津森論子失踪事件 真解決
そこまでクラシックとかに詳しいわけではないけど、この曲はピアノ曲の中でも幻想曲に分類されるものだろうかと思った。
何か俺の知らない別の楽器で奏でているのかと思うほど、パラパラぽろぽろと、階段から転げ落ちるような、高い音域で転がる狂いピアノ。
しかし、足元が回転しているくらいの錯覚に陥るような狂いピアノは、しっかりと安定している力強さが感じられる。軸がぶれながらも、それでも最後まで貫き通す執念のような、恐ろしく遠回りな大回転。
雲の上から真っ逆さまに落ちてゆくような、軽やかで仄かな狂気を感じる忙しない乱打が終わる。
天空から落下した体を受け止めたのは、緩やかで愛おしい、優しい音色。家族や友達みんなで囲む朝食のような、当たり前の最大限の幸福が、歪んだ幻想を受け止めてくれる。時に一気に階段を駆け上がりまた転げ落ちていくような狂気の片鱗を覗かせながらも、暖かな時が流れる。
このまま、穏やかにフェードアウトしていくのか……そう思わせた瞬間、激しい狂気の奔流が再び襲い来る。
当たり前だと思っていた地面が崩れ、落ちていく。地面の下には何もないと思っていたのに、その下に広がっていた、天国とも地獄ともつかない、希望とも絶望ともつかない無限へと落ちていく。
高い音から、何度も何度も高みへ戻ろうともがきながら地獄の底へ転げ落ちていくように、低い音の方へと。永遠に続く、天使の歪んだ祝福のように、忙しない打鍵が、テンポを微妙に変えて何度も繰り返される。
狂いながら、元々の自分の姿を見失いながら、このまま永遠に回り続けるのか。
狂気の濁流も、いつしかゆっくりとした流れの綺麗な川に生まれ変わり、黒々とした闇を抱えた雨雲は、切れ間から、燦然と輝く鋭い日差しを覗かせる。
これからもずっと続いていくのだろう、緩やかな日々と激しく悩み狂う日々。繰り返し描かれた躁鬱の乱高下は、或いは『未来』とでも言うべき感情を胸に残して、余韻を残して終わった。
スポットライトが消え、ステージ全体が明るく照らされる。
幻想曲の演奏者……津森さんは、椅子から立ち上がって、ドレスの装いを整え、にこやかに、客席に向かってお辞儀をした。
会場全体が大きな拍手に包まれる。演奏者は舞台下手へと消えていき、次の主役へと、舞台を明け渡す。
「………………」
闇に紛れてよく見えなかったが……その顔は、あまり晴れてはいなかったように見えた。
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最後の、プロのピアニストによる『第九』演奏が終わり、観客全員が席を立つ。
演奏が終わればあとは見るものはない。強いて言えば空調が快適だってくらいだ。当然、この春の温度が心地いい季節に、空調なんかのためだけにずっと客席に居座るような酔狂な客はおらず、みんな、未だ客席から動く気配のない俺に怪訝な目を向け、足早に去っていく。
ホールの出入り口に立っていた警備員がこちらに近づいてきたが、事前に津森さんからもらっておいた『関係者証明カード』をひらひらと掲げると、眉を潜めながらも戻っていってくれた。
しばらく演奏の余韻に浸りながら、椅子にゆっくり腰掛け待ち続ける。そろそろ閉めたいんだけどなー、ってホール従業員の人の独り言が聞こえてきたとき、やっと彼女はやってきた。
演奏しているときと同じ、仄暗い、高級感あるドレスを纏った津森さん。
俺は正直、かなり見とれてしまっていた。
「ごめんっ、偉い人たちに花束とかもらってて……」
「大丈夫だよ。それより、演奏すごく良かった」
「ありがとう。えっと、それで……」
ゴッホン!
あんまりにも露骨な警備員さんの咳払い。きょとんとする津森さんに思わず苦笑いしてしまう。
「そろそろ出た方が良さそうだ、外で話そう」
「あ、そういうこと!?お待たせしてすいませんでした!」
やっと事情が呑み込めると、津森さんは慌てて警備員さんや従業員の人たちに腰を90度折り曲げる見事なお辞儀を見せて謝った。
嫌味っぽく咳払いしていた警備員さんも、さすがにそこまで謝られるとばつが悪いようで、小さく「いやいや」と手を振ると、そそくさと裏方へ引っ込んでいった。津森さんは頭を下げていたので見えなかったようだが、俺はちょっと吹き出してしまった。
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市民ホールを出て、街を歩く。
現在時刻18時47分。もう外は暗くなり始めていて、街は、昼と夜の顔を切り替えている真っ最中だ。
「……ていうか、なんでまだドレス着てるんだよ」
津森さんの格好は、これからお嬢様たちが出席するお洒落なパーティーに参加するのかしら、としか思えないような黒ドレスのまま。
ようするに、街を歩いているだけで浮いてる。
その可愛さのせいでチンピラに目を付けられてナンパされて集団でキャーッ!……みたいなことになったらどうする気なんだろうこの人は。もう本当天然というかなんというか。
ここまで来ると、自己評価が異常に低いとしか思えないレベルだ。
「なんでドレス着てるって……裸で帰るわけにはいかないでしょ?」
「はっ!?待て待て……家からこのカッコで来たの!?嘘でしょ!?」
「え……やだなぁ、門衛くんもハロウィンパーティーに出るってなったらコスプレして出かけるでしょ?」
「いやいやいや……パーティー会場で着替えるでしょうよ」
「ええ!?そんな……とにかく○るい安村さんとかも、ネタをするときはあの格好で出かけてるでしょ!?」
「んなワケあるか!日本の警察ナメてんのか!」
「ダン○ィ坂野は!?」
「あの人もだよ!通勤の時から真っ黄色な服着てるワケないだろ!?」
「楳図○ずお先生は!?」
「あの人……は…………普段からシマシマだって聞くけど……」
「ほら!ドレスで外出歩いたってヘンじゃないでしょ!」
「それとこれとは違う!TPOわきまえろ!」
……麻雀部に俺を誘った時といい、なんやかんやでかなり抜けてるヤツだよなぁ。
ていうか、街ゆく人たちには俺と津森さんの姿はどう映ってるんだろうか。冴えないノッペリ顔の学生がドレスゴシック美少女と横並びで歩いてるこの状況見て。
うわあ、もう一緒に歩きたくねぇ……主にこっちの都合で……。
とはいえ、津森さんから『ぎこちない関西弁』と『流暢な標準語』の真相を聞くためにはここで帰るわけにはいかない。それは一昨日に触れた、彼女の中の醜い一面との関係があるらしいワケだし。
そういう話を歩きながらするというのもナンセンスだろう。俺は頭1.5個分くらい目線を下げ、津森さんに尋ねる。
「それじゃ、どこ行く?」
「お腹空いた……幻想曲ってけっこう体力使うんだね」
「はは、時間的に丁度いいし、メシでも行くか」
「うん、賛成!もうなんか、いろいろガッツリ食べたい!」
「なんか食いたいモンとかは?」
「カニ以外ならなんでも!」
カニが苦手なようだ。それではカニ屋に行こうか。
……なーんて鬼畜選択肢を選ぶわけもなく。
適当に歩いていたのだが、運よく駅前の、様々な飲食店が集合して毎日祭りのような賑わいを見せている万津市の食の交差点、通称『たらふくスクランブル』に来た。
津森さんの体を寄せて、フラフラ歩きした酔っ払いのジイさんから遠ざけつつ、周囲を見渡す。
「ここらへんなら色々あるぜ。焼肉でもイタ飯でも、ラーメンでもケバブでも。……まぁ、さすがに晩飯にパンケーキってのはアレな気もするけど」
「へぇ……うーん、いっぱい食べれればなんでもいいかな。門衛くんが決めて!」
「ぬう」
この歳にしてお母さんの気分である。何でもいいっていうのが一番困るのよねぇ。
うーん、いろいろガッツリ……か。
財布の中身と相談する。これぐらいの金でガッツリ食うとなれば、『お手軽な値段でたくさん食べられる店』を選ぶ必要があるわけで。
俺は眉根をもみながら……TPOわきまえない結末を予想し、ため息を零した。
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「……………………場違いかなぁ」
「うん?ミートスパすごい美味しいよ、一口食べる?」
「お行儀悪いことしないの。つーか、ほっぺたにミートソースついてる」
俺が言っても気にするそぶりすら見せずに、またパスタを巻き巻きし始める津森さんに苦笑し、紙ナプキンで拭いてやる。
さてみなさん、ここがどこだかお分かりだろう。
学生のオサイフに優しく、いろいろなメニューが楽しめて、かつ、そこそこ落ち着ける感じのお店。そしてミートスパが食える。
サイ○リヤ以外にあるまい。
サ○ゼリヤが丁度いいんだよ。夜のコ○スはなんとなく、自炊できない親が子供に飯を食わせに来てるってイメージがあるし。バー○ヤンに関しては、これはもはや個人的な偏見なのだが、なんとなく、昼しか行けないし。俺の気持ち的に。
そこここによって変わるんだろうが、ここのサイゼ○ヤは、この時間帯の利用客のほとんどがレポートに追われてる大学生とかだ。アホみたいに騒いでるパーティーピーポーに辟易させられることもなく、のんびりと食事と会話が楽しめるわけでございます。
決してステマなどではございませんとも。
この物語はフィクションであり、実際の人物・団体、その他名称、作者が大好きなサイゼリ○のモッツァレラピザとは一切関係ございません!
ちなみに津森さんが今食べているのはミートスパゲッティだが、すでにチーズドリアとシーザーサラダの半分を平らげており、まだまだいけそうな顔だ。2人で一緒に食うためにピザを頼んだんだが、この調子だと、早く自分の分を確保しなければ全て彼女の胃袋の中へ消えて行ってしまう気がする。
俺はといえば、最初に食べるとお酢とトマトの効果で食欲が増すという、フレッシュチーズとトマトを和えたサラダをむちゅむちゅと食べていた。カプレーゼというらしい。
口の中で弾力あるチーズが、むちゅむちゅって擬音を出してる感じ。
スタンドの隠し味は入ってないので、『ンまァァーいっ』とはさすがにならない。けど、トマトとチーズが互いを引き立て合うというのはかなり納得できた。
「ドリンク注いでくるけど、なんか入れる?」
「んむ、私ファ○タのメロンソーダ!」
「あいよ」
ドリンクバーに向かうと、中学生が先に陣取っていた。自分を飾り立てるようなトシでもないだろうに、目の疲れるような金髪を後ろでくくってる。
あーあー、いるよなー。こういうドリンクバーでいろいろ混ぜちゃうヤツ。コーラとウーロン茶混ぜたりしちゃうヤツ。んで、テーブルに戻ったら今度はその中に調味料入れたりするヤツ。
なになに?カル○スとコーラとメロンソーダとウーロン茶と……うっわ、コーヒー入れやがったこのクソガキ!しかもホットのやつ!
つーか長ぇんだよ!いつまで調合ごっこしてんだボケ!
うっぜーんだよ、ヘラヘラ笑って紅茶混ぜたりしてんなよ!マゼラーでタラタラ混ぜてんじゃねーぞソムリエ気取りか!はよそこどけや!
やれやれ、やっとどきやがった……。
えーと、津森さんはメロンソーダだったよな。俺のドリンクはどうしよっかな。
……でも待てよ、ドリンクを混ぜたらダメになるとか、一概には言えないよな。カ○ピスとメロンソーダぐらいで止めとけばけっこう美味しいのができるんじゃないだろうか。
試しに注いでみることにする。
あーくそ、炭酸飲料って泡ができちまって、イッパツで満タンまで入れられないんだよな。でも待てよ、あのガキの時はそんなに泡が立ってなかったよな……ソムリエ気取りとか言っちまったけど、アイツ結構テクニックあるんじゃねーの?
よし、じゃあ混ぜて、ちょっと味見してみるか……。
お、これけっこうイケんじゃね?これにコーラとか足してみたりして…………。
じゃねぇ。何やってんだ俺。
ドリンクの注がれたグラス2つを持ってそそくさとテーブルに戻り、未だにスパゲッティを巻き巻きしてる大食い女の鼻の頭にグラスを突きつける。
「なに普通にメシ食いに来たみたいになってんの?ぎこちない関西弁使ってる理由を教えてくれるってハナシだったよな?なに普通にパスタ巻き巻きしてんの?」
「パスタ巻き巻きだけじゃないよ、ピザももぐもぐしてるよ」
「そういうこと言ってんじゃ……アアアアア!ピザなくなってる!てめぇこのクソアマ、どこまで食い意地張ってんだ!吐けコラ!俺のモッツァレラチーズ吐き出せ!」
「お、落ち着いて!吐き出したところでピザは帰ってこないよ、もんじゃ焼きなら出せるけど」
「誰がサイゼリ○じゃなくててっ○ん番長出せっつった!?てめぇの金でモッツァレラピザもう一枚頼めっつってんだよ!」
「それを食べるのは?」
「当然?」
「私?」
「じゃねーよ殺したろか!」
人がどんだけチーズとの甘くとろけるひとときを楽しみにしてたと思ってんだチクショウ……。
金がないわけではないけど、下すのもメンドくさいし、またの機会にするか……。
内心ため息を吐きながら、カプレーゼの最後のひときれを頬張り、本題について尋ねることにした。
「んで、話ってのは……」
「すいませーん、フライドポテトの大盛りください」
机に置かれてる手の甲にフォークを刺してやった。
「ギニャァァァァァ!!何すんのよ!」
「こっちのセリフだボケ!いつまで茶番続ける気だてめぇ!もう読者飽きてんだよ、○イゼリヤのステマみたいな食レポに飽き飽きしてんだよ!とっととテキトーに自分語りしていい話っぽいオチ付けて終われや!」
「なんてこと言うんだ!ああもう、そんなこと言われたら余計話しにくくなるじゃないの!そうよ、こんなお店に移動して喋るほどじゃない、2、3分で終わる話よ!」
「あーあー、分かったから話せよ!こら、いつまでもパスタ巻いてんな!」
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「普通逆だよな?人前では下手な関西弁を使って、普通に話せる標準語を隠してるなんて……」
「……自分を分けたかったの」
「自分を分ける?」
こくん、と頷いて、津森さんはメロンソーダをあおった。
そのままグラスを持ち上げ、顔の半分を隠すようにして掲げた。半分の津森さんは普通、肌色。もう半分は、メロンソーダが透けて……緑色のフィルターがかかっている。
「ピアノをしているとき、あと、家族と喋ってるときの私は、標準語。いつも使ってる言葉だったから、当然なんだけど」
「関西弁は……?」
「麻雀部に入ったあと……なんか、標準語で話すのが嫌になった。その言葉で話すときに、私はいつも、ウソをついてたから」
「……やっぱりピアノは嫌いなのか?」
津森さんは首を振った。
ウソ、というわけではなさそうだが……含みがありそうな、戸惑いがちな目で。
「弾いてて気持ちいい時はもちろんあるし、お客さんから拍手を貰ったらとてもうれしいけど……でもやっぱり、麻雀ほど好きじゃないから」
「………………」
「好きでもないものを好きって言ったり、とっても優しいお父さんお母さんなのに麻雀が好きなことを隠したり……なんか、ピアノが嫌いなんじゃなくて、ピアノに関わってるときの自分が嫌いだったんだと思う」
「そういう自分を、麻雀をするときに持ち込みたくなかった……と?」
「そんな感じ。うまく説明できないけど……麻雀してるときは自分の気持ちにも正直でいられたと思うし、何より、そんな嘘つきな自分をチー子ちゃんとポン子ちゃんに見せたくなかったし……」
「関西弁の仮面、ってことか」
「仮面……そうだね、結局、ウソついてたことになるから……」
ウソ……か。
友達に対して、嫌な自分を隠すことを、ウソだと思っているのだろう。
「それは仮面っていうんだよ」
「……ゲームの話?」
「あのゲームで得た知識だけど、まぁホントに心理学用語であるんだよ。
人はあるコミュニティではAの仮面を被り、また別のコミュニティではBの仮面を被る。C、D、E……コミュニティの数だけの仮面があって、なんでも包み隠せず話せると思ってる友達に対しても、思わぬところで本性を隠して、仮面を被ったりしている」
「それが、ペルソナ……?」
「まぁ……子供の頃、親父の部屋にあった心理学の本読んでたのと、ただの妄想なだけの、適当な診断だけどさ」
一昨日の言葉を1つ1つ思い出していけば、答えは明らかだ。
「あの蝿も、お前の仮面のひとつだったんだよ」
「……いや、あの蝿は私の中の潜在的な欲望、って言ってなかったっけ?」
「自分に対して被っていた仮面のひとつ……ってところじゃないかな」
「あ……」
「自分の口で言ってただろ、カワイソぶってみたり、絶望論を唱えてみたりしてるだけだって。上手くいかないとき、自分を責めないために、そういう自分勝手な仮面を被って誤魔化していたんだよ」
「………………その通り、だと思う」
「そりゃそうだ。俺だってよくする。……ただ、津森さんの場合は『標準語の仮面』と『関西弁の仮面』が複雑すぎて、自分の素顔を見失ってたせいで……」
「あんな蝿が生まれてしまった、ってこと?」
俺はうなずきもせず、黙った。
津森さんのことを考えて神妙な面持ちになっているのではない。俺も、自分のことに当てはめて考えていた。
……自分の本心を見失ってさえいなければ……。
考えて自分を責めだすとキリがなくなって、そして、それ以上自分を責めないために仮面を被ると、また自分の心にモヤがかかる。
思春期の少年少女は自己矛盾の塊であると、何かの本で読んだが、俺は果たして、面白いようにその本の通りになってしまっていた。
斜に構えてモノを見る自分、そんな自分を嫌いな自分。そんな葛藤してる自分に酔う自分。そんな酔ってる自分を傍観して嘲笑う自分。めぐりめぐって、合わせ鏡のように、無限の自分が自分を探している。
JPOPでよく出てくる『本当の自分を探す』みたいな歌詞は、適当に聞こえがいい綺麗事だと思っていたが……存外、これは思春期の人間にとっては死活問題であるらしい。
「仮面と素顔の区別をつけないと、大事なところで自分の言葉が言えなくなる。いや、というよりも、自分の本当に言いたいことが何か分からなくなる」
「門衛くんも……なんか、あったの?」
「いや、人に話すようなことじゃないよ。これは素顔に隠しとく問題」
俺はそれだけ言うと、さっきドリンクバーで混ぜてきたジュースを一気に飲み干した。
口の中で色んな味が混ざり合う。
お互いがお互いに反発しあっていたり、お互いの美味いところを消していたり、お互いのクセのあるところをさらに強くしてしまってたり。
ぐっちゃぐちゃに絡み合った味覚をほどくことはできず、もはや何と何と何を混ぜたんだったか忘れてしまい、まぁどうでもいいか、という妥協と共に飲み干した。
「……じゃ、門衛怜斗のお悩み相談室はここまで。はい相談料30万」
「お悩み相談した覚え無いんだけど」
「じゃーそろそろ帰るか。奢ってやるかワリカンのつもりだったけど、お前食いすぎだし、きっちり食ったぶん払えよ」
「ワリカンっ……!ワリカンっ……!」
「なんだそれ!ノーカウントみたいに言われても無駄だからな!俺けっきょくピザ1枚も食えなかったし!」
「いや、金銭的にはこっちが奢ってあげたいくらい持ってるんだけどさ。ほら、こないだ見たマイ○ビウーマンの記事では『男に奢る女は生きてる価値ない』とか書いてあったし……」
「あんなクソ女尊男卑メルマガ信じてんじゃねーよ!ああもうワリカンでいいからとっとと済ますぞ……」
淡々と会計を済ませ(津森さんにはモッツァレラピザのせめてもの償いとして、端数を払ってもらった)、外へ出る。
一気に夜の街へと様変わりしたたらふくスクランブルには、ストリートミュージシャンによる、爆音トランペットのジャズミュージックがとてもよく似合う。酔っ払いも、客引きのエロい女性も、それに釣られるバカもわざと釣られに行くアホも、ちょっと背伸びした俺らのような学生も。
一人じゃ立てなくて、自分の足がどこを踏んでるのかも分からない千鳥足。はたから見れば、なかなか様になってるタップダンスにでも見えるのかもしれない。
色んな人間が、その日一日の憂いや喜びを酒と食事にぶつけて、優雅に踊っているような。ネオンサインが責め立てるように眼球を貫いて網膜を焼き焦がす。
「今日は、ありがとう」
「いやいや。……これから、関西弁やめるのか?」
「んー、どうだろう……もしかしたら、むしろ増えるかも。関西弁の時の方が、素顔ってヤツに近い気がするし」
「そっか。……まぁ、俺の言うことになんか惑わされてたら、一昨日自分が言ったことなんて意味ないから。周りのことは気にせず、俺みたいなクズの僻みも嘲笑って、好きなことしなくちゃいけないんだぜ」
「しなくちゃいけない、ときましたか」
「そらそうよ。持ってないヤツからすれば、宝の持ち腐れってのが一番ムカつくからな」
ここで同じ酒を飲んで同じ料理を食っている人間でも、どれだけの差があって、どれだけの嫉妬を有しているんだろう。
明確な目標は、誇らしい人生を歩める切符となり得る。
それを持たない俺のような者は、持っている津森さんのような者を妬むしかない。
切符の切れ端を持っている者は、明確な目標を見つける努力を行っており、他者を妬んでいる暇などないかのごとく、様々なことに体当たりしている。
「家まで送った方がいいか?」
「ううん、逆の方向だし、別にいいよ」
「気を付けて帰れよ」
「はいはい、じゃあね!」
「ああ、またGW明けに……」
色んな人間が、恨み合ったり羨んだりしながら、今宵もまたタップダンスを踊る。
自分の中の様々な感情に目を向けるたび、その色んな味に目を回しそうになって、タップダンスに愉快で滑稽な乱調が加わる。
テンションの乱高下と、スポットライトのような街灯が自分を酔わせて、また傍から見ればつまらない自己矛盾へと落ちていく。
「…………やめとこ、ヘンなポエム読むのは」
また、どこかの自分をどこかの自分が笑った。
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男は還る場所を探していた。
寂れた裏路地の古めかしい街灯が、彼だけを照らし、見送る。
煙草をふかしながら歩くこの見慣れた通りは、やはりどこを見ても、何もかもがゴミクズの塊にしか見えなかった。
どこもかしこも、嫌な思い出などはないのだが、無差別に何もかもぶち壊してやりたい衝動に駆られている彼にとって、そんな理論で物事を考えることなどは到底できないわけであり。
右手にゴミ、左手にゴミ。それをクソみたいな目で見ている自分は、もっとどうしようもないゲロ以下の底辺のクズの掃き溜めの底の方のクソムシ。
……だが、ゴミ捨て場を漁れば1つは使えるものが見つかるように、そんなクズだらけの視界の中にも、唯一輝きを放つものがあった。
「……久しぶりだな」
男は、死に場所を見つけた。
何十年も前のことなので既に花束も何も供えられていないガードレールに、しかし確かに薄くこびりついている血痕を見つけ、男はそこが目的の地だと確信する。
人が『自殺』を決意したとき、普通はどんなことを考えるのか知らないが、男は、青春時代に親友を交通事故で失った悲しみを思い出した。すでに乗り越えて記憶のかなたに追いやってしまったはずだったが、よく考えれば、あそこらへんから自分はおかしかったのかもしれない。
どうせ死ぬなら、ここで……。
男は持っていたナイフでおもむろに手首を切ると、ガードレールに鮮血を垂らした。
みるみる紅く染まっていくガードレールに、気分がどんどん高くなっていくのを感じ取る。
「ははははははっ……くははははっ…………最ッ低だな……」
しばらく虚ろな目でそうしていると、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。
男はゆらり、とそちらを振り向く。
リムジン。
男は、運のいい勝ち組の人間が嫌いだった。
実力があればそこそこな階級にまでは上がれるが、そこから先へと進むには運が、どうしようもなくツイてるラッキーが必要なのだと、男は思っていた。
自分の不幸な状況を慰めるには、そう思うほかなかったからだ。
彼もまた、仮面を被っていた。
「……夜間の不注意で人を轢き殺したってなれば……大概の人間は失墜するよな」
男は笑った。
久しぶりに、心の底から愉快な気分になった。このまま欝々とした気分で死んでいくのかと思っていたが、死ぬ前にこんなに素直に笑えるなんて、案外自分は幸せな部類なのかもしれないと思った。
この俺の、ゴミ以下の汚い血で、その高い車を濡らしてやる。
「ははっ、ははあああああ…………」
童心に帰ったような気分で、男は、タイミングを見計らって車の前へ飛び出た。