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短編(恋愛)

エリーゼとかのために

作者: 木風
掲載日:2026/08/28

 その譜面を手渡された瞬間、私は前世を思い出した。

 表紙には、うっとりするほど流麗な筆致でこう書かれていた。


『エリーゼとかのために』


 ……とか。

 とか、って。


 脳の奥で、栓が抜けるような音がした。

 残業帰りの電車、コンビニのレジ袋、スマホの画面。


 二十七年ぶんの記憶が一気に流れ込んできて、私は思わずよろめいた。

 前世の私は日本の会社員で、そしてどうやら今の私は、ヴァルトハイム侯爵家の娘エリーゼ、十六歳らしい。


「感動して声も出ないかい」


 目の前で微笑んでいるのは、婚約者のマリウス・フォン・アーベント。

 王都で最も才能があると言われる若き作曲家。

 艶やかな黒髪、伏せた睫毛、指の長い手。

 絵に描いたような天才で、絵に描いたような美形だった。


 私は表紙をもう一度見た。

 やっぱり「とか」と書いてある。


「マリウス様。この、とか、というのは」

「ああ」


 彼は満足げに頷いた。


「僕は君だけの狭い場所に音楽を閉じ込めたくないんだ。エリーゼという名は、この曲においてもっと普遍的な、女性性そのものの象徴でね。君という個を超えて──」

「私の名前ですけど」

「だからこそ美しいんだよ」


 美しくはない、と思った。


 この世界では、音楽が魔法だった。

 正確には、作曲家が誰かの名を冠して曲を捧げると、それが「献名」となる。


 献名された曲が演奏されるたび、名を冠された者に加護が宿る。

 健やかさ、幸運、悪意からの守り。


 だから貴族の令嬢にとって、優れた作曲家から献名を受けることは、宝石よりも重い意味を持っていた。


 そして献名は、名前の正確さがすべてだ。

 呪文と同じで、宛先が曖昧なら魔力は届かない。


 しかも一度捧げられた名前は、譜面ではなく曲そのものに刻まれる。

 写譜しようが、別の楽器に編曲しようが、献名の痕跡だけは消えない。


 つまり『エリーゼとかのために』は、魔法として、あまりにも雑だった。


 その夜、私は自室の古い縦型ピアノの前で譜面を開いた。

 前世の記憶のおかげで、五線譜は不思議とすらすら読めた。


 冒頭……右手が、ミとレのあいだを行ったり来たりする。


 ミ、レ、ミ、レ、ミ。


 決めきれない。

 踏み出しては戻り、また踏み出しては戻る。


 前世で知っていた『エリーゼのために』とは、もちろん別の曲だ。

 それでも私は思った。


 迷ってるじゃん。


 この曲、最初の一秒から迷ってる。


「脳みそが痒くなりますね」


 そう言ったのは、翌日ピアノの調律に来た青年だった。


 テオドール。

 灰色の髪を無造作に結んだ、二十歳そこそこの調律師で、この屋敷には三年前から出入りしている。

 地味で無口で、でも耳だけは異様にいい男だ。


「痒い?」

「痒いところに手が届かない、という意味です。この曲、届きそうで届かないんですよ。ずっと」


 彼は弦の張りを確かめながら、淡々と続けた。


「聴かせるのが上手いのは確かです。ただ、うまいのと誠実なのは別の話でして」


 私が思わず笑っていると、侍女のマルタが横から口を挟む。


「お嬢様、あたしは音楽のことなんてさっぱりですけどね。こんなやつやめなよ、って思いますよ」

「マルタ」

「だって『とか』ですよ、『とか』。お嬢様の名前に『とか』つけるやつなんて、この先ぜったい他にも『とか』つけてますって」


 言葉に詰まった。

 テオドールが手を止めて、こちらを見た。


「……そこまで言い切りますか」

「女の勘ですよ」

「なるほど」


 なぜか納得している。

 私は譜面を閉じながら、ふと思い出して尋ねた。


「テオドールは作曲しないの?」

「少しだけ」

「聴かせてくれたことないわね」

「まだ人に聴かせられるものではありませんので」

「ずいぶん慎重なのね」

「完成していない曲を、完成したふりで渡す方が苦手なんです」


 マルタが私を見た。

 私もマルタを見た。

 何も言わなかったけれど、たぶん同じ人を思い浮かべていた。


「それより、エリーゼ様」


 テオドールが譜面へ視線を戻した。


「よろしければ、その譜面の魔力痕を見せていただけませんか」

「魔力痕?」

「献名された曲には、宛先へ伸びる糸のような痕が残ります。調律師は、その響きを聴き分ける訓練を受けますので」


 私が譜面を渡すと、彼はそれを目の高さに掲げ、目を閉じる。

 やがて眉間に皺が寄った。


「……分岐しています」

「え?」

「この曲から伸びている糸が、一本ではありません。少なくとも、四本。いえ、五本」

「五本?」

「同じ曲が、五人に献名されています」


 私は譜面を見た。


『エリーゼとかのために』


 急に「とか」がものすごく嫌な意味を持ち始めた。


「でも、これは私に渡された譜面でしょう?」

「献名は紙ではなく曲そのものに刻まれます。同じ曲を別の譜面に書き写し、別の名前をつけても、元はひとつです」


 テオドールが私へ譜面を返した。


「おそらく他の四人にも、それぞれ名前を書き換えたものを渡しています。宛先を『とか』で曖昧にしたせいで魔力が分散し、誰にもまともに届いていない」


 マルタが腕を組んだ。


「ほらね」


 女の勘、強い。


 三日後、私は下町の鐘楼にいた。

 テオドールが糸の一本をたどって、行き先を突き止めてくれたのだ。


 彼女は塔の上で、真昼の鐘を鳴らしていた。

 褐色の髪を短く切った、私より少し年上の娘。


 名をクララという。

 平民出身でありながら、その歌声は王都の教会音楽を塗り替えたと言われる、鐘の歌姫。


 私が名乗ると、彼女は肩をすくめて、懐から一枚の紙を出した。


『クララとかのために』


 私たちは同時にため息をつくと、クララは鐘の縁を撫でながら言った。


「あの人ね、私に言ったのよ。『君の名は音そのものだ。だから、とか、をつけることで音楽が名前から自由になる』って」

「私には『女性性の象徴』って言いました」

「使い回してるじゃない」

「使い回してますね」


 二人で笑った。

 笑いながら、少し泣きそうになった。


 残りの三人もすぐに見つかった。


 侯爵令嬢がもう一人。

 伯爵家の未亡人が一人。

 そして王立音楽院の教師が一人。


 全員が同じ旋律を、それぞれ違う名前の「とか」で受け取っていた。

 全員が、加護がやけに薄いことを不思議に思っていた。

 全員が、彼を信じていた。


 五人で顔を合わせた夜、いちばん年上の未亡人が言った。


「怒っていいのよね、これ」

「ええ。怒っていいと思います。ただ、怒鳴るのはもったいない」


 クララが身を乗り出した。


「何か手があるの?」

「来月、王宮で献奏審査会があります」


 宮廷作曲家の位を賭けた、年に一度の場。

 献名の加護を可視化する儀式を伴う、王国でもっとも権威ある審査だ。


 マリウスは当然、あの曲を出す。

 今年こそ宮廷作曲家の位を取ると、何度も聞かされていた。


「あそこで、彼自身の曲に、正直に喋ってもらいましょう」


 そして私はクララに向き直った。


「もうひとつ、確かめたいことがあるんです。あの曲の中間部──途中でふっと転調して、鐘みたいに高く跳ねるところ」


 クララの顔から笑みが消えた。


「……どんな旋律?」

「ここです」


 譜面を開いて見せると、クララの指がぴたりと止まった。


「これ、私が三年前に書いた『暁鐘』の主題よ」

「やっぱり」

「鐘を模した跳躍まで同じ。譜面を見せたことがあるの。まだ発表してない」


 私は譜面を閉じた。

 マリウスの問題が、もうひとつ増えた。




 献奏審査会当日。

 王宮の大広間は、白い光であふれていた。


 王族、高位貴族、音楽院の重鎮たち。

 中央には大きな献名の魔法陣が描かれている。


 演奏された曲に刻まれた献名が、光の糸となって宛先の人物へ伸びる。

 誰へ、どれほどの加護が届くのか。

 そのすべてが、この場では隠せない。


 マリウスは自信に満ちていた。

 私が最前列にいるのを見つけて、優雅に会釈までしてみせた。


 彼はまだ、何も知らない。

 私が黙って微笑み返したのを、愛だとでも思ったのだろう。


 演奏が始まった。


 ミ、レ、ミ、レ、ミ。


 あの迷いの旋律。

 悔しいことに、美しかった。

 あの人の指はやっぱり天才の指で、広間の空気がふっと甘くなるのがわかった。

 何人かの令嬢がうっとりと目を閉じる。


 魔法陣が光り始めると、糸が伸びる。


 一本──ではなかった。

 根元でほどけるように、光は二本に、三本に、五本に分かれた。

 細く、頼りなく、まるで水で薄めた酒みたいに。


 広間がざわめき始め、マリウスの指が乱れる。

 それでも彼は止まらなかった。

 曲が急に饒舌になるように、走句を重ね、装飾を足し、なだめるように甘い和音を差し込む。


 ──浮気がばれた男の言い訳みたいだ。

 音でここまで取り繕える人も、なかなかいない。


 そして、中間部。

 高音が大きく跳ねた。

 鐘を思わせる旋律が広間に響いた、そのとき。

 客席の後方から歌声が重なった。


 クララだった。

 彼女は立ち上がり、同じ主題を歌った。

 鐘の音をなぞるように高く跳ね、落ち、また高く昇る。


 三年前に彼女が書いた『暁鐘』。

 まだ世に出ていない旋律を、それを作った本人が歌っている。

 広間の視線が、ピアノからクララへ移っていく。


 マリウスの演奏が止まると、私は立ち上がり譜面を掲げた。

 隣で、三人も同じように立つ。


『エリーゼとかのために』

『クララとかのために』

『ドリーとかのために』

『ナターリヤとかのために』

『マリンとかのために』


 五枚。

 同じ曲、違う名前。


「陛下。献名法は、宛先の明記を義務としています。この曲には五つの献名が刻まれています。しかも中間主題は、クララが三年前に作曲したものです」


 私は中央の魔法陣を見た。


「魔法陣が、すでに証言しております」


 マリウスが青ざめた顔で立ち上がった。


「違う! これは芸術的な、普遍性の探求で──」

「普遍性なら、名前を五つ書けばよかったんです」


 彼が言葉を失う。


「あなたがしたのは、名前を広げたことじゃない。都合よく消したことです」


 審査長が魔法陣の記録を確認する。

 宮廷作曲家候補の資格剥奪。

 献名法違反による作曲家登録の三年停止。

 クララへの主題使用料の全額支払い。


 そして、五人それぞれへの賠償。

 アーベント家は即日、彼との縁を切った。

 うちの父は婚約破棄の書面に慰謝料を上乗せさせた上で、ものすごく良い顔で署名していた。


 連れ出される直前、マリウスが私を見た。


「エリーゼ、君だけは僕を──」

「私だけ、が言えないから、こうなったんですよ」


 私は初めて、彼にきちんと笑ってみせた。




 半年後。

 クララは『暁鐘』を発表し、王都でいちばん忙しい歌姫になった。

 今でもときどき手紙が来る。


『あいつのおかげで友達ができたのだけは感謝してる』


 そう書いてあって、私も同意の返事を書いた。

 同封されたチケットを眺めながら、来月の彼女のコンサートが今から待ち遠しい。


 私はといえば、婚約破棄の慰謝料でヴァルトハイムの離れを改装し、献名の魔力痕を鑑定する小さな工房を開いた。

 曖昧な献名に泣かされている令嬢は、思ったより多かった。

 その工房の隅で、テオドールは相変わらずピアノを調律している。


 ある夕方、彼が手を止めた。


「エリーゼ様」

「なに?」


 鞄から薄い綴じ譜を取り出す。

 表紙には、飾り気のない字でこう書いてあった。


『エリーゼのために』


 とか、が、なかった。


「……いつから書いてたんですか」

「三年前からです。ずっと直していました」


 顔を上げた。


「三年前?」

「以前、作曲するのかと聞かれたでしょう」

「まだ人に聴かせられないって」

「はい。あれです」


 彼の耳が赤くなっていた。

 それでも目は逸らさない。


「僕は天才ではないので、一曲書くのに三年かかります。加護も強くはありません」


 そして、少し困ったように譜面を見た。


「でも、糸の行き先だけは間違えません」

「弾いてください」


 私はその譜面を胸に抱いた。


 テオドールが鍵盤に手を置く。

 冒頭は、迷わなかった……まっすぐに、低いところから昇っていく旋律。

 飾りは少なく、けれど一音も余っていない。


 窓の外で夕日が沈み、部屋の隅の魔法灯がひとりでに灯った。


 私の胸元から、細い光が伸びる。

 揺れず、分かれず、テオドールの指先へ……一本だけ。


「テオドール」

「はい」

「私の名前、もう一度呼んでもらえますか」


 彼はこちらを見た。


「エリーゼ」


 何も付け足さずに、そう言った。

誰でも知ってるあの曲ですね。

某動画サイトで、タイトルを検索してみると…?

ブックマーク、★★★★★、リアクション、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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ベートーヴェンの『エリーゼのために』ですが、実は『テレーゼのために』だったのを、ベートーヴェンの悪筆のせいでエリーゼと読み間違えたと言う説がありますよね(ホントかどうかは知りませんが) ま、それはとも…
世界観が面白い。 テオドールも転生者でうっすら記憶に曲が残ってたのか。
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