第二話〜白き光華と紅き結晶(前編)〜
校舎の一角に位置している第二音楽室。
そこで突然、光が収束した。
光から出てきたのは、一匹の白い猫だった。
猫の体は傷つき、動けない状態だった。
やがて意識が途切れ、その場に倒れこんだ。
アスカはボロボロになった屋上のさらに上の屋根から、空を見上げていた。
そこは一匹の猫が居座るには大きすぎる場所だった。
「何か考え事か?」
突如後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
声の主はハヤテだった。
「・・・空を見ていただけだよ」
「それはどうかな?」
ハヤテはアスカを窺うように目を細めた。
「アスカ、お前は昨日この屋上を離れたとき、何か考え事をしていたな。何か気掛かりになることでもあるんじゃないのか?」
「・・・やれやれ、ハヤテには何でも分かっちゃうね」
「なぁ〜に、単にアスカが分かりやすいだけだって♪」
アスカはハヤテに何もかも見透かされ、最早隠し通せないと思うと、その場で話す決心をした。
「昨日の男・・・」
「あぁ、クードのことか?」
「うん、そのクードのことなんだけど・・・あいつは・・・猫を傍に連れていなかったんだ」
「猫を・・・?そういえばいなかったな。特に別の気配も感じなかったし・・・」
昨日のこの場での出来事を思い出しながらハヤテが言うと、アスカは一呼吸置いてから話を続けた。
「それが疑問なんだ。縣も海斗も気付かなかったみたいだけど、あのときクードは自分の宝石を持っていたんだ。だけど、クードはそれを一つしか持っていなかった。そうなると、もう一つの宝石は遠くに存在していたはずなんだ」
「宝石は・・・確か近くに存在していないと効力が期待できないんだったな・・・」
「うん、その通りだよ。でもよく考えても見て。昨日はたまたま追い返せたけど、効力の薄い宝石であれだけの力を出すことができたんだ。クードがもし次に猫を連れて来たら、今の僕達じゃ対応しきれないよ」
「確かにそうだな・・・俺達はまだ経験もそんなに積んでいないし、完全に宝石のことを知ったわけでもない。そりゃあ心配にもなるか」
「・・・・・」
「・・・そうか。お前は自分のことより縣のことが心配なんだな」
「!」
黙っていたアスカに、ハヤテが追い討ちを掛けるように付け加えた。
「自分のせいで縣を危険な目に合わせている。そして、自分は無知無力だから助けてやることすらできない。アスカはそう思っている。違うか?」
「・・・ホント、ハヤテには参っちゃうよ・・・」
また見透かされた、と思うと、何か敗北感のようなものがこみ上げてきた。
だがアスカは、むしろ気付いてくれたことに感謝した。
もしこのまま気付いてくれていなかったら、一人で悩んでモヤモヤが消えなかったかもしれない。
「あんまり気にしない方がいいって・・・」
「でも・・・」
「確かに俺達は、アスカのせいで厄介事に巻き込まれた。それは紛れもない事実だ。だけどな、縣を傷つけたくないからって一人で逃げたら、たぶん縣自身は悲しむだろうな」
「悲しむ・・・?僕が縣のもとから離れると縣が悲しむの?」
「その通りだ。縣は海斗とは長い付き合いだからな。当然俺だって縣のことはよく知っている。あいつは他人が傷つくことを嫌う傾向がある。それは猫だって・・・いや、他の生き物だって例外じゃない。アスカが縣を傷つけたくないと思っている一方、縣もアスカを傷つけたくないと思っているんだ。縣のそういう気持ちも、少しは理解してやってくれ。あいつと同じ性格をしているお前なら、それが分かるだろ?」
「でも・・・でもやっぱり僕は・・・」
話を聞かせても納得のいかないアスカを見て、ハヤテは「全く、聞き分けの悪い猫だな」とでも言うように肩を下ろし、ため息をついた。
「それにな、縣は既にお前のことを友達も同然だと思ってるぞ。ここでお前が逃げたら、あいつは自分に力が足りないから逃げられたんだと思って、そんな自分を責めるだろうな」
「そ、そんな!縣は何にも悪くない!」
「お前にその気がなくても、縣はそう思うかもしれない。それが縣というやつなんだ。だからこそ、お前はあいつの傍についていなくちゃいけないんだ」
アスカは目を閉じて考えてみた。
自分はよくても相手がよくないのなら、やっぱり相手の真理も頭に入れておくべきだ。
「とにかく、一人でなんでも解決しようなんて思うなよ。今回は俺が相談に乗ってやったけど、お前のパートナーは縣なんだ。あいつはいつだってお前の悩みを聞いてくれる。友達っていうのは助け合うために存在するんだ。もっとあいつを頼ったっていいんだぜ?」
「・・・ハヤテの言うこと、分かる気がするよ。僕は昨日からずっと、縣から離れた方が僕のためにも縣のためにもなると思ってたけど、結局それは違ったんだね」
「ま、そういうことだ。さてと、そろそろ海斗が帰るころだ。俺はもう行くぜ?」
ハヤテは一方的に話を打ち切ると、素早い身のこなしで下の階層へ姿を消してしまった。
(ハヤテ・・・ありがとう)
そうやって心の中で感謝しつつ、アスカも縣のもとへと戻っていった。
「失礼しま〜す」
縣は職員室に着くなり、ドアをノックして中へと入った。
「あら、縣君。いらっしゃ〜い」
「ほたる先生、レポート提出しに来ました〜」
「は〜い、ご苦労様♪」
ほたる先生は満足そうに微笑むと、手渡されたレポートを引き出しにしまいこんだ。
「あ、それじゃあ僕はこのへんで・・・」
縣は特に別の用件もなかったので、レポートを渡したらすぐに退散するつもりだった。
彼は一礼すると背を向けた。
だが―――
「・・・縣君・・・」
何やらほたる先生に呼び止められたのでもう一度振り返った。
そのとき、ほたる先生の表情がいつもより歪んでいることに気が付いた。
「どうしたんですか、先生?」
「屋上の件でもう一度確認しておきたいことがあるのよ・・・。貴方は神夢君とともに教室を抜け出して、一年生のフロアを駆けてそのまま上の階層へ上っていった・・・そうよね?」
「えぇ、そうですけど・・・」
突然何を言い出すかと思えば、先生は一体どういった考えがあってそのような質問をしたのだろうか、という考えが縣の頭の中を過ぎった。
「ふぅん・・・」
ほたる先生は何かが納得いかないというように顔を顰めて、左手を顎につけて何らかの考えを巡らせている。
「そうそう、縣君。一年生のフロアが何階にあるのかは、もちろん知ってるわよね?」
「・・・?間違いなく四階だったはずですけど・・・?」
学校に来れば、一年生である自分は必ずと言っていいほどそのフロアを利用する。
なぜ今更そんなことを聞くのだろうか。
縣には、まだほたる先生の真理がよく分からなかった。
「そうよねぇ。それじゃあ四階の上には何があるか、というのも勿論知ってるわよね?」
「四階の上・・・ですか?誰に聞いても屋上としか答えようがありませんよ?」
「・・・貴方が昨日逃げたときの始点はどこだったかしら?」
「いや・・・ですから一年生のフロアで・・・僕達の教室じゃないですか」
「それっておかしくない?」
「え・・・?」
何か変なことでも言っていただろうか。
縣は考えてみたが、特におかしい部分は思いつかなかった。
ほたる先生はそんな縣の思考を察して、話を続けた。
「・・・貴方は四階から逃げてそのまま上に向かっていったのよ?それなのに、どうすれば屋上以外のところに辿り着けるのかしら?」
「・・・あ」
縣はようやく矛盾点を見つけた。
四階の上が屋上で、かつ四階から逃げて上に向かっていった場合、屋上に付かないなんてありえないことだ。
縣の咄嗟に付いた嘘は、ほたる先生によってことごとく見破られてしまった。
「縣君。先生に本当の事を話してみる気はないかしら?」
「・・・」
いくら嘘が見破られたからといって、それでも簡単に喋ってしまっていいものだろうか。
縣は目を瞑って自分の心に聞いてみた。
不思議な事にも、答えは心から直接届いてきた。
「・・・先生、確かに僕は屋上のことについて知っています。この際そのことは認めます。それでも、やっぱり今は話したくありません。いえ、むしろ話すべきではないのかもしれません。詳しくは言えないんですけど・・・その・・・いろいろ事情があったとしか・・・」
なんて言えばいいのかよくわからず、縣は思わず口ごもってしまった。
「・・・そう、言いたくないのならしょうがないわね」
「あの・・・ほたる先生、僕・・・」
「えぇ、分かっているわ。深く追求する気はないから」
ほたる先生はいつもの満面の笑みを浮かべると、先ほど引き出しにしまった縣のレポートを出して、じっと見始めた。
「・・・いつから気付いてたんですか?」
「あら、これでも中学校のころから担任やってるんだから。かわいい生徒の考えくらい、ちょっと顔見ればすぐに分かるわよ」
ほたる先生は微笑みをさらに深く浮かべると、今度は赤ペンを持って縣のレポートを採点し始めた。
縣は今までのほたる先生の事を思い返してみた。
中学校に通っていたころに担任として関わり、それから三年間変わることなく担任として居座り続け、縣自身が卒業するころに「先生が高校に転勤する」ということを聞かされもうお別れなのかと思ったら、偶然にも同じ高校、同じクラスとなり、以前と変わりなく接し、今の過程に至るわけだ。
思えば、ほたる先生に隠し事を隠し通せないというのは昔からだったかなと、かつての経験を思い出す。
「先生・・・本当にすみません。でも今回の件のことは話せそうにありません」
「そんなに気にしなくていいのよ。でも条件は付けときましょうかね?」
「条件・・・?」
「そう、簡単な事よ。いつかは先生に本当の事を話すこと。先生が縣君に求めるのはそれだけよ?」
「先生・・・」
昔から無理強いの嫌いな先生だったが、それは今も同じことみたいだ。
そして、そんなほたる先生の中には「自らの意思で告げてくるまで待つ」という教訓が存在する。
決して詰問はせず、話したいときに話させる。
大抵の生徒はその微笑みの前に、隠し事をしていることに罪悪感を感じて自白してしまうことが多い。
ときには隠し事だけでなく、悩み事まで相談してしまう生徒も少なくないらしい。
それは当然自分も同じことだったが―――と言っても、隠し事なんて数えられる程度しかしたことがなかったが―――今回の件はさすがに今すぐには話せそうになかった。
「先生・・・必ずいつか話します・・・」
「えぇ、それじゃあ気長に待ってるわ。あ、レポートは返しておくわね」
そう言うとほたる先生は、縣にレポートを手渡した。
そのレポートの表紙には、赤ペンで「S」と書いてあった。
「うふふ、縣君のレポートは相変わらず良く整ってるわねぇ」
「せ・・・先生?」
「ほら、もっとシャキっとしなさい。貴方は人の役に立てる力があるんだから」
話をはぐらかされた気もするが、今はそれが有難かった。
縣は一言「頑張ります」と言って軽く会釈をすると、にっこりと微笑んで職員室を後にした。
「あれ?縣じゃないか」
廊下を出ると、偶然にも海斗と鉢合わせた。
「先輩、こんなところでどうしたんですか?」
「あぁ・・・ちょっとフルーツナイフを借りに調理室へ行くところだったんだ」
「海斗のやつ、いつものナイフを家に忘れてきたんだぞ!」
バッグの中から顔を出したハヤテが、怒りの表情で海斗を睨み付けた。
「しょうがないだろ。昨日のことが頭から離れなくて、ナイフのことなんかすっかり忘れてたっつ〜の」
海斗も同じようにハヤテを睨み付けた。
「海斗のば〜か!皮剥かないと俺がリンゴ食べられないの知ってるくせに!」
「へいへい、借りれば一瞬で済むことだろうが」
海斗は軽く頭を毟った。
睨み合いはまだ終わらない。
下手すると、このまま一生やっていそうな雰囲気だ。
「あ、そういえば先輩。アスカ知りません?」
縣は微妙な空気を戻そうと強引に話を変えた。
「アスカならさっきまで俺と屋上で話してたからな。そろそろ戻ってくるころなんじゃないかな?」
分からない海斗の代わりに、ハヤテが答えた。
「お〜い、縣〜っ」
「・・・噂をすればやってくるもんだな」
見ると、足元にはいつの間にかアスカが居座っていた。
「アスカ、おかえり〜」
「へへ、ただいま〜」
自宅に帰ってきたわけでもないのに、異様なほどに平凡な会話だ。
アスカは嬉しそうに縣に飛びつくと、バッグの中に身を潜めた。
「さて、と。俺達は調理室に行ってくるぜ」
「先輩、いってらっしゃ〜い。あれ?でもナイフって借りられるものなんですか?」
「本来は借りられないけど、瑞奈にでも頼めばちょっとぐらいは大丈夫だろ」
瑞奈というのは海斗の幼馴染で、製菓部に所属している二年生の先輩だ。
本名は桔梗瑞奈。
部活がない日でも調理室にいて、そこで放課後に甘い香りが漂ってくるのは、瑞奈が料理をしているからだ。
縣が小さいころに一緒に遊んでもらっていたことは薄っすらとしか覚えていないが、それでもお世話になったということはよく覚えている。
「そういえば縣こそこんなところで何してたんだ?」
「あ、僕はちょっとレポートの提出をしに来て、ちょうど職員室から出てきたところです。それで・・・」
「それで?」
「あ、いえ。なんでもありません」
ほたる先生に、屋上のことについて勘付かれたことは念のため黙っておくことにした。
関係のない他人に事を知られたことを海斗に教えたが最後、何を言われるか分かったものじゃない。
縣は吐きかけた言葉を飲み込んで、苦笑いをしてみせた。
「ふ〜ん。まぁいいや。ハヤテ、さっさとリンゴを求める旅に行くぞ〜」
「旅って・・・ここからだと一分もしないうちに辿り着いちゃうんだけど・・・」
海斗は「俺は放浪者〜♪」と謎の歌を口ずさみながら、ナイフの待つ調理室というゴール地点へと向かっていった。
「さて、僕は・・・って、今日もいつも通り部活があるんだった」
「縣、それなら早く行こうよ〜」
「うん、そうだね。って、あれ?」
「どうしたの、縣?」
縣はバッグを持っている右手と、すっからかんの左手を交互に見た。
「・・・あはは。弓道の用具、教室に忘れてきちゃった♪」
「そ、それじゃあ四階に逆戻り?」
「そういうことになっちゃうね〜」
縣が「ごめんごめん」と言っている傍らでアスカは呆れていたが、それでもお互いに笑い合うと職員室の横に位置している階段を伝って四階へ行こうとした。
だが三階に足を踏み入れたとき―――
「真っ白な楽譜に〜♪綴られた想いを風にのせて〜♪」
どこからかピアノの音と、誰かの歌声が聞こえてきた。
「優しい歌だなぁ。誰が歌ってるんだろう・・・?」
その歌はあまりにも美しく透き通った声で歌われていて、聴くものに圧倒感すら与えてしまうような歌だった。
「何と言うか・・・心地よい感じがするよ」
アスカも同じように心の底から安らぎを感じて、思わず聴き入ってしまう。
「ちょっと寄ってみない?」
「僕も今そう思ってたところ♪」
一人と一匹は少しの寄り道をしに、歌の聴こえてくる方向―――三階奥の第二音楽室だった―――へ向かうことにした。
「あの日に君と見た〜♪紫苑の花の咲く場所を探して〜♪」
莉翠は第二音楽室でピアノを弾き、歌姫と称されているだけのことあって、そう呼ぶのに相応しい声を発していて、やがてその歌を止めた。
ピアノから手を離し一息つくと、音楽室全体を見渡した。
壁にはベートーベンを始めとした歴代の有名な音楽家達の肖像画が張られ、窓際には多数の打楽器が置かれていた。
黒板には誰かがイタズラしたのか「音楽」という文字と、その隣にもう一つ「昔薬」という謎の単語が書かれていた。
おそらく「音楽」と似た漢字を適当に並べて書いたのだろう。
莉翠はもう一度ピアノに手を伸ばし、ドレミファソラシドの音を交互に出した。
(いつもここに来ちゃうな・・・)
音楽室には莉翠以外には誰一人いなく、辺りは静まり返っていた。
今日は合唱部の活動は休みで、莉翠自身も本来ならとっくに家に着いているはずだったのだろう。
だがどういうわけか、莉翠はいつもの癖でここに足を伸ばし、お気に入りの「七夜の旋律」という自作の歌を歌っていたのだった。
(やっぱり、私はここに愛着があるのかな?)
莉翠は一週間前の同じ時間のことを思い出した。
その日も部活がないのにも関わらず、結局ここに来てしまったのだった。
莉翠はさっきまで弾いていたオルガンをパタッと閉じて、傍らに置いてあった自分のバッグを両手に持って立ち上がった。
オルガンに背を向けて帰ろうとすると
―――助けて
突如、小さな声が聞こえてきた。
今、ここには自分以外に誰もいないはずだ。
だが確かに、誰かの声が聞こえたのだ。
―――助けて
幻聴のような声は、再び莉翠の耳に届いてきた。
莉翠は何かざわめきを感じると、辺りに目を見張った。
何かがおかしい。
そう感じ取った莉翠は、隅から隅まで室内を調べ尽くした。
「―――っ!」
するとベランダの近くのドアの隅っこに、傷だらけの白い猫が倒れていた。
「ね、猫さん!どうしたの!」
しゃがみこんで猫を抱きかかえて、様態を詳しく確認してみる。
その猫は酷く衰弱していて、さらに気を失っているようだ。
莉翠は慌てふためいて、どうしたらいいのか必死で考えた。
(そ、そうだ!誰かに見てもらわなくちゃ!)
まだ息は微かにしている。
急げばまだ助かるかもしれない。
誰か猫に詳しい人に診てもらおうと考えたとき、パッと保健室という場所が思い浮かんだ。
そう思った莉翠は猫を抱きかかえたままその場から立ち上がり、すぐさま教室を出ようとした。
だが出入り口のすぐそばまで来たとき、突然背後から人の気配を感じた。
ふとオルガンの上に目をやると、黒い霧のようなものが渦巻き、やがてそれは一人の男性の形へと姿を変えた。
「見つけたぞ!我らが求めし猫を・・・!」
白銀に輝く髪の毛は、莉翠のものよりも若干暗い。
青い胸当てを身に付け、足にはピシッとした茶色のブーツを履いている。
「む?この世界の人間か・・・?その猫の姿を見てしまったか・・・」
男は独り言のようにそう呟くと、顎に手を当てて何かを考え始めた。
「あ・・・貴方は誰ですか!一体、この猫に何をしたんですか!」
「あ〜?俺は別に何もしてねぇぞ?その猫は使いこなせもしない力を使ってこの世界に逃げ延びやがったんだ。ま、いわゆる自滅ってやつだ」
「自滅って・・・そこまで追い詰めたのはあなたじゃないですか!猫の命を何だと思ってるんですか!」
力、と聞いても何のことかよく分からなかったが、今はそんなことを考えている余裕はなかった。
莉翠は怒りに満ちた表情を浮かべて男を睨み付けたが、肝心の男の方はまた別のことを考えているようだった。
「お前・・・クードから聞いた男と似たようなこと言うんだな。さてはお前が縣とやら・・・なわけないか。縣は男だって聞いたし・・・」
最後の方は聞き取れないほど小さな声で呟いて、やがて不敵な笑みを浮かべた。
「ま、とにかくだ。俺はその猫に用があるんだ。さっさとそいつを渡して欲しいのだが・・・?」
「嫌です!どうせまたツバキに酷いことをするつもりなんでしょ!」
「ツ・・・ツバキ・・・?なんだそれ?知り合いの名前か?」
「今、私がこの猫につけたんです!とにかく、貴方みたいに命の大切さが分かっていないような人にツバキを渡すつもりはありません!」
そんなことを言っている莉翠に対して、男は頭を掻いてクードの話を思い浮かべた。
縣という男もこんな状況なのにも関わらず、呑気に猫に名前をつけていたとか、いないとか・・・。
(こっちの人間はみんなこんなやつなのか?)
男は違った意味でため息をつくと、前に手をかざして空間の歪のようなものを生んだ。
そこから取り出したのは、紛れもなく一本の剣だった。
不気味なほどにまで鋭く輝くそれは、どこから見ても本物のそれだった。
「え〜と・・・渡してくれない場合は手荒なマネをすることになっちまうんだけどなぁ・・・」
男は気が進まないような顔をしてはいるが、僅かながらに殺気は存在している。
きっと本気で殺すつもりなのだろう。
だが莉翠はそれでも、決してツバキを離したりはしなかった。
今、莉翠は出入り口を背後につけて背中を預けている。
このまま逃げることもできるかもしれないが、この男はツバキを捕らえるまで追いかけてくるだろう。
そうなると今度は校内を逃げ回ることになり、下手すると他の学生や先生にも被害が出るかもしれない。
そう思うと、ここから逃げる気にはなれなかった。
「ツバキは・・・誰にも渡しません!」
「はぁ・・・結局手をかけないといけないわけか。女を殺すのは趣味じゃないんだが・・・目的のためにはしょうがねぇか・・・」
そう言うと男は、自らの回りに紫色の魔方陣を描くと、精神をどこかに集中させた。
「―――黄泉の門よ、堕落せし雷の回廊を我が力とせん!」
魔方陣からは、電撃が暴走するように踊っている。
莉翠は恐怖のあまりその場に座り込み、全く動けなくなった。
唯一できることと言ったら、ツバキを強く抱きしめることだけだった。
「恨むんなら、自分自身を恨むんだな」
詠唱を済ませ、いつでも術を打てる状態になった男は最後に一言吐き捨てた。
「十字を描け!ホルスト・ラクシード!」
莉翠の頭上に紫色の光が現れた。
それが自身に落ちてくるという直前、どういうわけか教室のドアが突然開き始めた。
入ってきた者は自分と同い年ぐらいの少年だった気がするが、状況が状況なだけに全く視界に入らず、詳しくは確認ができなかった。
少年らしき人間は、入ってくるなり驚きの表情を浮かべた。
莉翠は何が何だか分からなくなって、もう何も見たくないと言うように思いっきり目を瞑った。
その瞬間、何かが自分を抱きかかえて、自分を襲ってきた男の背後に跳躍した気がする。
感覚だけで判断したのだが、やがてそれが現実で起こっていたことに気付く。
「莉翠ちゃん、大丈夫?」
その声には聞き覚えがあった。
それもほとんど毎日聞いていて、耳に慣れてしまった声だ。
声の主を確かめると、それはクラスメートの縣だった。
縣は心配そうに顔を覗き込んで、特に外傷がないことを確認するとホッと息をついた。
「あ・・・縣君。どうしてここに・・・?」
「え〜と・・・何でだっけなぁ・・・。あ、そうだ、素敵度最大級の歌が聞こえた後、体が自然とこっちの方に来たんだった」
「す・・・素敵度最大級って・・・そ、それよりも縣君!早く逃げないと!あの男が術まがいの力を使ってきて・・・」
莉翠はそう言って、先ほどまで自分の立っていた場所を指差した。
そこは雷撃によって、莉翠の立ち位置だったところを中心に十字型に破壊されていた。
「う〜ん、どうやらそうみたいだねぇ。でも逃げる気はないんだ。むしろこれは僕の役目みたいなものだから・・・」
縣は制服の中からカッターナイフを取り出して、男に向かって身構えた。
「なんだ、お前?そんなナイフで俺に対抗できるとでも思ってるのか?」
「何言ってるんですか?思ってるわけないでしょ?」
縣が軽く笑みを浮かべるとカッターナイフは紫色の光に包まれ、やがて形状を変えて、以前クードに対して使ったトゥルーシアソードに変化した。
「お前、その剣・・・そうか。お前がクードの言っていた縣ってやつか!」
「何だって?クードを知っているのか!」
クードという名前が出てきた瞬間、縣はこの男がクードのどこまでを知っているのか気になった。
「・・・ということはそのバッグから頭のはみ出している猫がアスカとかいうやつだな!」
「まぁそういうことになるね〜」
首にアメジストを下げているアスカが反応すると、縣の左肩によじ登ってきた。
「縣〜、どうやらその男は後ろの莉翠っていう子の抱えている猫を傷つけたみたいだね〜」
「うん、しかも莉翠ちゃん本人にも危害を加えようとしてたね。ここはできるだけ早く対処して、なるべく長期戦は避けたいところだけど・・・それが僕にできるかどうか・・・」
少し自信なさげに言ってはみせたが、かといって引くことができるはずもない。
こないだクードを追い返せたのは海斗と二人がかりで、挟み撃ちの状態で不意を付いたからであり、しかもクードがこちらのことを甘く見すぎていたからである。
だが今回は、相手の男が既にこちらの能力について事前に知っているようだし、戦える者が自分一人しかいない。
今回も確実に仕留められるかと聞かれたら、自信を持ってそれができるとは言えない。
「あ、あの・・・縣君、これは一体・・・」
「莉翠ちゃんは下がってて。すぐに終わらせるから」
縣は莉翠を背中に庇うようにして、男と莉翠の間に割り込むような位置に立った。
困惑している莉翠を安心させるために、大丈夫だと笑って見せたが、さすがに分が悪すぎる。
だがそれでも怯むようなことはなく、男の動作の一つ一つまでジッと見据えた。
「女の子に刃物を向けるような最低なことをするやつは、この僕が仕留めてやる!」
「ふん、お前の方こそ、俺にとってはクードの仇だ!てめぇはここで刀の錆にしてくれる!」
仇、と言われて縣は背筋がゾッとした。
クードを斬りつけて他人に恨まれるなど考えもしなかった。
「おっと、仇と言っても、別に死んだわけではないんだがな。だがそれでも、俺はお前を許す気はないぜ?覚悟しやがれ!」
クードが人間である以上、少なからず彼を支えている人間も存在しているということを、今更ながらに思い知った。
現に、今自分の目の前にいる男はクードのことを随分と気にかけているようだ。
(でも・・・僕にだって譲れないものがある・・・!)
だからと言ってクードの行いを許してしまっていたら、アスカはやつに捕らわれて、今頃何をされているのか分かったものじゃない。
第一、相手の方が正しかったと言ってしまうと、逆に自分が悪かったというみたいになってしまう。
そのこともあって、どうしても自身の行動を否定することはできなかった。
縣は男に接近しようとしたが、どうにも足を動かす気にはなれなかった。
「へっ!来ねぇのかよ!それなら・・・こっちから行かせてもらうぜ!」
男はそう言うと凄い勢いで接近し、剣を横薙ぎに振りつけた。
縣は重い力を受け、なんとかその場に踏みとどまったが、その一撃によって圧倒的な力の差を感じた。
(なんだ、この威力は・・・!力量が違いすぎる・・・!)
縣は強張った表情を浮かべ、自分の無力さを呪いたくなった。
だが、力がないことを理由に降参する気はない。
今ここで自分が引き下がったら莉翠がどうなるか分からないし、他の人にも危害が加わることもありえなくはない。
それに、非力な分は作戦でカバーするのが自分の性にも合っているだろう。
真正面から攻撃を受けていたのでは、いつまで持つか分かったもんじゃない。
隙を見つけて、そこを突く。
仮にも隙が見つからないのなら、こちらで作ってやればいい。
戦闘とは互いの駆け引きが勝敗を生む。
何も、力が全てというわけではないのだ。
「これでも受けろ!断光閃!」
縣は後ろにステップを踏むと、剣を大きく振りかぶり思いっきり振り下ろした。
間合いを取ったのにも関わらず剣圧によってリーチが広がり、男の身体にもしっかりと届いた。
男はそれを軽々と防御して余裕の表情を見せたが、縣の攻撃はまだ終わらない。
今度は下から上に振り上げそのまま宙に浮き上がり、素早く一回転して男の背後に移動した。
男を背後にすると、振り向きざまに光を纏った剣でもう一撃加えた。
だが男はそれすらも当然のように受け止め、縣以上の力を出して強引に押し返した。
「失せな!襲雷撃!」
「何・・・っ!」
押し返されて怯んでいる縣を、男は剣から出した雷撃によって追尾した。
何とかその一撃は抑えたものの、雷撃はさらに広がり縣を襲う。
その雷撃に苦戦している間に、男はいつの間にか背後に回っていた。
さっき自分が使った戦法をそっくりそのまま返されただけだったが、その動きは先ほどの自分のものよりも格段に速い。
「電光の連撃!襲雷月華!」
男は剣を突き出すと、そのまま上に斬り上げた。
縣は防御の動作が間に合わず、剣の斬りつけは避けたものの、三日月を描くような雷の軌跡はそのまま直撃してしまった。
「ぐ・・・っ!」
「縣!大丈夫!?」
多量の雷撃のせいで体がまともに動かない縣を見て、アスカは焦りに焦った。
「ふん!力を封じられていたとはいえ、あのクードを苦しめたからどんなやつかと思ったら・・・所詮この程度か」
「・・・封じられて・・・いた・・・?」
クードの力が封じられていたなんて初耳だ。
あれだけの圧倒感があったというのに、それでも本気ではなかったと言うのだろうか。
「おっと、クードのことが気になるみたいだな。だが、お前には何も話す気はないんでな」
男はニヤリと口元で笑ってそう言ったが、縣にはよく聞き取れなく、表情もよく読めなかった。
正直言うと、今にも意識が遠のきそうなほどボロボロの状態だ。
だがそれでも致命傷にならなかったのは、アスカが縣の体に薄い防御壁を張ったからである。
とはいえ、宝石の力を上手く扱えない猫の張った防御壁では、ダメージを微妙に修正することぐらいしかできなかった。
「く・・・くそ・・・」
もはや喋ることも精一杯だった。
縣は剣を床に付き立てて、自らの体を支えることしかできなかった。
「全く・・・アメジストもなんでお前みたいなやつなんか選んだんだか・・・ま、そんなことはどうでもいいか。お前・・・俺と一緒に来やがれ!本当は殺してやりたいところだが、テメェを見つけたら捕らえてくるよう、クードに言われているんでな。それが終わったら・・・そこの女!次はお前の猫を渡してもらうから覚悟しやがれ!」
「!」
男はチラっと莉翠の方に目をやった。
莉翠は男に対しての恐怖を隠して、声の限界など分からないというように叫びだした。
「貴方は・・・生き物を傷つけて何も感じないんですか!ツバキや縣君を傷つけて・・・一体、何が目的なんですか!」
「はぁ・・・聞き覚えの悪いやつだな・・・最初にも言っただろう?俺はその猫に用があるんだ。本当はそのガキとそいつの猫も必要だったんだが、それは後日改めてということにしようとしてたんだ。だがどういうわけか、そいつが自分から寄ってきやがったからな。手間が省けるから、まとめて用を済ませようと思ったわけだ。大体、そのガキも災難だよなぁ。猫と契約したせいでこんな騒動に巻き込まれちまって。なぁ?お前もそう思うだろ?」
そう言って今度はアスカに視線を向けた。
「ぼ・・・ 僕は・・・」
アスカは言葉が見つからなかった。
正直言うとこんな騒動に縣が巻き込まれているのは、少なからず自分が関係しているはずだ。
(ハヤテ・・・やっぱり、僕と縣は出会うべきじゃなかったんだよ・・・)
屋上で言われたことを思い返してみたが、今更ながらに後悔が積もってきた。
クードとの戦いの後、すぐにでも離れるべきだったのではないか、と。
いや、そもそも契約自体をするべきではなかったのかもしれない。
「どうやら、何も言えないようだな。パートナーはもっと考えて選ぶもんだぜ?ははははは・・・何!」
余裕そうに笑っていた男だったが、突然背後に剣がかすってきて振り返った。
見てみると、フラフラな状態の縣がこちらに剣を向けている。
「なんだ〜?まだやるってのか?こいつはお笑いものだな!もっと痛めつけないとわかんねぇようだな!」
「あ・・・縣・・・」
「アスカ、何そんな悲しそうな顔してるの?大丈夫だって。僕は・・・アスカと出会ったことを後悔なんてしてないし、むしろ良かったって思ってるんだ」
「で、でも僕は・・・縣を騒動に巻き込んだんだよ?それなのに・・・何が良かったっていうのさ!」
「巻き込んでることなんて気にしないの。僕はアスカと友達になれてよかったよ。よかったことなんてそれだけあれば十分でしょ?」
「縣・・・」
本当は息をするのも苦しいはずなのに、その表情は無理に笑っているようにみえた。
縣の言ったことはおそらく全て本当のことだ。
自分と出会って、本当に良かったと思っているはずだ。
それが縣という男だし、それは出会ってから一日しか経っていなくたって十分に分かる。
「それにさ、僕はその男が許せないんだ。猫だって、人間だって、軽々しく傷つけていいものじゃないよ。だったら、僕はそいつを止めてみせる。いや、止めたいんだ。そのためには・・・アスカという存在が必要なんだ。一緒に戦おう!戦って、全てを守り通そう!」
縣の言葉に、アスカは何かを痛感した。
縣は自分を必要としている。
だったら、その気持ちに答えるために自分にできることはなんだろうか。
「大切なのは迷惑かどうかっていう以前に、アスカ自身の気持ちなんだ。僕はこんな無駄な争いに終止符を打ちたい!アスカはどう思ってるの?このままでいいと思ってるの?」
縣の心からの訴えが、アスカの心を揺さぶった。
自分にできること―――それがどんなことかは明白だった。
宝石の力を縣に宿し、そして自らも一緒に戦う。
縣の気持ちに答えるには、それだけで十分だった。
「・・・なんだ。最初から答えは出ていたんじゃないか・・・縣!僕も一緒に戦う!その男を許せないのは、僕だって同じだよ!」
アスカは分かりきっていた答えに悩んでいた自分を捨てると、決意の目で縣と向き合った。
「負けるための打ち合わせは済んだのか?」
さっきから暇そうに事の成り行きを見ていた男が、早く終わらせてくれとでも言いたげにしている。
話の途中で斬りこんでこなかったのは、おそらくいつでも攻撃できるという余裕の現われなのだろう。
「そんな打ち合わせはした覚えがないね!僕達が手に入れるのは、勝利だけだ!」
「僕達はお前に勝ってみせる!」
「全く・・・往生際の悪いやつらだ。何度やっても結果は見えてるぜ!」
二人はほぼ同時に間合いを詰め、剣と剣のぶつけ合いを始めた。
明らかに優勢なのは男の方だったが、縣はしつこく食い込んでひたすら斬りかかった。
アメジストの宝石は先ほどよりも光を強めている。
縣とアスカとアメジストの心が上手く同調している証拠だろう。
「ちぃ!まだ力が残ってやがったか!だが・・・今すぐ決着を付けてやる!」
しかしいくら上手く同調していると言っても、まだまだ経験不足だった。
どうしても、男に一撃を加えることができない。
(縣君・・・)
そんな中一人座り込んでいる莉翠は、自分だけが世界から切り離されているような孤独感を感じていた。
(縣君は私やツバキを守るために戦ってくれているのに、私には何もできないの・・・?)
莉翠はツバキを強く抱きしめて、自分自身に何かを祈念した。
(私も・・・守るための力が欲しい・・・!)
その時、ツバキが淡く白い光に包まれた。
今更気付いたのだが、ツバキの頭には三日月形のヘアピンのようなものが付いていた。
そして、光源はまさしくそのヘアピンだった。
その光はツバキの全身を包み込むと、莉翠の方にも移ってきて、不思議な感覚にとらわれた。
「お〜い瑞奈、ちょっとワケありで来てやったぜ〜。いるか〜?」
調理室に辿り着いた海斗は、ドアを開けるなりドカドカと中に入っていった。
その瞬間、目の前から凄い速度でナイフが飛んできた。
海斗は首を微妙に傾けて逸らせると、またか、と小さな声で呟いた。
そのナイフは海斗の真横を通り過ぎて、壁に突き刺さった。
「わ、わ!海斗!ご、ごめんね!」
どうやらナイフを飛ばしてきたのは、窓際の調理台で料理中の瑞奈だったようだ。
エプロン姿の瑞奈が、慌てて海斗のところに駆けつける。
後ろで一つに纏めている金髪の髪の毛が、走った拍子に浮き始めた。
海斗は壁に刺さったまま静止しているナイフを抜き取ると、呆れたようにため息をついた。
「全く・・・いつ来てもナイフが飛んでくるな・・・」
「ほ、ホントにごめんね!大丈夫だった?」
「俺はもうとっくの昔に慣れてるから平気だ。でも最近軌道がかなり正確になってきたな・・・俺以外のやつが入ってきたときに間違えて当てたりするんじゃねぇぞ?」
「な、なんかつい癖で・・・ドアが開いたら投げたくなっちゃうの」
「癖で殺されてたまるか!」
海斗は適切な突っ込みを入れた後、ここに来た当初の目的を思い出すと、ナイフを見て言った。
「そうそう、このナイフ借りてくけど別にいいよな?」
「私は構わないけど・・・いつものナイフはどうしたの?」
「瑞奈ぁ!海斗が酷いんだぞ!リンゴ剥き専用のあのナイフ、家に忘れてきちゃったんだぞ!」
海斗が答えようとしたところにハヤテが乱入してきた。
どうやら、まだナイフを忘れたことを根に持っているらしい。
「へぇ〜、必需品当然のように持っていたあのナイフを・・・海斗でもそういうことあるんだ」
「俺だってたまには忘れることもあるっての・・・」
海斗は微妙に不機嫌な表情を作り、ナイフを逆手に持った。
「あれ、海斗どうしたの?そんな持ち方しちゃって・・・」
自分でも知らないうちに逆手になっていることに気付き、慌てていつもの持ち方に戻した。
海斗はどうにも言い訳が浮かばないので「ははは・・・」と笑って適当に誤魔化した。
瑞奈は不思議に思ったが少し聞いてみただけだったので、特に深く探るつもりはなかった。
「あ、そういえば海斗。ちょうどポテトサラダ作り終わったところなの。よかったら食べていかない?」
そう言って差し出したのは、いかにも出来立てだ、とでも言うようにホカホカに湯気だったポテトサラダだった。
だが海斗は胃袋も小さめで小食派の人間だった。
二時間前に食べた昼食も、海斗に言わせてみれば五分前に食べたのも同然だった。
「あ〜?なんで俺が・・・というかポテトサラダは縣の好物だろうが」
「ふふ、縣君にとっては昔からの好物だったわね。たしか・・・あれは私達が小学三年生のころで縣君は二年生だったかしら?そのころに私が作ったポテトサラダをつまみ食いして、それが気に入っちゃったのよね」
瑞奈はさっきまで使っていたお玉を洗いながら、嬉しそうに昔を語っていた。
「・・・あいつ、つまみ食いなんかやってたか?」
だが海斗の方はそんなことはとっくに忘れていた。
「子供のころの話なんだから、不自然ではないでしょ?小さい子は好奇心旺盛だからすぐに手を出したがるじゃない」
「あいつの場合、今でもそうだから俺が困ってるんだよ・・・」
「いつも厄介事に巻き込まれてるもんね、海斗は」
瑞奈は他人事のように平然と笑い始めた。
海斗は「人の苦労も知らないで・・・」というような表情を浮かべてため息をつくと、適当に準備室へと続くドアの近くに位置する椅子に座るなり制服のポケットからリンゴを出してナイフで剥き始めた。
するとそのリンゴの匂いで反応したのか、ハヤテが制服の別のポケットから顔を出してニヤリとした。
「なぁなぁ瑞奈、そのポテトサラダ俺が食べてもいいのか〜?」
「海斗は食べてくれないみたいだし、別に構わないわよ」
「わ〜い♪」
ハヤテはポテトサラダに寄ると、器用なことにも尻尾でスプーンを使って食べ始めた。
「ん〜♪美味しいな〜♪・・・あれ?瑞奈、どうかしたのか?」
ハヤテは瑞奈の表情が悲しげになっていることに気付いた。
「え、な、何?別にどうもしないけど?」
そうは言っているが、その後再び暗い表情へと逆戻りした。
(あ、そっか。瑞奈は海斗に食べてもらいたかったのか)
ハヤテはいったん食べることをやめると、椅子に座ってリンゴの皮を剥いている海斗に視線を向けた。
海斗は瑞奈の気持ちには気付いていないのだろう。
おそらく、幼馴染の女の子程度の感覚でしか見てはいない。
(つくづく鈍感な主人を持ったものだな・・・)
昔からずっと一緒にいたのに全く気付かないとは、いや、昔からいたからこそ既に瑞奈の全てを知っていると思い込んで、結局気付かないのだろう。
「ほれ、ハヤテ。リンゴ剥けたぞ。お、そうだ瑞奈。このリンゴ適当にすり潰してくれ。たまには調理して食わせてやれねぇと」
「すり潰すのは調理っていうのかなぁ・・・まぁいいわ。ちょっと準備室に道具取りに行ってくるから待ってて」
そう言って隣の調理準備室に駆け出した。
(あ、このパターンは・・・)
海斗は何かを思い出すとリンゴを剥く手を止めた。
「きゃっ!」
その瞬間、瑞奈が足を滑らせて前のめりに倒れかけた。
だが準備室前の椅子に座っていた海斗が瞬間的に反応して、倒れる寸前に抱きとめた。
瑞奈は調理室内では少しでも駆け出すとこけることがある。
海斗はそれを知っていたので、即座に対応できた。
「瑞奈、大丈夫か?」
「ごごご、ごめんね!だだだ、大丈夫だから!」
瑞奈は自分が海斗の胸の中に納まっていることに気付くと、さっと突き放した。
「どうしたんだ?顔赤いぞ?もしかして熱でもあるんじゃないか?」
海斗は自分の手を瑞奈のおでこにくっつけて、体温のチェックをした。
瑞奈はその瞬間、全身の熱が顔に集まって、その熱がボッと吹き出た。
「べべ!別に熱なんてないから!そ!それより調理器具取りに行かなくちゃ!」
「瑞奈・・・なんか変だぞ?まぁいいや。器具は俺が取りに行くからお前はそこで休んどけよ」
海斗はそそくさと準備室に入っていった。
後ろで瑞奈が「私が行くから別にいいって!」と言っていたような気がしたが、適当に無視した。
(なんであんなに動揺してるのに気付かないんだろう・・・)
ハヤテは海斗が相当の鈍感者だということを感じつつ、海斗と一緒に準備室に入っていった。
「海斗〜、待ってよ〜」
後から追ってきたハヤテを横目で見つつ、海斗は必要な器具を手に取った。
「全く、あいつがこけたのは今日で何回目だ?瑞奈の天然はいつになっても直んねぇな・・・」
「海斗も十分天然だって・・・」
「ん?なんか言ったか?」
ハヤテは海斗に聞こえないように小さな声で呟くと「なんでもない」と言って、近くに置いてあったボウルで遊び始めた。
「・・・あれ?」
棚に伸ばしていた海斗の手が、急に止まった。
(そういえば・・・さっき瑞奈とハヤテが普通に会話してたよなぁ・・・しかもあいつ何も不思議に思ってなかったし・・・)
一瞬これはまずいと思ったが、今更そんなことを思ってもしょうがないということが分かると、そんな考えはさっさと頭の中から消し飛ばしてしまった。
(ま、瑞奈の天然は限界を知らないからな。どうせ何日経っても猫が喋るなんて当然のように接するだろうな)
海斗は珍しくクスクスと笑いながら、棚から必要な器具を取った。
「どうしたの、海斗?」
「いや、なんでもない。瑞奈はいつまで経っても天然だな、と思ってな」
「それはさっき言ってたよ・・・」
とうとう海斗の頭も寿命か、と呆れながら、ハヤテはさっきまでいじっていたボウルを元の位置に戻した。
海斗は器具を全て取ると、ハヤテを肩に乗せて瑞奈の待つ調理室へと戻ろうとした。
「はぁ・・・海斗の鈍感王・・・乙女心知らず・・・無知男・・・」
調理室に一人取り残された瑞奈は、海斗への愚痴と不満をボソリと吐き出しながらため息をついていた。
「にゃ〜」
「あ、リリスにレイラ・・・」
瑞奈のバッグから出てきて近くまで寄ってきたのは、白猫のリリスとレイラだった。
二匹は双子の姉妹で、海斗と共に下校していた小学校三年生のある日、道端のダンボールに捨てられていたところを偶然見つけ、可哀想だと思った瑞奈が強引に持ち帰り、それ以来大切に飼っている猫たちだった。
最初は瑞奈の両親が飼うことを禁止したのだが、瑞奈がどうしても引き下がらず、結局飼うことを許可されたのだった。
二匹を見てそんなことを思い出していると、気分が楽になった。
(確かあのときの海斗は「瑞奈のためなら、俺も一緒に説得してやる!」とか自分から言ってくれて、私のわがままに付き合ってくれたのよね)
瑞奈は準備室の方に目をやって、中にいるであろう海斗の顔を思い浮かべた。
(あのときの優しさが表に直接出てこなくなったのは、いつごろからだったかしら・・・)
いつだって自分を真っ直ぐに、優しく見守ってくれて見ていた海斗が、今では冷たい表情ばかり見せるようになってしまった。
それがいつからだったのかは、今となっては全く思い出すことができない。
(でも・・・それはただ単に自分で気持ちを押し留めているだけのことよ。表から見たら冷たくても、心の奥底からは優しさを感じられるもの・・・さっきだって、私のことを抱きとめて助けてくれたんだから)
どんなに外見上の表情が以前より硬く険しくなっていても、内面的な優しさはまだ残っている。
(海斗・・・私はあのときの海斗をもう一度見てみたいよ・・・)
瑞奈は後ろで一つに結んでいる自分の髪の毛を掴んで目の前に持ってくると、ジッと見つめた。
「ねぇリリス、レイラ、覚えてる?海斗は昔、私の髪をこういう状態に結んで・・・」
言いかけた言葉を飲み込んで、心の中でのみ呟いた。
(お前はこっちの方が断然似合ってるぞ、って・・・言ってくれたのにな・・・)
頭に浮かんできたのは、やはりかつての海斗の方だった。
(今の私がここにいるのは、誰のおかげだと思ってるのよ・・・)
実は瑞奈には、一時期孤独で自暴自棄なときがあった。
頼れるものは誰もいなく、何もかも信じられなくなり現実逃避しかけたこともあった。
そんな不安定な状態の瑞奈に声を掛けてきたのが、あの海斗だった。
まだ普通のロングヘアーだった瑞奈の髪を器用にゴムで結ぶと、海斗は確かにその時「似合ってるぞ」と言ったのだった。
それからも海斗はちょくちょく瑞奈に接し始め、瑞奈もまた海斗と接していくうちに自我を取り戻していった。
瑞奈が再び現実に引き戻されたのは、海斗の存在に支えられていたからと言っても過言ではない。
おそらく海斗に惹かれているのも、そんな経緯があったからであろう。
少なくとも、瑞奈自身はそれを自覚はしている。
どうしても昔の印象を忘れることができず、未だに海斗と関わりあってしまう。
自分を見てくれていた、唯一の人物だったのだから無理もないだろう。
だからこそ、瑞奈は海斗に強く執着しているのだ。
「・・・海斗は私のことどう思ってるんだろうね」
瑞奈はリリスとレイラに聞いてはみたが、答えが返ってくるはずもなかった。
「はぁ・・・」
瑞奈は懲りずに再びため息をついた。
その時―――
ドォォォォォン!!!
突然、爆発音のようなものが聞こえてきた。
それはすぐ近くから―――隣の調理準備室から聞こえてきた。
重なっていたボウルを倒してしまった、というのは考えにくいし別の調理器具を割ってしまった、というのも考えにくい。
瑞奈は心配になって準備室の方におそるおそる足を伸ばした。
「海斗?何か音がしたけど、どうかし・・・」
顔を覗かせた瞬間、風の刃が目の前を通り過ぎた。
その刃は瑞奈の前髪を僅かにかすり、開いていた窓の外に出ると姿を消した。
「瑞奈!下がってろ!」
海斗の荒れた声と、微かな息遣いが聞こえてきた。
海斗は腕から少量の血を流していて、その手には鋭いハンディナイフが握られていた。
そして海斗の向かい側には、見知らぬ男が同じようにナイフを持って立っていた。
傍らには黒猫を一匹引き連れている。
「ヴェイグ・・・むやみに人を傷つけるのは止めようよ・・・」
「うるせぇ!テメェは黙って俺の命令に従いやがれ!」
「い、痛い痛い!やめてよ!ヴェイグ!」
ヴェイグと呼ばれた男は、足元で喋りだした黒猫の尻尾を掴んで床に叩きつけると、思いっきり足で踏み潰した。
その様子を見てみると、仲が良くて喧嘩しているのではないことがよく分かった。
「いいか!俺はわざわざテメェみたいな屑の世話をしてやってるんだ!次喋ったらどっかに捨ててやるからな!」
「は・・・はい・・・」
男の言動を聞く限りでは、一緒にいる黒猫はヴェイグによっていろいろと規制をかけられているらしい。
「お・・・お前は何者だ・・・」
海斗は腕を押さえながら、男に尋ねた。
「おっと、まだ名乗ってなかったな。今、屑のこいつが先に言っちまったんだが、まぁ改めて名乗っておくか。俺はヴェイグってんだ。ヴェイグ・C・トリック。よろしくな、屑のインディゴ所持者♪」
「あ、僕はスバルね。ヴェイグのパートナーだよ。よろしくね♪」
スバルは挨拶代わりに首を軽く傾けたが、ヴェイグはそれを見るなり、怒りの表情を浮かべた。
「テメェには誰も聞いてねぇよ、屑!つ〜か、テメェは別にパートナーなんかじゃねぇ!俺の道具だ!何度も言わせるんじゃねぇ!」
「ぐ・・・ぐるじい・・・」
ヴェイグはスバルの首元を凄い力で締め付けると、再び床に叩きつけた。
「お前・・・俺のことを知っているらしいな。さてはクードの仲間か?」
「クード?・・・ほぅ、そういうことか。あいつもアメジストを狙ってるってわけか」
スバルを潰しながら、ヴェイグは考え事をしながら答えた。
海斗としては妙に引っ掛かる言い方をされて、結局ヴェイグとクードの間に何があるのかはよく分からなかった。
「・・・お前はクードとは何も関わってないのか?」
「はん!俺を倒せたら教えてやらないこともないぜ?最も、貴様ごときじゃ俺を倒すなんてありえない話だがな」
「残念だけど、海斗はこんなところでくたばるようなやつじゃないよ」
肩に乗っていたハヤテがそう言うと、膝をついていた海斗はスッと立ち上がってナイフを握り直した。
「ま、俺がそういう人間かどうかは知らねぇけど、少なくとも命は惜しいんでな。悪あがきぐらいはさせてもらうぜ」
「どうやら、おとなしく死んではくれないみたいだな。最も、最初からそんなことには期待してないがな」
ヴェイグは皮肉めいた言い方をして笑い出すと、身に付けていたジャケットから一つの物体を取り出した。
「それは・・・まさかインディゴと同じ宝石か!」
その物体は蒼く発光し、海斗の持っているインディゴと色も形も全く同じものだった。
だがヴェイグは首を振って「同じ」という表現を否定した。
「確かにインディゴと言ってしまえばインディゴなんだが、これはお前のインディゴとは違うものだ。お前が持っているものは「七光宝石の一つ」である「インディゴ」だが、俺が持っているものは「四水晶の一つ」である「インディゴ」だ。そう、これは宝石じゃなくて水晶の一種ってわけだ。「蒼穹」とも呼ばれている代物だ」
「四水晶・・・?」
そもそもインディゴというものが複数存在しているなんてことは初耳だ。
いくら酷似しているだけと言われても、どう見ても同じものにしか見えない。
「こいつは七光宝石と比べて効力も弱いが、使い手によってはいくらでも能力を伸ばすことだって可能だぜ?お前は確かに七光宝石を持ってはいるが、結局本質というものが全く分かっていない。能力だって、まだ完全には引き出せていない。宝の持ち腐れってやつだな。やっぱり、お前が俺に勝つなんてことはないってわけだ」
どうやら、ヴェイグは相当の自信家らしい。
だが少なくとも宝石に関しての知識―――彼の場合は水晶に関してだが―――は自分よりも相当多いようだ、と海斗は思った。
(どうする・・・俺とあいつの実力差は一体どのくらいあるんだ・・・ここは逃げた方が得策か?いや、瑞奈もいるしな・・・第一、簡単には逃がしちゃくれないだろうし・・・)
結局は戦う以外に選択肢はないようだ。
海斗は先ほどヴェイグによってやられた血まみれの腕を見た。
ヴェイグ自身は傷一つついていない。
それに比べて海斗はついさっき風の刃で斬られて腕が思うように動かない。
(やるしかない・・・みたいだな)
それでも海斗は痛みを抑えて、ハンディナイフ―――クードに対しても使用したフラッシュオービット―――を持ち直した。
「本来、分が悪い勝負は受けないことにしてるんだが、ちょいと今は引き下がれない状況なんでな。行くぞ、ハヤテ!」
「俺はいつでも準備万端だよ!」
海斗は瞬間移動でもしたかのように一瞬で男との間合いを詰め、背後へと回った。
そして素早くナイフを横に凪いだ。
だがヴェイグはそれをことごとく持っているナイフで受け止めると、再び間合いを離した。
「全く、相変わらずその宝石は敏速が急激に高まりやがるな。だが・・・まだ速さが甘いぜ?お前の動きなんか、俺には止まって見えるんだからよ」
「くそっ!」
海斗はやむを得ず自分からさらに間合いを離し、ナイフを投げつけた。
ヴェイグはそれも軽々と避けた。
そのナイフにはワイヤーが付いていたので、ナイフ自体は再び海斗の手に戻ってきた。
「遠距離戦で行こうってか?だが・・・俺にはあらゆる飛び道具が効かねぇぜ?」
そんな言葉は無視して、海斗は再びナイフを投げつけた。
今度はさっきよりも近い位置で。
だが―――
「甘いって言ってるんだよ!」
「!」
ヴェイグは海斗が投げた凄い速度のナイフを、あろうことか素手で掴み取った。
「ふん、だから言っただろうが。俺に飛び道具は効かねぇって」
ヴェイグは自分が持っていたナイフでワイヤーを切り裂くと、海斗のナイフをゴミのように後ろへ投げ捨てた。
「特別に教えてやるよ。俺の眼は「紅眼」と言ってな。飛び道具の軌道が読める能力が付加されているんだ」
ヴェイグを見てみると、紅に染まっている瞳が確かにこちらを見ている。
それはまがまがしいほど濃い色をしていて、不気味にすら感じてしまう。
「テメェが遠距離戦を狙った時点で、俺を倒すことは不可能なんだよ!」
「へ!それならもう一度接近戦に変えるまでだ!」
海斗は床に転がっていた別のナイフをフラッシュオービットへと変化させると、再び接近戦を試みた。
「風の空裂!風月淵!」
海斗はヴェイグに無数の斬りを浴びせつつ、インディゴの力で足元から風を発生させた。
ヴェイグは後ろにステップしてそれを避けると、巻き上がってきた風を剣で押しのけて海斗に向かうように軌道を強引に変えた。
「―――真紅の猛威と豪炎の剣よ、その身に宿りて敵を討て!」
風を壁にしている隙にヴェイグは自らを赤色の魔方陣で包み、術の詠唱に入った。
海斗は詠唱の妨害をしようとしたが、自らが作った風を先ほどヴェイグが剣で一振りしたときに力を増幅させていたせいで、防いでいるのが精一杯だった。
「焼き尽くせ!エランズ・ヘルフレイム!」
すると海斗の両サイドから熱波が飛び出し、やがて四方八方を囲まれ逃げ場所を失った。
「―――悠久なる盛宴の風よ、後世に伝えられし万物の裂刃を此処に纏わん!」
熱波に襲われている海斗にさらに攻撃を加えようと、ヴェイグは別の術の詠唱に取り掛かった。
今度は緑色の魔方陣に包まれている。
海斗自身は熱波から抜け出すことができず、その中で必死にもがいていた。
「風にはこういう使い方もあるんだぜ?エアライド・セットミール!」
今度は熱波すら包み込むほどの広範囲を風が襲う。
その風は海斗自身を狙い、また周辺の熱波の勢いを強めた。
「ちっ!―――風の障壁よ!フリンジプロテクト!」
海斗は自らの身体を守るように風を纏い、何とかこの場を凌ごうとした。
だがヴェイグの生み出した風と熱波は障壁を突き抜け、熱波は海斗の全身を焦がし、風は肌を切り刻んだ。
海斗は力を失ったかのようにナイフをその場に落とした。
「海斗!しっかりして!」
「くそっ!とてもじゃないが手に負えねぇ・・・」
「これで分かったか?俺とお前の力の差ってやつを」
海斗は焦げた匂いを鼻で感じ取り、ボロボロな身体を押さえつけながら膝をついた。
「これで最後だ!龍炎衝!」
ヴェイグはナイフで円を描き、そこから爆炎を放った。
それは真っ直ぐに海斗を狙い、正確に標的を捉えていたかのように思えた。
「!」
海斗は思わず目を瞑った。
瞑る寸前に紅く輝く爆炎が、もう目の前まで近づいてきていたように見えた。
「海斗!」
そのとき突然海斗と爆炎の間に割り込んできたのは、瑞奈だった。
瑞奈は持っていたフライパンを盾にすると、爆炎を必死で抑えつけた。
もともとフライパンは耐熱の高い作りになっているので、何とか迫り来る炎を拡散させることができた。
だがそれでも相当の温度だったため、フライパンは表面から溶け始めていた。
普通の炎ではビクともしないフライパンがここまで溶けるぐらいだ。
やはり「術」と呼ばれるものの威力は計り知れない。
逆に言うと、その術をフライパンごときで防げたことが不思議なぐらいだ。
「テメェ・・・邪魔するつもりならその男と一緒にあの世へ送ってやってもいいんだぜ?」
「ふざけないで!海斗をよくもこんなに傷つけてくれたわね!あんたみたいなやつなんか私が追い出してみせる!」
「抜かせ!」
「きゃぁ!」
ヴェイグは再び風を発生させると、瑞奈の肌を切り刻んだ。
詠唱もなかったため威力は格段に低いが、宝石も持っていない生身の人間を黙らせるには十分すぎた。
瑞奈もその場に膝を付いて、切り刻まれた身体を抱きしめた。
「命が惜しければさっさと退きやがれ!次は立てない程度じゃ済まないぜ?」
「う・・・うるさい・・・わね!」
瑞奈は立ち上がって再びフライパンを構えた。
だがその瞬間、後ろで倒れこんでいた海斗がその場で起き上がって瑞奈の肩を掴んだ。
そして掴むなり、片手だけで後ろへ投げ飛ばした。
投げ飛ばされた瑞奈は、壁に思いっきり背中をぶつけた。
とはいえ海斗が軽く投げたこともあってか、特に外傷はできなかったし骨が折れたわけでもなかった。
「い・・・痛いわね!海斗!何するのよ!」
「それはこっちのセリフだ。あれほどの実力者に何の能力もなしにフライパンで突っ込むやつがどこにいる!最初に言ったけど、お前は後ろで黙って見てればいいっての!いや、むしろ見てる暇があったらさっさと逃げろ」
「嫌だ!海斗が死にそうになってるのに私だけ逃げるなんてできないよ!」
逃げる素振りなど全く見せず、瑞奈はとにかく海斗に反抗した。
だが海斗は、別に抵抗の言葉が聞きたかったわけではない。
「お前の言い分なんか聞いてやらねぇよ!いいから早く逃げろ!時間稼ぎぐらいいくらでもやってやる!」
「そんなこと誰も頼んでないわよ!海斗が死んじゃったらもう二度と顔合わせられないじゃない!」
「そんなのは死ななけりゃいいだけの話だ!何度も言うけど、とにかくお前はどっかに逃げろ!そうでなきゃお前が死ぬことになるぞ!」
「私は絶対に引き下がらないからね!このままでいいはずがないもの!」
瑞奈はこの騒動には全く関係のない人間だ。
できるようなら逃げて欲しかった。
だが本人は何を言っても逃げる気はないようだ。
こうなってしまっては何を言っても無駄だ。
そう思うと、海斗はもう逃げろとは言わなかった。
「・・・だったらせめて後ろに下がってろ」
海斗はそれだけ吐き捨てると、何度か手を握ったり開いたりした。
(大丈夫・・・俺はまだ動けるはずだ)
自分にそう言い聞かせると、先ほど落としたナイフを拾ってヴェイグと向き合った。
「いくぜ!」
「ふん、所詮テメェの速さじゃ俺には追いつけないぜ?」
ヴェイグにそんなことを言われたが、海斗はナイフを何度も振った。
全てかわされてしまったが、そのまま構わず振りつけた。
(海斗・・・)
瑞奈は自分の無力感を感じると同時に、悔しさも一緒にこみ上げてきた。
(力になりたい・・・私も海斗の力になりたい・・・!)
そのとき、窓の外が一瞬紅く染まったような気がした。




