11 公爵令息の誕生会
秋が深まる快晴の午後、ノウェン市の市門には街道から次々と豪奢な馬車が乗り入れて来ていた。バックス公爵邸は朝から大忙しで、調理場の使用人もみな休む間もなく動き回り、時折怒声すら飛び交っていた。
「ひえー。手と腕が死んじゃうよぉー」
調理場の裏手で木箱に座るサラが、泣きそうな顔で人参の皮をひたすらに剥いている。ミーアも隣で額に汗を滲ませながら、林檎の皮を必死に剥いていた。この大量の食材はすべて調理され、会場の料理が夜遅くまで途切れないよう配膳されるのだ。
主会場である公爵邸の大広間も設えは万全だった。壁際には鮮やかな生花が飾られ、天井には百本を超える蝋燭を用いた飾り灯が煌々と燈る。早めに到着した招待客たちの姿もすでにちらほらあり、誕生会は滞りなく始まろうとしていた。
だがそんな中、正装支度が済ませたテオは、同じく支度を終えたダリオンと書斎で話し込んでいた。
「婚約発表を、取り止めたいんです」
ダリオンは執務机の椅子に腰かけたまま、額に手を当ててテオを見やる。
「私は、エトレシカ嬢と結婚できません。いや、彼女に限らず、公爵子息として、貴族の令嬢と結婚することができません」
「何を言い出すかと思えば……、くだらない。いいから早くみなさんのお出迎えに行くぞ。主役はお前だ。粗相のないようしっかりやれ」
ダリオンは取り合わず扉へ向かおうとする。テオは真摯に投げかけた。
「ごめん、父さん。俺、公爵位を継げない。家を出て、街で暮らしたい」
「いい加減にしろ!」
部屋の中に大声が響き渡る。
「話は済んでいるはずだ! お前は、婚約をすると確かに言った。いまさら何を言い出すんだ!」
「ごめん。でも、やっぱり無理だと思ったんだ。どうしても諦められない人がいる。その人と一緒になりたい。……ごめん、父さん」
「……話にならん。いいから行くぞ」
「婚約発表を取り止めてくれるって言うまで、俺はここから動かない。誕生会にも、出席しない」
「何を、子どものようなことを」
「婚約発表さえ取り止めてくれるなら、誕生会は普通にこなす。いま任されてる仕事についても、もちろんひと区切りつくまでは終わらせる。ヒュロッケン伯爵とエトレシカ嬢にも、事情を話して誠心誠意詫びる。……迷惑は最低限になるよう、全部きっちり片付ける。それから家を出るつもりだ」
「そういう話をしているのではない。私がいままでどれだけお前に……! ――領地を任せるなら、お前にと考えて、どれほど……。お前は、その何もかもを捨てて行くと言うのか!」
ダリオンは激昂し震えていた。テオは父の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「ああ、そうだよ」
ダリオンが息を呑む。力んでいた肩から感情がゆっくりと抜け落ちていく。深く傷つけたことは、理解していた。
ダリオンはテオから目線を外し、疲れたように言った。
「わかった。いいだろう。婚約発表はしない。だから、誕生会は無事に終わらせなさい」
ダリオンは先に書斎を出た。テオは重い表情のまま息を吐き出した。ダリオンに息子だと思ってもらう資格は、もう自分にはないだろう。
テオが書斎を出ると、廊下にリチャードが立っていた。リチャードは白と金縁の華やかな礼装を着ていた。
「主役を食う派手さだな。たまには黒とか紺にしろよ。ただでさえ髪色で目を惹くってのに」
「僕はいつだって自分に最もふさわしい衣装をまとうんだ。よく似合ってるだろ?」
「そうだな」
おざなりに返し、テオは歩き出そうとする。だがリチャードに止められた。
「初めに言っておくけど、僕は反対だよ」
声が大きかったため廊下に漏れていたのだろう。リチャードはテオとダリオンの会話を聞いていたらしい。いつも穏やかなリチャードだが、いまは張り詰めた様子で笑顔を消している。
「とてもじゃないけど、応援はできない。恋に溺れて平民に下るなんて馬鹿げてる。考え直すべきだ」
「そう言うと思ったよ。でも俺も、簡単に決めたわけじゃない。ずっとずっと、迷って迷って、それでもやっぱり諦められないって考えに行き着いたんだ。覆す気は、もうない。応援も、してくれなくて構わない。……悪いな、リチャード」
テオはリチャードが次の説得の言葉を考えているうちに、彼を残して大広間へ向かった。
誕生会の招待客は三百名ほどで、各地の貴族やノウェン市の有権者などが主だ。全体への開会挨拶の後、始まった食事の合間にさらに一人ずつ招待客と言葉を交わす。陽が落ちる頃には楽隊による演奏が舞踏曲に変わった。踊りが始まれば、後は夜が更けるにつれ酒も回り、各々が好きな時に帰り誕生会は終了となる。
大広間の燭光が映える時間となり、舞踏曲が始まった辺りでテオはようやくひと息つけた気がした。やはり社交は肩が凝る。今日は自分が主役のため尚更だ。テオはダリオンの姉である伯母と踊りながら、世話になっているあと数名と踊れば誕生会も終わりだと考えていた。
その時、舞踏曲がふいに止んだ。みなが踊りの足を止め、静かになった大広間の前方にダリオンが姿を現す。隣にはエトレシカとヒュロッケン伯爵もいた。悪い予感がした時にはダリオンの口上は始まっていた。
「突然ですが、みなさまに発表したいことがございます。この度、息子のセオドアは、こちらのヒュロッケン伯爵のご息女、エトレシカ嬢と婚約をすることとなりました」
ダリオンがすかさずした拍手につられ、会場内に拍手の波が起こる。大広間の中央で言葉を失っているテオに、周囲から柔らかい視線が注がれる。目の前の伯母も「あらまあ。おめでとう」と祝福した。
声を上げようとしたが、すぐさま舞踏曲が再開する。前もってダリオンの指示があったようだ。客たちは束の間、もう話は終わりかと戸惑い顔になったが、流れゆく舞踏曲にまた身を任せて踊り出す。テオは走る勢いで大広間の前方へ向かった。そして小声でダリオンに迫った。
「おいっ、話が違うだろ! 書斎では『わかった』って」
「知らない。聞こえないもーん」
ダリオンは壁に視線を流しながら唇を尖らせる。子どもかよと怒りが湧いた時、エトレシカの不安げな視線がテオを貫いた。
「あの、セオドアさま。何か問題でもあったのでしょうか?」
婚約発表のためだろう、エトレシカは白を基調とした愛らしいドレスを着ていた。婚約の取り止めについてこの場で明かすのはさすがに適さない。テオが「えっと」と言葉を濁していると、ダリオンがエトレシカの手をとった。
「エトレシカさん。よろしければ私と踊っていただけませんかな?」
「え? は、はい。喜んで」
本来ならここはテオと踊る場面だ。エトレシカは戸惑いながら、だが促されるままダリオンに連れられて行った。
テオは溜め息をついた。残された伯爵も釈然としない表情だ。
「あの、セオドア殿。予定の段取りと若干違ったようですが、何か不都合でもあったのでしょうか」
「……ヒュロッケン卿。誕生会が終わったら、少し時間をいただいてもよろしいですか」
「ええ。それはもちろん、構いませんが」
テオは伯爵に一礼をした。そして外の空気でも吸おうとテラスへ向かった。




