生きるための話をしよう
生きるとはなんだろう?
と、思ったので書きました。
というか、ずっと考えていたことを文章にしただけです。
生きるための話をしよう。
人生を楽しく、充実するものとするために。
しかし、そこでまず考えて欲しい。『人生』となんだ?
楽しく、とは具体的にどういうことなんだ?
何をしたら楽しいのか、何を成せば充実していると言えるのか。
答えはない。答えはないのだろう。
なぜなら、この世の全ては錯覚であり、幻であり、まがい物、であるからだ。
自分が見たこと、感じたこと、聞いたこと、話したこと、......信じたこと。
それら全て、脳が勝手に創り、勝手に現実だと思い込み、勝手に満足しているに過ぎない。
楽しい、と感じるのは、子供の頃に、「楽しい」という表情と感情を親、もしくは大人、が行っていたものを模倣しただけ。
嬉しい、と感じるのは「嬉しい」と口に出して話している人間の真似をしているだけ。
感情というものはそうやって受け継がれてきた。
実際は、感じているのではなく、感じているとアピールしているだけである。
実例を挙げると。
昔、「狼に育てられた少女」というのがあった。
詳しくは知らないが、知りたいとも思わないが。
デマでは無いようだ。否、なかったようだ。
この、「狼に育てられた少女」というのは文字どうり、狼に育てられて育ったらしい。
少女は親に捨てられ、森に置き去りにされたそうだ。
それを、狼が発見し、育てた。
あるとき、少女は人間に保護された。
保護されたときは、人間ではない言葉で暴れたようだ。
それから、人間はあの手この手でその少女を人間に教育しようとしたが。
無駄だった。
二本足で立とうにも、背中の筋肉が張って背筋が曲がったまま。
人間語を教えようにも、結局話せなかった。
そして、少女は人間になりきれずに死んだそうだ。
つまり、人間の感情を持たず、人間の言葉も話さず、動物として死んだのだ。
人間は親や大人から感情や言葉を教えてもらう。
だから、今感じているものは「全て」自分の感情ではない。
あくまで、受け継がれてきた感情なのだ。
個性はあるだろう、しかし、結局は誰かの行動の模倣である。
そう考えると、人生なんてどうでも良くなってくる。
「勉強して、いい大学入って、いい会社に入社して、いい家族を持て」
なんのために?
「相手を思いやれ、人に感謝される行いをしろ」
感謝するという行為はその人そのものの感情ではないのに?
「自殺してはいけない、自ら命を断つというのはこれまで育ててきた親や保護者に対しての最悪の恩返しだ」
生きる、こと自体が錯覚で、死ぬ、というのはただ単に分子運動が活発ではなくなるだけなのに?
この世は濁ってる。
みんな気付いている、気付いているはずなのに。
目を背ける。
「自分の存在意義がなくなる」
「これまで頑張ってきたことがバカみたいになる」
「生きていれば、なにかしらいいことがあるはず」
そう言って現実から目を背ける。
もういやだ、頑張りたくない、生きたくない。
なんのためかも分からずに走りたくない。
でも、死にたくない。痛いのは嫌だ。生きたくないけど、痛いのはもっと嫌だ。
他人とかどうでもいい、命とかどうでもいい、人生とかどうでもいい。
『どうでもいいことなんか、どうでもいい』
『とは、思わない』
どうでもいいのなら、どうでも良くなくすればいいだけ。
死にたくないのなら生きればいいだけ、生きたくないのなら、生きたい、と思えるようになればいいだけ。
無駄? 意味がない? 当たり前じゃないか。
無駄だから面白い。
意味がないから、やっていける。
人生なんてどうでもいい、確かに、どうでもいい、けど、どうでもよくないからなんだ?
役目があるから、どうした。
どうせ、何をやってもつまらない。
ならば、つまらなくないものを、つまらなくないようにすればいいじゃないか。
自分がしたいものを、楽しく、面白く、充実した、と思えるほどにやればいいじゃないか。
幻がどうした、錯覚だからどうした。
現実であろうと、幻想であろうと、自分がやりたいことは変わらない。
夢を持て、些細なことでもいい。
叶わなくてもいい。叶う必要なんてない。
夢は叶えるモノじゃない、人生を楽しくするための「目的」だ
『だから、
僕は、こうやって小説を書いている。自分の人生を自分のものにするために。
人生を振り返ったとき、死んだとき、自分に嘘をつかないために------』
これを読んで勇気づけられた人がいたら嬉しいです。