遺書
カ〇ヨムでリメイクしたのをそのままこっちに移植してきてます。
なろう→カク〇ム(稚拙な文章を書き直し)→なろう
という流れでこっちに持ってきてるので、書き直し終わってない部分と書き直した部分の文章力の差がすごいかも。
そんな言い訳を挟みまして失礼しました。
どうぞ、駄作パロネタネトゲ小説『放課後ロルプライズ!』をお楽しみくださいませ。
恥の多い生涯を送って来ました。
異世界の未来だとか神の定義だとかばかりに気を取られていたために自らを振り返ってくることが今までございませんでしたが、いま我が人生の恥かしたる事を思えば、今すぐにでも死して、私の人生に関わって来た人たちに謝罪したい程でございます。
ここまで読んで解る通り、私の愛読書は『人間失格』なのですが、私は葉蔵なんかよりももっと『失格』でした。偉い国語の人はかんかんに怒ってこれを否定しそうですが、私が卑下抜きにしてそう思うのだからそうなのだろうと思います。周りの友人に恵まれ、彼らは幾度となく無償の善意をくれたというのに、私の心が汚いばかりにいつも懐疑的になってしまい、ついぞ『マリヤの円光』なんていうものは見られませんでした。
かわいそぶってるように聞こえるやもしれませんが、そういった、書き物からすら滲み出してくる汚さというものが、私の人間失格たる所以なのかもしれぬと思うのです。
人のことを幸せにする、人を救うなどと思い上がってきましたが、自分の根本にあったその志自体が汚く、自分勝手で、メサイヤ・コンプレックスの塊なのです。そういうことに気付いたのは最近であり、今まで私は無意識に人を傷つけ、人から疎まれていることにも気付かず、ついぞ人から愛想笑いを受けたまま生涯を終えます。
ここからは遺書ではなく謝罪文となります。
私は主人公などではありませんでした。自分の人生の主人公は自分だ、などという名言に感銘を受けた日もございましたが、思えば、その時点で私はもう救えない狂喜のお道化になっていたのやもしれません。実際に主人公かどうかなどというものは、人の人生は戯曲などではないので、役割も振られておりませんし、なんとでも言えますが、しかし私は絶対に主人公などではありません。
思い上がりでした。生死の答えを与えてやって悩みの真っ只中にいる人を救うなどといった大それた目標や指針は背負うべきではありませんでした。この書を家族以外が読むことがあるのかどうかは分かりませんが、もしもに望み、謝罪を。申し訳ございませんでした。
一人の人間を絶望させ、一人の人間を長きに渡って欺き、傷つけ、泣かせました。前者に至っては、生死に関わる重要な悩みまでをも、その持ち前の救済欲でもって救おうとし、無責任に事態を悪化させました。どのような言葉でお詫びしてよいか分かりませんし、死んでも償えるとは思っていないのです。
私は償いのためではなく、逃げるために死ぬのです。
謝罪や償いすらできぬ罪は、もはや償えません。背負って生きていくには重すぎますし、生涯のあいだでいかなる修行とか善行とかを積んでも、返せるものではないでしょう。大量殺人者に死刑を執行しても殺された人間が帰ってこないように、いくら何をしようと、償えぬのです。命の関わる罪には、償いができぬのです。
無責任に死ぬことをお許し下さい。死んで逃げることをお許し下さい。罪を償う言葉は私の愚かな脳にもいくらかはいっていますが、罪から逃げることをあやまる言葉には、まったくおぼえがございません。ですが、せめて謝罪の気持ちだけでも伝わればと思います。
最後の最後まで自分勝手です。ごめんなさい。
私の遺書及び謝罪文は以上です。
この遺書を書いてもすぐには死なないかもしれません。
頭から足の先まで汚い私は、生き意地すら汚いようでございます。首を吊ろうとロープを買ってきたのですが、どうにも、そのロープを触るたびにぞわりと毛が逆立つような、或いは、ひどくまずいものを食べたあとに体を振り回されたような、寒気とうだ苦しい吐き気がいっぺんに押し寄せてくるのです。
ですが、必ず死にます。死に場所や日付には拘りなく、ただ日常の一環のように、朝起きて敷いた布団を畳むように死にます。
ちょっと子供の頃に熟読した本が学びの助けとなっている以外には特に光るような才能がなく、それはどうやら文才にも当てはまるようです。遺書に締めの言葉などが必要なのかは知りませんが、ともかくそれを書かなければ長々と駄文を続けてしまいそうですので、書いておきます。
いつか誰か答えを出してください。この現実世界の主人公は誰ですか?
――平成27年12月25日