第2話 その日私はまた繰り返す。
冬の山のようにひどく寒くないものの製氷機の中に入っているように肌が痛い。
夜空は薄く埃のような雲で覆われて、星が一つも見えない。レアルは星が見えない空はどうしても綺麗だと思えなかった。
頭上の木の葉たちに月の光が遮られて地面にまで届かない夜の森に入るのは危険だと承知のうえだったが、人型の影が見えた時には内心ヒヤリとした。
木が生えていないぽっかりと開いた場所に一人の少女が立っていた。空を見上げている。夜の所為であまり髪色ははっきりわからないが三つ編みに束ねた髪はブラウンのようだ。服装は薄着で、防寒といえば擦り切れようなコートを羽織っているだけだった。
灰っぽい青暗い空の端にいる綿埃のような雲が光った。
その光景に少女は目を輝かせ、空に穴が開きそうなほど見つめていた。夜なのに好奇心で目が輝いてるのがわかる。
数分待ったがもう見れないのだろうと思われた時、もう一度光った。雷のような白っぽい色でなく、月の光のように黄色だった。黄色い雷かと思われたが、何秒待っても音がしない。それにレアルは頭のどこを探したってこんな不思議な現象は知らない。いまだに空を見つめてる少女に訊いた。
「あれは何?」
隣に立ったレアルを一度も見る事なく、少女は黙るように「しっ!」と囁いた。
レアルは雲を見つめた。見つめすぎて視線が揺らぎ始めた時、雲の中から光った。まるで太陽を雲で包み込んだかのようにふんわりと、だけどどこか鋭く光る。たった一瞬の事だったが、あの光が目に焼きついて離れない。
「あなた誰?」
少女は空から目を離し、レアルを見上げた。
最初に話しかけたはずのレアルは空から目を離しがたくなっていたが、仕方なく少女のほうを向いた。
「レアル、レアル・ブラッドリー。君は何を見てたの?」
少女はブラウンの目を不思議な色を点していた。横顔の時は好奇心の瞳だったのに、今は何か大人とも子供とも違う年齢を感じさせないものがあった。
「雲。さっき光ってたの見たでしょ? エルフのあなたには何なのかわからない?」
いとも簡単にエルフだと見抜かれたレアルは、少女の観察眼に感心した。
「雲がある時の空は嫌いだからな」
雲は星の煌めきや月の輝きを隠すために足元が暗くなり、草木の活動も低下するためにあまり好きではなかった。理由はエルフ特有なのかもしれない。
「でも、雲がないと鳥は隠れられないし、植物は雨を得られない」
とても変わった考えを持つ子だ。一人の少女が思い浮かんだが、この少女とは容姿がまったく違う。目の前の少女はブラウンの髪に、翡翠の瞳。
「君は……?」
変わった子だと言おうとしたが、あまりにも失礼だと思い言葉を引っ込めた。
「ソニア」
名前を訊かれたと思ってくれてレアルは一安心した。
「ファミリーネームは?」
「教えられない」
知る事が出来ないとなればなるほど、知りたくなってしまうのが知識欲だ。
「どうして?」
レアルは遠慮がちに訊いた。あまりしつこく訊くのは失礼だと思うが一度ぐらいならいいだろう。
「家族はいないから。だって、死んじゃったから……」
少女は目に見えて落ち込んでた。レアルはかける言葉を考えていたが、少しすると押し殺しきれない笑い声が聞こえた。
「嘘。嘘だよ」
笑顔になった少女は幼く見えた。笑顔だけがまったく別人のように。レアルがその笑顔に見惚れていると、途端に少女は空を見上げた。鋭く観察するかのように全体的に見ていたが、それだけに集中していた。
「どうして、空を見上げるの?」
レアルももう一度あの光る雲が見られるのではないか、少女と同じように空を見上げた。少女はまた黙るように「しっ!」と囁いた。
今度の空は雲が一面を覆ってる。どことなく灰色に見える。風はほとんど吹いていない。
「少しだけ雨が来る」
空を見上げたままソニアは踵を返し、どこかへ向かってふらふらと歩いていく。行く先は決めてるようだが、目的地はないようだった。
ソニアは部屋の窓からも空を見ていた。空からは雲が消え、星が見えていた。
ソニアが去ろうとすると、レアルは彼女を呼び止め、寝床が木の上だと聞いた。女の子を危険な森で寝かせるなど出来ないレアルは半分無理やりして宿に連れて行った。ソニアは嫌がらなかったが、武器としてか近くの石を拾ってずっと握り締めていた。もちろん部屋は別々にとっている。
「昼、雨だったから風が綺麗。だけど、また来る」
確かにソニアの言うとおり、昼間に雨が降っていた。一時間ほどの事だったが、雲はずっと厚く空を覆っていた。
鼓膜を震わす叫び声でレアルは飛び起きた。ソニアのいる隣の部屋から聞こえてくる。この叫びは尋常ではない。ベッドから飛び降りると隣の部屋まで急いだ。
扉を開くとよりいっそう鋭く聞こえた。自分の職業柄かレアルはシェルショックではないかと一瞬疑ったが、どうやら違うようだ。首を絞められているかのように自分の手で首元で掻き毟ってる。
「ソニア。ソニア!」
レアルはソニアの寝るベッドの傍らに膝をついて呼びかけてみるが、ソニアは目をきつく閉じて額に汗をびっしょりかいている。ブラウンの前髪が額に張り付いてる。少しするとソニアは首元の手を下ろし、表情は苦痛から開放され、目をゆっくりと開く。
「ソニア?」
驚く様子もなくレアルを見てから、ソニアは天井に視線を移した。
「……あたし、何してた?」
ソニアは自分が夜驚症だと知らないのかもしれない。今まで一人だとしたら、眠っている間に自分が何をしているのか知らないはずだ。それを教えたほうがいいのかと迷ったが、教える事にした。
「昔、何かあったの?」
あの症状は単なる病気じゃなさそうだった。何か記憶と関連しているような感じだ。
「昔はまだまだ子供だっただけ……」
足を振り上げ、振り下ろした反動で上体を起こし、ソニアはベッドから足を下ろして、レアルのほうを向いた。
「あたし、強盗に襲われてた? それとも、叫喚してた?」
レアルは目を丸くした。一瞬、ソニア自身自分が何をしていたのか理解してると思ったが、そうではないらしい。
「だって、君がいるのは可笑しいし、そんな顔してるのはあたしに何かあったからだと思う」
レアルがすぐそばにいる事から推測してるのだ。表情も読み取ってる。
「違う?」
見透かされているような目で見られた。この少女は不思議だ。好奇心旺盛な子供のように見えていたのに今はまったく違う。意志が強く、凛としている。顔見知りの最年少元帥を思い出す。
「観察力がズバ抜けてる……」
ごまかそうにもごまかせそうにはなかった。ソニアの眼が鋭く自分に向けられて、レアルは一種の拷問を受けているような気分になった。
「ソニアの言うとおり、叫んでた。それに苦しそうにもがいてた」
「あぁ……」
ソニアの緑の目がさまようように動いてから床を捉えて動かなくなった。
追求するのは絶対にやめよう。レアルは思った。過去に何があったのかは知らないが、他人が干渉していいとは思わない。自分から話してくれるのを待つしかない。
だけど、それが悪夢の分類なら、一緒にいたほうがいいとも考えたが、気持ちを整理するのに自分がいるのは邪魔なはずだとレアルは部屋を出て行く事にした。
「何かあったらまた呼んで」
後ろを向いた瞬間、レアルは腕を引っ張られるのを感じた。振り返ってみるとベッドの端に腰掛けたままのソニアが自分を見ていた。
「……今、君の事を話して。どうしてあの森にいたの?」
縋り付いて助けを求めるような眼差しではなかったが、とても幼く見えた。何かに怯えてるようにも見えた。
レアルには妹がいたが、しっかりしすぎていて姉のように思ってしまう。育ちや暮らしの所為かもしれない。それに周りの女性たちは事実上レアルよりは年下だが、しっかりしているのは間違いなかった。妹のエニスが一番しっかりしているが。
そのためにかソニアは――言葉では言い表しにくいが、言うなれば――護るべき妹という感じがした。
レアルは、ソニアの座るベッドの隣に窓際の椅子を引っ張ってきて、座った。セットのテーブルには石が置いてあった。
「俺は雲に隠れる魔物を追ってるんだ。パンヌスっていう魔物でね」
魔物は人々に危害を加える存在である。毎日の脅威となり、日常生活を送れなくなる事もある。ソニアも一度や二度被害にあっていた。
「武器使いだって事?」ソニアは笑って訊ねた。
魔物を退治する専門の職業が魔断志師だ。主立っているのは魔封師と武器使い。その職種はお互いにコンビを組まなければならない。武器使い一人でも任務をしてもいいのだが、魔封師一人では任務をしてはならない。正しくは、一人の時に魔封師の力を使ってはならない。
魔断志師の協会があり、そう取り決めているのだ。だとしたら、破る事など出来やしない。
だから、武器使いだとソニアは確信したに違いない。だけど、肝心の「武器」が見当たらない。薬瓶用ベルトに薬瓶がいくつも入ってる以外に武器になりそうなものはない。
「いや、魔封師の方」
魔封師が一人で仕事を出来ない理由は簡単で魔物を体に封じ込めているからだ。魔封師は魔物を体の一部――主に腕や足など――に封じ込め、魔物の能力を自分の魔力と混ぜ合わせ、魔物を退ける力として使う。しかし、協力関係になく魔封師が一方的に使役しているだけで、時には反抗されて身体を乗っ取られる。魔物との力である退魔力を使えば使うほど、その可能性は高くなる。そのために武器使いとコンビを組まなければならない。
「ソニアこそどうしてあの森にいたの?」
ソニアが答えてくれそうにないのはわかってた。
「いつか言ってくれるまで待つよ」
「……君がしわしわになるまで待てばいいよ」
皮肉られたがレアルは気にせず、話を続けた。
「パンヌスってのは、雲に同化する事が出来るんだ。知ってるかな? 昔、ある村にパンヌスが覆いかぶさって、洪水を起こしたって話。よくある事みたいらしいけど、三十六年前のは特に酷かったって」
「ジャグ川近くのミュリッシュ村の事ね……」
声は好奇心で生き生きとしていたが、表情は逆の感情を表していた。
「ああ、その事だよ。パンヌスは厄介なやつだ。天候を操る。雨を降らせて、雷を落とし、暴風にする」
天候を操る事は高位の魔力を持つ人でも魔物でも相当苦労する。五体のホーテンポールを倒す方が雲を作って霧雨を降らせるより簡単だ。
パンヌスは雲に同化する事で使用魔力を削減しているが、それでも天候を操れる魔物としてレベルは高い。そんな相手に一人で任務を任せるなどどういう神経をしているのだろうか、と疑うような目でソニアはレアルを見た。
「だったら、どうして君一人なの? 魔封師としての力は使えなくなるようだし」
武器使いがいない場合の任務は、退魔力を使わなければいいだけの話だがその力――退魔力が強力すぎるゆえに依存してしまう場合が多い。自分の魔法攻撃よりも魔物との力に頼り切ってしまうのだ。そのために、単独での任務は多くはない。ソニアは協会の関係者ではなかったが、その話は聞いた事がある。魔封師のレアルは珍しい例だ。
「深い事情があるんだよ。ま、でも、俺の普段の魔力が認められてるって事もあるけど、パンヌスは厄介でも弱点が簡単だからね」
「弱点が見分けられれば一人でも大丈夫って事?」
弱点がわかれば、どんなひ弱な人でも倒せるように聞こえたソニアは言った。レアルもそれほどの実力者ではないのかもしれないと彼女は疑ったに違いない。
「そういう言い方はよくない。俺が弱いみたいじゃないか」レアルは茶化した。「でも、エルフに限ってだけどね。天候を肌で感じ取れる本能があるから、パンヌスの操る天候は異様に感じるんだ。人間の君にもありそうだけど……」
探るような目つきでソニアを見た。ソニアはそれを無視して、ベッドに転がった。
「どうしてあたしを宿に連れてきたの?」
天井に向かってつぶやかれる声は感謝と呆れだった。レアルは迷いなく返す。
「そりゃ、男としてほうっておけるわけないだろ?」
当然だと言わんばかりの顔でレアルはソニアを見たが、上体を起こした彼女からは軽蔑に近い眼差しが注がれる。
「あたしが知ってる男は傲慢で自分勝手で……とにかく他人の事なんて一番最後。女がどこで寝ようと知らんぷりだった」頬を膨らませてぶう垂れた顔をするソニア。
「酷い言いようだな」レアルが言う。
「人間の男はね」
ソニアは意味ありげに含み笑いをしていたが、堪えきれずにか破裂するように笑い出した。
「嘘。嘘だよ」
笑いが収まると、涙を拭いながらソニアはレアルに訊ねた。「その」ソニアはベルトを指差した。「そのベルトは何?」
どれも親指ぐらいの大きさの薬瓶がいくつも納められてるベルトを見た。薬瓶の一つが薄く光りだしている。
「ああ、薬だよ。調合師でもあるんだ。治癒魔術が苦手で、でも治さなきゃならい時がある。魔物による傷にも合わせて使うんだ」
レアルはベルトを外して、ソニアの目線の高さまで掲げた。メリナ海を凝縮したような青い液体や今にも爆発しそうに泡立っている薬、綿のようなふわふわした物質などさまざまなものが薬瓶に入っている。それらを見るソニアの目は好奇心で輝いていた。
「これとか」ソニアは一つの瓶を指差した。「破裂しそうだね」
心臓のように縮んだり膨らんだりしている紫色の石が入ったその瓶は薬瓶とは別にベルトにぶら下げられていた。
「爆発するものだとか、物を溶かしちゃうのとかってないの?」
どうしてそんな事を聞くのだろうかとレアルは思ったが答えた。
「二、三本あるけど……。攻撃用じゃないよ」
「何に使うの?」
好奇心の色を湛えた瞳にレアルは負けた。レアルはソニアの疑問に答えるために服の袖を捲り上げた。親指ほどの大きさの傷痕があった。半円の楕円形にいくつかの点が並んでいる。何かに噛まれた痕だ。
「ホック・レグホーンに噛まれて三日に一度は薬を服用しなきゃならないんだ。それの材料の一部さ。調合してもすぐに飲まなきゃ効き目がないからね」
ホック・レグホーンは毒を持つ地鳥だ。毒には神経を腐らせる作用があり、肉体が壊死してしまう。毒にはウイルスのように潜伏期間があり、何年もしてから毒の脅威にさらされる。それゆえ最低でも十年は抑制剤の服用をしなければならない。ほとんどの毒に耐性のあるエルフでもホック・レグホーンの毒には耐えられないために、エルフの王族が暗殺される場合はこの毒による毒殺が多かった。
「傷痕、よく見せて」
ソニアはレアルの腕を掴んで目の前に持ち上げた。食い入るように傷痕を見る。
「痛くない? 痒くは? 噛まれた時どうだった? 毒は痺れる?」
何でも知りたい六歳の子供のように絶えずに疑問を投げつけるソニアに落ち着けとレアルは肩を押さえ、ベッドに寝かせた。レアルは父親の気分になった。いつか父親になる時がきたらこうなのだろうか? レアル自身、父を知らないがきっとそんな気分なのだろう。
「今は痛くも痒くもない。噛まれた時には腕が引きちぎれるような痛みだった。思い出したくもないね」
ホック・レグホーンの歯は鳥とは思えない鋭さで、むやみに引き離そうとすると皮膚をずたずたにされてしまう。それを心得ていたレアルはホック・レグホーンの首を掴んで歯を引き抜いたために、ずたずたにされずにすんだ。しかし、噛まれた痛みは、ケイトコーンに噛まれたとしても及ばないだろう。
「そのレグホーンはどうなったの?」
「美味しく食べられて天に召されてるよ」
ソニアはハッと息を呑んだ。レアルが冗談だと笑うとソニアも笑った。
それからずっと、レアルは自分の事や今までの任務の事を話して聞かせていたが、だんだんと眠たくなってきた。ソニアも目を何度かこすって、欠伸をかみ殺そうとする。
「そろそろ寝たほうがいいよ」
ソニアは訴えかけるような目でレアルを見た。まだソニアは聞き足りないみたいだが、レアルは自分でも何を話したのか思い出せないほど話した気がした。
「何も悪い事は起きない。ここにいるから」
ソニアは微笑むとゆっくりと目を閉じた。