第73話 ー『1040億円ではなく、家族』
第73話 ー『1040億円ではなく、家族』
2026年6月5日(金)——午前8時0分。
丸の内·キサラギ・アセット・マネジメント本社ビル——十階。
朝の光が社長室の大きなガラス窓から差し込み、濃い色の木の床の上に光の模様を作り出している。樹は社長椅子に座り、手にブラックコーヒーのカップを持ち、財務報告書が表示されたタブレットの画面を見つめていた。見慣れた数字——千四十五億六千四百八十万円——が画面に表示されているが、今朝はその数字がいつもと違って見えた。
樹は奇妙な感覚でその数字を見つめた。千四十五億円は非常に大きな金額だ。ビルを買い、会社を買い、ホテルを買い、欲しいもののほとんど全てを買うのに十分な額だ。しかし彼がそれを家族と比べた時、実家で過ごした夜々と、留奈の笑い声と、母の抱擁と比べた時、その数字は……空虚に感じられた。
「こんなにたくさんのお金に、何の意味があるんだ?」
彼は小声で呟き、冷め始めたコーヒーを一口すする。心は世田谷の家へと飛んでいた。母の料理の香りがする台所、父と古い喫茶店でした会話、そして小春の理解に満ちた眼差し。
社長室の扉が静かに開いた。志織が静かな足取りで入ってくる。タブレットを手に、いつも心を落ち着かせるプロフェッショナルな微笑みを浮かべて。
「おはようございます、如月さん。ご確認いただくものがございます。」志織は立ち止まり、物思いにふける樹の表情を見た。「……如月さん? 何かお悩みですか?」
樹は顔を上げ、小さく微笑んだ。「……いや、志織さん。ただ考え事をしていただけだ。」
志織は無理に聞こうとしなかった。ただ近づき、机の上に何枚かの書類を置いた。「……大阪と名古屋の物件報告書です。久遠さんが今朝送られてきました。」
樹はその書類を受け取り、ざっと目を通してからタブレットの横に置いた。「……ありがとう、志織さん。後で読むよ。」
志織はしばらく樹を見つめ、そしてより柔らかな声で言った。「……如月さん、もし何かお話しになりたいことがあれば、私はここにおります。」
樹は顔を上げ、心からの感謝の気持ちで志織を見た。「……ありがとう、志織さん。ただ……家族のことを考えていたんだ。」
志織は頷き、それ以上は尋ねなかった。微笑み、自分の机へ戻ろうとした。
「……志織さん。」
志織が立ち止まり、振り返った。「……はい?」
「……お金では本当に大切なものを買えないと感じたことはあるか?」
志織はしばらく考え、そして優しい声で答えた。「……誰しも一度は感じることだと思います、如月さん。お金は快適さを買えますが、幸せは買えません。お金は時間を買えますが、思い出は買えません。」彼女は微笑んだ。「……でも、お金は私たちが愛するものを守るために使うこともできます。あなたがしていることです。」
樹は志織の言葉を考えた。答えなかったが、心の中で何かが動いた。
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午前10時0分——皇居周辺·一人で散歩。
樹はしばらくオフィスを離れて散歩することにした。新鮮な空気と、全てを考える時間が必要だった。彼は皇居周辺を歩いた。緑豊かな木々と静かな濠の間を。遠くには、丸の内の高層ビル群が石垣の向こうにそびえている。
彼は濠のほとりで立ち止まり、青い空を映す静かな水面を見つめた。忙しい都会の真ん中で、他にはない静けさがあった。
樹は家族のことを考えた。いつも懸命に働きながら決して文句を言わない父。いつも心配しながら決して無理強いしない母。疑い始めながらも変わらず愛してくれる妹たち。
「彼らは俺の財産を知らない。でも、それでも愛してくれている。」
彼は小さく微笑み、説明できない温かさを感じた。初めて、お金が家族の愛情の理由ではなかったことに気づいた。彼らが彼を愛しているのは、彼が彼らの子供であり、彼が彼らの兄であり、彼が彼自身だからだ。
「……俺は幸せ者だ。」
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午前11時30分——丸の内仲通り·小さなカフェ。
樹は丸の内仲通りの小さなカフェに座り、ブラックコーヒーとシンプルなチーズケーキを楽しんでいた。周囲では、オフィスワーカーたちがノートパソコンやスマホに忙しい。樹は彼らを観察し、かつての自分を思い出した。いつも急いで、いつも心配で、いつも銀行口座の数字を気にしていた。
今や彼は想像もしたことのない数字を持っている。しかしその数字は彼をより幸せにはしなかった。彼を幸せにするのは、小さなことだった。家族との朝食、父との会話、妹たちの笑い声、そして母の抱擁の温かさ。
「……愛する人々と分かち合えなければ、こんなにたくさんのお金に何の意味があるんだ?」
樹は小声で呟き、まだ温かいコーヒーを一口すする。心の中で、一つの計画が形になり始めていた。ビジネス計画ではなく、二つの世界を結ぶ計画だ。
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午後1時0分——丸の内ビルへ戻る。
樹は違った気持ちでオフィスに戻った。社長椅子に座り、財務報告書を開き、千四十五億円という数字を新たな視点で見た。
「……このお金は俺のためじゃない。彼らのためだ。」
彼はタブレットの画面を見つめ、そしてメモを打ち始めた。未来についてのメモ。自分の富をどう使って家族を守り、幸せにするかについてのメモ。
社長室の扉が開いた。冴がタブレットを手に入ってくる。温かい微笑みを浮かべて。「……如月さん、ご報告がございます。」
樹は顔を上げ、微笑んだ。「……どうぞ、冴さん。」
冴は近づいたが、樹の表情を見て立ち止まった。「……何かお変わりになりましたか?」
樹は首を振った。「……いや、ただ……考え事をしていただけだ。」
冴は彼の前の椅子に座った。「……何を?」
樹はしばらく考え、そして心からの声で答えた。「……家族のことだ。自分の富をどうやって彼らのために使えるかを考えていた。」
冴は微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……それは素敵な考えですね、如月さん。」
樹は答えなかった。ただ冴を見つめ、説明できない幸福感を感じていた。
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午後3時0分——十階·小会議室。
樹はレイナと長期的な投資について話し合った。レイナは鋭い目で樹を見たが、その微笑みは変わらず温かい。
「……如月さん、一つお聞きしたいことがあります。」
樹は眉を上げた。「……どうぞ、レイナさん。」
「……あなたは非常に大きな資産をお持ちです。しかし、私はあなたがそれらを利己的な目的に使ったことは一度も見たことがありません。あなたは常に他人のことを考えています。」レイナは深い眼差しで樹を見た。「……なぜですか?」
樹はしばらく考えた。「……お金は、他の人を幸せにできなければ意味がないからだ。」
レイナは微笑んだ。心からの、温かな笑顔だ。「……だからこそ、私はあなたを信頼しているのです、如月さん。」
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午後5時0分——十階·社長室。
樹は社長椅子に座り、夕日で色が変わり始めた皇居の景色を見つめていた。彼はこの数週間で学んだ全てのことを考えていた。富について、家族について、人生で本当に大切なことについて。
「……お金はビルを買えるが、家は買えない。お金は時間を買えるが、思い出は買えない。」
彼は小さく微笑み、スマホを手に取った。家族のグループLINEにメッセージを打った。
「みんなに会いたい。今週末、帰るよ。」
数秒後、スマホが留奈からの返信で震えた。
「やった! 待ってる! お土産も忘れずにね!」
美咲から:「本当に帰るの?」
小春から:「待ってるよ、お兄ちゃん。」
千春から:「お母さん、たくさん作るからね!」
正則から:「気をつけて帰ってこい。」
樹はそれら全てのメッセージを見つめ、説明できない幸福感を感じた。
「……これこそが本当の豊かさだ。」
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【次話 第74話——『妹が会社を見つけた』】
美咲が偶然、ビジネスニュースでキサラギ・アセット・マネジメントの名前を見つける。同じ苗字が彼女の注意を引く。彼女は調べ始め、その会社が小さな事業と呼ぶには大きすぎることに気づく。最初の疑念が芽生え、彼女は兄との関連性を探り始める。
【第74話へ続く……】




