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夜祭りのヨル

作者:

夜祭ノヨル


 今日は『おやま』の夜祭りだ。


 子どもの頃は親子でいった。

 去年までは友達といった。

 今年はひとり。

 なぜなら友達がみんな気になる男の子と出かけてしまったからだ。



 祭囃子が夜風にのって鳴り響く。

 転々と灯された提灯で『おやま』に赤い花道が出来ている。賑やかな笑い声に私は我にかえった。

 夜店が並び、浴衣の姿の人々が楽しげに通りを歩いている。視線を上げると、頭より高いところに吊るされた提灯と『おやま』の境を示す石灯篭の灯りが、光の道を作っている。すく横を水風船を振り回しながら子どもが走っていく。提灯や夜店の灯りに照らされて、歩き騒ぐひとたちの影がゆらゆらと揺れる。まるで影絵を見ているようだ。

 ぼんやりしていたら、通行人と肩がぶつかった。慌てて謝って一歩退く。日が完全に沈んだこの時間帯は一番人が多い。ぼんやりしていては流されてしまう。私は、ゆっくりと歩きだした。

 なんで立ち止まっていたんだろう。

 お参りを先にすませてからちょっと夜店を見て、すぐ帰ろう。

 人が少ない場所を探して視線を巡らせると、赤い鳥居と幟が見えた。そういえば、『おやま』には正面の石灯籠から続く道以外にも、あっちこっちに小道がある。うまくそういうところを進めば人ごみを避けて上にいけるかもしれない。

 そっと暗い石段の上を見ると、期待通りに人気はなく、そしてかなり遠くのほうに祭りの提灯が見えた。

 暗い鳥居のトンネルに一歩足を踏み込む。たちまち祭りの喧騒は遠ざかり、うすい夜が私の体にまとわりつく。一歩一歩と上る石段はまるで産道を逆流しているかのようだ。

 登り切った先にはやはり夜店が並んでいた。けれど、さきほどまでのような肩と肩がぶつかるほどの混雑はない。きっとここは主なルートから外れた場所なのだろう。

 きゃっきゃと笑い声をあげて、お面をかぶった子どもたちが数人走りぬけていった。手には綿あめの袋を持っている。子どもたちの来た方向をふりかえると、少し先でずんぐりした男性が器用に綿あめを割り箸に巻きつけていた。

 いつもの場所とは全然雰囲気が違う。そういえば、『おやま』の祭りにはまち中からあらゆる人とものが集まってくると祖母に聞いたことがある。きっと主要な参道には定番のお店がならんで、こういう裏道にはマニア向けの店が集まるんだろう。友達と一緒なら絶対に見つけられなかった場所だ。ひとりでいくことになったときは嫌だったけど、結果だけ見るならラッキーだったのかもしれない。

 まばらに歩く人の間を私も歩きだす。天狗のお面をかぶった親子とすれ違った。お祭りでうかれているのだろうか。お面の姿がちらほらと目につく。

「あ……」

 狐がいる。

 ふらりふらりと歩いていた先、ビニール小屋のような即席のお店の前に白い狐のお面をかぶった人が座っている。露出している首や手足から判断して、まだ若い男の人のようだった。

 奇妙な光景に自然と足が引きつけられる。そこは古道具をうっているお店のようだった。真ん中に店の奥へ続く道があり、その両脇にはビニールシートに並べられた何だかよく分からない道具。そして両脇の棚には、古い玩具や時計がいまにも崩れ落ちそうなほど積み上げられている。しげしげと棚を見上げると、並んだ招き猫と目が合った。思わず目をそらすと、その先には大量のだるまが並んでこちらを見上げている。店の奥は暗過ぎてなにがあるのか見えない。

 これで客は来るのだろうか?

「ここはなにを売っているんですか?」

 声をかけると狐はゆっくりとふりかえった。多分、こちらを見ているのだろうが、お面のせいで本当にこっちを見てくれているのか不安になる。

「見ての通りの古道具。けれど、あんたが必要なものはおいていない」

 接客業とは思えない口ぶりだった。確かになにかを買おうとしていたわけではないが、そんないい方はしなくてもいいじゃないか。思わずむっとした私を無視して、狐はまた正面を向いた。

「やな感じ」

 聞こえるように言っても、視線をむけもしない。

 なんだか腹がたってきて、私はこれ見よがしにため息をつくと店先を離れた。

 あんな店、お客さんくるわけがない。きっとあんなお面被ってるのも、顔が愛想がなさ過ぎてだれも寄ってこないからだ。うん、きっとそうだ。でもあんな態度じゃ顔を隠しても意味ないと思う。

 半ば八つ当たりで失礼なことを考えているうちに、気づくと屋台の群れから外れて細い山道に入りこんでいた。

 『おやま』は登山をするような大きな山ではない。けれど、小さくもない。

 あちこちに地元の人も知らないような小さな祠や石仏が潜んでいる。ここもきっとそういう場所だ。

 カラカラと風車が回った。

 足元で大小の小石が小さく音を立てる。道の途中だというのに妙に石が多い場所だ。あちこちに小さな石の山ができている。それにゴミも多い。布の切れはしやお菓子の残骸のようなものがあちこちに転がっている。積み上がった石の隙間に差し込まれた赤い風車が、夜風を受けてくるくると回る。まるで石の上に赤い花が咲いたようだ。

 ふいに水の滴る音が響いた。

 つられて大きな木の後ろを覗き込むと、暗闇に一体のお地蔵様がいる。御堂もなにもなく野ざらしになっているお地蔵様だ。その足元は水が溜まっていた。きっとわき水が湧いているのだろう。

 また水音がして、水面が揺れた。お地蔵様の足元の水が盛り上がり、小さな生き物が顔を出す。


 ――――ア、アアアアアア


 悲鳴のような声でそれは鳴いた。一瞬だけ、遠くの灯りがお地蔵様に届いて、その足元にすがりつくカエルに似た姿が一瞬だけ浮かび上がる。初めに鳴き声を上げた個体に続くように、いくつもカエルのような生き物は這い上がっては石の地蔵の足にすがりつく。

 ぬるぬるとした肌。小さな体。裂けた口。全体的なフォルムは両生類のそれ。だが、それはかろうじて二足歩行していた。

 カエルのおばけだ。

「ひっ――――」

 私が覗き込んでいる場所のすぐ近くからもその生き物がはい出して来て、私は小さく悲鳴を上げた。下がった後ろ脚がなにか軽いものを踏み砕く。視線を下げるとプラスチックの人形が転がっている。道に落ちていたそれを、私は踏みつぶしてしまったらしい。慌てて被害状況を確認しようとした私は、ふりかえると同時に飛び込んできた光景に凍りついた。

 暗闇の中、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる人がいる。羽織った長い着物の端を完全に引きずっているのに、何の音もしない。なんていうんだろう。時代劇で御姫様が来ているような着物だ。胸元からは房の飾りがのぞいていて、頭には変な飾りをつけている。

 花嫁衣装だ。

 奇妙なのはその着物が白ではないことだ。一番上に羽織った長い着物は深紅に派手な柄。そして、白塗りの顔にはなんの表情も浮かんでいない。


 ずるり   ずるり


 着物の裾を引き摺って女の人は近付いてくる。よく見ると両手でなにか、赤黒い塊を大事そうに抱えている。

「――――――!!」

 包みの正体に気づいて、私は絶叫した。

 死体だ。

 花嫁は赤ん坊の死体をまるで宝もののように大事に抱えている。よく見れば、着物にも血が滲んでいる。

 私の悲鳴に反応したように、花嫁装束の女の人はぴたりと歩みを止めた。目玉だけが動いてこちらを見る。その瞬間、私は一目散に来た道を全力で走りだした。

 走る。走る。

 ふりかえる勇気はない。

 それほど長い距離を移動したつもりはなかったのに、いくら走っても屋台群は見えてこない。道を間違えたのだろうか。泣きそうになった時、前方に小さな人影が見えた。赤い提灯の下、誰かが大きな石に腰かけている。

「すみません!」

 よく確認もせずに走り寄る。のそりとその人は顔を上げた。その姿を見て、私は足を止める。

 その人は、お面で顔を隠していた。

 思わず一歩後ろに下がる。狐にしては丸みのある奇妙な動物――化け猫面だ。戸惑っている間に、その人は立ち上がった。ふわりとフリルとレースをあしらった華美なワンピースのすそが揺れる。色は喪服のような黒。手には三味線。和と洋がまじりあって、どこかちぐはぐな組み合わせだ。

「どうしたの? 迷ったの?」

 優しげな声で少女は問いかけてきた。不思議そうに私の走ってきた方角を見やる。ふりかえったが、花嫁装束の女性の姿もカエルに似た生き物ももう見えなかった。

「ねえ、表の参道に戻りたいの。道を知らない?」

 お面の少女は小首を傾げた。

「『おやま』の上に向かう道じゃなくて? 『おやま』のむこうにはいかないの?」

 私は首を横にふった。お参りなどもうどうでもいい。『おやま』の上は星が綺麗と聞くが、山越えをした気分でもない。今はもう一刻も早く家に帰りたかった。

「うーん、ごめんね。私ではちょっと無理かな」

 少女は答えた。そして、私が走ってきたのと反対方向を指さす。

「でも『おやま』の上にいきたくないなら、あっちにいくのがいいと思う。夜店が出てにぎやかだよ」

 夜店が出ているということは、参道かそれに繋がる無数の道のどれかということだ。そこまで出れば、後は人の流れに乗って帰れる可能性が高い。ほっとして、私は身体の力を抜いた。そこでふと、自分の両手が空なことに気づく。

 家を出た時は持っていたはずの、手提げかばんがない。

 慌ててまわりを見るが、当然ながら落ちていない。さっと血の気が引いた。

「どうしたの?」

「かばん……どこかで落としてきちゃったの……赤い、手提げで」

「そっか。残念だったね」

 くるりと少女はその場で回った。提灯の灯りに照らされて、三味線を持った影が踊る。ぐにゃりと、一瞬その影がありえないほど歪んだ気がした。

「可哀想だから、これ、あげる」

 そう言って、三味線を持つのとは逆の手で差し出されたのはりんご飴だった。てらてらとした光沢のある赤い飴が、割り箸に突き刺さっている。反射的に受け取ると、お面ごしに少女は小さく笑った。

「綺麗で美味しいよ」


 異界の食物を食べると二度と帰れなくなる


 ふいに昔話の一節が頭をよぎった。

「…………ねえ」

 おそるおそる、私は視線をりんご飴から少女に移した。奇妙に大きな影が少女の背中にはりついている。

「ここは、どこ? あなた、何?」

 おかしな質問だと自分でも思った。しかし、少女は笑いもせずに答えた。

「ここは『おやま』だよ。私は――――」

 ニャアと少女は鳴いた。その瞬間、一瞬だけ影が歪んで大きな獣の形を取る。それを確認した瞬間、私は一目散に走りだした。

 少女は追って来ない。振り向くと、少女は提灯の下で何事もなかったかのように、三味線を弾いていた。くるりくるりと少女が舞うと、処女自身のものとはあきらかに違う無数の影がぐるぐると地面を走る。怖くなって私は前を向いた。

 走り続けていると、前方ににぎやかな灯りが見えてきた。だが、すぐ近くまで来たところで私はまた絶望的な気分になった。

 いつもあるようなかき氷や金魚すくいの夜店が一つもない。

 代わりに奇妙な石ころや得体のしれない草や古びた玩具、見たこともない食べ物を扱う店が軒を連ねている。看板も漢字やカタカナ混じりの意味不明な言葉で、何の店なのかさっぱり分からない。行き交う人々も、顔をお面で隠していたり、あきらかにおかしな背格好をしていたり、妙に毛深かったり、どこかおかしい。

「なに、ここ……?」

 戦中のようなモンペ姿の女性が大きな風呂敷を背負って歩いていく。そこからのぞいているのは人間の手足だ。あちらにいるのは服こそ着ているが、どうみても熊にみえる。その後ろを歩く子どもの押す乳母車には、老人にしか見えない赤ん坊が座って、ふてくされた顔で夜店をながめている。

 私の頭がおかしくなってしまったのだろうか。それとも夢を見ているのだろうか。

「…………帰らないと」

 幸いにも、異形であってもすぐには襲いかかってくる気配はない。ここで逆方向に戻っても、お面の少女と赤い花嫁装束の女性がいるだけなのだ。

 覚悟を決めて、私は奇妙なヒト混みの中を歩きだす。着物の袖からのぞく動物の手足。奇妙に薄っぺらい人影や、二メートル以上ある巨大な塊。ひらひら歩く浴衣の子どもはよく見ると鱗が生えている。足元を通り過ぎた毛玉が、ふりかえってにやりと笑った。驚いて後ろに下がると、すっぱりと頭を紙袋で隠した男のひとにぶつかった。あわてて、謝ってとび退く。無言で彼は去っていった。

 ここはどこだろう。今は何時だろう。

 ケータイを鞄と一緒になくしてしまったから、時間すら分からない。鞄があれば誰かに連絡して探してもらえたかもしれないのに。少しだけ考えて、私は頭をふった。仮にケータイがあったとしても、ここで普通に通話ができるとはとても思えない。

 ふと、視線を落として、私はまだ自分がリンゴ飴を握ったままなことに気づいた。とても食べる気は起きないが、道端に捨てるわけにもいかない。しかたなく、持ったまま歩くことにする。

 もう随分と歩いた気がするのに、『おやま』の終わりは見えない。その時、あるものが私の目に飛び込んできた。

狐がいる。

 ふらりふらりと歩いていた先、ビニール小屋のような即席のお店の前に白い狐のお面をかぶった人が座っている。夜祭りがおかしくなる直前、見た店だ。大急ぎで、流れから抜け出すと、私は店先にいる狐面の男性に駆け寄った。

「すみません。道を教えてください」

 無言で狐面は顔をこちらに向けた。返事がないことに不安になるが、続ける。

「家に帰りたいんですけど、出口が分からなくなってしまって」

「――――ない」

 一瞬、言われた意味が分からずに私はしげしげと狐面を見つめた。白狐だ。お面に空いた穴の向こうには本物の目があるはずだが、光の加減か今はただの闇が広がっているように見える。

「お前が帰る道はもうない。そして、行ってもいい道はあちらだけだ」

狐面ははっきりと私が走ってきた方角を指差した。あの、気持ちの悪い地蔵のあった方向だ。あんなところにいくなんて冗談じゃない。

「なに言ってるか……意味が分かりません」

「お前、『おやま』に来る直前なにをしていた?」

 唐突に狐面は尋ねた。私は戸惑いながらも答える。

「何って、普通に家出て歩いて来たわ」

「家を出て、どの道を通ってどうやってきた?」

「家を出て前の道を歩いて、交差点を越えて」

 はたとそこで私は言葉を止めた。家を出た記憶はある。ふらふらと交差点に向かって歩いていた記憶もある。けれど、正面の灯篭の間とその前の『おやま』に入る橋を通った記憶は……ない。

 そんなことがあるわけはない。『おやま』の中の道は無数に枝分かれしているが、『おやま』自体に入るには必ず橋と灯篭前を通らないといけない。

 身体が震え出した。寒いわけじゃない。むしろ、ここはとても暑い。

「交差点を渡って――――車が走って来て」

 白いワゴンだった。

 混雑にしびれを切らしたのか無理やり右折してきて、それで――――

「…………あれ?」

「お前は帰りたいといっているが、お前の家はどこにあるんだ?」

 ゆっくりと血の気が引いていく。

 『おやま』に来た記憶がない。そして、『おやま』から家に帰る道も思い出せない。

 なんてことない日常のことは思い出せるのに、それだけがすっぽりと消えている。

「『おやま』の夜祭りには、色々と集まってくる。夜祭りは、あちらとこちらの境目で行われるからだ。あちらのものはこちらに現れ、こちらのものはあちらに会える。去るべきものが留まり、留まったものが時に動き出す。死者が歩き、あやかしが舞い、影が実を得る。珍しいことじゃない」

 淡々と狐面は行った。

「でも、私はちゃんと貴方と話していて、ほら、モノも持ってるし」

 リンゴ飴を差し出す。どこか気の毒そうに狐面は私を見た。

「『おやまの夜祭り』は特別だ。ここは彼岸ではないが、此岸でもない。死者であっても本、生きている時と同じように振る舞える。まして、本人に死んだ自覚がないならなおさらだ」

 私はリンゴ飴を見た。

 ずしりとその重みが増した気がした。

「だが、死者は『おやま』のむこうに還るもの。今は形をもってここにいられても、いずれはむこう側にいかなくてはならないことに、変わりはない。帰り道はすでに閉ざされた。ここで迷えば、いく道すら閉ざされる。永久に『おやま』の夜祭りから出られなくなるぞ。さあ、はやくいけ」

 ずきりと足が痛んだ。足だけじゃない。体中がずきずきと痛み出す。するりと手からリンゴ飴が落ちた。

「痛いっ!!」

 激痛に思わず私は叫んだ。指先に生温かいものが触れる。慌てて手を見ると、指がおかしな方向に曲がっていた。耐えきれず、私はその場に座り込む。とろとろと赤い血が流れて地面を汚していく。

「痛い、痛い……助けて…………」

「逃げるな。死者はもう此岸には残れない。ここでさらに彼岸に行くのを拒否すれば、狭間である『おやま』の夜祭りで永久に彷徨う羽目になる」

 手を伸ばす私から視線を外さずに、はっきりと狐面は言った。

「お前はもう生者ではない。認めなければ、惑わされるぞ」

 視線を下ろすと、腹が避けていた。内臓がその傷口からのぞいている。真っ赤に染まる視界の片隅で、赤い血に沈んだ赤い塊を白い指が拾い上げた。

「死ぬの?」

 リンゴ飴。

 毒々しく染まったそれを、何の気なしに指は掴んで拾い上げる。のっぺりした化け猫の面と目が合った。


 ………………しぬのはいやだ


 ふいに意識が収束する。

 そうだ。私が死人だなんて、そんなことがあるわけがない。死んだ人間が出歩いているなんて、悪質な冗談か嫌がらせだ。そう思うと同時にすうと痛みが弱くなる。恐る恐る見下ろした手は――もう赤くなかった。

「……私は死んでなんかいない。私は、家に帰る」

 猫が笑っている。

 動かぬはずの面の顔が確かに歪んだ。その後ろで白狐がなにかを叫んで手を伸ばしたが、私はそれを振り払って走り出した。驚いたように視線を向ける人とそうでないものの間をすり抜けて、祭りの灯りの中を必死で走る。

「あらあら」「何事?」「迷ひ子?」「猫が」「また余計なことを」「可哀想に」「化け猫は」「死者を弄ぶ」「まあ、そっちは……」

 影がざわめく。

 それに混じって誰かの声が聞こえたが、私は無視して走り続けた。

 頭がくらくらする。もうどれくらい走っているのか分からない。どこまで走っても、赤い提灯がゆるく道行きを照らしている。足元で影がゆれる。影ばかりが大きくなって、自分の輪郭がとろけて消えていくような心地だ。それでもなぜか足を止められない。

 はやく。

 煌びやかな着物の間を潜り抜け、片手をあげる招き猫の群れを踏みつけた。揺らめく影とともに走り、灯篭に照らされた竹林を通り抜けた。

 はやく。

 はやく。

 もうなにから逃げていたのかも分からない。どこへ向かっているのかも分からない。思考は沼地の底のように停滞して淀んでいる。それでも、得体のしれない感覚だけが私を突き動かしていく。

 はやく。

 はやく―――――



   *



 今日は『おやま』のお祭りだ。


 気がつくと、私はひとりで夜祭りの中にいた。きらきらと並んだ提灯や夜店の灯りが闇夜に輝く。

 なぜ、こんなところにいるのだろう。

「ああ、そうだ」

 家に帰らないといけない。

 参道はどちらだろう。なぜか視界がかすんで、道行く人の姿がうすぼんやりと見える。妙に大きかったり、小さかったりする影が見えるのは気のせいだろうか。

 通り過ぎる人ごみの中に、一瞬だけ狐のお面が見えた気がした。けれど、それもすぐに他の影に紛れて消える。

 はやく家に帰りたい。

 気持ちは焦るのに頭はどこかぼんやりとしている。

 帰らないといけない。


 でも、どこに?


 一瞬だけ浮かんだ言葉は、霞がかかったような思考の海にすぐに溶けてきえた。

 はやく。早く。家に帰ろう。

 帰ればきっと、きっと――――


おわり


きっと誰も分からない裏設定。


白狐……狐は本来陰陽五行で土なのですが、白狐は金です。そのため、土より金が生じるとして、商売繁盛のご利益があるとされています。なので、夜店の商人のお兄さんのお面は白狐です。

地蔵……賽ノ河原です。親より先に死んだ子どもは、ここで地蔵の救済を待って石を積み上げ続けます。まだ若い「私」はすでにこの世の住人ではなく、また作中で名言はされていませんが親より先に死んでいるため、初めにここに迷いこみます。

カエルのお化け……胎児が胚から人間の姿になる過程の一時、両生類に似た形になる時期があります。水からはい出してくる二足のカエルは、水子の暗喩です。

化け猫……三味線は猫の皮から出来ていて、化け猫の好む道具です。化け猫は、死体をさらう(火車)、死者を見る、死体を操る、猫がまたぐと死体が起きあがる(猫叉)、食べた死体の姿を取る(山猫)など、死者にまつわる迷信の多い妖怪です。本編でも死者を惑わします。

死者の食べ物……イザナミが黄泉の食物を食べてしまったため、地上には帰れなくなる話が有名ですが、似たような話は世界中にあります。

おやま……御山。もしくは御夜魔。山中異界。日本の一部地域では、死んだ人間は山に登ると言われており、また山は人間以外のものの領域でありあの世とこの世の境でもあります。

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