エリーゼとかのために
その譜面を手渡された瞬間、私は前世を思い出した。
表紙には、うっとりするほど流麗な筆致でこう書かれていた。
『エリーゼとかのために』
……とか。
とか、って。
脳の奥で、栓が抜けるような音がした。
残業帰りの電車、コンビニのレジ袋、スマホの画面。
二十七年ぶんの記憶が一気に流れ込んできて、私は思わずよろめいた。
前世の私は日本の会社員で、そしてどうやら今の私は、ヴァルトハイム侯爵家の娘エリーゼ、十六歳らしい。
「感動して声も出ないかい」
目の前で微笑んでいるのは、婚約者のマリウス・フォン・アーベント。
王都で最も才能があると言われる若き作曲家。
艶やかな黒髪、伏せた睫毛、指の長い手。
絵に描いたような天才で、絵に描いたような美形だった。
私は表紙をもう一度見た。
やっぱり「とか」と書いてある。
「マリウス様。この、とか、というのは」
「ああ」
彼は満足げに頷いた。
「僕は君だけの狭い場所に音楽を閉じ込めたくないんだ。エリーゼという名は、この曲においてもっと普遍的な、女性性そのものの象徴でね。君という個を超えて──」
「私の名前ですけど」
「だからこそ美しいんだよ」
美しくはない、と思った。
この世界では、音楽が魔法だった。
正確には、作曲家が誰かの名を冠して曲を捧げると、それが「献名」となる。
献名された曲が演奏されるたび、名を冠された者に加護が宿る。
健やかさ、幸運、悪意からの守り。
だから貴族の令嬢にとって、優れた作曲家から献名を受けることは、宝石よりも重い意味を持っていた。
そして献名は、名前の正確さがすべてだ。
呪文と同じで、宛先が曖昧なら魔力は届かない。
しかも一度捧げられた名前は、譜面ではなく曲そのものに刻まれる。
写譜しようが、別の楽器に編曲しようが、献名の痕跡だけは消えない。
つまり『エリーゼとかのために』は、魔法として、あまりにも雑だった。
その夜、私は自室の古い縦型ピアノの前で譜面を開いた。
前世の記憶のおかげで、五線譜は不思議とすらすら読めた。
冒頭……右手が、ミとレのあいだを行ったり来たりする。
ミ、レ、ミ、レ、ミ。
決めきれない。
踏み出しては戻り、また踏み出しては戻る。
前世で知っていた『エリーゼのために』とは、もちろん別の曲だ。
それでも私は思った。
迷ってるじゃん。
この曲、最初の一秒から迷ってる。
「脳みそが痒くなりますね」
そう言ったのは、翌日ピアノの調律に来た青年だった。
テオドール。
灰色の髪を無造作に結んだ、二十歳そこそこの調律師で、この屋敷には三年前から出入りしている。
地味で無口で、でも耳だけは異様にいい男だ。
「痒い?」
「痒いところに手が届かない、という意味です。この曲、届きそうで届かないんですよ。ずっと」
彼は弦の張りを確かめながら、淡々と続けた。
「聴かせるのが上手いのは確かです。ただ、うまいのと誠実なのは別の話でして」
私が思わず笑っていると、侍女のマルタが横から口を挟む。
「お嬢様、あたしは音楽のことなんてさっぱりですけどね。こんなやつやめなよ、って思いますよ」
「マルタ」
「だって『とか』ですよ、『とか』。お嬢様の名前に『とか』つけるやつなんて、この先ぜったい他にも『とか』つけてますって」
言葉に詰まった。
テオドールが手を止めて、こちらを見た。
「……そこまで言い切りますか」
「女の勘ですよ」
「なるほど」
なぜか納得している。
私は譜面を閉じながら、ふと思い出して尋ねた。
「テオドールは作曲しないの?」
「少しだけ」
「聴かせてくれたことないわね」
「まだ人に聴かせられるものではありませんので」
「ずいぶん慎重なのね」
「完成していない曲を、完成したふりで渡す方が苦手なんです」
マルタが私を見た。
私もマルタを見た。
何も言わなかったけれど、たぶん同じ人を思い浮かべていた。
「それより、エリーゼ様」
テオドールが譜面へ視線を戻した。
「よろしければ、その譜面の魔力痕を見せていただけませんか」
「魔力痕?」
「献名された曲には、宛先へ伸びる糸のような痕が残ります。調律師は、その響きを聴き分ける訓練を受けますので」
私が譜面を渡すと、彼はそれを目の高さに掲げ、目を閉じる。
やがて眉間に皺が寄った。
「……分岐しています」
「え?」
「この曲から伸びている糸が、一本ではありません。少なくとも、四本。いえ、五本」
「五本?」
「同じ曲が、五人に献名されています」
私は譜面を見た。
『エリーゼとかのために』
急に「とか」がものすごく嫌な意味を持ち始めた。
「でも、これは私に渡された譜面でしょう?」
「献名は紙ではなく曲そのものに刻まれます。同じ曲を別の譜面に書き写し、別の名前をつけても、元はひとつです」
テオドールが私へ譜面を返した。
「おそらく他の四人にも、それぞれ名前を書き換えたものを渡しています。宛先を『とか』で曖昧にしたせいで魔力が分散し、誰にもまともに届いていない」
マルタが腕を組んだ。
「ほらね」
女の勘、強い。
三日後、私は下町の鐘楼にいた。
テオドールが糸の一本をたどって、行き先を突き止めてくれたのだ。
彼女は塔の上で、真昼の鐘を鳴らしていた。
褐色の髪を短く切った、私より少し年上の娘。
名をクララという。
平民出身でありながら、その歌声は王都の教会音楽を塗り替えたと言われる、鐘の歌姫。
私が名乗ると、彼女は肩をすくめて、懐から一枚の紙を出した。
『クララとかのために』
私たちは同時にため息をつくと、クララは鐘の縁を撫でながら言った。
「あの人ね、私に言ったのよ。『君の名は音そのものだ。だから、とか、をつけることで音楽が名前から自由になる』って」
「私には『女性性の象徴』って言いました」
「使い回してるじゃない」
「使い回してますね」
二人で笑った。
笑いながら、少し泣きそうになった。
残りの三人もすぐに見つかった。
侯爵令嬢がもう一人。
伯爵家の未亡人が一人。
そして王立音楽院の教師が一人。
全員が同じ旋律を、それぞれ違う名前の「とか」で受け取っていた。
全員が、加護がやけに薄いことを不思議に思っていた。
全員が、彼を信じていた。
五人で顔を合わせた夜、いちばん年上の未亡人が言った。
「怒っていいのよね、これ」
「ええ。怒っていいと思います。ただ、怒鳴るのはもったいない」
クララが身を乗り出した。
「何か手があるの?」
「来月、王宮で献奏審査会があります」
宮廷作曲家の位を賭けた、年に一度の場。
献名の加護を可視化する儀式を伴う、王国でもっとも権威ある審査だ。
マリウスは当然、あの曲を出す。
今年こそ宮廷作曲家の位を取ると、何度も聞かされていた。
「あそこで、彼自身の曲に、正直に喋ってもらいましょう」
そして私はクララに向き直った。
「もうひとつ、確かめたいことがあるんです。あの曲の中間部──途中でふっと転調して、鐘みたいに高く跳ねるところ」
クララの顔から笑みが消えた。
「……どんな旋律?」
「ここです」
譜面を開いて見せると、クララの指がぴたりと止まった。
「これ、私が三年前に書いた『暁鐘』の主題よ」
「やっぱり」
「鐘を模した跳躍まで同じ。譜面を見せたことがあるの。まだ発表してない」
私は譜面を閉じた。
マリウスの問題が、もうひとつ増えた。
献奏審査会当日。
王宮の大広間は、白い光であふれていた。
王族、高位貴族、音楽院の重鎮たち。
中央には大きな献名の魔法陣が描かれている。
演奏された曲に刻まれた献名が、光の糸となって宛先の人物へ伸びる。
誰へ、どれほどの加護が届くのか。
そのすべてが、この場では隠せない。
マリウスは自信に満ちていた。
私が最前列にいるのを見つけて、優雅に会釈までしてみせた。
彼はまだ、何も知らない。
私が黙って微笑み返したのを、愛だとでも思ったのだろう。
演奏が始まった。
ミ、レ、ミ、レ、ミ。
あの迷いの旋律。
悔しいことに、美しかった。
あの人の指はやっぱり天才の指で、広間の空気がふっと甘くなるのがわかった。
何人かの令嬢がうっとりと目を閉じる。
魔法陣が光り始めると、糸が伸びる。
一本──ではなかった。
根元でほどけるように、光は二本に、三本に、五本に分かれた。
細く、頼りなく、まるで水で薄めた酒みたいに。
広間がざわめき始め、マリウスの指が乱れる。
それでも彼は止まらなかった。
曲が急に饒舌になるように、走句を重ね、装飾を足し、なだめるように甘い和音を差し込む。
──浮気がばれた男の言い訳みたいだ。
音でここまで取り繕える人も、なかなかいない。
そして、中間部。
高音が大きく跳ねた。
鐘を思わせる旋律が広間に響いた、そのとき。
客席の後方から歌声が重なった。
クララだった。
彼女は立ち上がり、同じ主題を歌った。
鐘の音をなぞるように高く跳ね、落ち、また高く昇る。
三年前に彼女が書いた『暁鐘』。
まだ世に出ていない旋律を、それを作った本人が歌っている。
広間の視線が、ピアノからクララへ移っていく。
マリウスの演奏が止まると、私は立ち上がり譜面を掲げた。
隣で、三人も同じように立つ。
『エリーゼとかのために』
『クララとかのために』
『ドリーとかのために』
『ナターリヤとかのために』
『マリンとかのために』
五枚。
同じ曲、違う名前。
「陛下。献名法は、宛先の明記を義務としています。この曲には五つの献名が刻まれています。しかも中間主題は、クララが三年前に作曲したものです」
私は中央の魔法陣を見た。
「魔法陣が、すでに証言しております」
マリウスが青ざめた顔で立ち上がった。
「違う! これは芸術的な、普遍性の探求で──」
「普遍性なら、名前を五つ書けばよかったんです」
彼が言葉を失う。
「あなたがしたのは、名前を広げたことじゃない。都合よく消したことです」
審査長が魔法陣の記録を確認する。
宮廷作曲家候補の資格剥奪。
献名法違反による作曲家登録の三年停止。
クララへの主題使用料の全額支払い。
そして、五人それぞれへの賠償。
アーベント家は即日、彼との縁を切った。
うちの父は婚約破棄の書面に慰謝料を上乗せさせた上で、ものすごく良い顔で署名していた。
連れ出される直前、マリウスが私を見た。
「エリーゼ、君だけは僕を──」
「私だけ、が言えないから、こうなったんですよ」
私は初めて、彼にきちんと笑ってみせた。
半年後。
クララは『暁鐘』を発表し、王都でいちばん忙しい歌姫になった。
今でもときどき手紙が来る。
『あいつのおかげで友達ができたのだけは感謝してる』
そう書いてあって、私も同意の返事を書いた。
同封されたチケットを眺めながら、来月の彼女のコンサートが今から待ち遠しい。
私はといえば、婚約破棄の慰謝料でヴァルトハイムの離れを改装し、献名の魔力痕を鑑定する小さな工房を開いた。
曖昧な献名に泣かされている令嬢は、思ったより多かった。
その工房の隅で、テオドールは相変わらずピアノを調律している。
ある夕方、彼が手を止めた。
「エリーゼ様」
「なに?」
鞄から薄い綴じ譜を取り出す。
表紙には、飾り気のない字でこう書いてあった。
『エリーゼのために』
とか、が、なかった。
「……いつから書いてたんですか」
「三年前からです。ずっと直していました」
顔を上げた。
「三年前?」
「以前、作曲するのかと聞かれたでしょう」
「まだ人に聴かせられないって」
「はい。あれです」
彼の耳が赤くなっていた。
それでも目は逸らさない。
「僕は天才ではないので、一曲書くのに三年かかります。加護も強くはありません」
そして、少し困ったように譜面を見た。
「でも、糸の行き先だけは間違えません」
「弾いてください」
私はその譜面を胸に抱いた。
テオドールが鍵盤に手を置く。
冒頭は、迷わなかった……まっすぐに、低いところから昇っていく旋律。
飾りは少なく、けれど一音も余っていない。
窓の外で夕日が沈み、部屋の隅の魔法灯がひとりでに灯った。
私の胸元から、細い光が伸びる。
揺れず、分かれず、テオドールの指先へ……一本だけ。
「テオドール」
「はい」
「私の名前、もう一度呼んでもらえますか」
彼はこちらを見た。
「エリーゼ」
何も付け足さずに、そう言った。
誰でも知ってるあの曲ですね。
某動画サイトで、タイトルを検索してみると…?
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