98.夢と闇
「もう!! いつまで寝てるつもりなのっ!?」
聞き慣れた女性の罵声と共に、ばっ、と、被っていた毛布がめくられた。
シャッ、という音が聞こえ、顔にもろに日差しが当たる。
「ぅう〜〜」
和哉は眩しさに目を閉じたまま、急に寒気に晒された手足を縮こめた。
「……あと、5分……」
「遅刻するわよっ、和哉っ!!」
和哉の母は、よく言えば竹を割ったような、悪く言えば鬼のように厳しい性格である。
ぐずぐずとベッドでのたくっている息子の尻を、思い切りぱんっ、と叩いた。
「いてっ!!」
「目が覚めたでしょ。朝食出来てるんだから、早く着替えて下に来なさい」
きびきびと言い置いて部屋を出て行く母の足音が、小さくなる。
叩かれた尻を寝間着のスウェット越しに撫りながら、和哉はのそっと起き上がった。
「も〜〜、なんでもーちっと寝かせてくんないかな……」
昨夜も遅くまで携帯ゲームにハマっていた。
もちろん、宿題と予習は片付けた後で、大体3時間ほどだ。
眼精疲労だとは分かっているが、眠いものは眠い。
唸りながらベッドから立ち上がり、椅子の背に引っ掛けてあった服一式を着込んだ。
学生鞄を持ち、部屋の扉を開ける。
——はあっ!?
扉の外にあるはずの、自宅の廊下は、無かった。
代わりにあったのは、闇。
「何だ? これ……」
呟いた途端。
闇が回転を始めた。否、和哉が立っている入り口が回転し始めたのだ。
「うっ……、わっ!!」
漆黒の空間を見詰めているのに、自分が回っている、というのが分かる。気持ち悪くなり、和哉は慌てて扉を閉めた。
何が何だか、分からない。
混乱と驚愕に半ばパニックになりながら、塞ぐように扉を背にする。
と、眼前はまた見慣れた自分の部屋である。
「俺、まだ寝てんのかな……」
そっと、ベッドを回り込んで、窓の外を見た。
自宅の周囲の見慣れた風景が、朝の光の下に広がっている。
隣家のソメイヨシノがもう半分ほどに花を散らして、和哉の家の小さな庭も薄紅色に染まっている。
和哉は、思い切り自分の頬を叩いてみた。
「いってえー!! ……寝て、ねえわ」
確認したところで、もう一度自室の扉を開けた。
が。
「なん……で?」やはり、扉の外側は闇である。
窓から外が見えているのに、どうして自室から出られないのか?
——窓から出たら、どうなるんかな。
思い切って窓へ向かう。勢いよくサッシを開ける。
今度は闇ではなく、春の、僅かに冷たさを含む風が部屋の中へ吹き込んで来た。
「大丈夫……、みたいだ」ここからなら、外へ出られる。
和哉は窓枠を跨ぐと、スレート瓦の上へ乗った。
「すっ、滑るっ」屁っ放り腰で屋根を歩き、南側の父母の部屋のベランダに辿り着く。
柵を乗り越え、ベランダへ入る。
2間の掃き出し窓には鍵が掛かっているのは知っている。
父も母も居ないのを確認すると、和哉は大きくなり過ぎた柿の木が鬱蒼と枝を伸ばしている、ベランダの西側へ移動した。
再び柵に乗り、手に届く枝を掴み、飛び乗れそうな枝を探す。
「よっ」うまく太い枝に足が乗ったと思ったその時。
捕まっていた枝がボッキリと折れた。
「うっわっ!!」
咄嗟に枝を放し、サルよろしく乗った枝にしがみつく。折れた枝が真下の庭石にぶつかって、かなり派手な音を立てた。
母が出て来るかとヒヤヒヤしたが、家からは誰も出て来なかった。
ほっと息を吐いて、和哉はそろそろと柿の木から降りる。
玄関へ回って扉を開けた。
「あら? まだ出掛けてなかったの?」
母の声が、キッチンから聞こえた。
「あ、ああ。うん。……忘れ物、して」
和哉はキッチンをちらっと覗く。「そう。早く取って来なさい」と言った母は、和哉に背中を向けている。
「あの、母さん?」
「なに?」
「その……、——は、もう学校に行った?」
ぎょっ、とした。
和哉は、妹の名を口にしたつもりだった。だが、名は音にならなかったのだ。
そして。
母が振り返った。
「——なら、あんたよりずいぶん前にもう行ったわよ。部活の朝練があるからって」
喋った母には——顔が、無かった。
******
和哉は驚きと恐怖で、声も出ぬまま家から走り出た。
小さな頃から見知った住宅地の、緩く下り坂になっている道路を脱兎のごとく駆け抜け、大通りへ出られる階段を降りる。
わずか20段ほどの階段の途中で、ぐるりと景色が回った。
「な……、んっ?」
和哉は、我が目を疑ってしまった。
ほんの数分前、背を向けて遠ざかったはずの我が家が眼前にあるのだ。
「ど……、いうこと?」
恐慌はますます酷くなる。訳が分からず、再び家に背を向け坂下へと走る。
しかし。
やはり階段の途中で景色は回り、眼前に自宅が現れる。
本来なら、階段を降り切ればバス通りとなるのだ。バス停を右に見て緩い下り坂を15分歩けば、駅に着く。
しかし、道はループしている。
明らかに異空間に閉じ込められた状態、そして母の顔が無かったこと。
だがそれらよりも和哉をパニックに陥れたのは——
「妹の名前、出て来なかった……」
頭で分かっていた積りだったのに、発音した積りだったのに、和哉の声は妹の名を音に出来なかった。
そういえば、母の名も忘れている。
父も、覚えていない。
分かっているのは、自分が高校生であり、坂の上の一軒家に家族4人で暮らしていること。
通う高校は——やはり、校名を覚えていない。
「なんだよ……、これ……」
やはり夢としか思えない。しかも悪夢。
家族の名も顔も出て来ず、自分がどこの学校の生徒だったかも忘れている。
「けど、夢なら……、いつか覚める、んだよな?」
一刻も早く、この悪夢から覚めたい。
目覚めるには、何処かに出口があるかもしれない。
「そうだ……、 さっき、部屋から出ようとしたら……」
自室のドアを開けたら、外は闇だった。
なら、もう一度、今度は玄関から戻って自室の扉を開ければ——闇か、もしかしたら覚醒出来るかもしれない。
「けど、闇って、目が覚めたことになるんかな……?」
考え込んでいても、何も進まない。 和哉は思い切って、自宅の格子門を抜け、玄関のノブを引いた。
「どうしたのー? 」
リビングから母の声がする。
先刻見た、顔のない姿をなるべく思い出さないよう、和哉は返事をせずに二階へ上がる。
自室へ入り、扉を閉めた。
大きく深呼吸すると、「よしっ」と己を鼓舞し、扉を開ける。
と、そこには——
うっわ〜……
またまた遅くなってしまいました(汗)すみません。
新年、かなり明けちゃいましたが、今年は、今年こそは、
もう少し執筆速度を上げたいです(宿願)




