僕と迷子の山羊耳娘
事実は小説より奇なり、とはよく言うけど。
顔も知らない親戚の遺産を相続する、なんて事がまさか僕自身に起こるとは思わなかった。
「宗田さん、これが叔父の遺してくれた財産ですか?」
「そうです。被相続人、末松武氏の遺産はここにあるもので全てになります」
僕の隣にいる女の人が指差した、土地屋敷と中にある膨大な蔵書。
それが、大学生に降って涌いたように現れた遺産だった。両親が借金を残して突然亡くなった僕にとっては、正に天の助けと思ったんだけど――世の中、そううまくはいかないみたいで。
遺産を相続するためには、一つ条件があった。
遺言書に書かれた『蔵書の一冊に住んでいる悪魔を故郷に送り返すこと』というのがそれだ。
もちろん、ここは剣と魔法の世界じゃなくて二十一世紀の日本だ。悪魔云々というのは何かの暗号に違いない。
そう思った僕は、相続の手続きをしてくれている宗田弁護士に何か知らないかと聞いたものの。
『私は法的に故人の代理人ではありますが、友人ではありませんから』
――という、にべも無い答えにがっくりするしかなかった。
黒髪と黒縁眼鏡にダークスーツなんていう、真面目の権化みたいな人に、本気で期待してたわけじゃないけどさ。
「中に入ってもいいですか? 悪魔の本ってやつを、早く見てみたいんです」
ああもう、ちゃっちゃと事を済ませてしまいたい。
強面のお兄さんの『竹中さん、いるのは分かってるんやでー』とか『腎臓売れやコラ』とかいう声を聞いて暮らすのは、どう考えても心臓によくないからな。
「うわー……、これはまた」
怪しげな装飾が施された玄関扉を開けると、まず目に付いたのは本棚だった。玄関はもとより、部屋という部屋、台所やトイレにまでも本があふれている。
幽霊だの前世だのというタイトルが目につき、ジャンルはかなり偏っているようだ。
量は多いものの決して乱雑ではなく、分類ラベルの貼られた本棚にきちんと収められている。だから、問題の悪魔の本とやらを探すのもそう難しくはなかった。
「財産目録によると、これがその本のようですね」
宗田さんが棚から取ったのは豪華な革装丁の本で、それを閉じているベルトにはいかにも、な呪文めいた文字が書かれている。
手渡されてごくりと喉が鳴った。
いやいや、悪魔なんている筈がない。僕はこの本に書かれているであろう暗号を解いて、遺産を貰うだけだ。
そうは思うものの、手が震えてうまくベルトが外せない。
「うわ」
やっと外したと思ったら、本は僕の手を離れて宙に浮き、勝手にページがめくれてゆく。
丁度まん中まで開いたところで動きは止まり、ぼふん、という音と共に煙が湧き出してきた。
「こんにちわーっ!」
ドライアイスもかくや、という煙の中から元気な声が聞こえてくる。
「あ、どうもはじめまして。わたくしはえみり、と申します。あなたのお名前は?」
煙が晴れたそこで――マッチョな直立黒山羊に挨拶された。
「えーっと……ぼ、僕は……竹中元樹、です」
「竹中さんですね。この度はわたくしの本を開いて頂きまして、どうもありがとうございます」
あまりのショックにうっかり名乗ってしまうと、二つに割れたヒヅメで握手を求められた。
「そ、それは違うのでは?」
つい右手を差し出してしまうと、宗田さんから至極まじめなツッコミが入る。一つ咳払いをして、彼女は言葉を続けた。
「あの、えみりさんと仰いましたか。あなたは、その……本にお住まいの、悪魔、なのですか?」
「はい! わたくし、末松さんに召喚して頂きました悪魔です。私達の名前は人間の方には発音しづらいので、末松さんがえみり、と名付けてくださったんですよ」
黒山羊はその見た目からは全く予想できない、明るく朗らかな声で言った。宗田さんが天を仰ぐ。
『この二十一世紀に悪魔だなんて、まさか違うよね? 違うって言って!』という意味の質問だったんだろうけど、その想いは見事に裏切られた。
「あ、あのさ。悪魔ってのは、みんな君みたいな格好をしているのかな?」
「いえ、元々は人間の方とそう違わないのですけど……この姿はお気に召しませんか? こういう格好をしていないと、私が悪魔だって皆さん信じて下さらなくて」
なるほど。それでステレオタイプな悪魔像をなぞっているわけか。
だからって、いきなり『私悪魔なんです』と言われて信じる人がいるかは疑問だけど。
「お気に召さないのでしたら、この姿はやめますね。よいしょ、っと」
黒山羊が両手――じゃなくて両のヒヅメを合わせると、ぼふんと音がして、またもや辺りに煙が満ちる。
「では、改めてお伺いします。あなたはどのような事をお望みですか?」
煙が晴れると、血のような赤い瞳の少女が僕を見上げていた。
ふわふわの長い髪は太陽を思わせる金色で、小柄な体躯を包むのは、白磁の肌が映える黒いワンピース。人間の姿になっても、山羊の角と耳はそのままだった。外耳が山羊のそれで、猫耳娘ならぬ山羊耳娘だ。僕よりは少し年下だろうか。
「魂を頂ければ、大抵の事は出来ますので。遠慮なく仰ってくださいね」
微笑む少女を前に息も出来ず、僕はただ突っ立っているだけだった。
いや、こっそりぼやくくらいの余力はあったかもしれない。
――なんだよ。ちゃんと可愛いじゃないか、って。
「じゃあ君は遺産の話どころか、末松さんが亡くなった事も知らなかったんだね」
「はい。以前は毎日来てくださっていたのですが、ここ一年は週に一度くらいになっていましたから。お忙しいのかと思っていたのですが……」
えみりという女の子と知り合ってからこっち、僕がまずしたのは聞き込みだった。
僕が借金を返済するためには、彼女を故郷に送り返さなくてはいけないんだから、情報収集でもしてみるかと思ったんだ。
「私に良くしてくださるばかりで、ご自分は何も望みを叶えないうちに亡くなるなんて」
彼女がしょんぼりすると、山羊耳もくたっと垂れる。
この耳と角以外は全く人間にしか見えないから、数日経った今では、悪魔だの召喚だのといったオカルト用語を何とか無視できるようになった。本当は条件なんて無視してさっさと遺産を貰いたいとこだけど、窓の傍で本を読んでいる弁護士さんは、そんなズルを許してはくれないだろう。
「何も望みを、って……末松さんは君に何も願わなかったの?」
「そうなんです。いつもおいしい食事やお菓子を振舞って、私をいろいろな所に連れ出して下さいました。服や可愛らしい装飾品をお持ちになった事もありましたっけ。代償が代償だからよく考えて決めたい、と仰るのでお待ちしていたのですけど……」
それじゃ何だかデートしてるみたいだな、と思いつつ、得た情報を反復してみる。
状況を説明するものは二つ。
遺産相続の話について、条件にされている当の悪魔は何も知らなかったこと。
悪魔が未熟なことと、召喚した本人が死亡した為、詳しい送還方法が分からないこと。
つまり彼女は、家に帰れなくなった迷子の悪魔というわけだ。まったく、何てシュールな響きだろう。
「えみりさん、質問をしてもよろしいですか?」
宗田さんの声に思考を打ち切られ、我に返る。
「貴女が本から出られた際に、魂があれば何でも望みを叶えると仰いましたね」
「はい、そうです。私達悪魔は人間さんの魂を頂く代わりに、その方の望みを叶えるのが仕事ですから」
「でも末松氏は何も願わなかった。つまり、彼の死は貴女が魂を貰ったせいではない、という事ですね?」
「失敬な! 未契約の人の魂をもらう事はしません! 悪魔の仁義に反しますから!」
悪魔が仁義ときたか――なんて思ってしまったけど。
ぽやっとしたタイプのえみりが真っ赤になって怒るぐらい、その行為は悪魔にとって不名誉なものらしい。
「す、すみません。知らなかったとはいえ、貴女を侮辱してしまいました。ごめんなさい」
「ほら、宗田さんも謝ってるし。そろそろお茶の時間だから、甘いものでも食べようよ」
宗田さんは頭を下げ、僕は鼻息荒い彼女の肩を叩いて宥めた。
それから一週間が経ち、二週間が経ちして。僕は学校とバイトの合間を縫って、出来るだけ屋敷に行くようにしていた。
遺産のこともあるけど、家に帰っても誰もいないし、心配されることもないからだ。男としては、かわいい女の子が出迎えてくれる方に行きたくなるってもんだろう。
「いらっしゃい、竹中さん。今丁度お茶をいれたところなんです。宗田さんはもういらっしゃってますよ」
「へぇ、あの人今日も来てるんだね」
「はい! ケーキを頂きました」
今では彼女も事態を把握して協力してくれているから、オカルト関係の蔵書を調べたりしてここで過ごす時間が増えたんだけど。
宗田さんがちょくちょくここに来る理由はよく分からなかった。
「えみりさんは紅茶を淹れるのがお上手ですね」
案内された応接間では、黒づくめの弁護士が紅茶とモンブランでおやつの真っ最中だった。
「そ、そんなことないですよ」
「いえいえ。こんなに美味しく淹れられては、さぞ茶葉も喜んでいることでしょう」
二人はしばらく茶葉の種類だの、産地だのと紅茶談義に花を咲かせていた。
オカルト関連の本が集められた第三書庫。それが、ここ最近の僕の居場所だった。何をするにも基礎知識は必要だろうと、机にかじりついて魔術やら錬金術やらを勉強してるってわけだ。
「ずっとこの屋敷で暮らしてた君でも、入ってない部屋があるんだね」
「はい。どうしてかは知りませんけど、末松さんはこの第三書庫には入らせてくれませんでしたから」
僕がこの部屋に入る時、えみりはいつも後についてきた。扉に刻まれた呪文のせいで悪魔には開けられないとかで、きれい好きの彼女は掃除をしたくてうずうずしていたそうだ。
「末松さんが生きていた時もそうやって掃除してたの?」
本を読みながら、嬉々として掃除をする彼女に話しかけてみる。
「そうですよ。朝起きたら本から出して下さいますから、お仕事に出るのを見送ってから、掃除と洗濯をします。空いた時間は本を読んで、末松さんがお帰りになる夕方には、ご飯の支度をしておきました」
にこにこ笑顔の返事に呆れてしまう。それじゃまるっきり家政婦じゃないか。
そういえば、さっきも僕にモンブランと紅茶を持ってきて、食べ終わった皿とカップまで片付けてくれたんだよな。
「……君、それを全部タダでやってたの? 魂もらって家事を頼まれたわけじゃなかったんだろ?」
「はい。末松さんは『好きにしてていいよ』と仰いましたが、読書だけというのもつまりませんし」
彼女はそう言いながら、窓を開けて本のほこりを払っている。
「そんなんじゃ君、いいように使われるだけだぞ。……僕の両親みたいに」
「竹中さんのご両親、ですか?」
そう聞き返されて初めて、僕は両親の事を口にしてしまったと気づいた。
あんな、借金だけ残してさっさと死んでしまった人達のことを。
「……僕の父さんと母さんはね、騙されて借金背負って、金策に行った先で事故死しちゃったんだよ。息子の僕には何も知らせずにさ」
――まったく、これじゃ泣き言じゃないか。
両親を亡くした僕を、友達や近所の人達は随分と助けてくれたけど、いつまでも頼るわけにもいかない。
だから、遺産はどうしても必要だ。
「君は末松さんを慕っていたみたいだけど、うまいこと言われてタダ働きだった挙句、魂を貰えないまま相手は死んじゃったんだろ? そんなの詐欺じゃないか」
「詐欺だなんて、そんな事ありません! 家事は私が好きでしていたことです」
えみりは自分が封じられていた本を抱えてまくしたてた。
――でも、僕が詐欺だと思う根拠はあと二つある。
「君、その本を絶対に離さないし、屋敷の外にも出ないよね。もしかして、出られないのかな? 召喚の呪文かなにかで制限されてるんだったりして」
図星のようで、えみりは唇を噛んで俯いた。
「そんな風に縛られていた相手に義理立てする必要なんて、ないと思うけどなぁ。大体、召喚者が死んだんだから、君が帰ろうが何しようが自由じゃないか。家族が待ってるんだろう?」
「わ、私だって早く帰りたいですけど……末松さんは本当の娘みたいに私を可愛がってくれたんです。悪く言わないで下さい!」
「だから、何でそれが方便だって分からないかなぁ」
ため息をつくと、潤んだ赤い目に睨まれた。今にも涙がこぼれそうで、ぎょっとする。
――あれ? どうして、いつの間にこんな事になったんだっけ。
さっきは女の子が淹れてくれた紅茶とケーキで、僕の人生で最高に幸せなお茶の時間を過ごしたはずなのに。
「すみません、竹中さん。いらっしゃいますか?」
何ともいえない空気を中和したのは、ノックの音と宗田さんの声だった。
「あ、ちょっと」
開いたドアに滑り込むようにして出ていくえみりに声をかけたけど、振り向きもしない。
入ってきた宗田さんは僕と廊下を交互に見て、不思議そうに口を開いた。
「率直に言えばいいではないですか」
「率直に、って何をです?」
「悪魔というにはあまりにお人よし過ぎる君が、心配でたまらないんだ、と」
「な、何を……うぐ」
痛みで言葉が詰まる。読んでいた分厚い本のカドが、スリッパの足にめり込んでいた。
「あなた程ではありませんが、私も心配していたのです。えみりさんがあのままでは、例え悪魔の世界に送り返せたとしても、誰かに騙されないともかぎらない、と」
「き、聞いてたんですか?」
「すみません。良くないとは思いましたが、入りづらくて」
口では謝っているけど、宗田さんの顔はちっとも悪びれていない。人として、そういう態度はいかがなものか。
「ですから、調べてみました。末松氏とえみりさんの間柄が、いったいどういうものだったかをね」
たじろぐ僕に、宗田さんは書類と一枚の写真を差し出した。
僕――竹中元樹の母方の叔父、末松武には亡き妻の忘れ形見である一人娘が居た。過去形なのは、十年以上前の飛行機事故で彼女も亡くなっているからだ。
書類には、娘を亡くしてからの彼がめっきり老け込んでしまったこと、仕事を辞めて家に篭るようになった、とある。
そして、事情を知らずに訪ねた友人の何人かは目撃した。彼が娘と同じ年頃の、金髪の少女と生活を共にしているのを。
それにしても、妻子を奪った男から結局は命まで取り上げてしまうなんて、神様って奴は随分と強欲じゃないか。
宗田さんが出た後の書庫で、僕は写真に目を移した。写っている女の子は日本人だから、金髪に赤い目なんてことはないけど、
ほんわかした雰囲気がえみりによく似ている。
ここまで来ればもう想像はつくけど、裏には『絵未理』と書かれていた。
「あー、そういう事、ね」
屋敷の蔵書が偏っているのは、一人娘を亡くした父親が死者蘇生に血道を上げた為で。
自分の魂を代償に娘を甦らせようとオカルトに走ったものの、召喚した悪魔が同じ年頃の少女だったもんだから、娘じゃなくて思い出が甦っちゃったわけだ。
だけど、それなら一つおかしなことがある。
叔父がえみりを大切に思っていたのが本当なら、いつまでも彼女を縛っておくような真似はしないはずだ。えみりを手放したくないが故に本や扉の仕掛けをしたのだとしても、死んだ後もそのままなんて事があるだろうか?
「確か、死因は……」
書類を繰る。元々叔父は体が丈夫な方ではなく、持病の悪化によってこの世を去っている。自分が時限爆弾を抱えているのは知っていただろうし、何も準備していないのはなおさら変だ。
遺言がその『準備』だったとしても、もっと分かりやすくする方法はいくらでもありそうなものを。
ぐるり、と周りを囲む本棚を見回した。洋書交じりな上この量だから、二週間程度じゃ目次をざっと見るくらいしか出来ていない。
「……もしかして」
唐突に、一冊の本が思い浮かぶ。
僕が一度しか触らなかったあの本は、答えの在処として最適なように思えた。
「君に頼みがあるんだけど、聞いてもらえないかな」
翌日。宗田さんのアドバイスに従って、えみりに率直に頼んでみたけど。
「嫌です」
五秒で断られた。
まぁ、予想はしてたし。このぐらいじゃ引き下がらないぞ。
「昨日は……その、ごめん。末松さんを貶したりして悪かったよ。でも、頼みっていうのはその末松さんに関わりのあることなんだけど」
叔父の名前を出すと、背中を向けていたえみりの山羊耳がぴくんと動く。
「だって変じゃないか。あの人が本当に君を大切に思っていたなら、君が困るようなことする筈ないだろう?」
脈ありと畳み掛けると、山羊耳がぱたぱた上下して面白い。
「だから、君が入れない第三書庫や、出られない屋敷の外に、送還の手がかりは無いと思うんだ」
「じ、じゃあどこに?」
振り向いたえみりの胸を指差す。
「これ……が?」
ずっと抱えていた本を体から離し、まじまじと見つめるえみり。
「君に一番近いところに、あると思うんだ。見せてくれる?」
頷く彼女から本を受け取り、応接間のソファに座ってページをめくる。
「やっぱり、これは市販の本じゃないな。きっと特注で作ってもらったんだ」
革表紙の中身、長期保存が利きそうな高級紙に並ぶのは肉筆の文字。この本は叔父が手ずから書き綴った魔術書だったのだ。
「あーでも、やっぱり全部英語か」
例の書類によれば叔父は語学に堪能だったようだし、悪魔召喚の魔術書が日本語表記ではしまらない。
「竹中さん、英語は苦手なのですか? 私が読みましょうか」
お粗末な英語力でどうやって解読しようかと頭を抱えたところに、意外な一言が。
「君、英語読めるの? ……そういや悪魔の公用語って日本語なのかな? ペラペラだけど」
口にしてから、んなアホな、と自分で突っ込んでしまった。
「たくさんの人がお使いの英語は、学校で授業があるんです。契約の際に必要になりますからね。日本語の方は、末松さんが熱心に教えて下さいました」
「そ、そうなんだ。えーと、じゃあお願いしようかな」
悪魔って学校あるんだ――という感想は、口に出さないでおく。
今日は久しぶりに何も予定がない休日だったので、彼女が読んでくれるのを一日聞くことにしたんだけど。
「あれ? ここは英語じゃない」
「む、うあっ?」
ついうとうとしてしまって、はたと目が覚めた。
「お疲れですか? 続きは明日にしましょうか」
「い、いや、大丈夫。ごめんね、折角読んでくれてるのに。それで? 何かあったの?」
「それが、今までは英語だったのに、ここだけ違う文字で書いてあるんです」
言われて、えみりの指の先を見ると。
「あれ、日本語じゃないか。何で……っていうか君、日本語の読み書きは習ってないの?」
「そ、そうです、よ。日本語の会話を覚えるので疲れちゃって、読み書きまで気力がもたなかったんです。ここには英語の本もいっぱいあるし、外に出る時はいつも末松さんが一緒でしたから不便では……笑わないで下さい!」
「ご、ごめん」
笑いを堪えるのもそこそこに、問題の箇所を読んでみる。
「『これが誰かに読まれる時、私はもうこの世にはいないだろう』、お約束な書き出しだな」
絶望の只中にいた自分を救ってくれたことへの感謝。
死んだ娘が帰ってきてくれたような嬉しさ。
いつまでも引き止めてしまったことへの謝罪。
そこには、叔父の心からの言葉が綴られていた。
「『送還の魔法陣は召喚をする前から用意してあったが、未だ彼女を送り返す決心がつかないでいる。私の体はもう長くないが、もう少しだけ彼女と共にありたい』だぁ?」
でももし、彼女が帰りたいと思った時はすぐ帰れるように、この本に全てを用意しておこう――という言葉で結ばれていた。
「ったく、なんて自己中心的で行き当たりばったりな人なんだ!」
「で、でも、末松さんは私を閉じ込めたりしてなかったって事ですよね!」
えみりの表情がぱっと晴れ上がる。
「それは違うと思うなぁ。日本語で書いてあるってことは、これを君に読ませるつもりは無かった、ってことだし。どうせこの本自体も悪魔には開けない、とかいうオチなんだろ?」
「くぅぅ、ベルトが外れてれば開けます!」
わめくえみりを放っておいて、次のページを繰る。思った通り、そこには彼女が本から出てきた時とは別の魔法陣、別の呪文が書かれてあった。
――英語で。
「あー、これはさすがに……自分で頑張って解読しようかな」
魔法陣の使用までえみりにやってもらっては、お堅い弁護士に認められないかもしれないし、何よりかっこ悪すぎる。
「ほんとに回りくどくて面倒くさい人だよまったく。生きてるうちに、素直に感謝してるって言えばいいのにさ」
「また悪口を言いましたね! 末松さんは、落ちこぼれの私を召喚し、よくして下さった恩人なのですよ!」
やっぱり落ちこぼれだったのか、と聞こえないように呟く。
「僕は君を心配してるんだよ? もうちょっと用心しないと、また面倒なことに巻き込まれるぞ」
金色の頭を撫でて、噛んで含めるように言う。ここは率直に言うべきところだ。
「人間をたぶらかして魂を貰うなんて、君には向いていないと思う。もっと他に、ぴったりの仕事があるんじゃないかな」
「そ、そうでしょうか? 早く一人前の悪魔になって、パパとママに喜んでもらいたかったのですけど……そうまで仰るなら、考えておきます」
そう言ったきり、難しい顔で考え込んでいたと思ったら。えみりが急にこっちを向いた。
「竹中さんは私を送還して下さるのですよね。初めてお会いした時にも伺いましたが、何か望みはありませんか? 魂は頂いたりしませんから。色々お世話になりましたし、お礼がしたいんです」
期待に輝く目でこう言われて、僕はしみじみと思った。ああ、この子はやっぱり悪魔なんだなぁ、と。
そりゃあもちろん、望みがないわけがない。数え切れないくらいある。
僕の一番の望みを口にしても、きっとこの子は叶えてくれるだろう。
「無いよ。強いて言うなら君がさっさと帰って、僕に遺産が転がり込むのが望み、かな」
「えぇー……それじゃ私の力を使う余地がありません」
「楽に済むんだし、それでいいじゃないか。もう今日は疲れたし、明日また来るよ」
彼女は不服そうだったけど、強引に話を打ち切って屋敷を後にした。
故郷に、両親の元に帰りたがっている彼女には、僕の望みなんてとても言えない。
ここは率直に言っちゃいけないところだと思うんだ。
「そういえば、聞いてなかったな。『えみり』じゃない、あの子の本当の名前」
それだけが――少し、心残りだ。