堡礁の民
だってサメが好きなんだよ!
人類は叡知を得て科学を発達させ、利便の代償に世界を失った。
そんなご先祖様のツケが回ってきているのが現代世界である、というのは、歴史の授業では耳にたこができるほど聞いているが、今時、古老だってもはや「かつての世界」なんて、寝物語に聞いたかどうかも怪しいのだ。第四世代生まれの自分にとって、そんなきらきらした夢の世界は無縁だ。
全球の年間平均気温がほぼ摂氏20度になり、熱帯低気圧の大渦は、少数精鋭で大損害を与えてくる。かつては年に30も発生していたというが、今や年間10程度だ。そのかわり、一発あたりの威力が酷い。
偉大にして暗愚であった先達……これは「科学時代」と呼ばれる栄華の時代に生きた学者たちを指す現代の定型文句である……の名を取った、諸々の単位を用いれば、中心気圧は830hPaといった案配だ。
自分が生活している、北第14環球区においては、この熱帯低気圧の渦は「台風」と呼ばれている。第7環球区あたりだと「サイクロン」になり、第24環球区になると「ハリケーン」と呼ばれるそうだが、渦が時計回りか反時計回りかという差が南北で生じるだけで、中身と、そのもたらす被害の内容に大差はない。暴風・大雨・高潮。
自分たちのような「陸棲人類」には、最後の高潮がなかなか堪える。防潮堤を築くにしても、毎年毎年、腕によりをかけているのではないかと疑う程に、台風の威力は鋭さを増している。こちらを防御すれば、あちらが破られ……といった、大自然相手の飽くなき戦いである。
かつての、偉大にして暗愚であった先達は、これらの自然を叡知で従えられると信じていたというのだから、昔々の賢明人類とやらは、実に傲慢不遜なものである。
この環境を彼らが見たら、回避する叡知とやらは思いついただろうか。
ため息をつきながら、遠隔操作機で駆動要項を入れる。
台風の間は、全員が避難を行う。出来る対策は全て打つが、大自然の脅威の前に、人類の叡知というやつが無力であるということは、少なくとも現代の人類は皆よく知っている。
大暴風雨が猛威を振るった後の陸上には、探査用の小型機を飛ばす。まず、これをしないと、太陽光を浴びるための道のりすらわからない。これが自分たちの時代だ。
地下に作られた特殊防御居住区から、探査装置を次々に送り出す。装置の開発者は一番上の「大伯父」で、自分はそのお手伝い、である。
彼は、科学時代には技術力で世界を唸らせた偏執的こだわり民族の血を濃く継いでいる。強くなった日光に対抗するため、黒髪黒目に、焼いたパンのような肌色が一般的なのが自分たちの世代であるが、大伯父も古い世代ながら、髪にも目にも十分な量のメラニン色素を持っている。聞けば、大伯父の民族は黒髪黒目遺伝子組であったらしい。
自分の家系は、視覚記録に間違いがなければ、7世代前には銀色に近い薄い金髪に、淡い青色の目を持っていたらしいのだが、劣性遺伝子の発現率の低さと、どう考えてもメラニンが多い方が安全性の高まる環境に適応した結果、自分の知る限り、そんな色素の薄い人物はいない。世界にももう少ないだろう。
通称「偵察室」で、合計24台設置された「視野」を素早く、順番に確認する。
「ハナ、9番通路が出られるぞ」
大伯父が、ニタリと笑いながらそう言ってきた。
どちらが先に地上への出口を見つけられるか、という、去年から始めた勝負は、今回もまた、伯父の連勝記録を伸ばす結果に終わった。
へんっ、と鼻をならしてやるが、大伯父は気にする風もなく、慣れた調子で9番通路の解放作業に入る。キャップ設置、隔壁再起動、地上ハッチ開放……全て問題なしだ。
「軽く周囲を見ておく。土木機動隊に連絡を頼むよ」
「アイサー」
大伯父の指示に従い、館内通信を繋ぐ。
「こちら『偵察室』……台風3号『トカゲ』通過との連絡を受け、地上到達経路の確認作業を実施。9番通路の無事を確認。土木機動隊は、出動に向けて待機されたし」
全館放送で、言うだけ言って、ぶった切る。
災害時には、この狭い「特殊防御居住区」に、皆が閉じこもる。だが、台風が去っても、通路の安全が確保されるまでは、地上での作業に入ることも出来ない。自分たちがこの作業を終えたと報告を回して、初めて、土木機動隊は活動の準備に入る。
だから、連絡を回す前に彼らの活動拠点室にいる人間なんて、それこそ片手の指が余る程度しかいない。そんな部屋だけに連絡を回すのも馬鹿らしいので、全館に遠慮なく放送を回す。それがこの、北第14環球区にある、「南大島」の慣例である。
同じ北第14環球区でも、他の「島」がどうなのか、そんなことは知らない。ハナ自身が知っているのは、この「南大島」だけなのだ。
偵察機の操縦権限を大伯父に返して、「偵察室」を出る。
中央娯楽室の立体投影機に、大伯父の操作する偵察機がのぞいた、地上の様子が表示されている。土木機動隊の関係者でない面々も、この放送が流れると、地下生活終了の「爽やかな風」が吹くのを感じるそうだ。地上の中継映像が入るようになるのだから、少し外の空気に触れた気分になる、ということだろうか。爽やかも何も、暴風が吹き荒れた後なのだが。
とりあえず、大自然は今回も、とんだ乱痴気騒ぎをしてくれたようだ。人類が無道の限りを尽くした時代への鬱憤晴らし……かのごとき、毎度毎度の台風の暴虐には、実に恐れ入るしかない。
さて、土木系の片づけというやつは、上の世代の大人の仕事だ。
第四世代の自分には、この世代だからこそ自然に修得している技術を使った、また別の任務が与えられている。これは「南大島」の特徴的な仕事の一つで、この島の第四世代は、全員がこの任務に関連する必要技術を習得している。
すなわち、海洋生態系保全、だ。
偉大にして暗愚であった先達は、欲望のために生態系を攪乱した。
足りない知恵を絞って、大自然の神秘の失われた部分を、それはもう償いに励む罪人のように、一所懸命に補っているのが、ハナたちの世代だ。
先人たちの罪の故に、色んなモノを背負わされた世代である。
それにしたって、ハナはまだ「陸棲人類」である分、背負わされたモノは少ない方だ。かつての「自分たちには望ましかった環境」にしか適合していない体の持ち主で、色々と不便もあるということは否定しない。しかし「海棲人類」ほど容姿も生態系も、過去の賢明人類から遠くされた面々に比較すれば、まぁ微々たるものだ。多分。
ちなみに、ハナたち陸棲人類第四世代の能力は、海棲人類との非声語依拠表現交流が、補助道具一切なしの「身一つ」で可能、というものだ。なので、上の世代の陸棲人類からの情報を、海棲人類に伝達するのは、基本的に第四世代の仕事になりつつある。
海洋博士の心琉さんから受けた連絡を頭の中で繰り返し、ハナは歩みを進める。ククルさんは第14環球区の中でも南方の系譜だ。ククルさんの先祖が住んでいた島は、海面上昇で消滅した。それで、少しずつ移住していき、今はこの「南大島」にいる。
環境管理のために各員が役割を持つ現代世界では、人の移住は容易なものではない。ハナのような第四世代は、特殊技能を有していることや、各居住区の人口維持のために、移動に大きな制限がかけられている。
だが、上の世代の……ククルさんは第二世代の陸棲人類だが、少し遺伝子に特別な手が入れられている……しかも、頭脳労働系の人は、この制限が緩くなる。ククルさんは博士なので、比較的、環球区を越えた移動の許可も下りやすい。そんなククルさんが、久々に島に戻った途端、台風が直撃してきたのだ。お気の毒様である。
通路を進んでいくと、居住区とは別の区画に出る。
ハナが到着したのは、潮騒が響く地下空間だ。
「ヨーォ!」
高く長く声を伸ばして、水面下にいる「彼ら」に届かせる。
ほどなくして、ばしゃん、と水音を立て、二人の「ニンゲン」が顔を出す。
海棲人類。
科学時代よりも古い昔の人間が見れば、彼らを人魚だと思うだろう。
もっとも、彼らの下半身は魚のような尾びれを持ってはいるが、厳密には魚のものではない。クジラやイルカの類である。
海洋世界に適した個体を遺伝子操作で生み出そうとした時、偉大にして暗愚であった先達は、古き昔の伝説にのっとって、人魚というモノを思案に入れた。だが、魚類と人類の身体構造の差は極めて大きく、迂闊な合成は非常な危険を伴った。そこで、より人類と共通項の多い、海棲哺乳類の遺伝子を導入することによって生み出されたのが、現代の人魚……もとい、人鯨である「海棲人類」だ。
海棲人類は、陸棲人類とは違い、様々な先天付与能力を保有している。水深150メートルまで、しかも2時間近く潜れる能力などは、その典型だ。高周波帯の超音波を使える能力は、クジラの遺伝子からの土産である。髪の毛に入れた共生藻により、日光さえ浴びれば多少ならばエネルギーも確保できる。もっとも、この藻については定期的に検診が必要で、それが彼ら海棲人類を、陸棲人類との共生につないでいる。
中には、髪の藻については知らぬ顔を決め込んで、いわゆる「野良」になる海棲人類もいるそうだが、少なくともハナは会ったことがない。よく会うこの二人……海人と洋子も、野良には会ったことがないと言う。
カイトは深深度での行動を得手にしている海棲男子で、ヨーコは沖合の水面下すぐを主な受け持ち場にしている海棲女子だ。二人とも、陸棲人類に類似した上半身に、イルカのような下半身をしている。
もっとも、明確に違う下半身はともかく、上半身にも細かな違いは多い。
たとえば背中の肩胛骨の間に、呼吸孔がある。第二の鼻とも言われるこれは、泳走状態をスムーズに維持するために、遺伝子操作でつけられたものだ。顔面にある古来の鼻は、もっぱら空気中で声を発する時にのみ使われる。
耳も小型でシンプルになっている。水中では四方八方から、濃密な音が響いてくるので、耳殻を発達させて集音する必要があまりない。むしろ、耳殻に遮られて音がうまく届かないこともある。世代を経れば耳が平たいか、穴だけの種族になるかも知れない、とは、ククルさんの予想である。
深深度行動の多い海棲人類の「髪藻」は紅藻類系で、赤色~褐色系の色素が多くなり、赤茶色といった印象になる。カイトはまさにその典型だ。逆に浅瀬の活動が多いヨーコは、いかにも葉緑素そのままのような、緑色の髪だ。
植物の緑の髪に、少し妙な点のある人間の体に、イルカの下半身。
遙けき「幻想時代」に、妖艶な人魚を思い描いていた芸術家の皆様には、まことにご愁傷様としか言い様がないのだが、海に適した人類として、無情なる科学が下した判定は、この姿だったのだ。
ヨーコは「鱗なんて迂闊に触ったら怪我して危ない」と言う。先達、散々である。
ちなみに、これらのやり取りは、手話と身振り手振りを交えた、身体表現交流術と、特定の周波数を音階に同定した「歌」とで交わしている。
人魚は歌う種族、などと「幻想時代」の芸術家たちは言っていたそうだが、現代の海棲人類が歌うのは、よんどころのない事情からだ。
肺呼吸の機能は維持したものの、海で食事を取って生きていくのに、人間の顎はあまりにも脆弱に過ぎた。口の構造にも大幅に手が加えられた結果、海棲人類は陸棲人類のように、複雑多様な発音を要する言語は、もはや口語として扱えない。海中を俊敏に動くために用意された手も、陸棲人類のように繊細な動きをするのに、向いていない。
結果、手話と形容するには、いささかに大げさな手振りと身振りを含む「現代式身体表現交流術」、一般に「体話」と呼ばれるコミュニケーション術が完成した。生まれた時からこれに親しみ、苦もなく日常言語と同等に操れるのが、ハナたち第四世代の陸棲人類である。
海棲人類間の意志疎通は、超音波の階層を用いた音楽になることもあるらしいが、いかにもニンゲンらしい、日常のやり取りについては「体話」を用いることも多い。
僕らは文化と文明の分岐点に立っている、と、ククルさんは常々言っている。
たしかに、用意された「体話」がなければ、陸棲人類と海棲人類は、もはや喜怒哀楽に毛が生えた程度の、簡単な意志疎通しかできないだろう。陸棲人類の口語は海棲人類には発音できないし、海棲人類の「歌」は陸棲人類の耳では聞こえない。
体内圧力の変化をスムーズにするため、海棲人類の耳は、特殊な分泌液で満たされている。ただこの構造、水中にいる時には何の問題もなく、音声を伝達する機能を発揮するのだが、空気中に出るとちょっとした耳栓になってしまうのだ。
先に掛けた声は、連絡事項で「体話」を用いるか、それとも周波数の組み合わせ信号だけを使うか、ということを伝えるものだ。今回は、前者である。
水面に立ち泳ぎで体を出す、カイトとヨーコに、体話で話しかける。
〈台風・通過・過去完了 / 陸の民・被害・確認・現在進行〉
S-O-V構文が基本で、特徴的なのは、時制が必ず最後に来る点だ。
もちろん、緊急時などは例外で、「緊急」のサインを最初に出す。
〈海の民・被害・確認・現在完了-疑問〉?
海棲人類には、怪我人などは出なかったか、確認は終わっているか。
単語の羅列を基本とする「体話」では、どうしてもこういう訊き方になる。
これはこれで、まぁ、独特の味があっていいと思うのが、第四世代の感性である。
ひととおりの情報を伝え、返事を求む、としめくくる。
カイトとヨーコは、視線を交わし、ヨーコがカイトを促すように腕を振った。
〈深い部分・確認・現在完了 / 問題・なし・現在〉
続いて、ヨーコから体話の報告があがる。
〈浅い部分・未完了 / 見回り役・ない=足りる・未来予測〉
ハナは注意深く、続きを促す。
見回り役が足りなくなる可能性がある、と、ヨーコは言っている。
〈管理登録情報・照会・依頼・強、強 / 台風・被害*確認・実施・未来要望〉
ヨーコは、細やかな表現を使おうとする傾向がある。時制も複雑に使い分ける。副詞の「強」を、繰り返して使うので、よほど気が急いているものらしい。
〈外海調査*申請・伝える・未来確実〉
ハナがそう答えると、ほっ、とヨーコは落ち着いた顔をした。
ハナは通信機のスイッチを入れて、ククルさんにチャンネルを合わせる。
「こちらハナ……ククルさん? 今『小港』。カイトの深深度、現状異常なし。ヨーコの方は、調査の手が足りなくなるかも、とのことです」
ヨーコは何度も頷いて肯定する。
通信機の向こう側から、ククルさんの声が聞こえてきた。
「カイトにはもっぺん頼んで。ヨーコには、遅くとも明日には船を出すって」
「了解」
台風の間は、海棲人類も、島の隔離岩礁部で災難を避ける。
その台風が過ぎ去った直後に、カイトは自分の受け持ち場の確認を終えている。
ククルさんの言葉で、ハナも気がついた。
いかに、天候に左右されにくい深深度が受け持ちであろうとも、カイトの状況確認は、あまりにも迅速に過ぎる。テキトーに潜ってきた可能性が十分だ。
〈調査する・再度・未来希望・から=ククルさん〉
カイトに向けてそう伝えると、ばれた、というような表情をした。
表情は「体話」よりも、時には雄弁になる。まさに、今この瞬間のように。
へらへら笑いながら、カイトは「体話」の返事をする。
〈了解 / 伝える、伝える・未来希望〉
〈未来確実・強、強、強〉!
ヨーコが、きちんと仕事しなさいよ、と「体話」で説教する。「強」を三回も重ねて、実にご立腹だ。たしかに、任務で「未来希望」……「するだろう」はないと、ハナも思う。「未来要望」……「することを強く望む」なら、まだしも。
〈未来確実*項目・稀・普遍時〉
〈無駄・ない=する*時・現在、現在〉!
カイトは、器用なことに「体話」で哲学を繰り出してきた。「未来確実」とは、「絶対にする」という意志を含む時制なのだが、それに「項目」というのをつけたして、「確定的な未来」という名詞に変更してしまった。
つまり、カイトは「断言できる未来なんて存在しない」と言うのだ。
真面目なヨーコは、それをいわゆる詭弁と受け取ったようで、「無駄口を叩くな」という旨のお説教をしている。時制の「現在」を重ねているところから、この台風が過ぎ去った後、という「現在」の忙しい状況に、わざわざそんなことを言うな、という強調だろう。
〈怒る・逃す・「髪藻」・未来予測〉
カイトが笑いながらそう返したので、ヨーコは身を翻して、派手に水飛沫をぶちまけた。もちろん水中生活をするカイトには、何らの痛痒も与えないのだが、水をぶっかけるというのは、海棲人類の間では最もポピュラーな、苛立ちや日常的な怒りの表現だ。
軽く意訳すれば「こんにゃろう」ぐらいのニュアンスだろうか。
ちなみに、カイトの言ったのは、海棲人類の日常慣用句で「怒ると髪の藻が逃げてしまうぞ」……陸棲人類で言うところの「禿げるぞ」と同じだ。
過激表現というわけではないが、海棲女子には禁句である。
ハナの陸棲人類の耳にも、キュイキュイという、ヨーコの高周波の「恨み言」が聞こえてくる。おそらく海棲人類には、二人の喧嘩がより鮮明に聞き取れていることだろう。聞きたいような内容かどうかは、また別の話だが。
ハナは「ヨー・ヨー」と声を伸ばして、二人の喧嘩を止めた。
「カイト」
名前をはっきり発音して呼ぶと、おちゃらけ海棲男子が向き直る。
〈調べる・現在進行、現在進行〉
カイトの方を向き、念を押すように、時制を二回重ねる。隣でヨーコも「現在進行」を繰り返す。しかもヨーコの方は、二度や三度ではない。
〈調べる・未来確実〉
そう伝え、カイトはすぐに潜水に入った。
〈未来確実*項目・存在、存在・普遍時〉
ヨーコはいたずらっぽく笑いながら、先ほどのカイトの屁理屈をつつく。
口語に訳すなら「確かなこともあるじゃないの」ぐらいのニュアンスだろうか。
「ヨーコ」
今度はヨーコの名前を呼ぶ。
カイトもヨーコも、海棲人類の口の構造では、発音のおぼつかない名前である。もちろん彼らも、普段の海棲人類の交流表現では、彼らに発音しやすいそれぞれの名前を使っている。ただ、陸棲人類にしか発音できない名前というのは、彼らにしてみれば「特別な交流の証」でもあるそうだ。
無論、彼ら自身に発音できない名前であるから、命名者は陸棲人類である。カイトとヨーコ二人の場合は、ククルさんが名付け親だ。
さらに、二人の名前には、漢字という、第14環球区とその近辺に特徴的な「文字」での表現もある。海棲人類は、遺伝子操作の結果か、知能の高い個体が多い。彼らは自分たちの生まれながらの交流表現に加えて、陸棲人類と交流するための「体話」の他に、文字に書き起こして使う「文語」ができる。海棲人類が用いる「文語」は、たいていは英語だ。カイトとヨーコも、英語で文章を書かせると、実に流暢に色々なことを表現する。ただし、二人とも、漢字を使う「文語」は十分には使えない。
漢字使用者には、陸棲人類が多い。その文字で名前がついているというのは、第14環球区所属である、という特徴を示すとともに、漢字の複雑な「表意性」から、とても好ましくて誇らしいのである。
海棲人類に「海の人」であり「大洋の子」である、という命名をするのは、第14環球区らしい「意義深さ」に溢れている、と感じるそうだ。
なのでハナは、ククルさんの命名センスを単純だ、と思ったことについては、生涯黙っておく予定である。むしろ、時制「未来確実」を使ってもいいほどだ。
〈状況・於-外洋・おおむね・確認・過去-疑問〉?
素知らぬ顔で、ハナは、外洋をざっと見たりはしていないか、を問う。
こちらの心中は分からないらしいヨーコは、至って普通に返事をしてきた。
〈見回り・一回・過去〉
時制「過去完了」を使わないのは、彼女の真面目さからだろう。
ヨーコは、しっかりやった、と断言できると思わなければ、少なくとも「仕事」については、過去完了を使わない傾向があるのだ。
ちなみに、この「仕事」とは「サメの管理」である。
珊瑚礁の生態系の頂点に君臨するサメは、生殖可能になるまでの成長期間が長いものも少なくない。それ故に、乱獲の結果一気に数を減らした。ククルさんをリーダーとして、ハナやヨーコ、カイトが所属しているのが、南大島サメ生態系保全班だ。
〈概要・知る*望む〉
時制を省略したが、ヨーコは軽く頷いた。
〈波・荒れる・現在完了進行 / サメ*多様・へ-深深度・潜る・過去 / ヨシキリザメ*群れ*20・から-水深100・へ-水深200・潜る・過去〉
ほうほう、とハナはメモをとる。
〈メジロザメ*群れ*80・水深100・留まる・過去〉
防水加工を施した地形図を取り出し、ヨーコに示すと、サメたちを確認したポイントを、次々に指し示してくれた。指の合図で、数と種類も教えてくれる。
〈クロヘリメジロ・1・水深20・過去完了 / はぐれ・推定 / クロトガリザメ・2・水深10・地点*毎〉
クロトガリザメは、ばらばらのポイントで、二頭目撃されたらしい。
正直に白状すると、ハナはまだ、クロヘリメジロザメと、クロトガリザメの区別が、うまくつかない。だいたい、メジロザメ目の外洋型は、似通ったのが多いのだ。
〈見分ける・優れる・普遍時〉
いつものことながら、よく見分けるもんだ、と感嘆の意を示す。
ヨーコは、少し得意げな顔になりながら、しかし真面目に報告を続ける。
〈ヨゴレ・1・水深5・過去〉
「……希少種じゃん」
ヨゴレ。ひどい名前だが、好奇心の強さがたたって、その数を激減させたサメだ。現在は保護の対象となっている種類である。
〈識別票・確認・過去完了 / 018-224-5058-M / 確認〉
〈ありがとう〉
保護対象の希少ザメは、背びれに認識タグが打ち込まれている。タグが打たれていないサメを見つけたら、タグを打つのも、ヨーコやカイトの仕事である。
サメに近づいて危なくないか、と問われれば、それはもちろん危ない。
が、海棲人類は俊敏で機動性に富むので、一撃離脱ならば、危険性はそこそこ下げられる。念のために船の出動を要請し、タグを打った後、即座に船の水槽に逃げ込むこともあるが。
特に、ホホジロザメにタグを打つ時に、船の出動要請がよくくる。
ちなみに、カイトはちゃらんぽらんだが、危険ザメへのタグ打ちは名人の領域だ。以前、4メートルもあるイタチザメに、水槽の援護なしでタグを打ち込んだことがある。
その後も細かな報告が続くが、最後に、少し気まずそうな顔をする。
〈ある・疑問〉?
促すと、うーん、うーん、とヨーコはしばらく悩んで、それから答えた。
〈ジンベエザメ・子ども・3・確認・過去完了〉
ぶっふぉお、とハナは吹き出した。
「一種保護対象!?」
超希少種だ。
〈体長・80cm・確認・過去完了〉
「ちっさ! めっちゃちっさ!!」
ジンベエザメといえば、クジラザメの異名を取る、サメ界第一の大型種だ。
〈生まれる・最近・過去推定〉
思ったことを「体話」でヨーコに告げてみる。
〈過去推定・同意〉
時制省略型の文法を繰り出されたが、それでひるみはしない。なるほど。
〈のみ-3・疑問〉?
〈他*個体・存在・現在推定〉
〈同意〉
こんな子ザメが3匹もいたら、サイズ的にも生まれたのは最近に違いないし、遊泳能力から推定して、近海に兄弟がいる可能性は大だ。
〈場所・存在・疑問〉?
どこにいる、と問えば、ヨーコは、水の抵抗に対して鍛えられた顔面を、微妙な笑みの形に、器用に歪めて見せた。海棲人類の表情は、一般的には陸棲人類に比べてこわばっているものなのだが、今回の表情は実に見事に「ニンゲン」である。
〈ここ〉
意を決したような雰囲気を漂わせ、ヨーコはそう告げる。
「ほう。ここね……」
んっ?
ハナは目を剥いた。
〈待つ・未来要望〉
そう伝えると、ヨーコは身を翻して、軽く潜水する。
しばらく待っていると、手のひらに子ザメを一匹つかんで、戻ってきた。
「……うおおおお! 生ジンベエJr.だ!」
ヨーコにはぼんやりとしか聞こえていないだろうが、ハナの興奮は十二分に伝わったようだ。にやにやと得意げに、しかし少し恥ずかしそうに、笑っている。
サメ生態系保全班所属のくせに、クロヘリメジロザメとクロトガリザメの区別がつかないハナだが、超希少種ジンベエザメの、しかも、こんなミニサイズとご対面となれば、さすがに興奮は最高潮だ。
つい「体話」で、「可愛い」を連発してしまう。
〈台風・通過・過去完了 / 調査・要望・未来・強、強〉
そう伝えてくるヨーコに、ぶんぶんと首を縦に振って同意を示す。
あと4~5匹どころでなく確保したい。
〈個体・小さい / だから・タグ・打ち込む*こと・難しい・現在〉
ヨーコは真面目な顔で仕事の話を続ける。
〈陸棲人類・ジンベエザメ・飼育*記録・存在-疑問〉?
その質問に、ハナは端末を操作して、過去の情報を検索した。
〈存在・過去完了進行形〉
〈過去完了進行形-疑問〉?
珍しい時制を使ったので、ヨーコが不思議そうに首を傾げた。
〈前-「大洋時代」 / 於-現代、遊牧・普遍時 / 飼育・稀・現在〉
端末の情報を伝えると、ああ、なるほどな、とヨーコは頷いた。
〈大型種・飼育・難しい / 理解、理解〉
少し記憶を掘り起こすように、宙を見上げて、ヨーコは続ける。
〈カイト・タグ打ち・過去完了 ×イタチザメ*個体 ・飼育・過去 / 第23環球区*生態系保全班・問題・抱える・過去 / 結果・遊牧・現在完了〉
〈初めて・知る・現在〉
例のイタチザメは、観察用個体として、第23環球区の生態系保全班に譲渡された、と、ハナは今初めて知った。もっとも、飼育が難しくて、結局「放し飼い」になってしまったようだが。
なお「体話」では、こういう「観察型管理」も「遊牧」と表現する。
〈第23環球区*生態系保全班・専門家・被-選抜*厳格・普遍時 / 不可能、不可能-疑問〉?
しかし、第23環球区の生態系保全班は、環球区を越えて選抜された、エリート揃いの特別班のはずだ。それでも不可能だったというのか。
〈不可能*項目・存在・普遍時〉
ヨーコは、カイトの哲学みたいなことを言った。
〈賢明人類・傲慢・過去 / 現代諸人類・無力*事項・知る・現在〉
ヨーコの腕の中で、小さなジンベエザメが、ぶるぶると体をふるわせた。
そのとおり、賢明人類は、大自然を科学の力でコントロールできると思い上がり、そして失敗した。こうして訪れたのが、全球平均気温・摂氏20度の「大洋時代」だ。
往時の人類の形をほとんど留めている陸棲人類や、上半身の基本的な形以外は大量にいじくられてしまった海棲人類。その他、ごく少数だけが実験的に生み出されたがまだ絶滅はしていない、諸々の亜種を含めた、現代の諸人類は、すべからくそれを理解している。
しんみり頷いていると、ばしゃんと水音がした。
ギュイッ、ギュイッ、と声がする。
「カイト? 早ッ!」
見返せば、おちゃらけ野郎が早くも帰還していた。
〈思う・過剰に・早い〉
同じ事を、ヨーコも思ったらしい。
カイトは、ニヤニヤ笑いながら、海棲人類の言語でキュイキュイと答えつつ、両腕を持ち上げた。その手にいるのは、ミニサイズのジンベエザメである。
〈確保・つい今し方〉
カイトの声を、ヨーコが翻訳してくれる。
〈第一級希少種・確保*迅速・最適・理解・現在完了〉
なるほど。見回りよりも、第一種保護対象である、ジンベエザメの幼体確保を優先した、と。それで、仕事を早々に切り上げて、捕まえてきたらしい。
〈個体・いくつ・存在・現在-疑問〉?
そう問うと、カイトは顔を海の中に沈めて、キュウッ、と高周波の声を出した。おそらく、ハナの耳には聞き取れない超音波も出ていることだろう。
ほどなく、ざばっと波を立てると、ドヤ顔で「7」と示す。
「ヨーコ」
呼びかけながら、同時に「体話」で再確認を要請する。
ヨーコも顔を沈めて、高周波のソナーを発する。
〈ジンベエザメ*幼体・7・存在・現在 / 3・加わる・4〉
ということは、やはり4匹捕まえてきたのか。
通信機のスイッチを入れ、ククルさんに繋ぐ。
第一種保護対象の幼体を、こんなにも確保してしまった。
これはほぼ間違いなく、第23環球区の専門家たちの出番だ。
「ククルさん? 大変なことになりました」
「何があったの?」
「ヨーコが、ジンベエザメの幼体を3体確保。ついさっき、カイトが追加で4体を確保してきました。近海で母ザメが出産した可能性が高いです」
そう伝えると、通信機越しにも、息を呑むのが分かった。
「ジンベエ7体?!」
さすがのククルさんも、珍しく絶叫していた。
(……だろうな)
第一種の幼体7体。ジンベエザメは、記録によると腹の中に300も子ザメを抱えるそうだが、台風に直撃された海の中で、こんなミニサイズの子どもたちが、少なくとも7体も生き延びているというのは、なかなか珍しいはずだ。
「急いで調査船を出させよう! ジンベエの幼体は確保要求上位だ!」
口調からして、ああ興奮しているなぁ、とハナは察する。
現在13歳のハナの人生よりも、ずっと長い期間、ククルさんはサメの研究をしているのだ。希少種のジンベエの幼体だなんて、それこそ垂涎モノだろう。
〈忙しい・未来確実〉
そう伝えると、ギッギッ、と二人は笑った。
〈未来確実、未来確実〉
カイトが面白そうに、さっき自分が茶化した時制を繰り返す。
そんなカイトを軽く睨んで、ヨーコが体を動かす。
〈忙しい*項目・まさに・幸福・現在進行〉
この忙しさは幸せなことだ、と言いたいようである。
〈比較-ホホジロザメ・確保・より-幸福〉
カイトがさらに茶化す。
うん、たしかに、タグ打ちを任される海棲人類としては、ホホジロザメよりも、ジンベエザメの方が、心安らかでいられることだろう。
〈ホホジロザメ・特級保護対象・比較-ジンベエザメ・より緊急・現在〉
ヨーコが渋い顔をする。真面目なことだ。
実際、個体減少数が凄まじいのは、ホホジロザメの方である。
かつて一方的に悪役のイメージをつけられて、散々に殺戮されたせいだ。
〈思う・ククルさん・ホホジロザメ・より喜ぶ〉
サメ学者の顔を思い出し、正直な感想を告げると、二人は一様に固まった。
やがて、うんうん、といかにも納得したように頷いた。
〈ククルさん・サメ・愛する・強、強・普遍時〉
ヨーコの言葉に、カイトが〈強〉を繰り返して同意する。
チャイムが鳴り、ジンベエの幼体確保についての連絡が、島に響く。
台風は過ぎたばかりだが、しばらく、目が回るほど忙しくなりそうだ。
人魚を頑張って考えてみた。やっぱ、魚と人類の合体は難しいと思った。
「イルカなら同じ哺乳類だからいけるかもしれない!」
そうしてこうなった。
……どうしてこうなった。
本当は、半分イルカな海棲人類たちと、サメ遊牧してる話が書きたかったんですが……力尽きました。
あれですね……リアリティ的なモノを追及して「体話」で喋らせたら、単語区切りだし、文法の制限は大きいしで、書くのが難しかったんですよ。
人造言語で小説執筆する人って、本当にすごいですね。