愛を込めて花束を
懺悔の部屋、というものがある。
それはその名の通り、部屋の中で、十字架や神父の前で自らの罪を懺悔し、悔い改めるものだ。
……まぁ、実はこの『懺悔の部屋』という言葉の元は宗教的なものではなく、昔懐かしひょ〇きん族の人気コーナーだったりするのだが。
だが、今、この学園長室の中の様子を端的に説明するとするならば、懺悔の部屋、という言葉が最も適当であろう。
部屋の中は、僅かばかりの調度品と、これまで生徒が受賞してきた賞状やトロフィーなどが飾られている。
普通の学校なら歴代校長の写真が壁にずらりと並べられているのが醍醐味だったりするのかもしれないが、この輪通学園の学園長室にそれはなく、代わりに、巣立っていった生徒たちの卒業制作のタペストリーなどが飾られていた。
窓は解放されていないから、風は吹き込んでこないはずなのに、校旗がふわりと膨らむ。
パタ、というそんな音に、ヒィッと大袈裟な悲鳴を上げるのは、机の前で土下座する1人の大人。
『まだ今の時点では』英語教師の、川西だ。
「……入ってくるなり黙って土下座というのは、芸がないと思わんかね?川西くん」
机に両肘をついて手を組み、組んだ手の人差し指同士をせわしなくくっつけたり離したりしている、豊かな白髪と彫りの深い顔が特徴的な壮年の男性……輪通学園学園長・安藤一太郎は、極めてどうでもよさそうに、そう言った。
川西には、彼の言葉、そして声から、不機嫌さすら感じられなかった。
ただただ、早く会話を終わらせようというだけ。この男は今、自分に対して『面倒』以外の感情を抱いていない。
ひどく凍えたように震える川西は、奥歯をガチガチと鳴らしながら、恐る恐る顔を上げた。
その上に、灰皿が落とされる。
「ぶぁっ……!?」
「誰が顔を上げていいと言ったんだね?……言い訳をするなら土下座したままでやりなさい。きみのような奴が私と顔を合わせて会話できると思うなよ」
「もっ、申し訳ありませんッ……」
既に学園長には、とある生徒からの報告によって川西の悪事が伝わっていた。
さらに、その生徒を含む一部の生徒は、すでに川西教諭の犯罪じみた所業の一部が認知されていて、それがちょっとした弾みで外部に暴露されかねないことも、学園長には伝わっていた。
そして学園長は、今日、川西をこの部屋に呼んだ。
テストが終わって落ち着いた、今日この日に。
――学園側としても、教師を解雇しやすいこの日に。
「……いやぁ、絶好のリストラ日和だね、川西くん」
「…………!そ、それは…!」
「…………芸もない、礼儀もない、んでもって、リアクションに面白みもないんだね、きみは」
おふざけやジョークとしては最低の部類に入る台詞は、しかし、こと川西を脅かしつけるのにおいては、抜群の凶悪さを持っていた。
まだ5月の末頃だというのにもう空調が効き始めている学園長室で、場違いにも川西は、大粒の汗を垂れ流しながら、より強く床に頭を擦りつける。
「がっ、学園長ッ!私は、今さら浮気や買春の事実を隠す気はありません……!」
「ほう。意外だね」
学園長は、興味深そうな声とは裏腹に、とうとうスマホをいじり始めた。
重苦しい空気の中を、アプリゲームの底抜けに楽しげなタイトルテーマが流れる。
「ですがッ!ですが……どうか、辞めさせるのだけは勘弁しては頂けないでしょうか……!」
「……あのさ、川西くん。私が許可したのは『言い訳』だけだよ。誰も何も、『願望』を言え、なんて言っていないんだよ」
スマホから学園長の指が離れ、丸いキャラクターが、画面の中を敵を弾きながら走り回る。
「きみがまだここで働きたいと思っているなんて、私には知ったことではない。どんな理由があろうと私は辞めさせるべきだと思ったら辞めさせる、きみの意思なんか関係ないんだよ」
「そ……そんな…………」
「……ていうか、色々と手回しして、きみの奥さんに浮気の事実が知られないようにしてあげてるんだから、それで満足してほしいって感じなんだけどね」
「…………それは」
「喋るなら、私がきみを『辞めさせたくない』と思えるように、言い訳やら説得やらを話せ」
「………………」
そうして川西は、諦めた。
夢を諦めた人間は、その夢を目指している人間を引きずり落とそうとする。
だから、川西は、いつの日かのように、口を異様に歪めて笑って、立ち上がった。
気に入らないあの2人を、引きずり落とすために。
「分かりました。私は辞めてもいいです。……その代わり、新橋と堺田も辞めさせてください」
「……きみは本当につまらない奴だね」
「堺田はともかく、新橋は完全に、堺田に恋愛感情を持っています。というか近々、私をやっつけたのをダシにして付き合いだすかもしれない……」
学園長は、川西が勝手に立ち上がったことを咎めもせず、嘆息した。
その溜息が、全く興味を持っていない川西の下衆な態度に対してのものなのか、ゲームのゲリラクエストでレアなキャラクターがドロップしなかったことに対してのものなのかは、川西にはどうでもいいことだ。
さっきまで学園長の顔色を気にしてばかりいた川西の目には、最早、醜く変わり果てた自分の姿以外は映っていなかった。
頭を掻きむしったあと、学園長は再度クエストに挑んだ。
「私だけが辞めさせられるのは納得いかない。『不倫をする教師』というのは法律的にアウトですが、『同じ職場で恋愛をする教師』というのも世間的にアウトだ。……そうでしょォ?」
「………………………………」
溜息すら吐かなくなった学園長の態度は、肯定でも否定でもない。
それに乗じて、川西はさらに続ける。
「ていうかァ…もう、ぶっちゃけて言うと、これ、脅迫なんですよ。『私を辞めさせたら、新橋と堺田のことを世間に公表します』……っていう、ね」
極めて面倒そうに、欠伸をしながら学園長が答える。
「……それを公表したら、買春の事実を警察に通報する…と言ったらどうする?」
「その証拠となる写真を持ってるのは、たかがガキです。しかも写っているのが私かどうかなんて分からない。よく考えたらあんなのォ、警察がアテにするとは思えないんですよ!」
「へーえ、なるほどね。いやいや、こりゃ弱ったな。脅迫されてしまうなんてね」
1ミリも弱ってないだろうに。自前の椅子に全体重を預けて、だらしなくスマホを弄る。
そして、学園長は初めて川西の顔を見た――
気がした、だけだった。
彼が見たのは、川西の後ろ、学園長室の扉だった。
「おーい、希霧くん。そこにいるんだろ?ちょっと助けてくれよ」
「なァッ…………!?」
呼ばれた俺は、隣にいた中年のマダムと一緒に、部屋の中に入る。
「……たかがガキ、ですか。そうですね、たかがガキにできることなんて、知れてますよね」
川西は、今度こそ、どん底まで絶望した。
中年のマダムと川西の目が合って、腰を抜かしたように、その場にへたりこんだ。
いや、中年のマダムという表現は適切ではない。
この女性は……この、ちょっと気品があって、お年の割にはちょっと綺麗で、ちょっと高級感のある豪華な服を着ているこの女性は。
他でもない、川西の妻だ。
学園長が、やっとアプリをやめて、まともに会話に参加してくる。
「本当だよ。ガキができることなんかたかが知れてる、せいぜい、浮気男をその妻と会わせることぐらいしかできないんだよね」
女性は、無表情だった。
無表情のまま、川西に歩み寄って、1枚の書類を渡した。
「……離婚届です。残った部分を書いて提出してください」
「あ…………あぁぁああぁ………………あぁ……」
生きる力を失った抜け殻のように、或いは自分1人では生きられない寄生虫のように。
縋ろうとした川西の手は、しかし、女性を掴むことはなかった。
川西は、重心を崩して、そのままうつ伏せに倒れる。
女性は、無表情ながらも、目にいっぱい涙を溜めて、震える声で、最後のひとことを言い放った。
「……慰謝料も何もいりません。だから、もう2度と、子供と私の前に顔を見せないでください」
1滴だけ涙の雫を零して、ハイヒールでは走りにくいだろうに、女性は、おぼつかない足取りで、扉を開けて、外へと走っていった。
取り残された川西は、再び土下座をするような姿勢になっていた。
学園長と俺は、それを見下す。
「……さっき脅迫とか言ってたね、きみ。私と理事長さんの力を舐めてもらっちゃ困るね。教師同士の恋愛なんて、その程度の事実、いくらでももみ消せるんだよ」
「なん……で……だ…………。なんで、そこまでしてあいつらを庇おうとするんですか……」
心からの質問だったのだろう。
最後の最後まで、他者を道連れにしようとする哀れな人間の質問に、興味なさそうに、学園長は答えた。
俺と一緒にモン〇トしながら。
「私はね、若い子が好きなんだよ。希望溢れる、若い子がね」
#
テスト結果の掲示の前で怜斗たちに会う前のことだ。
私と夏矢ちゃんは、いつぞやのように、新橋先生に屋上へ連れてこられていた。
階段を登って出入り口を閉めるなり、2人分の紙袋を差し出された。
「……ささやかながら感謝の気持ちだ。受け取ってくれ」
「そ、そんな、感謝の気持ちなんて……」
「この一件、お前たちがいなかったら、俺は一生後悔したまま……いや、むしろ、堺田先生の苦しみを知ることがないまま生きていくことになったかもしれない。心から感謝してるんだ」
「でも、斗月にもあげたらいいじゃないですか」
「……あいつは何回も補修フケてるから、それを許すってのでチャラだ」
「なんか、先生が希霧くんを追い回してる図がありありと浮かぶなぁ……」
あぁ……そういえば、日本史と世界史の点数を掛け算して40点とか言ってたっけ……。
身内のダメガネを割と本気で心配しながら、私たちは新橋先生の気迫に圧されて、結局その紙袋を受け取ってしまった。
「って、重っ!?」
夏矢ちゃんの言う通り、見た目よりめちゃくちゃ重かった。
中に入っていたのは、黒くて厚い布を雑に折りたたんだもの。…服のようだが、広げていないからかまだまだよく分からない。
そして、布を裏返してみると、でっかく、金色の刺繍で小難しい漢字が書かれている。えっと……『炉裏』?
…………『ロリ』?
「……何ですか、これ」
「俺の昔いた暴走族チーム、扡炉裏闇の特攻服だ。どうだ?かっこいいだろ!?」
『………………』
若干鼻息荒く、そのあともバイクについて延々と語る新橋先生。
話題は飛躍し、何やらカブ系エンジンとかミッションがどうたらこうたらと、バイクのよく分からないエンジンなどの話をし始める始末。
…………。
もう辛抱ならない、と爆発したように、夏矢ちゃんがカカトで先生の足を踏む。
「グァァッ!?」
「先生、そこに正座してください」
「い、いきなり何するんだ世葉お前……!」
「せ、い、ざ」
「はい」
いつぞやの無表情マジギレモードになって、先生を正座させるという普通の女子高生では有り得ない暴挙に打って出る夏矢ちゃん。
これには、暴走族で『馬鹿正直』と恐れられた新橋先生も怯えきって、命令に従って正座し、うつむき、小さくなってしまった。
「……先生。私が何に怒ってるか分かりますか」
「分かりません」
「分かれ」
「理不尽です」
「……堺田先生にこれと同じものをあげたら喜ぶと思いますか?」
「世葉にあげたそれは刺繍が入っているので、同じものはあげません」
「じゃかしい!堺田先生に特攻服あげて喜ぶと思うかって聞いてんのよ!」
「ヒィ!よ、喜ぶと思います」
プッチン。
……あ、夏矢ちゃん切れたわコレ。
「…………どうやら私は先生に教え足りなかったみたいですね、女心ってものを」
「え!?い、いや、本当になんで怒ってるんだ!?」
「これからそれをゆっくりと説明してあげますから……!」
……結局その後、夏矢ちゃんのお説教は20分くらい続いた。私が止めなければ、5時間目にも渡って説教していたかもしれない。
……こんなんじゃ、いつ堺田先生の前でボロを出すか分からへんな……。この残念さを。
《現実の人間的成長は、電脳のあなたを強くする……。》
《ゲーム内での器用さと力が上がった!》
《特別技能・『プッシング』を習得した!》
#
夜の遊園地。
俺と堺田先生は、また観覧車に乗っていた。
少し前の水曜日に1回来ただけの景色は俺の脳裏に深く焼き付けられていて、あの時とほとんど変わらない夜景の淡い光が、胸を締め付けるように眼下で瞬いている。
ゴンドラの揺れはほとんどない。
堺田先生は何故かずっと俯いていて、前髪に隠れて目が見えない。
どんな表情をしているのだろうか、瞳に涙を溜めているのか、笑っているのは口元だけなのか。考えれば考えるほどに脳みそが沸騰しそうなくらいに熱くなる。川西の一件を経ても、俺の心は全く成長していないようだった。
観覧車を時計に見立てて、今、3時の場所。
両方それぞれの理由で黙りこくる中で、先に口を開いたのは堺田先生だった。
「…………まだ、ちゃんとお礼を言ってませんでしたよね」
「お礼?」
言葉の響きに違和感を覚えて顔を上げると、寂しげに微笑む彼女がいた。
「川西さんとの件で、その……助けて頂いて。本当に、ありがとうございました」
「やめてください、俺は……」
言葉に詰まった。
何故堺田先生を助けたのか?その問いに答えてしまうと、それがそのまま告白になってしまうと思ったからだ。
当初の予定通り……告白は、このゴンドラが天辺に来たときにしたい。
10秒くらい待っても答えの続きを言わない俺に続きを促すでもなく、堺田先生はまた表情を曇らせて、俯き、か細い声を出した。
「……新橋先生が、今夜、観覧車に乗るためだけに私を遊園地に呼んだ理由。それくらいは、いくら馬鹿な私にだって分かります」
「……………………はい」
「たしかに川西先生と別れて……いや、そもそも交際してもいませんでしたが……。私が新橋先生との交際をお断りする理由はありません」
文脈から考えて、ここで喜んでもただの糠喜びに過ぎないことは頭では分かっていたが、それでも俺は、目を見開いて、口元をちょっと緩めた。これを幸せと呼ばないで、何を幸せを呼べばいいのか分からない。それくらい嬉しかった。
観覧車を時計に見立てて、今、2時の場所。
堺田先生は、あの水曜日にこの観覧車に乗った時にも着ていた、麻のゆったりとしたロングスカートを握り締めて、膝の上に拳を乗せた。
握った拳は、微妙に震えて、揺らいでいる。
「……新橋先生のことは、好きです。川西さんに向かって、大きな声で、凄みのある態度で、本気で怒ってくれた姿に、心から惹かれました。今も、あなたのことを異性として意識していて、すごく、一緒にいて幸せです。それは事実です。…………だけど、もう、ダメなんです」
握る力を緩めた手の上に、涙の雫が落ちる。
同じ涙なのに、その涙は、堺田奈央子という女性が俺のために流してくれた涙は、あの日に見た涙よりも断然辛いものだった。
涙を拭う、というよりは抑えるように。片手で両目を覆って、もう片方の手で、強く強く、衣服に皺が寄るほどに強く、胸を押さえつけた。時折、喉がから回るような嗚咽の音がして、息を過剰に吸い込む。
子供の頃の泣き方だ、と思った。
「好きだけど、とても好きだけど!…………今、あなたの告白に応えてしまったら、私は結局誰でもよかったってことになる気がしてっ!……川西さんと別れてすぐに告白されたから新橋先生に『乗り換えた』ことになってしまう気がして、とても、最低で、失礼で、軽薄で……!不誠実で!!」
「――――っ……」
奇しくも堺田先生は、あの日の俺と同じ負い目を感じていた。
不誠実、軽薄。今を生きる俺たちは、日々送る社会生活の中で無意識的にそれらを、最も憎むべきこととしているのかもしれない。
自分が性格の良い人間であることを最優先にして。周りから責任感が無いとか、情に薄いとか、礼儀を知らないとか言われるのを必要以上に恐れて。そういう社会的モラルの監視の目の中で、自分の気持ちや行動に知らず知らずのうちに制限を掛けている。
もちろん、そういう気持ちは必要なものだ。罪悪感を全く無視して開き直ったり、相手の気持ちなんか全く考えずに切り捨てたり、このモラルの制限がないと、川西のような廃人になってしまう。人として大切な1本の芯を失った、黒色に染まった人間になってしまう。
周りの目ばかりを気にする無色の人間になるか、最低限守らなくてはならないルールを外れた黒色の人間になるか。
……この数週間の出来事が、全て全て、俺に剣の切っ先を向けてくる。
選択を、迫ってくる。
「だから……ごめんなさい、新橋さん。私、あなたのことが好きだけど……付き合ったりは、できません。彼女には、なれないんです」
「まだ今日は告白してもいないのに、勝手に断らないでください。……堺田さん、何も気にしなくていいんです。それに……」
気が付いたら俺は、堺田先生の前に跪き、震える膝上の手を握っていた。
無意識だからできたことだろう、今までなら、というか本来なら俺は、自分から手を繋ぐことすら申し出られない。彼女の濡れた手から感じた涙の温度に、俺は一層、握る手を強くする。
見下ろす堺田先生の瞳が、夜景を反射して揺れた。
観覧車を時計に見立てて、今、1時の場所。
12時の場所で告白したい、と心に決めていたプロポーズプランは、このはやるような気持ちの前に、あっさりと崩れ去った。俺は、座席に乗せていたカバンから、ラークスパーの花束を取り出す。
さっきまで彼女の手を握っていた俺の手の代わりに、花束を膝に載せてやり、俺は笑った。
「俺だって、不誠実で軽薄です。だって、それまでは学校で喋ったりゲームしたりする程度だったのに、初めて一緒に出かけたその1回目に告白なんかしたんですから。俺が誠実な人間なら、相手のことをまだ全然理解できてないのに告白したりなんかしません」
堺田さんは、泣き疲れたように口を半開きにして、まだ落ち着かない呼吸のまま、俺の言葉を真剣に聞いてくれていた。
「ラークスパーの花言葉は、『自由気ままな暮らし』です。……誠実であることが辛いことなら、俺の前では不誠実に、やりたい放題ワガママにやってください。俺も、堺田さんと一緒にいるだけで幸せなんです。そのままで、ありのまま、モン〇ンとかの好きなゲームの話を無邪気に語ってくれる堺田さんが好きなんです。俺のそばで、何にも縛られずに笑顔を浮かべているあなたを、愛しているんです」
「…………新橋さん……」
……まだ泣き疲れてはいなかったみたいだ。彼女の目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出す。
だけど、彼女が泣いているのは嫌だと、世葉たちの前で何度も意思を表明したけど、この涙は、なんだか俺にとって、とても嬉しいものだった。
「……本当に、いいんですか?…………一度断っておいて、都合が合ったら今度はOKするなんて……」
「気にしなくていいんですって。…………だから」
上着のポケットの中から、小さな箱を取り出す。
給料7ヶ月弱分の、安っぽい箱だ。
観覧車を時計に見立てて。
いろんなものを観覧車に重ねて。
いま、12時の場所。
俺は箱を開いて、そのペアリングを差し出した。
「堺田奈央子さん。付き合うのがダメで彼女になるのもダメなら……結婚して、妻になってください」
色々とすっ飛ばして、何もかもが誠実でも真面目でもなくって。
それでも、2人は。
この時、最高に幸せだったと、胸を張って言える。
観覧車の中に、涙に濡れたラークスパーの花弁を一枚残して、その男女の遊園地での思い出は、絶対に忘れられない、かけがえのないものを残して幕を閉じたのだった。