呼び声が届いてくる。でも止まることはできない。


 幸い、テオが無理に追いかけてくることはなかった。



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