ヤコノエの決断
ヤコノエは自分の住処に戻ってきた。『獄王』たちへの報告を終え、グレンから言いつけられていた仕事は全て終わった。彼女は自由の身となった。
会議前に彼から「『炎獄』にならないか?」と聞かれたが、丁重に断った。
「さて……」
これからどうしましょう。
今まではグレンの世話に追われていたため毎日が忙しかった。しかし今はもう何もすべきことがない。彼と出会うまで自分は何をしていたのだろうか……。
「あ………」
そして彼女は思い出す。幼いころから頭ではなく右目から生えた角を『異形』と名付けられ、嘲笑の的にされていたことを。力のある鬼から暴行を受けていたことを。
何度悔しさと怒りに一晩中泣きはらし、何度角を折ろうと思ったか。それでも鬼にとって角は誇り。自分にそれを失う勇気はなかった。だから強くなることにした。生みの親から離れ、一人武者修行に出た。危険な他種族と戦い、己が身を鍛えた。そうして故郷に戻ってきたときには自分に勝てる者など誰もいなかった。
しかしそれでも自分への侮辱はなくならなかった。直接言われなくなる分、性質が悪かった。
ああ、やはり自分の居場所はここではなかったのか。
そう思い、自らの過去を全て置き去りにもう一度旅に出た。目的もなく、逃げるように歩き続けた。
そんな時だった。彼と出会ったのは。開口一番に「お主に勝負を挑む」と言った時は呆気に取られてしまったものだ。それでも退かぬ彼と自分は戦った。そして負けた。
私は死ぬのか。戦いに負ければ死ぬことは私たちの中では当たり前だったので、特に恐れはかった。だけど、地に伏す私に彼はこう言った。
「お主、見どころがあるな! どうだ、我と共に来ぬか?」
初めてだった。私に手を伸ばし、声をかけてくれたことが。「一緒に行こう」そんな言葉を言ってくれたことが。
「なぜ私を?」
「我の見立てではお主はいずれ我より強くなりそうだ。その時にまた戦いたいと思ってな」
意味の分からないことを。そう思ったが、ただ断るよりこっちを聞いた方がいいだろうと、自分は質問を続けた。
「あなたは、この角が気持ち悪いと思わないの?」
異形の角。私を縛り、締め付ける呪い。初めての言葉に対しても私は跳ね除けることしかできなかった。
「角? 別にそれがなんだ。我なんか見てみろ、図体の割には小さいとようからかわれたわ! もちろんその度に殴り飛ばしてやったが」
豪快に笑う彼に私は何も返せなかった。あまりの眩しさに……。自分の惨めさに……。
「角がお主の価値を決めるのではない。お主が自らの角の価値を決めるのだ。我はお主のその角は立派だと思うぞ。お主のように強く、そして雄々しい立派なものだ」
「私の……角が……?」
私の中で何かが崩れる音がした。
「ああ、だからそんな暗い顔をするな……っておい、何を泣いておる!」
「えっ……?」
頬を触る。確かに私の頬は濡れていた。何かが伝う感触がする。本当に私は泣いていた。
「あれ? な、なんでだろ……。おかしいな………」
それでも涙は止まらない。彼も慌てていた。
「もう大丈夫……です」
ようやく気持ちが落ち着いた。傷ついた体も立てるくらいには回復した。起き上り、体をはたいた。
「お、おう……。それならよいのだが……」
自分が人を泣かせてしまったことにかなり焦ったらしい。終始私を宥めようとしていて、その様子に私はついに笑ってしまった。
「あははっ、あはははは!」
「……ふむ、そう笑えるのであれば、もう大丈夫だろう。改めて聞いてもよいか?」
無理やり笑いを抑え、私は彼の前に立った。
「……あー、お主の名前は、なんだ?」
そういえば言ってなかった。教える必要もなかったし……。でも今は違う。
「私はヤコノエ」
「そうか、ではヤコノエよ。我と共に来てはくれぬか?」
彼は私に手を差し出した。
「………」
もう悩む必要はない。答えは決まっている。
「わかりました。私は貴方と共に歩みましょう。太陽の隣に静かに輝く月のように……」
手は取らない。代わりに片膝を地面につけ、恭しく頭を下げた。忠義を誓ったのだ。
「…………」
思いだせばそこから人生は角のことを気にかける間もなく忙しかった。常にグレンの起こす問題の後始末に追われ、さらには隙あらば彼との手合わせの相手をさせられ、満足に休む日はなかった。
それでも充実した日々だったことに変わりはなかった。
「失って初めて惜しいと気づくのですね」
気付けば彼女は彼の最期の場所へと足を運んでいた。今はもう瓦礫の山となった場所。
「………私は憧れていた。見た目ではなく本質で理解しようとするその姿勢に。しかし……私と貴方は違う。だから私は貴方に成り代わろうとは思わない」
それが、自分が『炎獄』の名を継ぐのを断った理由だった。
「それでは、私はどうしたらいいのでしょうかね……」
その時だった、どこからか誰かの怒鳴り声が聞こえた。それに続いて声が続いている。
「何……?」
ヤコノエはすぐに様子を覗いに向かう。人間の襲撃? いや、それは獄王たちが言ったようにまずありえないだろう。では一体……。
場所はかつてのグレンの住処の入り口にあたるところだった。そこには大勢の鬼が集まっていた。皆武器を持ち、狂ったように叫んでいた。
「何事ですか!」
ヤコノエは彼らの元へ向かった。すると、一人の鬼が大声をあげた。
「何ってヤコノエさんよぉ! 次の鬼の頭領を決めようとしてるんですよ」
「頭領?」
「おうよ、鬼の中で最強の鬼が頭領となって全権を持つ。前まではグレンさんがそうだった。だが、あの人はもういねえ。だから次を決めるんだよ!」
頭領……? そんな風習が鬼にあったのか? いや、自分はそんなこと聞いたことない……。
「誰がそんなこと決めた?」
「俺ら全員ですよ! 強い奴が弱い奴を支配する。当然だろ? グレンさんのせいでその風習が少し廃れちまったが、今度はちゃんと決める。そういうことですよぉ!」
かなり興奮状態にあるようで、この鬼の言葉に周りは騒ぎ立てるばかりであった。収まりがつかないだろうな、とヤコノエは頭を抱える。
「もちろんヤコノエさんも参加するんですよねぇ!?」
「私も……?」
なんで勝手に決められてるんだろうか……。そんな表情をしたヤコノエを見たのか別の鬼が囃し立ててきた。
「たまたまグレンさんの飾りに選ばれただけで所詮異形のあんたにゃ、そんな意気地ないだろ!」
彼の言葉に何人かが笑い声をあげた。彼らは正気じゃない。興奮状態にある。だからそんなことを平気で口にできるのだろう。ならば身を持って教えてあげなければ。
「黙れ」
ヤコノエは腕を振るう。すると、自分を謗った鬼の足元から火柱が起き、包んだ。
「おおおおお!? 熱いいいいぃぃぃ!?」
火柱は高く吹きあがり、そして消えた。空から黒こげの鬼が落ちてくる。さすがは鬼といったところかまだ生きているようだ。
「ヤコノエさん!? おい、どういうつもりだ!」
いきなりの行動に他の鬼たちは憤る。だが、そんなことは知ったことではない。
「別に私のことをとやかく言うのは気にしない。大抵は事実だから。だけど……私にも許せないことがある」
ヤコノエは両手を開く。すると彼女の手にそれぞれ長さの違う剣が現れた。
「あの人が褒めてくれたこの角。私の強さだと言ってくれたこの角を貶すことだけは許さない。それはあの人を貶すことと同義」
彼女は少し下がり、鬼たちに向けて右手の剣を向けた。
「今私にはあの方より預かった『炎獄』としての権限がいくつかあります。それがある限り、私はあの方の代理としています。つまりあなたたちが勝手に頭領を決めようとそれは意味のないことです。」
「何……?」
もちろん戦いの中で使う気は毛頭ない。だが、彼らを焚きつけるにはいい材料となるだろう。
「全員死ぬ気でかかってきなさい。鬼としての誇りを持って、誰が一番強いか教えてあげます。私に勝てないようでは鬼の頭領を名乗るなど夢のまた夢」
「……いいじゃねえか! おい、まずはこいつを潰すぞ! 最初に殺った奴が次の頭領だ」
残った全員が「おおおおおっ!」と雄叫びを上げた。そして一斉にヤコノエに襲い掛かる。
「……グレンさ、いえ、グレン。貴方の意思を私は継ぎましょう」
ここに戻ってきて初めてヤコノエは笑った。自分の成すべきことが見つかった。彼の意思を継ぎ、その上で自分のやりたいようにやる。それは……
「全ての鬼が差別されることない世界。作ってみせます」
そしてヤコノエは迫りくる鬼の大群に突っ込んでいった。
当初はこんなにヤコノエを活躍させる予定はなかったんだけどなぁ……