風邪が運んだ物語
「……37度4分か。本格的に熱出てきちまったなー……。うーむ」
「…………」
瀬戸さんにお役御免された、テスト前日の日曜日。
パブ◯ンとたまご粥の効果も虚しく、昨日の夜から盟音の体調は悪化し、今日の朝目を覚ましたときには、本格的に熱を出してしまっていた。
昨日看病してやってた時には、それこそテスト前に遅く帰ってきた俺を叱ったり、軽口を叩いたり俺を小馬鹿にしたりするような余裕もあったのだが、今はただただしんどそうに、眠ろう眠ろうと目を瞑るだけの盟音。
この1日を勉強のために使ってくださいと言っていた瀬戸さんには嘘をついてしまったようで申し訳ないが、今日は盟音の看病に専念しよう。
しかしそんな俺の意思とは裏腹に、盟音は看病してもらうことを遠慮しているようだった。
「……お兄ちゃん、私、本当に大丈夫だから。明日、テストなんでしょ?うつしたらダメだし、お兄ちゃんは勉強してて……?」
いつものハイテンションなキャラからは想像できない、しおらしくて、今にも消え入りそうな声。
しかも、いつもは俺のことを容赦なく『兄貴』とか『童貞』とか呼んでるのに、『お兄ちゃん』なんて呼んでるし。
……ふざける元気もないのに、俺を気遣ってくれているみたいで、何とも言えない気持ちになった。玉のような汗が無尽蔵に湧いてくる額に冷えピタを張り替えて、不安そうな声に応える。
「心配しなくても、盟音が寝てる間に隣で勉強してるから」
「でも……」
「まだ中二なのに家族に気を遣ってるんじゃありません。中学二年生は終焔を邪眼覇王して不幸と踊っちまってればいいんです」
不安そうな盟音に、精一杯優しく微笑みかけてやる。
自分が風邪になってるときに、誰かを気遣う必要なんてないのだ。ましてや、まだ中二の女の子が家族に看病してもらうのを遠慮するなんて、以ての外。
「さすがに明日のテストを休むわけにはいかないけど、今日1日はお前のそばにいるから。何にも気にしなくていいから、とりあえずゆっくり休め」
「………………」
「いいな?」
「…………うん」
「んむ、よろしい。じゃ、兄ちゃんは勉強道具取ってくるから」
……ホントはお粥作ったり氷枕を準備したりするんだけどね。
瀬戸さんに勉強しろと言われて、盟音にも看病より勉強を優先してと言われたが、まぁそもそも俺は毎回テスト勉強なんかしてないわけで。瀬戸さんに教えてたこと自体テスト勉強だとも言えるわけで。
今日一日を盟音の看病に費やすための、テスト勉強を放棄するための様々な言い訳を並べ立てながら、まずはキッチンへと赴こうとしたとき、盟音が俺を呼び止めた。
「待って、お兄ちゃん……」
「ん、どうした?……あぁ、一旦部屋に戻って勉強道具持ってくるだけだから安心して」
「そうじゃなくて……その。……このままじゃ、寝にくいって…………いうか……」
「…………?」
もともと熱で顔は火照っているが、なんか、妙に恥ずかしそうだ。
しかし布団から体を起こす盟音の手元を見て、俺はその羞恥心の正体を悟った。
「……あぁ、そういうことか。……う、うーむ。どうしたもんかね」
服が、汗でびっちょりと濡れ、体に張り付いているのだ。これではなかなか気持ち悪くて寝付けないというものだろう。
……参ったな。
言うまでもないが、盟音もそこそこな年頃だ。男の俺が体を拭いてやるわけにもいかないだろうし、かと言って、このまま放っておくのも、風邪を悪化させることに繋がりそうだし……。
「オカンは携帯置いて行ってるし…。瀬戸さんに頼むわけにもいかないし……。んー、むー……」
「…………あ、あの、私、家族だし、別にお兄ちゃんになら体拭いてもらっても」
ピンポーン。
盟音が何を言ったのか聞こえなかったが、それはさておき、やれやれ、こんな大変な時に空気も読まずに来客かよ。
「ごめん、ちょっと見てくるわ。ソッコーで追い返すから5秒待ってて。クソしょーもないセールスとかだったら完全犯罪のトリックを練って殺すことも視野に入れるから7秒待ってて」
「いや物騒だよ……私そんなのトラウマになるよ……」
「そうか、じゃあ盟音にショックを与えないように『殺す』じゃなくて『消す』から」
「危害を加えない方向でお願いしたいよ……」
盟音がそう言うので、仕方なく凶器は置いて行くことにした。やれやれ、俺の『名状しがたいバールのようなもの』が血を欲して泣いてるぜ。
一階へ下りて、はーい今出まーす、と声をあげながら玄関へと早歩き。
ドアに近づいてすぐ開けはせず、覗き穴に目を近づける。はてさて、相手はセールスか、はたまた親父やオカンの客人か。
もしピンポンダッシュなら確実に殺す。名状しがたいバールのようなもので殺す。
などと黒い決意を固めていた俺だったが、客人は予想していたどれとも違った。拍子抜けしてドアを開ける。
姿を見せたのは、3人。
「と、突然押しかけて悪いな……。へへ」
「……ふ、ふん、斗月に付いてきただけだから。私、あんたの手は借りないわよ」
「夏矢ちゃん……。割とそんなこと言ってる場合じゃないで、夏矢ちゃんの現状」
斗月、夏矢ちゃん、津森さん。
コンスティチューションの誅罰隊の面々が、申し訳なさそうに、重そうなカバンを携えてやって来た。
チラッと見えた斗月の手提げカバンの中身に、『数学問題集』の文字を見つけて、俺は全てを理解した。
「……悪いが俺の家庭教師業は瀬戸さんの指導を終えた時点で廃業した。他を当たるか諦めてくれ。そしてできれば後者を選んでくれ」
「そ、そう言わずに頼むって!ほ、ほら!チュッ○チャプスあげるから!」
「逆に聞くけどお前、それで俺を釣れると思ってんの!?」
「いや、天才だからお菓子大好きかなーと……」
「別にキラを追ったりしてねーわ!ほらほら、帰った帰った!俺は従妹の看病しなくちゃいけないんだよ!」
「従妹?……あー、そういえば言ってたわね。何、風邪でも引いたの?」
「そうだよ、だから忙しいの、風邪も引けない馬鹿な元カノにかまってる暇はないんですよ。早く戻らせてくれませんかねェ?」
「何よ、ハナからあんたに頼る気はないって言ってなかった?日本語聞き取れないの?馬鹿なの?死ぬの?」
「はいはい、夫婦喧嘩夫婦喧嘩」
『誰がこんな奴!』
「まぁまぁ。門衛くん、私たちも看病のお手伝いするから、勉強教えてもらわれへんかな?」
「手伝い……」
そうか。夏矢ちゃんか津森さんになら、盟音の体の世話を任せられるな。
斗月には……そうだな、晩飯や薬の買い出しとかを任せてやるか。
俺は180度態度を変えて、3人を歓迎する。
「何といい面構えだ。ピーンときた!君たちのような人材を求めていたんだ!」
「どこのプロデューサーさんよ……」
「さ、ついてきてくれ。ちょうど今頼みたいことがあるんだ」
2階の盟音の部屋に3人を通す。
突如として現れた見知らぬ顔の来客に、盟音は少し怯えたように、布団で顔を下半分を隠す。
「ど、どなた……ですか……?」
瀬戸さんのときは『ヒャッハー!女だァ!』とかしてたくせになんだその反応!可愛いなチクショー!一生看病してやろうか!
悶えついでに横を見ると、斗月が鼻血を手の甲で受け止めていた。
「……怜斗。なんだあの天使」
「俺の従妹がこんなに可愛いわけがない」
自分の従妹のことをこれほどまでに可愛く思える日が来るとは……!
悶絶する男2人を差し置いて、女子2人が自己紹介する。
「えっと、急に押しかけてごめんね。私は夏矢、怜斗の友達よ」
「ん?世葉、『友達』じゃなくて『元カノ』って名乗った方がいいんじゃなグハァ!」
俺と夏矢ちゃんの合わせ技キックが、軽く1秒間に16発、斗月の顔面に炸裂する。高〇名人も顔面蒼白である。バネは使ってないです。
そんないつも通りの光景にもはやツッコミもせず、津森さんは何事もなく、当たり障りなく盟音に自己紹介する。
「同じく、門衛くんの友達の論子やでー、よろしくねー」
「こちらこそ、よろしくお願いします……」
「……にしてもホンマに可愛いなぁ。どんな不法な遺伝子操作したら門衛くんと同じ家系からこんな可愛くて天使な子が生まれてくるん?」
「盟音、こういうことを真顔で言っちゃうような天然腹黒女だから、絶対俺がいないところでこの人と関わらないように。身が危険に晒されたいざという時には、眉間に麻雀牌を撃ち込めば大体の確率で死ぬから」
「う、うん……?」
熱でボーっとしてるプラス身内ネタの応酬で、完全に話の流れについていけていない盟音だった。俺と夏矢ちゃんのキックでのびていた斗月が、満を辞してと言わんばかりに胸を張って前に進み出る。
「で、俺も怜斗のツレ。名前はとづ……」
「ダメガネって呼んであげてな」
「お前は黙ってろ!眉間に麻雀牌ねじ込むぞ!」
「……よろしくお願いします、だめがね……さん……」
「……うん、なんか、もういいや。可愛いから全部許せる」
#
「じゃ、盟音ちゃんの汗拭いて着替えさせるから、2人は出てて」
男である俺が盟音の着替えの手伝いをするわけにはいかないから、と世話を頼むと、夏矢ちゃんと津森さんは快く引き受けてくれた。
2人にバスタオルと盟音の着替えを渡して部屋を出る。
「じゃ、任せたぜー」
「うん」
「任せといてー」
「じゃあ盟音ちゃん、まずは上から脱ごうか?」
「てめぇも出るんだよエロメガネ!」
斗月を引きずり出した瞬間扉が閉まり、女子2人が内側から鍵を掛けた音がする。
よし、性犯罪者隔離完了。
「怜斗、お前ホントに男か!?女子高校生2人が裸の女子中学生のお世話をするんだぞ!?興奮するだろ常識的に考えて!見たいと思うだろ常考!見るだろJK!」
「なるほど。遺言はそれだけか?」
「やめて!今までバトルシーンでも見せてこなかったようなめっちゃ気迫ある目はやめて!」
思いっきり侮蔑の表情で斗月を睨みつけると共に、コイツ如きに盟音と同じ空気を吸わせてしまったことを激しく後悔する。
ラブコメもののアニメとかドラマでよく見るような、娘をめちゃくちゃ溺愛してる父親の気分って多分こんなんなんだろうな。絶対こんなチャラ男にうちの盟音は渡さん。
「とにかく、今の間にお前と俺は今夜の飯の買い出しだ。……盟音の看病をしながらお前らに教えるとなると、徹夜は覚悟した方がいいだろうしな」
「へへ、悪いな」
「ちょっとでも悪いと思ってるなら学力向上に励む意思を見せろ。もうお前の場合意思だけでいいから」
「明日から本気出す!」
「その明日からテスト開始だよバカ野郎!」
俺に教えを乞いに家に来ているはずなのに、1ミリたりともやる気が感じられない斗月と共に、近所のスーパーへ向かった。
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その道すがらに、俺はなんとなく盟音の身の上について考え込んでいた。
いや、なんとなくというよりは……。今朝看病している途中、盟音が寝言のように母親を呼んでいて、それが強烈に印象に残ってたってわけなんだが。
昨日、瀬戸さんと一緒に家を出るときに、ボソリと盟音が呟いたセリフ。
『初めてだよ。こんなちっちゃなこと、気付いてもらえたの』……だったか。
……風邪をひいても親から心配されないような家庭環境だったのだろうか。それで、うなされたように、お母さん、お母さん、って……。
「な、斗月。お前たしかムカシ、田舎に住んでたとか言ってたよな?」
「あぁ?……急に何だよ」
斗月は田舎時代のことを触れられると、少し不機嫌になる。今回もそれは例外ではなく、あからさまに眉間にシワを寄せていた。
一応当たり障りのない聞き方をする。
「いや、実は盟音も、田舎から居候して来ててさ。お前も中学にこっち来るまでは田舎暮らしだったらしいから、なんか聞ければいいかな、ってさ……」
「なんか聞ければって何だよ……」
「む……。……えっと、盟音は家庭の都合でこっちに越してきたらしいし、ホラ、田舎特有の家庭環境とか特徴とかさ……」
「ア、アホらし……。田舎と都会でそんなに家庭環境に違いなんかあるかよ!悪い家はどこに引っ越しても改善されないし、良い家はどこに引っ越しても悪くならねーだろうよ」
少々のびすぎの髪の毛をいじり、明らかに呆れとか苛立ちを浮かべながらも、斗月は俺の質問に答えてくれた。
そして丁寧なことに、その答えの裏に隠された、残酷な、『本当の答え』も付け足してくれた。
「……本人たちに原因があるんだろーがよ。どんなに他のモンとか外の環境のせいにしても、本当に悪いのは、人……。本人たちだろ」
「……………」
思わず、押し黙ってしまった。
劣悪な家庭環境の原因は、その家庭を構成している本人たちによって作られたものだ。だから、その環境から逃げてきた盟音の行動は……。
ただの、逃げ。
……自分がいなくなっている間に、家族の気持ちや、周りの色々なことが改善されていることを願って、別の場所に逃避する。他力本願。
なにか、そう言われた気がした。盟音だけでなく、俺のことも含めて。
「ま、シスコンなお前のことだ。どうせ盟音ちゃんのことを手助けしてやりたいとでも考えてんだろ?普段はこんなメンドクセーこと、いちいち聞いてくるタマじゃねーしな、お前」
「……誰がシスコンだ。あと従妹はシスターじゃねーぞ」
「んーと、じゃ、『イトコン』?」
「……肉じゃがとかに入ってそうだな」
#
スーパーで買い物を終えた俺と斗月は、風邪が長期化したときのために色々なレシピができるように、なんて欲張って、結局そこそこな大荷物を抱えることになってしまった。
春から夏へのシフトチェンジを7割方終えているような気候の中でこれを持って歩くのはけっこう骨で、ふたたび家に着いた頃には、2人とも汗だくになってしまっていた。
一旦盟音の部屋に様子を見に行ってみると、既に着替えは終わって、淡い水色のポンチョのようなパジャマを着た盟音が、すぅすぅと寝息を立てている。それを傍らで見守っている津森さんと夏矢ちゃんに、小さく声をかける。
「……盟音、寝たか?」
「うん。着替えてスッキリしたみたいで、目を瞑ったらすぐ寝ちゃった」
「そうか、サンキューな。……んじゃ、今のうちにテスト勉強やっとくか」
俺の部屋に3人を集め、ちゃぶ台を囲んで座らせる。
そして、日本史及び世界史のプリントを配ったところで、説明を始める。
「まず最初に取り掛かるのは暗記系科目だ」
斗月と夏矢ちゃんが意外そうな顔をする。
「え、逆じゃね?」
「暗記系科目って、テスト直前に流し読みするモンじゃないの?」
「……そんなんやから日本史世界史合わせてジャスト40点なんかになってまうわけで」
「ろ、論子ちゃん!?やめて!言わないで!ていうかなんで知ってんの!?」
「合わせてジャスト40点だと!?れ、怜斗、かけて40点の俺はこれからどうなっちまうんだ!?」
「…………とにかく今のうちにテスト範囲のページをしっかり読み込んでろ。あとでテストするして、合格できるまでメシは出さねーからそこんとこよろしく」
『ええええええええええ!!』
「ちなみに8割正解が最低ライン」
『えええええええええええええええええええええ!!』
「そんな感じのテストを全教科ビッチリやるつもりだからよろしく」
『(”Ω”)』
「……そんなよく分からん顔文字をノートに書いて出されても……」
アホ2人の悲鳴と津森さんの物理を呪う声を響かせながら、勉強会は夜へと続いていく。
#
午後8時半。
やはり予想通りと言うべきか、最後まで残ったのは斗月だった。
既に合格して俺特製の親子丼を食った夏矢ちゃんと津森さんには、寝てて手はかからないかもしれないが一応、ということで、盟音のそばに付き添ってもらっている。
「……もういい加減テスト用紙出すのもメンドくさいし、口頭でクイズ出すぞ」
「来やがれチクショー!」
「律令制国家の形成が始まったのは……」
「マッカーサー!」
「クイズ番組じゃねーんだよ最後まで聞け!ていうか全然違うから!律令国家とマッカーサーは時代が全く違うから!」
「くっそチクショーまたかよぉぉぉぉぉぉ!いい加減メシ食わせてくれよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「こっちのセリフだ!そろそろいい加減通ってくれ!他の教科は全部10回以内で通ったのに、なんで日本史は30回以上やっても通れねーんだ!」
「知るかバーカ!天才バカ!織田信長ぶつけんぞ!」
「やかましい!とっとと暗記作業に戻れハゲ!ロン毛ハゲ!」
……結局斗月が日本史の全ての問題に合格できたのは、午後9時過ぎのことだった。
#
「万葉集の編纂は誰によって行われた?」
「大伴家持!」
「唐の高僧、鑑真が来日して奈良に建てたのは?」
「唐招提寺!」
「……次でラストだ。797年、征夷大将軍となったのは誰か?」
「坂上田村麻呂ォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
「オッケー、合格。台所にサ〇ウのごはんと親子丼の具が入った鍋があるから、食ってこい」
「ヒャッハァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!メシだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「そんな大声出して、盟音が起きでもしたら殺すからな」
血に飢えたゾンビのように虚ろな目で、斗月は俺の部屋を飛び出して1階のダイニングへと4足歩行で走っていった。
その間僅か0.05秒。どっかの宇宙刑事もビックリ。蒸着プロセスを見てみよう!
「あぁー……。なんか無茶苦茶疲れたな……」
そう呟き終わる頃には、俺はすでに目をかたく閉じてしまっていた。
飛鳥時代らへんの様々な歴史事項がタイフーンの中のようにぐるぐると思考のリンパ線を飛び交って、まどろみに拍車をかける。
……まぁいいや。斗月が飯食って戻ってくるまでちょっと寝よ。
俺は静かに眠りの中へと落ちていった。
#
怜斗の合格をもらってやっとメシが食える、と意気揚々で1階のダイニングに降りてみると、そこには盟音ちゃんが起きてきていた。
温め終わったのか、ラップのかかった白飯をレンジから取り出して、ラップを剥がした上に非常に控えめな量の親子丼の具をかけている。俺たちに気を遣っているのだろうか。
あとそういえば、付き添っていたはずの世葉と津森が見当たらない。
「……あ、ダメガネさん」
……マジでこのあだ名のまま定着しちまったらしい。まぁいいんだけどな。
「よう。熱はどうだ?」
「……まだちょっとしんどくてボーっとしてますけど、食欲はあるので、さっきよりマシです」
「そうか、お大事にな。ところで、世葉と津森は?看病してたんじゃないのかアイツら?」
「なんか、私が起きたら隣で椅子に座って寝てて……。お腹すいてたから、2人を起こさないように私だけ降りてきたんです」
「はは……。んじゃ、一緒に食うか?」
「はーい」
看病を任された側なのに何やってんだよ、と言いたいところだが、あれだけ集中して暗記や問題に取り組んだ上にメシを食ったんだから、うっかり寝落ちてもおかしくはないか。
盟音ちゃんが、俺に事情を話しながら冷蔵庫からお茶を取り出しているスキに、めちゃめちゃ遠慮がちな量の具しかかかっていない盟音ちゃんの親子丼にこっそり具を足してやる。
俺も怜斗から言われた通りにサト〇のごはんを温めて、上から親子丼の具をかける。
もう冷めてきらめきを失ってしまった鶏肉と卵には、9時半近くという夕飯にはかなり遅い時間帯も相まって、粗末な夜食のような、少し心躍る魅力があった。
テーブルの上に置かれていたスプーンを取って、さっそく親子丼に口をつける……前に、盟音ちゃんと揃って、手を合わせていただきます。
テレビの電源がついていないダイニングルームには、カツ、カツ、と金属製のスプーンが器を叩く音だけが一定のリズムで刻まれていく。
かたや男子高校生、かたや女子中学生。何か話したほうがいいのだろうが、頭に浮かんでくる話題のタネは、この組み合わせで会話をするには少々ムリがあるものばかりだった。
メシをかき込むだけの口から言葉を出しあぐねていると、盟音ちゃんの方から喋りかけてくれた。
「お兄ちゃんがさっき言ってたんですけど……。ダメガネさんって、昔、田舎に住んでたんですよね?」
……よりにもよってその話題か。
あのイトコン野郎、余計なこと教えやがって。
「……あぁ、うん。盟音ちゃんも昔田舎に住んでたって、怜斗から聞いたけど」
「はい……。だけど、お母さんとかお父さんとかとうまくやれなくて……。家出するみたいに、こっちに出てきちゃったんです」
『うまくやれなくて』、という言葉が、心の中に重いものを落とす。
……家族って、そんな、クラスメートや職場の同僚みたいな言い方するもんだったっけ。俺も似たようなもんだ、と返答を寄越すのに、1文字1文字発する度に、いちいち気が滅入っていくのを感じた。
「……俺も似たようなもんだよ、多分。俺の場合は逆に……ここに引っ越した理由も、何もかも、全部親の都合なんだけどな」
「全部……親の都合?」
嫌なところに食いついてきたな、と苦笑するが、不思議と面倒ではなかった。
プラスチック容器の親子丼は、すっかり飯と卵だけになっていた。俺は、本当のことを言えるわけもなく、何十回も繰り返してきたウソを言った。
重い話だから、ウソだと分かってもツッコミにくい。そんな卑怯な話を、これまでずっと続けて言ってきた。このウソは、もはや俺の、困った時の十八番のようになってしまっていた。
「まぁ……なんだ。事業が失敗したんだよ。俺が生まれる前から田舎の土地を買い上げてやってた、けっこうデカいプロジェクトだったんだけど……。それが頓挫して、ごたごたして、離婚するかしないか……みたいな。ははは」
「…………そうなんですか」
「……うん。ごめん。自分でも、リアクションに困る話したなって自覚してる」
「え、あぁ、いえ、興味深かったです……?い、いや違うか。人のこんな話を興味深いって、えっと……」
「い、いやいや、まだ熱あんのに無理しなくていーから!」
慌てふためく盟音ちゃんをなだめつつ、キッチンに食器を運ぶ。
といっても、容器は〇トウのごはんのプラスチックの器だから、それを捨てて、スプーンを流しで水に浸しとくだけなんだけど。
「……ダメガネさん、こんなこと聞いて失礼かもしれませんけど……」
「失礼はお前の兄貴から受け慣れてるから、ドンときなさい」
さっきの自分の話で暗くしてしまった雰囲気をごまかすようにおどけてみる。
しかし盟音ちゃんは、俺の冗談を認識してるのかしてないのか、さっきより余計にかしこまっていた。
「……親に、愛されてましたか?」
「…………えっと、それは……どういう?」
「そのままの意味で、ですけど……ご気分を悪くさせてしまいましたか……?」
「あ、あーいや、そうじゃないよ!」
不意打ちというか、なんというか。
あまりの単純な質問に、脳がかえって混乱してしまった。
親に、愛されていたか?
……なんで盟音ちゃんがいきなりそんなことを聞いてきたのかは、ほとんど、ぼんやりとしか想像がつかないけど、俺は正直に思いのままに答えた。
「……愛されてた、と思うよ。母さんはもちろん、すごく大好きだし。親父も、さっき言ったみたいに失敗して、色々母さんや俺に八つ当たりしたり、酒で暴れたり、挙句の果てには幼馴染のヒモになれとか言い出したり、本当に大嫌いだったけど……でも、色んなことを教えてくれたし、色々なところに連れて行ってくれた」
「……父親、母親……」
「クズみたいな父親だけど、俺は、あの人から愛情を受けたって確実に言えるんだ。……今は折り合い悪いけど、な」
この言葉をそっくりそのまま本人の前で言えたら、何かが変わるんだろうか。
考えること自体が無意味なその思考は、そのあとの盟音ちゃんとの雑談の中で消えていった。
盟音ちゃんは、家族の話を続けようとはしなかった。
俺の家族の話を聞いて、何を思ったのかとか、気分がよくなったのか悪くなったのかとかはわからないけど、とにかく、家族についてこれ以上話したくなさそうだった。
まだ治りかけですらない状態なんだから、そろそろ寝て体を休めたほうがいいということで、適当に話を切り上げて、盟音ちゃんを部屋まで連れて行った。
「……家、か」
午後10時30分。
誰もいない自分の家に帰るか、この家に泊まるか。
俺はなぜか、いつも以上に悩んでしまっていた。
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こうして、テスト前日の夜は更けていく。
ある者は、家族のために、そして自分のために、ただひたすら勉強を頑張っていた。
ある者は、熱にうなされながら、色のない、故郷の家族の夢を見ていた。
ある者は、心の中に小さな火種を燻らせながらも、失恋から立ち直りかけていた。
事件や非日常はたしかに忙しく、犠牲がすぐ間近にあって、常に緊迫しているが、日常を送るのに対しても、案外人間というのは神経をすり減らしてしまうものだ。
俺が関わった人たち、夏矢ちゃんたちが関わった人たちは、このテスト期間に、何かが大きく動くのだろうか。俺たちが関わったことで、何かが変わってくれるのだろうか。
問いかけたところで、答えなんてない。
日常というのは、案外難しいものなのだから。