はじまりはいつも豪雨
6月8日。この時期ならこのぐらいは当然だろ、と言わんばかりのふてぶてしい大雨。
傘を差しても靴の中や傘からはみ出た肩までは守ってくれなくて、足を地面につけるたびに小さいスポンジを踏むようなちょっと気色悪い感覚を忌々しく思いながら歩いていくと、学校についた頃にはどうにもうすら寒くなっていて。
低血圧的な今朝の目覚めも相まって、俺は憮然とした表情が顔に出ているのを自覚しながらも、あえて隠そうともしなかった。
何十年も前から使い古されているアニメの演出では、だいたいこういう鬱陶しい雨は、何か悪いことが起こる前の予兆だったり……あるいは、何か悪いことが起こったあとの、情景描写だったり。某スクールアイドルグループのセンターの人は、これを特殊能力で晴らしてみせたりもしたが。
とにかく、このふてぶてしいという形容がこの上なくお似合いな雨はモチロン気に入らないし、曇り空によってモノクロぎみに彩られた灰色の景色は、個人的にはそれ以上に気に入らない。
溜め息が低気圧のせいで重い。
そんなわけないけど。
早めに学校に来ていたらしい日々が話しかけてくる。
「怜斗くん元気ないね。えっと…………ピロリ菌取ってる?」
「自分から胃ガンになりに行くとか、どんなメディカルスティックな自殺だよ……」
「えー、なんだったっけ。怜斗くん、むかし言ってたよね?」
「『乳酸菌とってるぅ〜?』な」
「あ、それそれ」
えへへ、と笑う日々。
その笑顔と笑い声が昔と変わっていないのかそうでないのか、それすらも思い出せない自分に気が付いたとたん、この他愛もない会話で感じかけていた安らぎは露に湿って、また冷たくなってしまった。
……最近、ふとしたことですぐ暗い気持ちになるのは、雨のせいだろうか。
思えば、彼女の前でそんな言葉を使った記憶すらない。おぼろげに、よく彼女と話していてそこそこ親しかった、という思い出とすらも呼べない薄情な『キオク』だけが、ゆらゆらと陽炎のごとくかろうじて像を結ぶ。
はは、と偽造した苦笑いを返したら、窓の外から聞こえてくる雨の音がいっそう強くなった。
…………豪雨、だな。
大雨と豪雨のどちらがより強いのかは知らないけど。
「うわ、すごい雨だね………。瀬戸さんたち、大丈夫かな?」
「……そういえば瀬戸さん、まだ来てないのか……。優等生だし、もっと早く来てるもんだと思ってたけど」
「きっと家が遠いんだよ。怜斗くんと違って、ゲームで徹夜して寝坊したりするわけないしさ」
「勉強で徹夜してたことはあるけどな、あの子」
「ひゃー、マジメだね。私なんか、勉強で徹夜したら死ぬ自信あるよ」
「…………シャレになってないぞ、日々が言うと……」
でも……そうだな、瀬戸さんは必死に勉強して、テストで全教科満点という快挙を成し遂げた。俺も同じ得点だったから快挙とか言うとイヤミったらしく聞こえるけど。
あれから、彼女と家族との問題について話はしていないが……彼女はちゃんと、『元通り』になれたんだろうか?これまでも何度か考えていたが、俺は勉強を教えただけだから、『家族の問題について口出しすべきじゃない』、と自分に言い聞かせてきた。
まぁ、聞き出したり何の解決にもなってない軽すぎるアドバイスをしたこともあったが……それらはあくまで、『今はテストに集中しよう』という意味を持ったアドバイス。それ以上のおせっかいは、興味本位のちょっかいと同じだろう。
だけど……気にはなるな。
と、ちょうどその時、瀬戸さんが教室に入ってきた。玄関で振って落としてきたのだろうがまだいくらか濡れている傘を、手を濡らすのを若干躊躇しながら巻いて。
「おはよう瀬戸さん」
「おはよう、冬目さん。こんな雨の中ずいぶん早いのね」
「えへへ、病院の支援タクシー使わせてもらっちゃった。こんな雨の中歩きなんて、死んじゃうから」
「…………冬目さん。そういうブラックジョークはやめといた方がいいと思うよ」
「俺と同じリアクションだな……。日々、お前は冗談でも『死ぬ』とか使うなよ。いろいろと、あらぬゴカイを生むから」
「えー……今のは本気で言ったんだけどな」
「………………」
「………………」
ダメだ。ちょっと天然入ってるのが始末に置けない。
気を取り直して。
「そういえば瀬戸さん、さっき話してたんだけどさ、家遠いのか?」
「……そういう結論に達した理由は大体察しました。いちおう言っておくと、私の登校が遅い理由は低血圧によるものです」
「へー、良ちゃん低血圧なんだ。適量の塩分と1.5リットル程度のお水を飲めば良いって、前の病院の看護師さんが言ってたよ!」
「えっと……そうじゃなくてさ。その……家、戻れた?って聞きたくて……」
「ああ、そのことですか」
カバンを机の横に引っ掛けて椅子に座ると、瀬戸さんはポケットから鍵の束を取り出した。
いや、束というには本数は少ない。家のロックと思しきサイズの鍵が2本、あと自転車の鍵っぽいのと……テスト期間、帰りに寄り道したときにガチャガチャで当てた、リバエンのマスコットキャラ『きゃたつむりクン』のストラップ。ちなみにコイツは星型の殻を持つかたつむりが脚立に乗っている、というだけの粗末なキャラデザインだが、女子ファンの間では人気が高い。
で、これを見せられても俺には全くその意図が分からない。首を傾げる俺にニッコリ笑って、瀬戸さんは話し始めてくれた。
「……『腹を割って』って言うんですか。お父さん、お母さん、妹、そしてテスト期間の間私を家に置いてくれた叔父さん……家族みんなで、じっくり、ほとんど一晩中話しました」
「………………ご両親は、なんて?」
「2人とも泣いてました。『知らないあいだに追い詰めてしまっていたなんて、親として失格だ』なんて言って抱きしめてくれて……私も泣いちゃって、バカみたいにずっと、ごめんねって言い合ってました」
「……そっか。それで………………妹は?いちばん謝りたがってたよな、たしか」
「部屋に戻ったあとに、2人きりで話しました。『ずっと嫉妬してて、妬んでてごめん』って謝ったら……妹も、自分は新しい学校で全然友達付き合いができてなくて、高校のみんなと仲良くしてる私を見て、ずっと妬んでたって言ってきて。私が『成績のいい妹』に嫉妬しているとき、妹は『友達がたくさんいる姉』に嫉妬していたんだ、って知って……。
それなのに、私だけ一方的にあんなに罵倒してしまったんだ、って思って。さっき両親と話した時に涙は枯れたと思ってたんですけど……また声出して泣いて……その夜は昔みたいに、妹と一緒のベッドで寝ました」
「……よかったよ。無事…………戻れたみたいで」
「それで、話し合った結果……私はもうしばらく、叔父さんの家に住むことにしたんです」
「え…………なんで?」
「いくら『家族は成績なんか関係なく、いつまでも家族だ』って言ってもらっても……やっぱり、それに甘えて怠けるのは、性格が許しませんから。しばらく両親や妹から離れて……『比べること』をやめて、自分と向き合った学習をしよう、って思ったんです」
「……………………………………」
「な、なんですか!!その『うわぁ……』みたいな目は!!ちゃんと家族からも応援してもらってるんですからね!?……その証拠に、ほら!」
持ったままにしていた鍵束を、再度俺の目の前に掲げる。
ジャラ、と金属がぶつかり合って、複雑に蛍光灯の光を反射させた。
「いつでも家に帰ってきてね、って、向こうの家の鍵10本も渡されたんですからね!」
「10本!?」
そう言われてみると、自転車の鍵と叔父の家の鍵に比べて、この鍵は妙にすげー光沢なような……。
「残りの9本は家で保管してます。1本いりますか?」
「だ、だから誤解されるようなこと言うな!お前の実家の鍵だろうが、サジ以外の男にんなこと言うもんじゃねーよ!英語とか数学ばっかりじゃなく常識も勉強しろ!!」
「はーい」
「く…………!こいつ、わかってて言ってやがる……!!」
コロ〇ロコミックレベルの軽い下ネタ程度でも顔を真っ赤にして蹴り殺そうとしてきたのに、なんでこんな『男を騙す女』になっちまったんだ……!?
俺か、俺のせいなのか…………?
なんで俺のほうが顔を赤くせにゃならんのだ…………!
なんかどっと疲れて、立ちあがった姿勢を落としてズンと座り込むと、日々が横から、ボソボソっと声をかけてきた。
「良ちゃんって、サジくんと付き合ってるんだよね……?」
「…………そうだよ?」
「いやぁ、アレだね。『門衛くんとは遊びだったのよ』ってことだね」
「…………2日連続で気絶してみるか、コラ」
「イヤだなぁ、本気にしないでよ。私も怜斗くんとは遊びだったんだからさ」
「ぬぐぐぐぐぐぐぐ……………………………………!!」
くそぉ……最近女子との絡みでゼンゼン『勝てて』ない気がする…………!絡みに勝ち負けもクソもないとは思うけどさ…………!!
ふてぶてしい雨はさらにふてぶてしさを増していた。
予鈴チャイムと同時にスマホの通知が鳴り、開いてみるとサジからラインが来ていた。
『雨ヤバイ!ねぇなにこれ!!死ぬって!!』
…………普段はそんな遅れたりしないのに、こんな日に限って寝坊とは。俺よりカワイソウな奴もいるってことで、まぁ安心しておこうか。
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昼休みに食ったものが重く濃い渦を作り出して、その中に吸い込まれて体が沈んでいくような。
大げさな言い方をやめれば、まぁ単純に、授業が終わったあとのどうしようもない虚数的なダルさが、二次関数的に上昇と下降を繰り返して蔓延っていた。
動きたくない。
俺は意味もなくグラフの線上を秒速2で移動し続ける点Pじゃないんだ。止まったっていいじゃない、にんげんだもの。
「あれ、門衛くん。今日は麻雀部行かんの?」
「少なくとも今は……ダルすぎて動きたくない…………」
「しんどいん?風邪?」
「いや、単にめちゃくちゃ体がダルくて重いってだけだよ……。ポン子とチー子も今日行けるのか?」
「うん、2人とも星座占い1位やったから意気込んでたで。『おは朝とめざまし、どっちの占いが強いか証明してやんよ』……って」
「相変わらずポンコツだな……。分かった、じゃあ行くよ……このままぐったりしてたら、余計動けなくなっちまうしな…………」
全身の筋肉を糊付けされたみたいな、あまり気分のよくない倦怠感。それをムリヤリ押しのけるようにカバンを持ち上げて立ち上がり、俺は津森さんのあとに続いて麻雀部の部室へと向かった。
窓の外では、やはりまだしつこく雨が降っていた。
#
「ギエエエエエエエエエエエエエエエ!!大三元とかないわァァァァァァァァァァァァァ!!」
ぐほっ、と吐血してチー子が雀卓の上に頭を叩きつけるようにして沈んだ。魂が口から抜けて昇天していく。
そのちょうど向かい側に着席しているポン子は、まるで女王様のように足を組み、当たり牌であるチュンに口づけでもするかのように、口元でそれを持って、オホホホと高笑いしていた。
俺も津森さんも、開始時からじわじわと減るばかりの手元の点棒を見つめて、ぐぬぬと歯噛みする。
「ど……どうやら、おは朝の星占いが最強だったようだな…………」
「ポンちゃんはいっつもハコ役やのに……ありえへんわ……」
「うふふふふふ、これがおは朝のチカラですよ…………!見てますかミ○ネさん、ウラ○ワさん、イ○モトさん!!異教徒は我が力の前にぶっ飛びましたよー!!」
「あ………あは……あはあは……」
「……点数的にはまだ一応飛んでないけど、意識はぶっ飛んでるな……」
なんだかんだで今日はチー子も調子よくて、それまでに稼いでた分もあったので2000点でギリギリ踏みとどまっている。
だが1位から最下位への転落はよっぽどショックだったようで、当の本人は戦意喪失気味だ……。気の毒と言う他ない。
普段上位勢の俺と津森さんだが、『なんとなく気だるい』というタチの悪いバッドステータスを抱えている俺はもちろんのこと、今日は津森さんもあまり調子が振るわなかったようで、たまに安い役でアガってはツモを払い、安い役を稼いでツモを払い、の繰り返しで、初期から点棒はジワジワと減る一方だった。
まだ南場第4局が残っているが……えげつない役をポン子へ直撃ロンさせない限り、ここからの逆転勝利は不可能だろう。さっきまでポン子と互角に戦っていたチー子も、今や抜け殻だし。
くそう…………。今までもポン子に負けることは数回あったが、こんなに大差で負ける日が来るとは……。
屈辱に打ちひしがれていると、不意にポケット内でスマホがバイブした。
電話のようだ。相手は…………。
…………………………?
「二垣さん?何かあったのか……?」
「え?二垣さん?」
ちょっと電話出てくる、と言って部室を出ると、二垣さんからの電話というのが引っかかったようで、津森さんもついてきた。
警察という立場もあって、二垣さんは今まであまり電話なんか掛けてこなかった。遊びや暇つぶしで電話を掛けてくるような人でもないだろうし……今からの会話の内容は、たぶん『連続失踪事件』『ネトゲ』という言葉が飛び交うカオスなものになるだろう。
俺たちにとっては大真面目な話だが、他の生徒たちに聞かれるのはちょっと困る。9割9分本気にはしないだろうが、俺を『食堂の男』的な厨二病患者だと誤解してしまう恐れもある。ラ・ヨダソウ・スティアーナ。
とりあえずダッシュで人目につかない場所……エレベーターホールの壁にもたれて、電話に出た。
「もしもし、門衛です」
津森さんに聞かせるためにスピーカーに切り替えるべきか迷ったが、いちおうこの事件は現在世間を騒がせている大規模失踪事件だ。不特定多数の耳に入る危険性を避けるため、やめておくことにした。
「二垣だ。事件の進展に関して、少し報告がある。例のネットゲームが絡んでくるなどの場合によっては、お前らに応援を要求するかもしれない」
「…………こちらからも、ちょっとした報告がありますよ。『手がかり』どころか、余計に犯人像がこんがらがったけど……」
「……俺たち警察も迷走気味だ。じゃ、そっちの報告を先に聞かせてもらおうか」
俺は、ネトゲの世界に自分の携帯が出現し、それに犯人と思われる人物が電話をかけてきたことを、自分で話していて混乱しそうになりながらもなんとか説明した。
電話口の向こうから、ぬぐぐぐぐ、と唸るような声が漏れてくる。
「クソが……。いつになったらマトモな手がかりを掴めるんだ……?」
「と、とりあえずそちらの報告も聞かせてください」
「……ないとは思うが一応言っておく。これは、お前ら4人グループ以外には……事件の本質を知らない人間には、絶対に喋るな」
「………………はい。もちろんです」
ふぅ、と重い溜息が耳に届く。
ゴクリと唾を飲み込んだ音は、向こう側に届いただろうか。
二垣巡査は……珍しく、疲れきった声で、言った。
「……いま俺たちは、女子小学生を重要参考人として話を聞けるよう、事情聴取の準備を進めている」
「………………………………………………は?」
……ビックリした。
二垣さん、こんなハイセンスな冗談を言うヒトだったんだ。ははは。
そんなわけがないと思いつつも、愛想笑いなのか何の笑いなのか分からないハラの奥からこみ上げてくる『これ』は、ひどく乾いていて……。
第一希望、聞き間違いであってほしい。
第二希望、ただの冗談であってほしい。
「我々警察は……女子小学生を……犯人だと…………疑っています……。すいません……」
絶望した!!
「なに急に丁寧語になってんすか!つーか、すいませんで済んだら警察いらないんですよ!」
「うるっせぇ!!大体俺だって最初は反対だったんだ、だけど三好が『事件に関わっている可能性があるものは、全部調べるべきだ』とか抜かしたから!なんとなくいい話っぽい雰囲気に飲まれたから!!」
「可能性って……女子小学生がペンタゴン並のセキュリティを打ち崩せるスーパーハッカーで、かつ連続失踪事件を引き起こしてる真犯人なんて可能性、限りなくゼロですよ!!」
「だーっ、そこまでのいきさつを話すから黙って聞け!!」
「ぐぬぬぬぬぬぬぬぬ……。ちょっと、ちょっとだけ……整理させてください」
整理というのは大嘘で、この頭痛にも似た不安感をどうにかしたいだけ。
スマホを耳から話して、こめかみを超圧力でグリグリと揉んでいると、津森さんが心配そうに見上げてきた。
「……えっと、門衛くん?」
「……………………………なんだ?」
「………………いけそう?」
「………………………………………………………………」
エレベーターホールにも窓があったのか。
相変わらず外の景色は土砂降りで、というかさっきまでよりも勢いが強くなっていて。ふてぶてしく居座って俺の神経を逆なでする。
…………………………………………。
とりあえず、質問に答えてあげよう。
「無理そう」